吾妻鏡入門第卅七巻

寛元四年丙午(1246)二月小

寛元四年(1246)二月小四日甲子。天霽。御臺所御不例之間。爲但馬前司定員雜掌。被行御祈等云々。

読下し                   そらはれ  みだいどころ ごふれいのあいだ  たじまのぜんじさだかず ざっしょう な     おいのりら  おこなはれ  うんぬん
寛元四年(1246)二月小四日甲子。天霽。御臺所@御不例之間、但馬前司定員 雜掌と爲し、御祈等を行被ると云々。

参考@御臺所は、頼経正妻持明院藤原家行の女。

現代語寛元四年(1246)二月小四日甲子。空は晴れました。頼経の奥さんが病気なので、但馬前司藤原定員が手伝いとして、お祈りを行わせましたとさ。

寛元四年(1246)二月小九日己巳。京都使者參着。去月廿九日皇太子受禪〔春秋四歳〕。丑尅。關白以下自冷泉第持釼璽。被參春宮御所冷泉富小路。歩儀也云々。

読下し                    きょうと   ししゃさんちゃく   さんぬ つき にじうくにち こうたいし じゅぜん 〔しゅんじゅうよんさい〕
寛元四年(1246)二月小九日己巳。京都の使者參着す。去る 月 廿九日 皇太子@受禪A〔春秋四歳〕

うしのこく かんんぱく いげ れいぜい だいよ   けんじ  も     しゅうぐうごしょ れいぜいとみこうじ  まいらる    かちのぎなり うんぬん
丑尅、關白 以下冷泉の第自り釼璽を持ち、春宮御所 冷泉富小路へ參被る。歩儀也と云々。

参考@皇太子は、後深草天皇。後に持明院党になる。
参考A受禪は、
天皇の位を譲り受ける。

現代語寛元四年(1246)二月小九日己巳。京都からの使いが到着しました。先月の29日に皇太子が天皇の位を譲り受けました〔歳は4歳です〕。午前2時頃に関白を始めの公卿が冷泉第から三種の神祇を持って、皇太子の御所冷泉富小路へ持ってきました。徒歩だそうな。

寛元四年(1246)二月小十日庚午。午刻。鳶入常御所之内云々。

読下し                   うまのこく  とび つね  ごしょのうち   い     うんぬん
寛元四年(1246)二月小十日庚午。午刻、鳶 常の御所之内へ入ると云々。

現代語寛元四年(1246)二月小十日庚午。昼の12時頃に鳶が、普段おられる寝殿の中へ入って来たそうな。

寛元四年(1246)二月小十三日癸酉。天リ。大殿御上洛事頻雖思食立。旁有儀。延引云々。仍被仰出其趣云々。」今日。於久遠壽量院。被行結縁潅頂云々。

読下し                     そらはれ  おおとの ごじょうらく  ことしき    おぼ  め   た    いへど  かたがた ぎ あ       えんいん    うんぬん
寛元四年(1246)二月小十三日癸酉。天リ。大殿@御上洛の事頻りに思し食し立つと雖も、 旁 儀有りてA、延引すと云々。

よっ  そ おもうき おお  いださる    うんぬん
仍て其の趣を仰せ出被ると云々。」

きょう  くおんじゅりょういん  をい    けちえん かんじょう おこなはれ   うんぬん
今日、久遠壽量院に於て、結縁 潅頂Bを行被ると云々。

参考@大殿は、前将軍九条頼経。
参考A儀有りては、反対意見があって。
参考B
灌頂は、主に密教で行う、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、 正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のことをいう。

現代語寛元四年(1246)二月小十三日癸酉。空は晴です。入道大納言家頼経様が京都行を希望しておりますが、反対意見があって延期したそうな。それでその主旨を発表しましたとさ。」
今日、持仏堂の久遠寿量院で、仏との縁を作る聖水をかぶる儀式を行ったそうな。

寛元四年(1246)二月小十五日乙亥。天リ。御臺所御不例事。頗有其煩。被行御占之處。太不快也。縡雖有邪氣之疑。被加御灸等云々。

読下し                     そらはれ  みだいどころ ごふれい  こと  すこぶ そ   わずら あ    おんうら  おこなはれ のところ  はなは ふかいなり
寛元四年(1246)二月小十五日乙亥。天リ。御臺所 御不例の事、頗る其の煩ひ有り。御占を行被る之處、 太だ不快也。

ことじゃき の うたが あ    いへど    おきゅうら  くは  らる    うんぬん
縡邪氣之疑い有ると雖も、御灸等を加へ被ると云々。

現代語寛元四年(1246)二月小十五日乙亥。空は晴です。頼経の奥さんが病気が、とてもよくなりません。占いを行ったら、とても良くないと出ました。これは邪気が取りついている疑いがありますが、お灸をしましたとさ。

寛元四年(1246)二月小十六日丙子。天リ。爲御臺所御祈。於御所被行千度御秡。リ茂。宣賢。リ貞。廣資。泰房。リ憲。リ成。リ長。以安等奉仕之云々。

読下し                     そらはれ  みだいどころ おいのり ため  ごしょ   をい  せんど  おんはら   おこなはれ
寛元四年(1246)二月小十六日丙子。天リ。御臺所の御祈の爲、御所に於て千度の御秡へを行被る。

はるもち のぶかた はるさだ ひろすけ やすふさ はるのり  はるなり  はるなが  もちやすら これ  ほうし    うんぬん
リ茂、宣賢、リ貞、廣資、泰房、リ憲、リ成、リ長、以安等之を奉仕すと云々。

現代語寛元四年(1246)二月小十六日丙子。空は晴です。頼経の奥さんの病気を治すお祈りのために、御所で千回ものお祓いを行いました。阿部晴茂・宣賢・晴貞・広資・泰房・晴憲・晴成・以安などが勤めましたとさ。

寛元四年(1246)二月小十七日丁丑。天リ。御臺所重有御灸。

読下し                     そらはれ  みだいどころ かさ    おきゅうあ
寛元四年(1246)二月小十七日丁丑。天リ。御臺所 重ねて御灸有り。

現代語寛元四年(1246)二月小十七日丁丑。空は晴です。頼経の奥さんにまたもお灸をしました。

寛元四年(1246)二月小十八日戊寅。御臺所御不例事。今日不令發給云々。

読下し                     みだいどころ ごふれい  こと   きょう はっせし  たま  ざる  うんぬん
寛元四年(1246)二月小十八日戊寅。御臺所 御不例の事、今日發令め給は不と云々。

現代語寛元四年(1246)二月小十八日戊寅。頼経の奥さんの病気について、今日は発生しなかったそうな。

寛元四年(1246)二月小廿二日壬午。天リ。入道大納言家令始二所御精進給。七ケ日間有御座于御精進屋。依殊御願也云々。

読下し                     そらはれ  にゅうどうだいなごんけ   にしょ  ごしょうじん  はじ  せし  たま
寛元四年(1246)二月小廿二日壬午。天リ。入道大納言家@、二所の御精進を始め令め給ふ。

なぬかにち あいだ ごしょうじんやに おんざ あ     こと     ごがん  よっ  なり  うんぬん
七ケ日の間 御精進屋于御座有り。殊なる御願に依て也と云々。

参考@入道大納言家は、前将軍九条頼経。

現代語寛元四年(1246)二月小二十二日壬午。空は晴です。入道大納言家頼経様は、箱根伊豆の二所権現詣での精進潔斎を始めました。七日間の間、精進のための仮屋におこもりです。特別な願い事があるからだそうな。

寛元四年(1246)二月小廿八日戊子。天リ。二所御進發也。越後守。相摸右近大夫將監。相摸八郎。太宰少貳爲佐。但馬前司定員。備後前司廣將。能登前司光村以下數輩云々。

読下し                     そらはれ  にしょ  ごしょうじんなり
寛元四年(1246)二月小廿八日戊子。天リ。二所の御進發也。

えちごのかみ さがみうんたいふしょうげん  さがみはちろう  だざいのしょうにためすけ  たじまのぜんじさだかず  びんごぜんじひろまさ   のとのぜんじみつむら いげ すうやから うんぬん
越後守、相摸右近大夫將監、相摸八郎、太宰少貳爲佐、 但馬前司定員、 備後前司廣將、 能登前司光村以下數輩と云々。

参考@備後前司廣將は、これ一回の出演なので不明。

現代語寛元四年(1246)二月小二十八日戊子。空は晴です。箱根伊豆の二所権現詣でに出発です。越後守北条光時・相模右近大夫将監北条時定・相模八郎北条時隆・太宰少貳狩野為佐・但馬前司藤原定員・備後前司広将・能登前司三浦光村以下の数人です。

寛元四年(1246)二月小廿九日己丑。陰。未尅雷鳴。今日。萩原九郎資盛。同父遠直等。召放所領。被召置其身。是悪黨扶持之由。大胡五郎光秀訴申之間。被糺明之處。其過依難遁也。

読下し                     くもり ひつじのこく らいめい 
寛元四年(1246)二月小廿九日己丑。陰。 未尅 雷鳴。

きょう   はぎわらくろうすけもり  おな    ちちとおなおら  しょりょう  めしはな    そ   み   めしおかれ
今日、萩原九郎資盛@、同じき父遠直等、所領を召放ち、其の身を召置被る。

これ  あくとう ふち のよし  おおこのごろうみつひで うった もう  のあいだ  きゅうめいさる のところ  そ   とがのが  がた    よっ  なり
是、悪黨扶持之由、 大胡五郎光秀A訴へ申す之間、 糺明被る之處、其の過遁れ難きに依て也。

参考@萩原九郎資盛は、甲斐国現山梨県山梨市三富下萩原。
参考A大胡五郎光秀は、群馬県前橋市大胡町。

現代語寛元四年(1246)二月小二十九日己丑。曇り。午後2時頃雷です。今日、萩原九郎資森、同父親の遠直などが領地を取り上げられ、身柄を拘束されました。この者らは、反政府主義者を匿っていると、大胡五郎光秀が訴えて来たので、調査の結果その罪は逃れる事が出来ないからです。

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