寛元四年丙午(1246)三月大
寛元四年(1246)三月大三日壬辰。甚雨暴風。入道大納言家還御。自走湯山直御下向也。依風雨煩。及曉更云々。 |
読下し はなは
あめぼうふう
にゅうどうだいなごんけ かんご そうとうさん よ じき ごげこう なり
寛元四年(1246)三月大三日壬辰。甚だ雨暴風。入道大納言家@還御。走湯山A自り直に御下向也。
ふうう わずら よっ
ぎょうそう およ うんぬん
風雨の煩いに依て、曉更に及ぶと云々。
参考@入道大納言家は、前将軍九条頼経。
参考A走湯山は、伊豆山権現とも云って、静岡県熱海市伊豆山708番地1伊豆山神社。
現代語寛元四年(1246)三月大三日壬辰。ものすごい暴風雨。入道大納言家頼経様が帰って来ました。伊豆山神社から直接帰って来ました。暴風雨のため明け方までかかりましたとさ。
寛元四年(1246)三月大八日丁酉。渡邊海賊同類柴江刑部丞源綱法師本職攝津國榎(板)上庄南方下司名田事。自領家方収公之由。源綱入道依申之。今日有其沙汰。爲海賊跡之上者。自關東可被補地頭之處。領家自由所行無謂之趣。可被咎仰之旨治定。追可有給人沙汰云々。 |
読下し わたなべかいぞく どうるい
しばえのぎょうぶのじょう
みなもとのつなほっし ほんしき せっつのくに
いたかみのしょう みなみかた げす みょうでん こと
寛元四年(1246)三月大八日丁酉。渡邊海賊@の同類 柴江刑部丞源綱A法師 が 本職、
攝津國 板上庄B 南方 下司名田の事、
りょうけがたよ しゅうこうのよし みなもとのつなにゅうどう
これ もう よっ きょう そ さた あ
領家方自り収公之由、 源綱入道 之を申すに依て、今日其の沙汰有り。
かいぞく
あとたる
のうえは かんとうよ ぢとう ぶ さる べ
のところ りょうけ じゆう しょぎょ う
いわ な のおもむき
海賊の跡爲之上者、關東自り地頭を補被る可き之處、領家の自由の所行
謂れ無き之趣、
とが おお らる べ
のむねちじょう おっ きゅうにん さた あ べ うんぬん
咎め仰せ被る可き之旨治定し、追て給人の沙汰有る可きと云々。
参考@渡邊海賊は、頼光の四天王のひとり渡辺綱の後裔で皆一文字実名、大阪市北区堂島浜1丁目と中之島3丁目とにかかる渡辺橋がかつての渡辺津で渡辺党発祥の地。
参考A柴江刑部丞源綱は、渡辺綱だが、頼光の四天王とは時代が違う。
参考B板上庄は、原文・吉川本共に「榎上庄」、貴志先生の読下しは「板上庄」になっているので従う。どっちみち所在不明。
現代語寛元四年(1246)三月大八日丁酉。海賊渡辺党の親類の柴繪江刑部丞源綱法師の本来の職である、摂津国板上庄南方の現地管理人個人の所有の田について、最上級荘園領主である領家が取り上げられたと、源綱入道が訴えて来たので、今日その裁決がありました。海賊が占有していた所は、没収地として鎌倉幕府から地頭を任命しているので、最上級荘園領主である領家の勝手な介入行為は理由がないと、領家に注意をする事に決めましたので、追って権利者に命令を出すことにしましたとさ。
寛元四年(1246)三月大十三日壬寅。被行臨時評定。有間左衛門尉朝澄進置懸物押書。爲明石左近將監兼綱奉行有沙汰。串山郷事也。而彼郷者。朝澄一期之後。可傳領之旨。本主養母尼令遺言上者。可被置朝澄押書之由。越中七郎左衛門次郎政員雖訴申之。不能其沙汰云々。」又肥前國御家人安徳三郎右馬允政康所領事。任舎兄政尚。政家之例。除所職并安堵下文之外私領。可召上肥前國三根西郷内刀延名三分一之由。越前兵庫助奉行。 |
読下し りんじ ひょうじょう おこなはれ
ありまさえもんのじょうともずみ かけものおうしょ すす
お
寛元四年(1246)三月大十三日壬寅。臨時の評定を行被る。有間左衛門尉朝澄
懸物押書@を進め置く。
あかしさこんしょうげんかねつな ぶぎょう な さた あ くしやまごう ことなり
明石左近將監兼綱
奉行と爲し沙汰有り。串山郷Aの事也。
しか か ごうは
ともずみ いちごののち でんりょうすべ のむね ほんじゅようぼあま
ゆいごんせし うえは ともずみ おうしょ おかる べ のよし
而るに彼の郷者、朝澄一期之後、傳領可き之旨、
本主養母尼 遺言令むの上者、朝澄 押書を置被る可き之由、
えっちゅうしちろうさえもんじろうまさかず これ うった もう いへど そ さた あたはず うんぬん
越中七郎左衛門次郎政員
之を訴へ申すと雖も、其の沙汰に不能と云々。」
また ひぜんのくにごけにん あんとくさぶろううまのじょうまさやす
しょりょう こと しゃけいまさひさ まさいえ のれい まか
又、肥前國御家人
安徳三郎右馬允政康が
所領の事、舎兄政尚、政家之例に任せ、
しょしきなら あんど くだしぶみのほか しりゅう
のぞ ひぜんのくに みね さいごう ない
とうえんみょう さんぶいち めしあげ べ のよし
所職并びに安堵の下文之外の私領を除き、 肥前國
三根西郷B内
刀延名の三分一を召上る可き之由、
えちぜんひょうごのすけ
ぶぎょう
越前兵庫助 奉行す。
参考@懸物押書は、所領争いなどの土地争いの訴訟に際して訴人と論人の間で負けた方は土地の権利放棄を約束する文書を訴訟機関に提出する。
参考A串山郷は、長崎県雲仙市南串山町。
参考B三根西郷は、佐賀県三養基郡みやき町大字寄人に三根西小学校あり。
現代語寛元四年(1246)三月大十三日壬寅。臨時の政務会議を行いました。有馬左衛門尉朝澄は、敗訴の際の訴訟担保の権利放棄文書を提出しました。明石左近将監兼綱が担当して、裁断がありました。串山郷についてです。しかし、「その郷は有馬朝澄一代の後は、政員に相続するように元の主の養母が遺言しているので、敗訴を考えて朝澄は担保文書を提出しているのだ。」と、越中七郎左衛門次郎政員が訴え出ましたが、これは裁判の必要が無いと却下しましたとさ。
又、肥前国御家人の安徳三郎右馬允政康の領地について、兄の政尚・政家の時の様に、地頭職それに知行権を認められた命令書に書かれた以外の私の領地を除いて、肥前国三根西郷内の刀延名の三分の一を取り上げられることに、越前兵庫助政宗が裁定しました。
寛元四年(1246)三月大十四日癸夘。信濃國善光寺供養也。大藏卿法印良信爲導師。名越故遠江入道生西賢息等。依受遺言。爲大壇越。成此大會云々。勸進上人親基云々。 |
読下し しなののくに
ぜんこうじ
くようなり おおくらきょうほういんりょうしん
どうしたり
寛元四年(1246)三月大十四日癸夘。信濃國
善光寺供養也。 大藏卿法印良信 導師爲。
なごえことおとうみにゅうどうせいせい けんそくら ゆいごん う よっ だいだんおつ な
かく だいえ な うんぬん
名越故遠江入道生西@が
賢息等、遺言を受けるに依て、大壇越と爲し、此の大會を成すと云々。
かんじんしょうにん しんき うんぬん
勸進上人は親基と云々。
参考@名越故遠江入道生西は、義時の次男の名越流北条朝時。
現代語寛元四年(1246)三月大十四日癸卯。信濃国善光寺の法要です。大蔵卿法印良信が指導僧です。名越故遠江入道生西北条朝時の息子達が、遺言を受けてたので、主催者としてこの大々的法要を成し遂げましたとさ。寄付金集めの勧進上人は、親基だそうな。
寛元四年(1246)三月大十八日丁未。讃岐國御家人藤左衛門尉搦進海賊事。彼國守護人三浦能登前司光村代官注申之間。六波羅又被執申。仍有其沙汰。神妙之趣殊及御感之由。可仰含之旨。被仰六波羅云々。 |
読下し さぬきのくにごけにんとうのさえもんのじょう かいぞく
から しん こと
寛元四年(1246)三月大十八日丁未。讃岐國御家人藤左衛門尉、海賊を搦め進ずる事、
か くに しゅごにん みうらのとぜんじみつむら だいかんちう もう のあいだ ろくはら また と もうさる
彼の國の守護人三浦能登前司光村が代官注し申す之間、六波羅又執り申被る。
よっ そ さた あ しんみょうのおもむき こと ぎょかん およ のよし おお ふく べ のむね ろくはら おお らる うんぬん
仍て其の沙汰有り。 神妙之趣、
殊に御感に及ぶ之由、仰せ含める可き之旨、六波羅へ仰せ被ると云々。
現代語寛元四年(1246)三月大十八日丁未。讃岐国御家人の藤原左衛門尉が、海賊を生け捕って送って来たと、讃岐守護人の能登前司三浦光村の代官が書き送って来たので、六波羅探題が取り次ぎました。そこでその裁断があり、良い手柄を立てたと、将軍が感心していると伝えるように、六波羅へ命じましたとさ。
寛元四年(1246)三月大廿日己酉。有臨時評定。市河次郎左衛門尉搦進強盜海賊等賞事。及度々高名畢。有御感之由。可賜御教書。且御恩沙汰之時。載加注文。可被申旨云々。 |
読下し りんじ ひょうじょうあ いちかわじろうさえもんのじょう ごうとう
かいぞくら から しん
しょう こと たびたび こうみょう およ をはんぬ
寛元四年(1246)三月大廿日己酉。臨時の評定有り。市河次郎左衛門尉@、強盜海賊等を搦め進ずる賞の事、度々の高名に及び畢。
ぎょかんあ のよし みぎょうしょ たま べ かつう ごおん さた のとき ちうもん
の くは もうさる べ むね うんぬん
御感有る之由、御教書を賜はる可き。且は御恩の沙汰之時、注文に載せ加へ申被る可きの旨と云々。
参考@市河次郎左衛門尉は、山梨県西八代郡市川大門町。
現代語寛元四年(1246)三月大二十日己酉。臨時の政務会議がありました。市川次郎左衛門尉が、海賊を生け捕った賞について、何度かの手柄を立てました。将軍が感心していると、感謝状を与えます。又、領地を与えられる時には、その文章に書き加えるようにとの事でした。
寛元四年(1246)三月大廿一日庚戌。武州有御病惱事。頗危急之間。及所療逆修等之儀云々。 |
読下し ぶしゅう ごびょうのう ことあ すこぶ ききゅうのあいだ しょりょう ぎゃくしゅら
の ぎ およ うんぬん
寛元四年(1246)三月大廿一日庚戌。武州、御病惱の事有りて、頗る危急之間、
所療、逆修等之儀に及ぶと云々。
現代語寛元四年(1246)三月大二十一日庚戌。武州経時は病気にかかっていて、かなり深刻なので、治療と生前に死後の冥福を祈る法要をしましたとさ。
寛元四年(1246)三月大廿三日壬子。於武州御方。有深秘御沙汰等云々。其後。被奉讓執權於舎弟大夫將監時頼朝臣。是存命無其恃之上。兩息未幼稚之間。爲止始終窂籠。可爲上御計之由。眞實趣出御意云々。左親衛即被申領状云々。 |
読下し ぶしゅう
おんかた
をい しんぴ ごさた ら あ うんぬん
寛元四年(1246)三月大廿三日壬子。武州の御方に於て、深秘の御沙汰等有りと云々。
そ ご しっけんを
しゃていたいふしょうげんときよりあそん ゆず たてまつらる
其の後、執權於
舎弟大夫將監時頼朝臣に讓り奉被る。
これ
ぞんめい そ たの な のうえ りゅうそくいま ようちのあいだ しじゅう ろうろう と ため うえ
おはから
な べ のよし
是、存命其の恃み無き之上、兩息未だ幼稚之間@、始終の窂籠を止めんが爲、上の御計いと爲す可き之由、
しんじつ おもむき
ぎょい い うんぬん さしんえい すなは りょうじょう
もうさる うんぬん
眞實の趣、
御意に出づと云々。左親衛
即ち 領状 申被ると云々。
参考@兩息未だ幼稚之間と云ってるが、二人とも出家させられて隆生と頼助となる。
現代語寛元四年(1246)三月大二十三日壬子。武州北条経時のところで、内緒の会議をしましたとさ。その後、執権職を弟の大夫将監北条時頼に譲渡しました。これは、死期が迫っているので、未だ二人の子供が幼いので、政務の滞りが無いように、責任者としての判断をするのだと、本心で云ってましたとさ。左親衛北条時頼はすぐに承知しましたとさ。
寛元四年(1246)三月大廿四日癸丑。天リ。京都使者參着。去月十三日。新帝遷幸閑院。御移徙之儀也云々。」今夜戌刻大白犯熒惑星云々。 |
読下し そらはれ きょうと ししゃさんちゃく さんぬ つき
じうさんにち しんてい かんいん せんこう
ごいし の ぎ なり うんぬん
寛元四年(1246)三月大廿四日癸丑。天リ。京都の使者參着す。去る月
十三日、新帝 閑院に遷幸す。御移徙之儀也と云々。」
こんや いぬのこく
たいはく けいこくせい おか うんぬん
今夜、
戌刻 大白、熒惑星を犯すと云々。
現代語寛元四年(1246)三月大二十四日癸丑。空は晴です。京都からの使いが到着しました。先月の13日に新天皇(後深草)が御所に移りました。引っ越し式だそうな。
今夜、午後8時頃、大白金星が熒惑星火星の軌道を犯したそうです。
寛元四年(1246)三月大廿五日甲寅。雨降。左親衛被參將軍家并入道大納言家兩御所。相續執權之由。依令賀申給也。將軍御方攝津前司爲申次云々。大殿御方但馬前司申之云々。 |
読下し あめふ さしんえい しょうぐんけなら にゅうどうだいなごんけ りょうごしょ まいらる
寛元四年(1246)三月大廿五日甲寅。雨降る。左親衛、將軍家并びに入道大納言家の兩御所に參被る。
しっけん
そうぞく のよし が もうせし
たま よっ なり しょうぐん おんかた せっつのぜんじ
もうしつぎ な うんぬん おおとの おんかた たじまのぜんじ
これ もう うんぬん
執權を相續之由、賀し申令め給ふに依て也。將軍の御方は攝津前司
申次を爲すと云々。大殿の御方は但馬前司
之を申すと云々。
現代語寛元四年(1246)三月大二十五日甲寅。雨降りです。左親衛時頼さんは、将軍家頼嗣様それに入道大納言家頼経様のそれぞれの御所に行かれました。執権職を相続したのを、お礼申し上げるためです。将軍家頼嗣様の方は、摂津前司中原師員が取り次いだそうな。入道大納言家頼経様の方は、但馬前司藤原定員が伝えたそうな。
寛元四年(1246)三月大廿六日乙夘。雨下。左親衛依爲執權。今日令始行評定給。其最列者(ママ)。 |
読下し あめふ
さしんえいしっけんたる よっ
きょうひょうじょう しぎょうせし
たま そ さいれつは
寛元四年(1246)三月大廿六日乙夘。雨下る。左親衛執權爲に依て、今日評定を始行令め給ふ。其の最列者。
現代語寛元四年(1246)三月大二十六日乙卯。雨降りです。北条時頼さんは執権になったので、今日政務会議を始めました。その人々は。
寛元四年(1246)三月大廿七日丙辰。雨降。武州素懷事。内々被申入大殿御方云々。 |
読下し あめふ
ぶしゅう そかい こと ないない
おおとの おんかた もう い
らる うんぬん
寛元四年(1246)三月大廿七日丙辰。雨降る。武州が素懷の事、内々に大殿の御方に申し入れ被ると云々。
現代語寛元四年(1246)三月大二十七日丙辰。雨降りです。経時さんの出家について、内々に入道大納言家頼経様に申し入れましたとさ。
寛元四年(1246)三月大卅日己未。評定。甲斐國一宮權祝守村申依被停止鷹狩人々對捍供税鳥之由事。被經沙汰。供祭事者。被免許之旨被仰出。攝津前司師員朝臣。 |
読下し ひょうじょう かいのくに
いちのみや ごんのはふり
もりむら もう たかがり ちょうじさる よっ
寛元四年(1246)三月大卅日己未。評定す。甲斐國 一宮@
權祝 守村の申す鷹狩を停止被るに依て、
ひとびと くぜい
とり たいかん のよし こと
さた へ らる くさい ことは めんきょさる
のむねおお
いださる せっつのぜんじもろかずあそん
人々供税の鳥を對捍する之由の事、沙汰を經被る。供祭の事者、免許被る之旨仰せ出被る。攝津前司師員朝臣。
参考@甲斐國一宮は、山梨県笛吹市一宮町一ノ宮の浅間神社。
現代語寛元四年(1246)三月大三十日己未。政務会議です。甲斐国一の宮浅間神社の権祝守村が訴えている、鷹狩の禁止をしたので人々が神社へ奉納する鳥を滞納している事について、裁断をされました。神社へ奉納する分については、許可するように仰せになれました。摂津前司中原師員担当。