吾妻鏡入門第卅七巻

寛元四年丙午(1246)五月大

寛元四年(1246)五月大五日壬戌。鶴岳八幡宮神事如例。」戌尅月犯軒轅大星。

読下し                  つるがおかはちまんぐう しんじ れい  ごと     いぬのこく つき けんえんたいせい おか
寛元四年(1246)五月大五日壬戌。鶴岳八幡宮の神事例の如し。」戌尅、月 軒轅大星@を犯す。

参考@軒轅大星は、獅子座のアルファ星。

現代語寛元四年(1246)五月大五日壬戌。鶴岡八幡宮での端午の節句の神事は例年の通りです。」
午後8時頃に月が獅子座アルファー星を犯しました。

寛元四年(1246)五月大七日甲子。天リ。巳刻地震。

読下し                   そらはれ  みのこく ぢしん
寛元四年(1246)五月大七日甲子。天リ。巳刻地震。

現代語寛元四年(1246)五月大七日甲子。空は晴です。午前10時頃地震です。

寛元四年(1246)五月大十四日辛未。天リ。天變并月蝕事。殊依可有御愼。被始行御祈祷等。所謂。
入道大納言家御分
 藥師護摩 岡崎僧正成源
 愛染王供 按察法印賢信
 月曜祭  文元朝臣
將軍御方
 月曜供  助法印珎譽
 羅喉星祭 國継
將軍御臺所御分
 羅喉星供 リ賢
 月曜祭  定賢

読下し                     そらはれ  てんぺんなら   げっしょく こと  こと  おんつつし あ   べ     よっ     ごきとうら   しぎょうさる
寛元四年(1246)五月大十四日辛未。天リ。天變并びに月蝕の事、殊に御愼み有る可きに依て、御祈祷等を始行被る。

いはゆる
所謂。

にゅうどうだいなごんけ  ごぶん
入道大納言家の御分

   やくしごま    おかざきそうじょうせいげん
 藥師護摩 岡崎僧正成源

  あいぜんおうぐ  あぜのほういんけんしん
 愛染王供 按察法印賢信

  げつようさい   ふみもとあそん
 月曜祭  文元朝臣

しょうぐん おんかた
將軍の御方

  げつようぐ     すけのほいんちんよ
 月曜供  助法印珎譽

  らごらせい さい   くにつぐ
 羅喉星@祭 國継

しょうぐん みだいどころ  ごぶん
將軍が御臺所の御分

  らごらせいさい   はるかた
 羅喉星供 リ賢

  げつようさい    さだかた
 月曜祭  定賢

参考@羅喉星は、九曜星の1番目。本尊は大日如来。方位は南東。胎蔵界曼荼羅では南。この年に当たるときは大凶。他行すれば災難有り。又、損失病気口説事あり。慎むべし。

現代語寛元四年(1246)五月大十四日辛未。空は晴です。天の異変や月食については、特に遠慮するようにとの事なので、祈祷を始めました。それは、入道大納言家頼経様の分が、薬師如来の護摩炊きは、岡崎僧正成源。愛染明王の供養は、按察法印賢信。月曜祭は、安倍文元さん。
将軍家頼嗣様の分は、月曜の供養は、助法印珍与。
羅喉星祭は、安倍国継。
将軍の奥さん桧皮姫の分は、
羅喉星の供養は、安倍晴賢。月曜祭は、安倍定賢。

寛元四年(1246)五月大十六日癸酉。天リ。月蝕不現。剩圓滿明。但夜半以後陰雲云々。

読下し                     そらはれ  げっしょく あらは ず  あまつさ えんまんみょう  ただ  やはん いご くも  かく     うんぬん
寛元四年(1246)五月大十六日癸酉。天リ。月蝕 現れ不。剩へ 圓滿明か。但し夜半以後雲に陰ると云々。

現代語寛元四年(1246)五月大十六日癸酉。空は晴です。月食は現れませんでした。しかも真ん丸じゃないか。但し、夜中から雲に隠れましたとさ。

寛元四年(1246)五月大廿二日己夘。天リ。寅尅。秋田城介義景家中并甘繩邊騒動。縡已及廣々。

読下し                     そらはれ とらのこく  あいだのじょうすけよしかげ かちゅうなら   あまなわへんそうどう
寛元四年(1246)五月大廿二日己夘。天リ。寅尅。 秋田城介義景が 家中并びに甘繩邊騒動す。

 ことすで  ひろびろ  およ
縡已に廣々に及ぶ。

現代語寛元四年(1246)五月大二十二日己卯。空は晴です。午前4時頃、秋田城介安達義景の家の中や、甘縄のあたりで大騒ぎです。その騒ぎが既に広まってしまいました。

寛元四年(1246)五月大廿四日辛巳。天リ。亥尅地震。子時以後雨降。今申刻鎌倉中人民不靜。資財雜具運隱東西云々。已被固辻々。澁谷一族等。守左親衛嚴命。警固中下馬橋。而太宰少貳爲參御所。欲融之處。彼輩。於參御所者不可聽之。令參北條殿御方者。稱不可及抑留之由。此間頗有喧嘩。弥物忩。夜半皆着甲冑揚旗。面々任雅意。或馳參幕府。或群集左親衛邊云々。巷説縱横。故遠江入道生西子息挿逆心。縡發覺之由云々。

読下し                     そらはれ  いのこく ぢしん  ねのとき いご あめふ    こんさるのこく かまくらちゅう じんみん しず ならず
寛元四年(1246)五月大廿四日辛巳。天リ。亥尅地震。子時以後雨降る。今申刻、鎌倉中の 人民 靜か不。

しざい ぞうぐ   とうざい  はこ  かく   うんぬん
資財雜具は東西に運び隱すと云々。

すで  つじつじ  かた  らる    しぶやいちぞくら   さしんえい  げんめい  まも    なか   げばばし   けいご
已に辻々を固め被る。澁谷一族等、左親衛の嚴命を守り、中の下馬橋を警固す。

しか    だざいしょうに ごしょ  まい  ため  とお      ほっ    のところ   か  やから    ごしょ   まい  もの  をい    これ  ゆる  べからず
而るに太宰少貳御所へ參る爲、融らんと欲する之處、彼の輩は、御所へ參る者に於ては之を聽す不可。

ほうじょうどの おんかた まい  せし   もの  よくりゅう およ  べからずのよし  しょう    こ   かん すこぶ けんかあ      ややぶっそう
北條殿の御方に參り令める者、抑留に及ぶ不可之由を稱す。此の間 頗る喧嘩有りて、弥物忩。

やはん  みなかっちゅう つ  はた  あ    めんめん  がい   まか    ある    ばくふ  は   まい    ある    さしんえい  へん  ぐんしゅう   うんぬん
夜半に皆甲冑を着け旗を揚げ、面々に雅意に任せ、或ひは幕府へ馳せ參り、或ひは左親衛の邊に群集すと云々。

ちまた せつ じゅうおう   ことおとうみにゅうどうせいせい しそく ぎゃくしん さしはさ      すで  はっかくのよし  うんぬん
巷の説 縱横す。 故遠江入道生西が子息 逆心を挿むこと、縡に發覺之由と云々。

現代語寛元四年(1246)五月大二十四日辛巳。空は晴です。午後10時頃地震です。夜中の12時から雨が降りました。この日の夕方4時頃から鎌倉中の人が騒ぎ始めました。家財道具を東西に運び始めました。既に各交叉点を武士が封鎖しています。渋谷一族などは、左親衛時頼の命令を守って中の下馬橋を封鎖しています。それなのに太宰少弐狩野為佐は御所へ行くために、通ろうとしたら、閉鎖している武士の連中が「御所へ行くものは通しませんよ。北条時頼さまの所へ行くのなら、御引止めしません。」と云いました。この間、色々とやり取りして今にも暴力沙汰になりそうでした。
夜中になると皆、鎧兜に身を固め、先陣の旗をあげて、それぞれ思うままに幕府へ駆けつける者や、或いは
左親衛時頼さまの屋敷周りに群れ集まりましたとさ。
世間では噂が流れまわっています。故遠江入道生西北条朝時の息子光時が、得宗家に叛逆しようとの企みがすでにばれてしまったと。

寛元四年(1246)五月大廿五日壬午。天リ。世上物忩未休止。左親衛宿舘警固敢不緩。甲冑軍士圍繞四面。夘一點。但馬前司定員稱御使。參左親衛第。而不可入于殿中之旨。依令下知于諏方兵衛入道。尾藤太平三郎左衛門尉等給。忽退出云々。越後守光時令侍宿御所中之處。今曉家人參喚出之程。白地即退出訖。并無歸參之儀。則坐事落餝。献其髻於左親衛。是可追討左親衛之由。成一味同心。不可改變之趣。相互書連署起請文。其張本者在名越一流之由。風聞之間。及此儀。舎弟尾張守時章。備前守時長。右近大夫將監時兼等者。無野心之旨。兼以依令陳謝。無殊事云々。其後。但馬前司定員坐事出家。秋田城介義景預守護之。子息兵衛大夫定範被處縁坐云々。午刻以後。群參之士又揚旗。」今日。遠江修理亮時幸依病出家云々。

読下し                     そらはれ  せじょう  ぶっそういま  きゅうし      さしんえいすくかん  けいご  あ     ゆる  せず

寛元四年(1246)五月大廿五日壬午。天リ。世上の物忩未だ休止せず。左親衛宿舘の警固を敢へて緩ま不。

かっちゅう ぐんし しめん  いぎょう

甲冑の軍士四面を圍繞す。

 う   いってん  たじまのぜんじさだかず おんし  しょう    さしんえい  だい  まい
夘の一點@、但馬前司定員 御使と稱し、左親衛の第へ參る。

しか    でんちうに い  べからずのむね  すわひょうえにゅうどう  びとうたへいざぶろうさえもんのじょうら に  げち せし  たま    よっ    たちま たいしゅつ  うんぬん
而るに殿中于入る不可之旨、諏方兵衛入道、尾藤太平三郎左衛門尉等于下知令め給ふに依て、忽ち退出すと云々。

えちごのかみみつとき ごしょちう  ししゅくせし  のところ  こんぎょう けにんまい  よ  いだ   のほど あからさま すなは たいしゅつ をはんぬ
越後守光時、御所中に侍宿令む之處、今曉 家人參り喚び出す之程、白地Aに即ち 退出し 訖。

なら    きさん のぎ   な     すなは こと  ざ  らくしょく    そ もとどりを さしんえい  けん
并びに歸參之儀も無し。則ち事に坐し落餝し、其の髻於左親衛に献ず。

これ  さしんえい  ついとうすべ  のよし  いちみどうしん  な     かいへん べからずのおもむき  そうご  れんしょ  きしょうもん  か
是、左親衛を追討可き之由、一味同心を成し、改變す不可之 趣、 相互に連署の起請文を書く。

 そ ちょうほんは なごえいちりゅう あ   のよし  ふうぶんのあいだ  かく  ぎ   およ
其の張本者名越一流に在る之由、風聞 之間、此の儀に及ぶ。

しゃてい おわりのかみときあき びぜんのかみときなが うこんたいふしょうげんときかねら は   やしん な  のむね  かね  もっ  ちんしゃせし    よっ
舎弟 尾張守時章、 備前守時長、 右近大夫將監時兼等者、野心無き之旨、兼て以て陳謝令むに依て、

こと    ことな     うんぬん
殊なる事無しと云々。

 そ  ご   たじまのぜんじさだかず こと  ざ   しゅっけ    あいだのじょうすけよしかげ これ あずか しゅご
其の後、但馬前司定員 事に坐し出家す。 秋田城介義景 之を預り守護す。

しそくひょうえたいふさだのり  えんざ  しょさる    うんぬん  うまのこく いご   ぐんさんのし またはた  あ
子息兵衛大夫定範は縁坐に處被ると云々。午刻以後、群參之士又旗を揚ぐ。」

きょう  とおとうみしゅりのすけときゆき やまい よっ  しゅっけ    うんぬん
今日、遠江修理亮時幸、 病に依て出家すと云々。

参考@時刻の點は、2時間を5等分したのが点。なら5時〜5:24を一点、5:24〜5:48を二点、5:48〜6:12を三点、6:12〜6:36を四点、6:36〜6:00を五点。
参考A白地(あからさま)には、突然に、嫌々ながら。

現代語寛元四年(1246)五月大二十五日壬午。空は晴です。世間の騒ぎが未だおさまりません。時頼さんの屋敷では、警戒を解かず、鎧兜の軍勢が四面を囲んでいます。
午前5時過ぎに、但馬前司藤原定員が、使いだと云って、時頼さまの屋敷へ来ました。しかし、建物内に入ってはいけないと、諏訪兵衛入道盛重・尾藤太平三郎左衛門尉景氏等に命令しているので入れてもらえずすぐに戻りました。
越後守名越流
北条光時Aは、御所の中に泊まっていましたが、今朝部下が予備に来たので、いやいやながら直ぐに出て行ってしまいました。でも屋敷へ帰ることもしないで、計画が失敗したことを認識して髪を落としてしまい、そのちょんまげを時頼に届けました。
これは、時頼さまを攻め滅ぼそうと、心を一つにして力を合せる約束を裏切らないように、互いに連名で署名した誓書を書きました。その中心となったのが名越流の北条氏だと、噂が流れたので身の危険を感じて、謝罪のために出家したのです。
弟の尾張守時章
B・備前守時長C・右近大夫将監時兼Eは、野心はありませんと前もって弁明していたので、特に咎めを受けませんでした。
その後、一味の但馬前司藤原定員は、同様に失敗したので出家しました。秋田城介安達義景が囚人として預かって監視してます。息子の兵衛大夫定範は、連座として扱われたそうな。昼過ぎに集まった武士たちが又旗を掲げて騒ぎました。」
今日、遠江修理亮時幸
Dは、病気なので出家したそうです。

参考 朝時 名越流北条氏系図
  ┌─┴─┬───┬───┬───┬───┬───┬───┐
@公時 A光時 B時章 C時長 D時幸 E時兼 F教時 G時基

寛元四年(1246)五月大廿六日癸未。天リ。終日暴風。今日於左親衛御方。内々有御沙汰事。右馬權頭。陸奥掃部助。秋田城介等爲其衆云々。

読下し                     そらはれ しゅうじつぼうふう  きょう さしんえい  おんかた  をい   ないない ごさた   ことあ
寛元四年(1246)五月大廿六日癸未。天リ。終日暴風。今日左親衛の御方に於て、内々御沙汰の事有り。

うまごんのかみ  むつかもんのすけ  あいだのじょうすけら そ  しゅうたり  うんぬん
右馬權頭、陸奥掃部助、 秋田城介等 其の衆爲と云々。

現代語寛元四年(1246)五月大二十六日癸未。空は晴です。一日中暴風です。今日、時頼さんの所で、内緒の裁決がありました。右馬権頭政村・陸奥掃部助実時・秋田城介安達義景がそのメンバーだそうな。

六月へ

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