吾妻鏡入門第卅七巻

寛元四年丙午(1246)八月小

寛元四年(1246)八月小一日丁亥。大田民部大夫康連爲問注所執事。加賀前司康持替也。

読下し                   おおたみんぶのたいふやすつら  もんちうじょ しつじたり  かがのぜんじやすもち  かえなり
寛元四年(1246)八月小一日丁亥。大田民部大夫康連@、 問注所執事爲。加賀前司康持Aの替也。

現代語寛元四年(1246)八月小一日丁亥。大田民部大夫(三善)康連は、裁判所の長官です。加賀前司町野(三善)康持の取り換えです。

解説@大田民部大夫康連は、三善康信の子で得宗派。A加賀前司康持は、三善康信の孫で町野流で頼経派。康連の甥。
三善康信(法名善信)┬康俊─康持(近江国日野庄町野郷なので町野流・滋賀県蒲生郡日野町?)
          └康連(備後大田庄なので、大田流・広島県世羅郡世羅町)

寛元四年(1246)八月小十二日戊戌。相摸右(左)近大夫將監自京都皈參。是入道大納言家御皈洛之間。所被供奉也。此外人々同還向。去月廿七日五更〔廿八日分也〕。經祗園大路。着御于六波羅若松殿。今月一日。供奉人等進發。而能登前司光村殘留于御簾之砌。數尅不退出。落涙千行。是思廿餘年昵近御餘波之故歟。其後。光村談人々。相搆今一度欲奉入鎌倉中云々。

読下し                     さがみうこんたいふしょうげん きょうとよ   きさん    これ  にゅうどうだいなごんけ ごきらくのあいだ   ぐぶ さる ところなり
寛元四年(1246)八月小十二日戊戌。相摸左近大夫將監京都自り皈參す。是、入道大納言家御皈洛之間、供奉被る所也。

 こ  ほか  ひとびとおな   かんこう    さんぬ つき にじうしちにち ごそう 〔にじうはちにちぶんなり〕 ぎおんおおじ  へ     ろくはら わかまつどの に つ   たま
此の外の人々同じく還向す。去る月 廿七日 五更@〔廿八日分也〕祗園大路を經て、六波羅若松殿A于着き御う。

こんげつついたち ぐぶにんら しんぱつ    しか    のとぜんじみつむら おんみすのみぎりにざんりゅう  すうこくたいしゅつせず
今月一日、供奉人等進發す。而るに能登前司光村御簾之 砌于殘留し、數尅退出不。

らくるいせんぎょう これ にじうよねんじっこん おんよは   おも  のゆえか
落涙千行。是、廿餘年昵近の御餘波を思う之故歟。

 そ  ご   みつむらひとびと だん   あいかま いまいちど かまくらちゅう い  たてまつ    ほっ   うんぬん
其の後、光村人々に談ず。相搆へ今一度鎌倉中へ入れ奉らんと欲すと云々。

参考@五更は、午前四時頃。夜は五つの更に分けられる。
  一更=戌時(19時〜21時) 二更=亥時(21時〜23時) 三更=子時(23時〜1時) 四更=丑時(1時〜3時) 
五更=寅時(3時〜5時)
参考A若松殿は、京都市東山区若松町に重時の私邸があったと考えられる。

現代語寛元四年(1246)八月小十二日戊戌。相模左近大夫将監時定が京都から帰って来ました。これは、入道大納言家頼経様の京都帰りのお供をした処です。この他の人々も帰って来ました。先月27日翌午前4時頃〔28日になります〕祗薗大路を通って六波羅の若松殿に着きました。今月1日、お供に行った人が京都を出発しました。それなのに能登前司三浦光村は、元将軍の御簾のまえに残って、何時間も出て来ませんでした。涙をボロボロ流していました。これは、20年間そばに仕えていたその余波のせいでしょうか。その後、光村は人々に云いました。何とかしてもう一度鎌倉へお呼びしたいと思っていますなんだとさ。

寛元四年(1246)八月小十五日辛丑。鶴岡放生會也。將軍家有御出之儀。
行列
先陣隨兵
 足利次郎兼氏     上野三郎國氏
 遠江六郎兵衛尉時連  梶原右衛門太郎景綱
 田中右衛門尉知継   壹岐次郎右衛門尉宗氏
 遠江右近大夫將監時兼 城九郎泰盛
 越後右馬助時親    相摸式部丞時弘
次諸大夫
次殿上人
次御車
 佐原七郎左衛門尉   雅樂左衛門尉
 佐貫次郎兵衛尉    大胡五郎
 阿曽沼小次郎     長井弥太郎
 那須次郎       江戸六郎太郎
 山内中務三郎     波多野小次郎
  以上十人着直垂。令帶釼。候御車左右。
次御後五位六位〔布衣下括〕
 前右馬權頭    武藏守
 遠江守      尾張守
 相摸右近大夫將監 備前守
 上総介      甲斐前司
 若狹前司     上野前司
 參河守      秋田城介
 佐渡前司     河越掃部助
 下野前司     佐々木壹岐前司
 伊賀前司     前太宰少貳
 大藏權少輔    薗田淡路前司
 完戸壹岐前司   内藤肥後前司
 伯耆前司     駿河式部大夫
 越中守      長門守
 筑前々司     伊勢前司
 内藤豊後前司   長沼淡路守
 上総式部大夫   城次郎
 駿河五郎左衛門尉 宇都宮下野七郎
 遠江次郎左衛門尉 肥前太郎左衛門尉
 遠江五郎左衛門尉 關左衛門尉
 近江四郎左衛門尉 和泉次郎左衛門尉
 佐渡五郎左衛門尉
 加地七郎左衛門尉 同八郎左衛門尉
 大隅太郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉
 豊後十郎左衛門尉 春日部次郎兵衛尉
 石戸左衛門尉   大宰次郎兵衛尉
 相馬次郎兵衛尉  出羽次郎兵衛尉
 筑後左衛門次郎  鎌田藤内左衛門尉
 飯冨源内左衛門尉 本間三郎左衛門尉
 木内下野次郎
後陣隨兵
 春日部甲斐前司實景   長江三郎左衛門尉義景
 大曽祢太郎左衛門尉長經 壹岐六郎左衛門尉朝C
 淡路弥四郎宗員     足立太郎左衛門尉直光
 伊東六郎左衛門尉祐盛  佐々木孫四郎泰信
 河越五郎重家      千葉八郎胤時
參會廷尉
 藥師寺大夫判官朝村
 小山大夫判官長村

読下し                     つるがおか ほうじょうえなり  しょうぐんけ おんいで のぎ あ
寛元四年(1246)八月小十五日辛丑。鶴岡の放生會也。將軍家 御出之儀有り。

ぎょうれつ
行列

せんじん ずいへい
先陣の隨兵

  あしかがのじろうかねうじ           こうづけのさぶろうくにうじ
 足利次郎兼氏      上野三郎國氏@

  とおとうみろくろうひょうえのじょうときつら  かじわらうえもんたろうかげつな
 遠江六郎兵衛尉時連A   梶原右衛門太郎景綱

  たなかうえもんのじょうともつぐ        いきのじろううえもんのじょうむねうじ
 田中右衛門尉知継    壹岐次郎右衛門尉宗氏B

  とおとうみうこんたいふしょうげんときかね  じょうのくろうやすもり
 遠江右近大夫將監時兼C  城九郎泰盛D

  えちごうまのすけときちか           さがみしきぶのじょうときひろ
 越後右馬助時親E     相摸式部丞時弘F

参考@上野三郎國氏は、源性畠山氏。
参考A遠江六郎兵衛尉時連は、佐原(三浦)氏。
参考B壹岐次郎右衛門尉宗氏は、宍戸。
参考C遠江右近大夫將監時兼は、名越流北条氏。
参考D城九郎泰盛は、安達。
参考E
時親は、時房―時盛―時親
参考F相模式部丞時弘は、時房時村

つぎ しょだいぶ
次に諸大夫

つぎ でんじょうびと
次に殿上人

つぎ おくるま
次に御車

  さわらのしちろうさえもんのじょう       うたのさえもんのじょう
 佐原七郎左衛門尉    雅樂左衛門尉

  さぬきのじろうひょうえのじょう         おおこのごろう
 佐貫次郎兵衛尉     大胡五郎

  あそぬまのこじろう               ながいのいやたろう
 阿曽沼小次郎      長井弥太郎

  なすのじろう                   えどのろくろうたろう
 那須次郎        江戸六郎太郎

  やまのうちなかつかささぶろう        はたののこじろう
 山内中務三郎      波多野小次郎

    いじょうじうにんひたたれ き     たいけんせし   おくるま  さゆう  そうら
  以上十人直垂を着て、帶釼令め、御車の左右に候う。

つぎ おんうしろ  ごい ろくい  〔ほい  げぐくり〕
次に御後の五位六位〔布衣下括〕

  さきのうまごんのかみ             むさしのかみ
 前右馬權頭       武藏守

  とおとうみのかみ               おわりのかみ
 遠江守         尾張守

  さがみうこんたいふしょうげん        びぜんのかみ
 相摸右近大夫將監    備前守

  かずさのすけ                 かいのぜんじ
 上総介         甲斐前司

  わかさのぜんじ                こうづけぜんじ
 若狹前司        上野前司

  みかわのかみ                 あいだのじょうすけ
 參河守         秋田城介

  さどのぜんじ                  かわごえかもんのすけ
 佐渡前司        河越掃部助

  しもつけぜんじ                 ささきのいきぜんじ
 下野前司        佐々木壹岐前司

  いがのぜんじ                  さきのだざいしょうに
 伊賀前司        前太宰少貳

  おおくらごんのしょうゆう            そのだあわじのぜんじ
 大藏權少輔       薗田淡路前司

  ししどいきぜんじ                ないとうひごぜんじ
 完戸壹岐前司      内藤肥後前司

  ほうきぜんじ                   するがしきぶのたいふ
 伯耆前司        駿河式部大夫

  えっちゅうのかみ                 ながとのかみ
 越中守         長門守

  ちくぜんぜんじ                 いせぜんじ
 筑前々司        伊勢前司

  ないとうぶんごぜんじ              ながぬまあわじのかみ
 内藤豊後前司      長沼淡路守

  かずさしきぶのたいふ             じょうのじろう
 上総式部大夫      城次郎

  するがのごろうさえもんのじょう         うつのみやしもつけしちろう
 駿河五郎左衛門尉    宇都宮下野七郎

  とおとうみじろうさえもんのじょう        ひぜんのたろうさえもんのじょう
 遠江次郎左衛門尉    肥前太郎左衛門尉

  とおとうみごろうさえもんのじょう        せきのさえもんのじょう
 遠江五郎左衛門尉    關左衛門尉

  おうみのしろうさえもんのじょう         いずみのじろうさえもんのじょう
 近江四郎左衛門尉    和泉次郎左衛門尉

  さどのごろうさえもんのじょう
 佐渡五郎左衛門尉

  かぢのしちろうさえもんのじょう        おなじきはちろうさえもんのじょう
 加地七郎左衛門尉    同八郎左衛門尉

  おおすみのたろうさえもんのじょう      しなののしろうさえもんのじょう
 大隅太郎左衛門尉    信濃四郎左衛門尉

  ぶんごのじうろうさえもんのじょう        かすかべのじろうふおうえのじょう
 豊後十郎左衛門尉    春日部次郎兵衛尉

  いしとのさえもんのじょう            だざいのじろうひょうえのじょう
 石戸左衛門尉      大宰次郎兵衛尉

  そうまのじろうひょうえのじょう         でわのじろうひょうえのじょう
 相馬次郎兵衛尉     出羽次郎兵衛尉

  ちくごのさえもんじろう             かまたのとうないさえもんのじょう
 筑後左衛門次郎     鎌田藤内左衛門尉

  いいとみのげんないさえもんのじょう     ほんまのさぶろうさえもんのじょう

 飯冨源内左衛門尉    本間三郎左衛門尉

  きうちのしもつけじろう
 木内下野次郎

こうじん  ずいへい
後陣の隨兵

  かすかべかいのぜんじさねかげ       ながえのさぶろうさえもんのじょうよしかげ
 春日部甲斐前司實景   長江三郎左衛門尉義景

  おおそねたろうさえもんのじょうながつね  いきのろくろうさえもんのじょうともきよ
 大曽祢太郎左衛門尉長經 壹岐六郎左衛門尉朝C

  あわじのいやしろうむねかず         あだちのたろうさえもんのじょうなおみつ
 淡路弥四郎宗員G     足立太郎左衛門尉直光

  いとうのろくろうさえもんのじょうすけもり    ささきまごしろうやすのぶ
 伊東六郎左衛門尉祐盛  佐々木孫四郎泰信

  かわごえのごるしうげいえ           ちばのはちろうたねとき
 河越五郎重家      千葉八郎胤時

参考G宗員は、長沼宗政─時宗─宗泰─宗員?

さんかい  ていい
參會の廷尉

  やくしじたいふほうがんともむら
 藥師寺大夫判官朝村

  おやまのたいふほうがんながむら
 小山大夫判官長村

現代語寛元四年(1246)八月小十五日辛丑。鶴岡八幡宮の生き物を放して贖罪する法要です。将軍家頼嗣様もご出席です。
行列 前を行く武装儀仗兵
 足利次郎兼氏       上野三郎畠山国氏
 遠江六郎兵衛尉佐原時連  梶原右衛門太郎景綱
 田中右衛門尉知継     壱岐次郎右衛門尉宍戸宗氏
 遠江右近大夫将監北条時兼 城九郎安達泰盛
 越後右馬助北条時親    相模式部丞北条時弘
次に五位の貴族
次に昇殿資格者の貴族
次に将軍の牛車
 佐原七郎左衛門尉政連   雅楽左衛門尉源時景
 佐貫次郎兵衛尉      大胡五郎光秀
 阿曽沼小次郎光綱     長井弥太郎
 那須次郎         江戸六郎太郎
 山内中務三郎       波多野小次郎宣経
  以上の十人は鎧直垂を着て、太刀を佩き、牛車の左右に付き添ってます。
次に将軍尾後ろから行く五位と六位〔狩衣に袴の裾は足首で締める〕
 前右馬権頭北条政村    武蔵守北条朝直
 遠江守時直        尾張守名越流北条時章
 相模右近大夫将監北条時定 備前守北条時長
 上総介秀胤        甲斐前司長井泰秀
 若狭前司三浦泰村     上野前司畠山泰国
 三河守新田頼氏      秋田城介安達義景
 佐渡前司後藤基綱     河越掃部助泰重
 下野前司宇都宮泰綱    佐々木
壹岐前司泰綱
 伊賀前司小田時家     前太宰少弐狩野為佐
 大蔵権少輔結城朝広    薗田淡路前司俊基
 宍戸壱岐前司家周     内藤肥前前司盛時
 伯耆前司葛西清親     駿河式部大夫三浦家村
 越中守          長門守笠間時朝
 筑前々司二階堂行泰    伊勢前司二階堂行綱
 内藤豊後前司       長沼淡路守(宗政の子時宗カ?)
 上総式部大夫時秀     城次郎安達頼景
 駿河五郎左衛門尉三浦資村 宇都宮下野七郎経綱
 遠江次郎左衛門尉佐原光盛 肥前太郎左衛門尉佐原胤家
 遠江五郎左衛門尉佐原盛時 関左衛門尉政泰
 近江四郎左衛門尉佐々木氏信 和泉次郎左衛門尉天野景氏
 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆
 加治七郎左衛門尉氏綱   加治八郎左衛門尉信朝
 大隅太郎左衛門尉大河戸重村 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
 豊後十郎左衛門尉島    春日部次郎兵衛尉
 石戸左衛門尉       太宰次郎兵衛尉
 相馬次郎兵衛尉胤綱    出羽次郎兵衛尉二階堂行有
 筑後左衛門次郎知定    鎌田藤内左衛門尉
 飯冨源内左衛門尉長能   本間三郎左衛門尉元忠
 木内下野次郎胤家
を行く武装儀仗兵
 春日部甲斐前司実景    長江三郎左衛門尉義景
 大曽根太郎左衛門尉長経  壱岐六郎左衛門尉朝清
 淡路弥四郎長沼宗員    足立太郎左衛門尉直光
 伊東六郎左衛門尉祐盛   佐々木孫四郎泰信
 河越五郎重家       千葉八郎胤時
後の厄払いの検非違使
 薬師寺大夫判官朝村
 小山大夫判官長村

寛元四年(1246)八月小十六日壬寅。同馬塲儀也。流鏑馬十六騎。揚馬訖。而射手一人俄有霍乱之氣。申障。已及神事違例。仍於御棧敷有御沙汰。以雅樂左衛門尉時景爲御使。可勤此射手之旨。被仰駿河式部大夫家村。時景蹲居家村前傳仰。家村降自床子。答申云。亡父義村存生之時。壯年而一兩度雖令勤仕此役。癈忘隔多年也。日來縱雖有習礼。年闌後能敢不可叶事也。况於當日所作哉。更不堪身之由云々。御使申此趣之間。仰兄若狹前司泰村。慥可令勤云々。仍泰村起座。行向弟家村座前。早可應仰之旨。再往加諷詞等。時只今稱無射馬。泰村。馬者答用意之由。凡泰村存如此時儀。射馬〔号深山路。名馬也〕置鞍兮。兼以令置流鏑馬舎近邊云々。此上家村失據于遁避。自取敷皮。副于下手埒。向流鏑馬舎。公私見此儀入興。見物之輩悉以属目於馬塲下之方。相待家村所爲。家村改布衣行粧。着射手裝束。鏑者泰村之鏑也。矢与鏃己之宇津保矢〔并〕加利俣也。然後駕于件深山路。打出于第四番打出之所。至三的之際。其躰不耻古堪能云々。人々美談。時之壯觀也。射訖則又裝布衣。皈着本座之間。頻預御感御使。當家他門莫不賀之云々。

読下し                     おな     ばば   ぎ なり  やぶさめ じうろっき   うま  あ をはんぬ
寛元四年(1246)八月小十六日壬寅。同じく馬塲の儀也。流鏑馬十六騎。馬を揚げ訖。

しか    いて ひとりにはか かくらん のけ あ       さわ    もう    すで  しんじ いれい  およ    よっ  おんさじき  をい   おんさた あ
而るに射手一人俄に霍乱之氣有りて、障りを申す。已に神事違例に及ぶ。仍て御棧敷に於て御沙汰有り。

うたのさえもんのじょうときかげ  もっ  おんし   な     こ    いて   つと  べ   のむね  するがしきぶのたいふいえむら おお  らる
雅樂左衛門尉時景を以て御使と爲し、此の射手を勤む可き之旨、駿河式部大夫家村に仰せ被る。

ときかげ  いえむら  まえ  そんきょ  おお   つた   いえむらしょうじ よ   お     こた  もう    い
時景、家村の前に蹲居し仰せを傳う。家村床子@自り降り、答へ申して云はく。

ぼうふよしむらぞんしょうのとき  そうねん   て いちりょうど こ  やく  ごんじせし   いへど    はいもうたねん  へだ    なり
亡父義村存生之時、壯年にし而一兩度此の役を勤仕令むと雖も、癈忘多年を隔つる也。

ひごろたと しゅうれい あ   いへど   とし た    のち  よ   あ     かな べからざることなり いはん とうじつ  しょさ  をい     や
日來縱い習礼有りと雖も、年闌けて後に能く敢へて叶う不可事也。 况や當日の所作に於てお哉。

さら  み  たえざるのよし うんぬん  おんし  こ おもむき もう  のあいだ  あに わかさのぜんじやすむら  おお    たしか つと  せし  べ     うんぬん
更に身に堪不之由と云々。御使、此の趣を申す之間、兄 若狹前司泰村に仰せて、慥に勤め令む可しと云々。

よっ  やすむら ざ  た   おとうと いえむら  ざ   まえ  ゆきむか    はや  おお    おう  べ   のむね  さいおう ふうし ら   くわ
仍て泰村座を起ち、弟 家村の座の前へ行向い、早く仰せに應ず可き之旨、再往諷詞等を加う。

とき  ただいま いば な     しょう   やすむら うまは ようい のよし  こた
時に只今射馬無しと稱す。泰村、馬者用意之由を答う。

およ やすむらかく  ごと  とき  ぎ   ぞん     いば   〔 みやまじ    ごう     めいばなり 〕  くら  お
凡そ泰村此の如き時の儀を存じ、射馬に〔深山路と号す。名馬也〕鞍を置き兮。

かね  もっ  やぶさめや きんぺん  お   せし    うんぬん
兼て以て流鏑馬舎近邊に置か令むと云々。

 こ  うえ  いえむら とんぴによんどこ うしな   みづか しきがわ  と     しもて  らちに そ     やぶさめしゃ   むか
此の上は家村遁避于據ろを失い、自ら敷皮を取り、下手の埒于副い、流鏑馬舎へ向う。

こうし かく  ぎ   み   きょう い
公私此の儀を見て興に入る。

けんぶつのやから ことご  もっ  めを  ばばしも のほう  しょく   いえむら  しょい  あいま     いえむら ほい ぎょうしょう あたら    いて  しょうぞく  つ
見物 之輩 悉く以て目於馬塲下之方に属し、家村の所爲を相待つ。家村布衣の行粧を改め、射手の裝束を着く。

かぶらは やすむらのかぶらなり  や と やじり おのれの うつぼや  なら     かりまた なり
鏑者 泰村 之鏑也。矢与鏃は己之宇津保矢并びに加利俣也。

しか  のち  くだん  みやまじ に が     だいよんばん うちだしのところに うちいだ   みまとの きわ  いた    そ   ていふる  たんのう  はじず  うんぬん
然る後、件の深山路于駕し、第四番の打出之所于打出し、三的之際に至る。其の躰古き堪能に耻不と云々。

ひとびとびだん   ときにそうかんなり
人々美談す。時之壯觀也。

 いをは   すなは また ほい よそお    もと  ざ  かえ  つ   のあいだ  しきり ぎょかん  おんし   あず       とうけ たもん これ   がさざる  な     うんぬん
射訖りて則ち又布衣を裝い、本の座に皈り着く之間、頻に御感の御使に預かる。當家他門之を賀不は莫しと云々。

参考@床子は、昔、宮中などで用いた腰掛け。板に脚をつけた机のような形で、寄りかかりがなく、敷物を敷いて使用した。Goo電子辞書から

現代語寛元四年(1246)八月小十六日壬寅。昨日同様に馬場での奉納行事です。流鏑馬が16騎。馬を神社にお披露目しました。それなのに、射手の一人が急に具合が悪くなって出来ないと言い出しました。神様にお披露目してるので神事が違ってしまいます。それなので、桟敷の将軍から指令がありました。雅楽左衛門尉源時景が使者として、この空きの射手をするように駿河式部大夫三浦家村に命じました。時景は家村の前に膝をついて、将軍の仰せを伝えました。家村は腰掛から降りて同様に膝をつき答えました。
「亡き父義村が生存時代に、壮年だったので一二度この役を勤めた事がありますけど、やらなくなって随分と経っています。普段たとえ練習していても、年を喰った者が安易にやれるものではありません。ましてや当日急な使命ではなおさらですよ。とても私の腕には耐えられません。」だとさ。使者はこの旨を報告すると、兄の若狭前司三浦泰村に仰せになって、ちゃんと勤めさせなさいとの事です。それで泰村は席を立って、弟家村の咳の前へ行って、早く仰せに従うように、何度も説得をしました。そしたら馬が無いと云うので、泰村は馬はあると答えました。ちゃんと泰村はこのような場合を想定して、流鏑馬用の馬〔深山路と云う名馬です〕に鞍を置いて、予め流鏑馬用厩の近くにおいていました。ここまで用意されてしまったのでは、家村は逃げ所が無くなって、自分で敷き皮を持って、下手の垣根に沿って流鏑馬用の厩舎へ向かいました。将軍も御家人もこの様子を見て興味を掻きたてられました。
見物の連中は全て目を流鏑馬馬場の下(東)の方に向けて、家村の行動を待っています。家村は狩衣の衣装を取り替えて、狩装束を着ました。鏑は泰村のものを使い、矢柄と鏃は自分のうつぼ矢とかりまたです。それから例の深山路に乗って、四番目のスタート位置から走り出し、三番目の的まで走りました。その様子は昔ながらの名人に劣りませんでしたとさ。
人々は、褒めちぎりました。この時代の壮観な見ものでした。流鏑馬を射終わって着物を狩衣に着替え、元の席に戻ってくる間、しきりに将軍の感心の言葉を伝える使者がわざわざ来ました。当家の者もよその一族の方々も褒めない人は有りませんでしたとさ。

寛元四年(1246)八月小十七日癸夘。將軍家俄御不例。諸人群集云云。

読下し                     しょうぐんけ  にはか  ごふれい  しょにんぐんさん   うんぬん
寛元四年(1246)八月小十七日癸夘。將軍家、俄に御不例。諸人群集すと云云。

現代語寛元四年(1246)八月小十七日癸卯。将軍家頼嗣様が、急に病気です。皆さんが集まって来ましたとさ。

寛元四年(1246)八月小廿日丙午。御不例平愈云云。醫師御持僧陰陽師等預祿物云云。

読下し                    ごふれい へいゆ  うんぬん  くすし   ごじそう「  おんみょうじらろくぶつ  あず      うんぬん
寛元四年(1246)八月小廿日丙午。御不例平愈と云云。醫師、御持僧、陰陽師等祿物に預かると云云。

現代語寛元四年(1246)八月小二十日丙午。病気は治りましたとさ。医者や祈祷僧や陰陽師が褒美の品物を貰いましたとさ。

寛元四年(1246)八月小廿五日辛亥。天リ。寅刻。月犯軒轅女御星。

読下し                     そらはれ とらのこく つきけんえんにょごせい おか
寛元四年(1246)八月小廿五日辛亥。天リ。寅刻、月軒轅女御星@を犯す。

参考@軒轅女御星は、軒轅大星が獅子座のアルファ星なのでその近所の星か?

現代語寛元四年(1246)八月小二十五日辛亥。空は晴です。午前4時頃、月が軒轅女御星の軌道を犯しました。

寛元四年(1246)八月小廿六日壬子。天リ。寅刻。月犯大白。

読下し                     そらはれ とらのこく つきたいはく  おか
寛元四年(1246)八月小廿六日壬子。天リ。寅刻。月大白を犯す。

現代語寛元四年(1246)八月小二十六日壬子。空は晴です。午前4時頃、月が白星金星の軌道を犯しました。

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吾妻鏡入門第卅七巻

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