吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)四月小10才

寳治元年(1247)四月小三日丙戌。鶴岡恒例神事延引。

読下し                   つるがおかこうれい  しんじ えんいん
寳治元年(1247)四月小三日丙戌。 鶴岡 恒例の神事延引す。

現代語宝治元年(1247)四月小三日丙戌。鶴岡八幡宮でも恒例の神事を延期しました。

寳治元年(1247)四月小四日丁亥。今日。秋田城介入道覺地〔俗名景盛。藤九郎盛長息〕自高野下着。在甘繩本家云云。

読下し                    きょう   あいだのじょうすけにゅうどうかくち 〔ぞくみょうかげもり    とうくろうもりなが   そく 〕 こうや よ   げちゃく
寳治元年(1247)四月小四日丁亥。今日、 秋田城介入道覺地 〔俗名景盛。藤九郎盛長が息〕高野自り下着し、

あまなわほんけ  あ    うんぬん
甘繩本家に在りと云云。

現代語宝治元年(1247)四月小四日丁亥。今日、秋田城介入道覚地〔俗名は景盛。(安達)藤九郎盛長の息子〕が、高野山から下山して鎌倉に着き、甘縄の安達の本家にいるそうな。

寳治元年(1247)四月小十一日甲午。日來高野入道覺地連々參左親衛御第。今日殊長居。内々有被仰合事等云云。又對于子息秋田城介義景殊加諷詞。令突鼻孫子九郎泰盛云云。是三浦一黨當時秀于武門。傍若無人也。漸及澆季者。吾等子孫定不足對揚之儀歟。尤可廻思慮之處。云義景。云泰盛。緩怠禀性。無武備之條。奇怪云云。

読下し                      ひごろ  こうやにゅうどうかくち れんれんさしんえい おんだい まい
寳治元年(1247)四月小十一日甲午。日來、高野入道覺地連々左親衛の御第へ參る。

きょう こと  ながい    ないない おお  あ   さる  ことら あ     うんぬん
今日殊に長居し、内々に仰せ合は被る事等有りと云云。

また  しそく あいだのじょうすけよしかげに たい  こと  ふうし   くは    まご  くろうやすもり  とっぴ せし    うんぬん
又、子息 秋田城介義景于 對し殊に諷詞を加へ、孫子九郎泰盛を突鼻令む@と云云。

これ  みうらいっとう とうじ ぶもんに ひい   ぼうじゃくぶじんなり  ようや  ぎょうき  およ  ば   われら  しそん さだ    たいよう  たらざる のぎ か
是、三浦一黨當時武門于秀で、傍若無人也。漸く澆季Aに及ば者、吾等が子孫定めて對揚Bに足不之儀歟。

もっと しりょう  めぐ    べ   のところ  よしかげ  い    やすもり  い     けたいしょう  う      ぶび な  のじょう  きっかい  うんぬん
尤も思慮を廻らす可き之處、義景と云ひ、泰盛と云ひ、緩怠性を禀け、武備無き之條、奇怪と云云。

参考@突鼻令むは、叱り付ける。
参考A澆季は、世も末。
参考B
對揚は、対立。

現代語宝治元年(1247)四月小十一日甲午。最近、高野入道覚地(安達景盛)が、連日左親衛(北条時頼)の屋敷へ来ている。今日は、特に長居をして、内緒で打ち合わせる事があったらしいそうな。又、息子の秋田城介(安達)義景にたいして説教をし、孫の九郎泰盛に叱りつけたそうな。「みろ、三浦一族は現在武力に物を言わせ、傍若無人な態度だ。世も末になれば、我らの子孫はおそらく対立するのには、武力が足りなくなるであろう。今こそ考えるべき時なのに、義景も泰盛も怠けものに出来ているので、戦闘の用意が出来ていないのはどうしたことであろう。」だとさ。

寳治元年(1247)四月小十四日丁未。御臺所御不例之間。大納言法印隆辨祗候。修炎魔天供。轉讀大般若經云云。

読下し                      みだいどころ  ごふれいのあいだ  だいなごんほういんりゅうべん しこう わきま
寳治元年(1247)四月小十四日丁未。御臺所@御不例之間、大納言法印隆A祗候を辨へ、

えんまてん ぐ  てんどく だいはんにゃきょう しゅう   うんぬん
炎魔天B供、轉讀 大般若經を 修すと云云。

現代語宝治元年(1247)四月小十四日丁未。将軍の奥さんが病気なので、大納言法印隆弁が心得て、閻魔大王の供養と大般若経の摺り読みを勤めましたとさ。

参考@御臺所は、将軍室で時頼の妹桧皮姫。
参考A隆辨は、藤原隆房(四条隆房・冷泉隆房)の息子。母は葉室光雅の娘。
参考B炎魔天は、
十二天の南の担当。古代インドではヤマといわれヤミーと言いう妹がいる。漢字では夜魔または夜摩と書く。ヤマは世界で初めて死んだ人とされていて、死者のための道を発見したので、ヤマ王=閻摩羅社(王)と崇められるようになった。中国に伝わってからは衣装が中国風に変化し、閻魔王に変り、焔魔、焔摩、などとも書かれ、平等に罪を治す職務から平等王とも訳される。

寳治元年(1247)四月小廿日癸夘。彼御不例事。爲御邪氣云云。左親衛殊歎息云云。

読下し                     か    ごふれい   こと  おんじゃき たり   うんぬん  さしんえい こと  たんそく   うんぬん
寳治元年(1247)四月小廿日癸夘。彼の御不例の事、御邪氣@爲と云云。左親衛殊に歎息すと云云。

参考@邪氣は、風邪引きらしい。

現代語宝治元年(1247)四月小二十日癸卯。その病気は風邪引きらしいとのことです。左親衛時頼は特に心配しましたとさ。

寳治元年(1247)四月小廿五日戊申。巳一點在暈云云。今日。被奉勸請後鳥羽院御靈於鶴岡乾山麓。是爲奉宥彼怨靈。日來所被建立一宇社壇也。以重尊僧都被補別當職云云。

読下し                             みのいってん かさあ    うんぬん
寳治元年(1247)四月小廿五日戊申。巳一點@暈在りと云云。

きょう    ごとばいん  ごれいをつるがおか いぬい さんろく  かんじょう たてま らる
今日、後鳥羽院の御靈於鶴岡の乾の山麓に勸請し奉つ被る。

これ  か   おんりょう なだ たてま     ため  いごろ いちう  しゃだん こんりゅうさる ところなり  ちょうそんそうづ  もっ  べっとうしき  ぶ さる   うんぬん
是、彼の怨靈を宥め奉つらん爲、日來一宇の社壇Aを建立被る所也。 重尊僧都を以て別當職に補被ると云云。

参考A一宇の社壇は、八幡宮北西別当坊(現宮司社宅)奥の新宮神社(いまみや)らしい。

現代語宝治元年(1247)四月小二十五日戊申。午前9時過ぎにお日様にかさがかぶっていたそうな。今日、後鳥羽院の霊魂を鶴岡八幡宮の北西の山裾に勧請し祀りました。これは、あの人の怨霊をなだめるために、最近一棟の神社を建立していたのです。重尊僧都を筆頭管理者に任命したそうです。

解説@時刻の點は、2時間を5等分したのが点。巳なら9時〜9:24を一点、9:24〜9:48を二点、9:48〜10:12を三点、10:12〜10:36を四点、10:36〜11:00を五点。

寳治元年(1247)四月小廿六日己酉。爲御祈。於御臺所御方。被行千度御秡。陰陽道十人參進。爰リ茂。リ長等申云。御輕服九十日之間者。雖有御除服。可有憚云云。リ賢朝臣以下申云。御除服之後者。雖日數少之内。更以無憚。况於九十日之内哉云云。リ茂又翻先言。同今儀。リ長者猶憤申之。然而就九人一同申状。先有御除服。次被行御秡。其衆リ賢。リ茂。宣賢。爲親。リ長。廣助。リ憲。泰房。リ成〔リ茂子息〕等也。越後右馬助。相摸式部大夫時弘等爲陪膳役云云。

読下し                      おいのり ため  みだいどころ おんかた  をい   せんど  おんはら   おこなはれ  おんみょうどう じうにんさんしん
寳治元年(1247)四月小廿六日己酉。御祈の爲、御臺所の御方に於て、千度の御秡へを行被る。陰陽道 十人參進す。

ここ  はるもち  はるなが もう     い       ごきょうぶく くじうにち のあいだは  おんじょふく あ    いへど   はばか あ   べ    うんぬん
爰にリ茂、リ長等申して云はく。御輕服九十日之間者、御除服 有ると雖も、憚り有る可しと云云。

はるかたあそん いげ もう    い
リ賢朝臣以下申して云はく。

おんじょふく ののちは  ひかずすくな  のうち  いへど    さら  もっ  はばか な    いはん くじうにち  のうち   をい    や   うんぬん
御除服之後者、日數少き之内と雖も、更に以て憚り無し。况や九十日之内に於てを哉と云云。

はるもちまた せんげん ひるがえ いま  ぎ  おな    はるながはなおいか   これ  もう
リ茂又 先言を翻し、今の儀に同じ。リ長者猶憤りて之を申す。

しかして  くにんいちどう  もう  じょう  つ      ま   おんじょふく あ       つぎ  おんはら   おこなはれ
然而、九人一同の申し状に就き、先ず御除服@有りて、次に御秡へを行被る。

 そ しゅうはるかた はるもち のぶかた ためちか はるなが ひろすけ はるのり  やすふさ はるなり 〔はるもち  しそく 〕  ら なり
其の衆リ賢、リ茂、宣賢、爲親、リ長、廣助、リ憲、泰房、リ成〔リ茂が子息〕等也。

えちごのうまのすけ  さがみしきぶのたいふときひろ ら ばいぜんやくたり  うんぬん
越後右馬助、 相摸式部大夫時弘A等陪膳役爲と云云。

参考@除服は、喪明け。
参考A相摸式部大夫時弘は、時広とも書く。時房─時村─時広

現代語宝治元年(1247)四月小二十六日己酉。お祈りのために、将軍の奥方桧皮姫の所で千回のお祓いを行いました。陰陽師十人が来ました。
そしたら晴茂と晴長が云うのには「軽い喪の90日の間は、喪明けの儀式をしても、やはり控えた方がよいでしょう。」だとさ。
晴賢が云いだしました。「喪明けの後は、日数が少なくても特に控える必要はありません。ましてや90日の内でさえもおなじです。」だとさ。
晴茂は、前の言葉をひっくり返して今の云うのに賛成しました。
それを聞いて晴長は怒って、なおも前の意見を云いました。
それでも、9人が揃って云うので、まず喪明けの儀式があって、その次にお祓いを行いました。
その9人は、晴賢・晴茂・宣賢・為親・晴長・広助・晴憲・泰房・晴成〔晴茂の息子〕などです。越後右馬助佐助流北条時親と相模式部大夫北条時広が給仕手伝いの役です。

寳治元年(1247)四月小廿八日辛亥。御臺所爲御邪氣之間。長能僧都爲御驗者祗候云云。」今日秋田城介義景令造立供養愛染明王像。導師法印隆辨。是依有殊願也。即被修秘法云云。

読下し                      みだいどころ おんじゃきたるのあいだ ちょうのうそうづ ごげんじゃ  な   しこう    うんぬん
寳治元年(1247)四月小廿八日辛亥。御臺所 御邪氣爲之間、長能僧都 御驗者と爲し祗候すと云云。」

きょう あいだのじょうすけよしかげ あいぜんみょうおうぞう ぞうりゅう  くようせし     どうし  ほういんりゅうべん
今日 秋田城介義景、 愛染明王像@を造立し供養令む。導師は法印隆辨。

これこと   ねが  あ     よっ  なり  すなは ひほう  しゅうさる    うんぬん
是殊なる願い有るに依て也。即ち秘法を修被ると云云。

現代語宝治元年(1247)四月小二十八日辛亥。将軍の奥方が風邪ひきなので、長能僧都が祈祷の為参りましたとさ。」
今日、秋田城介安達義景は、 戦の神様愛染明王の像を造り開眼供養をしました。指導僧は法印隆弁。
これは、特別な願い事が有るからです。すぐに密教の秘法を勤めましたとさ。

参考@愛染明王は、戦争の神。

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