吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)五月小

寳治元年(1247)五月小三日乙夘。今日。鶴岡若宮神事二箇月延引分被遂行之。

読下し                    きょう  つるがおかわかみや しんじ  にかげつ えんいん ぶん  これ  すいこうさる
寳治元年(1247)五月小三日乙夘。今日。鶴岡 若宮の神事、二箇月延引の分、之を遂行被る。

現代語宝治元年(1247)五月小三日乙卯。今日は鶴岡八幡宮の神事です。3月3日の上巳の節句の二か月延期の分を実施しました。

寳治元年(1247)五月小五日丁巳。同宮神事如例。」今日。秋田城介義景祈請事等結願。阿闍梨退出之間。送祿物等云々。

読下し                    どうぐう  しんじ れい  ごと
寳治元年(1247)五月小五日丁巳。同宮の神事例の如し。」

きょう  あいだのじょうすけよしかげ きしょう  ことら けちがん    あじゃりたいしゅつのあいだ  ろくぶつら  おく    うんぬん
今日、秋田城介義景が祈請の事等結願し、阿闍梨@退出之間、祿物等を送ると云々。

参考@阿闍梨は、前月四月二十八日の記事から、愛染明王の供養を法印隆弁がしているので、隆弁だと思われる。

現代語宝治元年(1247)五月小五日丁巳。同鶴岡八幡宮の端午の節句の神事は何時もの通りです。」
今日、秋田城介安達義景のお祈りが満期したので、阿闍梨隆弁が帰宅したので、お布施の品物を送ったそうな。

寳治元年(1247)五月小六日戊午。若狹前司泰村次男駒石丸。可爲左親衛養子之由。有約諾云云。

読下し                    わかのぜんじやすむら  じなん  こまいしまる  さしんえい  ようし   な   べ    のよし  やくだくあ     うんぬん
寳治元年(1247)五月小六日戊午。若狹前司泰村が次男の駒石丸、左親衛の養子と爲す可き之由、約諾有りと云云。

現代語宝治元年(1247)五月小六日戊午。若狭前司三浦泰村の次男の駒石丸(後の景泰)を左親衛時頼の養子にするように、約束をしましたとさ。

寳治元年(1247)五月小九日辛酉。爲左親衛御祈祷。被始行尊星王護摩。大納言法印隆辨修之云云。

読下し                    さしんえい   ごきとう   ため  そんじょうおう ごま   しぎょうさる   だいなごんほういんりゅうべん  これ  しゅう   うんぬん
寳治元年(1247)五月小九日辛酉。左親衛の御祈祷の爲、尊星王@護摩を始行被る。大納言法印隆辨、之を修すと云云。

参考@尊星王は、北極星を神格化したもので、妙見菩薩ともいわれる。

現代語宝治元年(1247)五月小九日辛酉。左親衛時頼のお祈りのため妙見菩薩の護摩炊きを始めました。大納言法印隆弁がこれを勤めましたとさ。

寳治元年(1247)五月小十三日乙丑。未尅。御臺所遷化〔年十八〕。日來御不例之間。祈療雖被竭其功。終及御大事也。是故修理亮時氏之息女。左親衛乙妹也。左親衛渡御若狹前司舘。依御輕服也。

読下し                     ひつじのこく みだいどころ せんげ 〔としじうはち〕 
寳治元年(1247)五月小十三日乙丑。未尅。 御臺所 遷化〔年十八〕

ひごろ ごふれいのあいだ  きりょう そ  こうつくさる    いへど   しま    おんだいじ  およ  なり
日來御不例之間、祈療其の功竭被ると雖も、終いに御大事に及ぶ也。

これ  こしゅりのすけときうじ のそくじょ  さしんえい おといもうとなり  さしんえい わかさのぜんじ  やかた わた  たま    ごきょうぶく よっ  なり
是、故修理亮時氏之息女、左親衛が乙妹也。 左親衛 若狹前司の舘へ渡り御う。御輕服に依て也。

現代語宝治元年(1247)五月小十三日乙丑。将軍の奥方桧皮姫が亡くなりました〔年は18歳です〕。この頃、御病気だったのですが、祈りや治療の効果が無く、とうとう大事になってしまいました。この方は、北条時氏の娘で左親衛時頼の二番目の妹です。左親衛時頼さんは若狭前司三浦泰村の館に移りました。軽い喪に服すためです。

寳治元年(1247)五月小十四日丙寅。戌剋。御臺所奉送于佐々目谷武州禪室經時。墳墓之傍也。人々着素服供奉。所謂。
 備前前司     越後右馬助
 遠江左近大夫將監 春日部甲斐前司
 美濃左近大夫將監 能登右近大夫
 關左衛門尉    常陸修理亮
 城次郎      大隅太郎左衛門尉
 肥前太郎左衛門尉 後藤三郎左衛門尉
 駿河九郎     千葉八郎
 安積新左衛門尉  宇佐美七郎左衛門尉
 宮内左衛門尉   弥次郎左衛門尉
 伊賀次郎左衛門尉 太宰三郎左衛門尉
 小野澤次郎    加地七郎左衛門尉
 信濃七郎左衛門尉 出羽次郎左衛門尉
 攝津左衛門尉   小野寺四郎左衛門尉
 内藤四郎左衛門尉 押垂左衛門尉
 紀伊次郎左衛門尉 海老名左衛門尉

読下し                     いぬのこく みだいどころ ささめがやつ ぶしゅうぜんしつつねとき ふんぼのかたわらにおく たてまつ なり
寳治元年(1247)五月小十四日丙寅。戌剋、御臺所、佐々目谷の武州禪室經時の墳墓之傍于 送り奉る 也。

ひとびと そふく  き    ぐぶ     いはゆる
人々素服を着て供奉す。所謂、

  びぜんぜんじ            えちごのうまのすけ
 備前前司     越後右馬助

  とおとうみさこんのたいふしょうげん かずかべかいぜんじ
 遠江左近大夫將監 春日部甲斐前司

  みのさこんのたいふしょうげん  のとうこんのたいふ
 美濃左近大夫將監 能登右近大夫

  せきのさえもんのじょう       ひたちしゅりのすけ
 關左衛門尉    常陸修理亮

  じょうのじろう            おおすみのたろうさえもんのじょう
 城次郎      大隅太郎左衛門尉

  ひぜんのたろうさえもんのじょう ごとうのさぶろうさえもんのじょう
 肥前太郎左衛門尉 後藤三郎左衛門尉

  するがのくろう           ちばのはちろう
 駿河九郎     千葉八郎

  あさかのさえもんのじょう     うさみのしちろうさえもんのじょう
 安積新左衛門尉  宇佐美七郎左衛門尉

  くないのさえもんのじょう     いやじろうさえもんのじょう
 宮内左衛門尉   弥次郎左衛門尉

  いがのじろうさえもんのじょう   だいざのさぶろうさえもんのじょう
 伊賀次郎左衛門尉 太宰三郎左衛門尉

  おのさわのじろう          かぢのしちろうさえもんのじょう
 小野澤次郎    加地七郎左衛門尉

  しなののしちろうさえもんのじょう でわのじろうさえもんのじょう
 信濃七郎左衛門尉 出羽次郎左衛門尉

  せつのさえもんのじょう      おのでらのしろうさえもんのじょう
 攝津左衛門尉   小野寺四郎左衛門尉

  ないとうのしろうさえもんのじょう  おしだれのさえもんのじょう
 内藤四郎左衛門尉 押垂左衛門尉

  きいのじろうさえもんのじょう    えびなのさえもんのじょう
 紀伊次郎左衛門尉 海老名左衛門尉

現代語宝治元年(1247)五月小十四日丙寅。午後8時頃、将軍の奥方桧皮姫を笹目谷の武州禅室北条経時のお墓の傍らに野辺送りしました。人々は白い浄衣の喪服を着てお供をしました。それは、
 備前前司北条朝直     越後右馬助北条時親
 遠江左近大夫将監北条時兼 春日部甲斐前司実景
 美濃左近大夫将監時秀   能登右近大夫中原仲時
 関左衛門尉政泰      常陸修理亮重継
 城次郎安達頼景      大隅太郎左衛門尉大河戸重村
 肥前太郎左衛門尉佐原胤家 後藤三郎左衛門尉基村
 駿河九郎三浦重村     千葉八郎胤時
 安積新左衛門尉      宇佐美七郎左衛門尉
 宮内左衛門尉公景     弥次郎左衛門尉親盛
 伊賀次郎左衛門尉光房   太宰三郎左衛門尉狩野為成
 小野沢次郎時仲      加地七郎左衛門尉氏綱
 信濃七郎左衛門尉     出羽次郎左衛門尉二階堂行有
 摂津左衛門尉狩野為光   小野寺四郎左衛門尉通時
 内藤四郎左衛門尉     押垂左衛門尉時基
 紀伊次郎左衛門尉為経   海老名左衛門尉忠行

参考実名の分からないのは、これ一回限りの出演。

寳治元年(1247)五月小十八日庚午。今夕有光物。自西方亘東天。其光暫不消。于時秋田城介義景甘繩家。白旗一流出現。人觀之云云。

読下し                     こんゆうひかりものあ    せいほうよ   とうてん  わた    そ  ひかり しばら きえず
寳治元年(1247)五月小十八日庚午。今夕光物有り。西方自り東天に亘る。其の光 暫く不消。

ときに  あいだのじょうすけよしかげ あまなわ いえ   しらはた いちりゅう しゅつげん  ひとこれ  み    うんぬん
時于 秋田城介義景が甘繩の家に、白旗 一流 出現す。人之を觀ると云云。

現代語宝治元年(1247)五月小十八日庚午。今日の夕方に光る物が、西の空から東の空へ飛んでいきました。その光はしばらく消えませんでした。その時に、安達義景の甘縄の屋敷に白い旗が一枚現れました。人々が見たそうです。

寳治元年(1247)五月小廿一日癸酉。若狹前司泰村獨歩之餘。依背嚴命。近日可被加誅罸之由。有其沙汰。能々可有謹愼之旨。注簡面。立置鶴岡宮鳥居前。諸人見之云云。

読下し                      わかさのぜんじやすむら どっぽ のあま    げんめい  そむ    よっ
寳治元年(1247)五月小廿一日癸酉。 若狹前司泰村 獨歩之餘り@、嚴命に背くに依て、

きんじつ ちうばつ  くは  らる  べ   のよし  そ    さた あ
近日 誅罸を加へ被る可き之由、其の沙汰有り。

よくよくきんしんあ   べ   のむね  くだ  めん  ちう   つるがおかぐう  とりいまえ  た   お     しょにんこれ  み     うんぬん
能々謹愼有る可き之旨、簡の面に注し、鶴岡宮の鳥居前に立て置く。諸人之を見ると云云。

参考@獨歩之餘りは、自分勝手に。

現代語宝治元年(1247)五月小二十一日癸酉。「三浦泰村は、自分勝手にして、幕府の命令を聞かないので、近々征伐されるでしょうと、命令が出ました。良く考えておとなしくすべきだ。」と竹に書かれて鶴岡八幡宮の鳥居の前に立ててありました。皆がこれを見ましたとさ。

寳治元年(1247)五月小廿六日戊寅。土方右衛門次郎逐電。是令一諾于若狹前司者也。而奉一通願書於或社頭。不慮左親衛令知其旨趣給。是則不可與彼一類叛逆。靈神加冥助。可令護安全給之由也云云。

読下し                      ひじかたうえもんじろう ちくてん    これ  わかさのぜんじに いちだくせし  ものなり
寳治元年(1247)五月小廿六日戊寅。土方右衛門次郎@逐電す。是、若狹前司于一諾令む者也。

しか    いっつう  がんしょを あるしゃとう たてまつ  ふりょ  さしんえい そ   ししゅ  しらせし  たま
而るに一通の願書於或社頭に奉る。不慮に左親衛其の旨趣を知令め給ふ。

これすなは か いちるい  はんぎゃく よ  べからず  りょうじんめいじょ くは    あんぜん  まも  せし  たま  べ   のよしなり  うんぬん
是則ち彼の一類の叛逆に與す不可。靈神冥助を加へ、安全を護ら令め給ふ可き之由也と云云。

参考@土方右衛門次郎は、土方義政。菱方庄で福島県郡山市。

現代語宝治元年(1247)五月小二十六日戊寅。土方右衛門次郎義政が行方をくらましました。この人は三浦泰村に心を合わせていたものです。しかし、一通の祈願の書類をある神社に奉納しました。思いがけずに時頼さんはその内容を知りました。それは、「三浦一族の反逆に加わりません。神様がそれをお知りになり私を助け、安全であるように。」との内容でしたとさ。

寳治元年(1247)五月小廿七日己夘。左親衛御輕服之間。日來令寄宿若狹前司泰村亭給。而今日。彼一族雖有群集之形勢。更無祗候于御前之事。只在閑所。皆不能取髻直衣裝。是外則爲献盃酒等。雖似專經營。内有他用意之條揚焉也。其上。入夜。鎧腹巻之粧有響于御耳事。此程自方々告申之趣。強無御信用之處。忽苻号之間。思食合。俄退彼舘。令還本所給。主達一人〔号五郎四郎〕僅持御太刀御供云云。亭主聞此事。仰天失度。内々及陳謝云云。

読下し                      さしんえい ごきょうぶくのあいだ  ひごろ わかさのぜんじやすむら  てい  きしゅくせし  たま
寳治元年(1247)五月小廿七日己夘。左親衛 御輕服之間、日來 若狹前司泰村が亭に寄宿令め給ふ。

しか    きょう    か  いちぞくぐんしゅうのけいせい あ    いへど   さら  ごぜんに しこう のことな
而るに今日、彼の一族群集之形勢 有ると雖も、更に御前于祗候之事無し。

ただかんじょ  あ    みなもとどり のうし  よそお    と     あたはず
只閑所に在りて、皆 髻・直衣@の裝いを取るに不能。

これそと    すなは はいしゅら けん    ため  もっぱ けいえい      に      いへど   うち  ほか  ようい あ  のじょうけちえんなり
是外には則ち盃酒等を献ぜん爲、專ら經營するに似たりと雖も、内に他の用意有る之條揚焉也。

 そ  うえ   よ  い    よろいはらまき のよそお おんみみ にひび  ことあ
其の上、夜に入り、鎧腹巻 之粧い御耳 于響く事有り。

 こ ほどかたがたよ   つ   もう のおもむき あなが   ごしんよう な  のところ  たちま ふごう    のあいだ  おぼ  め   あわ
此の程方々自り告げ申す之趣、強ちに御信用無き之處、忽ち苻号する之間、思し食し合せ、

にはか か  やかた の     ほんじょ  かえ  せし  たま
俄に彼の舘を退き、本所へ還ら令め給ふ。

しゅたちひとり 〔  ごろしろう   ごう  〕 わずか  おんたち   も   おとも     うんぬん
主達一人〔五郎四郎と号す〕僅に御太刀を持ち御供すと云云。

てい あるじこ  こと  き     ぎょうてんど  うしな   ないないちんしゃ  およ    うんぬん
亭の主此の事を聞き、仰天度を失い、内々陳謝に及ぶと云云。

参考@直衣は、公家装束の一。通常、烏帽子(えぼし)と指貫(さしぬき)の袴(はかま)を用いる。

現代語宝治元年(1247)五月小二十七日己卯。左親衛北条時頼さんは、軽い喪に服すため、近日若狭前司三浦泰村の屋敷に宿泊しています。それなのに今日、その三浦一族は、集まっている様子があるけれども、なぜか時頼さんの前へは姿を見せません。ただ静かな部屋に居て、髻を解くでも無く正装の直衣を外すわけでもありません。これは、外見はすぐにお酒などを運べるように用意をしているようにも見えますけど、実は他の準備をしていることは明らかです。
そればかりか、夜になると鎧や簡易鎧の腹巻等を着用する音が耳に響くのです。今回、あれこれと三浦の謀反を云ってくるものがありましたが、信用していませんでした。しかし、その疑いがあっていると思われて、急いでその屋敷から退散して自分の屋敷へ帰ってしまいました。召使独り〔五郎四郎と云います〕が太刀持ちをしてお供をしたそうな。
屋敷の主人の泰村はこの事を聞いて、あまりにも驚いて内々にお詫びを云いに行かせましたとさ。

寳治元年(1247)五月小廿八日庚辰。此程世上不靜。是偏三浦之輩依有逆心之間。人性皆挿怖畏之故也。件氏族。云官位云俸祿。於時雖不可成恨。入道大納言家歸洛之事。殆不叶彼雅意等。追日奉戀慕歟。就中。能登前司光村自幼少當初奉昵近。毎夜臥御前。日闌退座右。起居御戯論。觸折御興遊。毎事未禁懷舊之上。密々有承嚴約事云云。凡當于關東鬼門方角。被建立五大明王院。賞翫有驗知法高僧及陰陽道之類。又愛譜代勇士等給云云。衆人之所察。只濫世之基也。果而光村等存案之旨。已可謂發覺。就之。左親衛今夜廻御使於若狹并親類郎從等邊。令窺其形勢給之處。面々整置兵具於家内。剩自安房上総以下領所。以船運取如甲冑。縡更非隱密之企歟之由申之云云。

読下し                      このほどせじょうしず     ず
寳治元年(1247)五月小廿八日庚辰。此程世上靜かなら不。

これひとへ みうらのやから ぎゃくしんあ   よるのあいだ ひと しょうみな ふい  さしはさ のゆえなり
是偏に三浦之輩 逆心有るに依之間、人の性皆怖畏を挿む之故也。

くんん うじぞく  かんい  い   ほうろく  い     とき  をい  うらみ な   べからず いへど   にゅうどうだいなごんけ きらくのこと  ほと    か   がい ら   かなはず
件の氏族、官位と云い俸祿と云い、時に於て恨を成す不可と雖も、入道大納言家歸洛之事、殆んど彼の雅意等に叶不。

 ひ  おい  こいした たてまつ か  なかんづく   のとぜんじみつむらようしょう  とうしょよ   じっこんたてまつ  まいよ ごぜん  ふ     ひ あけ   ざう   の
日を追て戀慕い奉る歟。就中に、能登前司光村幼少の當初自り昵近奉り、毎夜御前に臥し、日闌て座右を退く。

 ききょ  おんざれごと  おり  ふ  ごゆうきょう  ことごと  いま  かいきゅう きん      のうえ  みつみつ げんやく うけたまは ことあ    うんぬん
起居に御戯論。折に觸れ御興遊。事毎に未だ懷舊を禁ぜざる之上、密々に嚴約を承る 事有りと云云。

およ  かんとう  きもん  ほうがくに あた    ごだいみょうおういん こんりゅうされ  うげんちほう  こうそうおよ  おんみょうどうのたぐい  しょうがん
凡そ關東の鬼門の方角于當り、五大明王院を 建立被、 有驗知法の高僧及び陰陽道之類を賞翫し、

また ふだい  ゆうしら   あい  たま    うんぬん
又譜代の勇士等を愛し給ふと云云。

しゅうじんのさっ   ところ  ただ らんせのもと  なり  はたして  みつむららぞんあんのむね すで  はっかく  い   べ
衆人之察する所、只濫世之基い也。果而、光村等存案之旨、已に發覺と謂う可し。

これ  つ     さしんえい こんや  おんしを わかさなら    しんるいろうじゅうら  へん  めぐ      そ  けいせい うかが せし  たま  のところ
之に就き、左親衛今夜、御使於若狹并びに親類郎從等の邊へ廻らし、其の形勢を窺は令め給ふ之處、

めんめんひょうぐを やない  ととの お
面々兵具於家内に整へ置く。

あまつさ あわ かずさ いげ  りょうしょよ     ふね  もっ  かっちゅう ごと    はこ  と     ことさら  おんみつのくはだ   あらざ か のよしこれ  もう    うんぬん
剩へ安房上総以下の領所自り、船を以て甲冑の如きを運び取る。縡更に隱密之企てに非る歟之由之を申すと云云。

現代語宝治元年(1247)五月小二十八日庚辰。この頃世間が静まりません。これは、三浦の連中が反逆の意思があるのだと、人々が皆恐れているからです。その一族は、官職や位も領地もたっぷりあり、現在では恨みに思う事はありませんが、入道大納言家頼経様の京都行については、どうにも意のままになりませんでした。離れてみて日が立つにつれて余計恋しくなるものなのでしょうか。特に能登前司三浦光村は、仕えはじめた頃から、御側近くに勤め、毎晩そばに寝て、日が明けて帰っていました。目が覚めりゃたわむれあい、何かにつけて一緒に遊んだので、何事につけても思い出をとめられませんし、その上内緒で堅い約束をしたことがあるそうなのです。だいたい幕府の鬼門の方角に当たるからと、五大堂明王院を建立され、効験あらたかな知識も呪法もある身分の高い坊さんや、陰陽道の連中を大事にして、又、御側に長く仕える武士達を可愛がっていました。
世間の人が推測するのは、そういう行動は乱れた世を招く原因になるだろうと。案の定、光村の考えていることがすでに発覚してしまったと云う事でしょう。そういう状況を確かめるため、今夜時頼さんは使いを三浦泰村とその親類たちの居るあたりへ行かせ、その様子を探らせましたところ、皆武器類を家の中に用意しているのです。
そればかりか、安房・上総を始めとする領地から、船を使って鎧兜などを運び込んでいるのは、なおさら内緒の計画があるのではないかと、報告しましたとさ。

寳治元年(1247)五月小廿九日辛巳。三浦五郎左衛門尉參左親衛御方。申云。去十一日。陸奥國津輕海邊。大魚流寄。其形偏如死人。先日由比海水赤色事。若此魚死故歟。随而同比。奥州海浦波涛。赤而如紅云云。此事則被尋古老之處。先規不快之由申之。所謂文治五年夏有此魚。同秋泰衡誅戮。建仁三年夏又流來。同秋左金吾有御事。建保元年四月出現。同五月義盛大軍。殆爲世御大事云云。

読下し                      みうらのごろうさえもんのじょう   さしんえい  おんかた  まい    もう    い
寳治元年(1247)五月小廿九日辛巳。三浦五郎左衛門尉@、左親衛の御方に參り、申して云はく。

さんぬ じういちにち むつのくにつがる  うみへん    たいぎょなが  よ     そ  かたちひと    しびと  ごと
去る十一日、陸奥國津輕の海邊に、大魚流れ寄る。其の形偏へに死人の如し。

せんじつ ゆい  かいすい  あかいろ  こと  も   こ  さかな  し  ゆえか
先日由比の海水の赤色の事、若し此の魚の死の故歟。

したがいて おな  ころ  おうしゅうかいうら  はとう  あか    て べに  ごと    うんぬん
 随而、同じ比、奥州海浦の波涛、赤くし而紅の如しと云云。

こ  ことすなは ころう  たず  らる  のところ  せんき ふかい のよしこれ  もう
此の事則ち古老に尋ね被る之處、先規不快之由之を申す。

いはゆる ぶんじごねんなつ  こ  さかなあ     おな    あきやすひらちうりく    けんにんさんねん なつまたなが  きた    おな    あき さきんご おんことあ
所謂、文治五年夏に此の魚有り。同じき秋泰衡誅戮す。 建仁三年 夏又流れ來る。同じき秋左金吾御事有り。

けんぽうがんねんしがつ しゅつげん  おな    ごがつよしもり  おおいくさ  ほと    よ   おんだいじ  な     うんぬん
建保元年四月 出現す。同じき五月義盛が大軍。殆んど世の御大事を爲すと云云。

参考@三浦五郎左衛門尉は、盛時。得宗領の代官らしい。盛時は時頼の地頭代の古文書有り。佐原十郎義連─盛連─盛時。

現代語宝治元年(1247)五月小二十九日辛巳。三浦五郎左衛門尉佐原盛時は、時頼さんの所へ来て報告しました。
先日の11日に、陸奥国津軽の海で、大きな魚が浜辺に流れ寄りました。その形がまるで死人のようなのです。先日、由比ガ浜の海水が赤色になった事件は、もしかしてこの魚の死が原因なのでしょうか。従って同じころに、東北の海や浦の波頭が赤くなって、紅のようだったそうです。
この話をすぐに古老に聞いて見た処、先例はよくなかったのだと云いました。
それは、文治5年夏にこの魚事件があり、同じ秋に藤原泰衡は処刑されました。
建仁3年夏また流れて来ました。同じ秋に源頼家さんの事件がありました。
建保4年四月に現れて、同じ5月に和田義盛の大戦でした。全て世の中の大事件が起こりましたとさ。

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