吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)八月大

寳治元年(1247)八月大一日辛巳。恒例贈物事可停止之由。被觸諸人。令進將軍家之條。猶兩御後見之外者。禁制云々。

読下し             こうれい おくりもの  ことちょうじすべ  のよし  しょにん  ふれらる
寳治元年(1247)八月大一日辛巳。恒例の贈物の事停止可き之由、諸人に觸被る。

しょうぐんけ  しんぜし  のじょう  なお りょうごこうけん のほかは   きんぜい   うんぬん
將軍家に進令む之條、猶、兩御後見之外者、禁制すと云々。

現代語宝治元年(1247)八月大一日辛巳。通例化していた贈り物を止めるように、皆に命令を出しました。将軍家頼嗣様への贈り物も、二人の後見者(執権と連署)以外を禁止しました。

寳治元年(1247)八月大五日乙酉。京都大番役事。可抽誠勤之由。有其沙汰云々。

読下し              きょうとおおばんやく こと  せいきん  ぬき    べ    のよし  そ    さた あ     うんぬん
寳治元年(1247)八月大五日乙酉。京都大番役の事、誠勤を抽んず可き之由、其の沙汰有りと云々。

現代語宝治元年(1247)八月大五日乙酉。京都朝廷警備員の駐在について、まじめに勤めるように、お決めになりましたとさ。

解説この日に時頼は道元に会っている。道元は時頼に呼ばれて三日に鎌倉へ来て名越の波多野氏の敷地内に一軒借りて「白衣舎」と名付けた。後に時頼は道元から菩薩戒を受戒する。

寳治元年(1247)八月大八日戊子。今日辰一點。大曽祢左衛門尉長泰爲使節上洛云々。

読下し              きょう たつのいってん  おおそねさえもんのじょうながやす   しせつ  な   じょうらく    うんぬん
寳治元年(1247)八月大八日戊子。今日 辰一點@、大曽祢左衛門尉長泰A、使節と爲し上洛すと云々。

参考@辰一點は、07:00〜07:24。参考A大曾祢左衛門尉長泰は、藤九郎盛長大曽祢時長長泰。

現代語宝治元年(1247)八月大八日戊子。今日、午前7時過ぎに、大曽根左衛門尉長泰が、幕府の使者として京都へ出発しましたとさ。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。なら7時〜7:24を一点、7:24〜7:48を二点、7:48〜8:12を三点、8:12〜8:36を四点、8:36〜9:00を五点。

寳治元年(1247)八月大九日己丑。左親衛令移住于桧皮寢殿給。以本御居所。依可被加修理也。

読下し              さしんえい ひわだ しんでんにいじゅうせし  たま    もと  おんきょしょ  もっ    しゅうり  くは  らる  べ     よっ  なり
寳治元年(1247)八月大九日己丑。左親衛桧皮の寢殿于移住令め給ふ。本の御居所を以て、修理を加へ被る可きに依て也。

現代語宝治元年(1247)八月大九日己丑。左親衛時頼さんは、桧皮葺の寝殿へ引っ越しました。今までの居所を修理するためです。

寳治元年(1247)八月大十三日癸巳。將軍家有御不例事。仍於御所被行泰山府君祭。爲親朝臣奉仕之。左親衛參給云々。

読下し                しょうぐんけ ごふれい  ことあ     よっ  ごしょ   をい  たいさんふくんさい おこなはれ
寳治元年(1247)八月大十三日癸巳。將軍家御不例の事有り。仍て御所に於て泰山府君祭@を行被る。

ためちかあそんこれ  ほうし     さしんえいさん  たま    うんぬん
爲親朝臣之を奉仕す。左親衛參じ給ふと云々。

現代語宝治元年(1247)八月大十三日癸巳。将軍家頼嗣様が具合が悪くなったので、御所で泰山府君祭を行いました。安陪為親さんが勤めました。時頼さんもやってきました。

解説@泰山府君祭は、安倍晴明が創始した祭事で月ごと季節ごとに行う定期のものと、命に関わる出産、病気の安癒を願う臨時のものがあるという。「泰山府君」とは、中国の名山である五岳のひとつ東嶽泰山から名前をとった道教の神である。陰陽道では、冥府の神、人間の生死を司る神として崇拝されていた。延命長寿や消災、死んだ人間を生き帰らすこともできたという。

寳治元年(1247)八月大十四日甲午。被奉神馬御劔等於相摸國一宮。三浦六郎兵衛尉時連爲御使。是依椙恠異事歟。

読下し               しんめ ぎょけんら を さがみのくに いちのみや たてまつ らる   みうらのろくろうひょうえのじょうときつら おんしたり
寳治元年(1247)八月大十四日甲午。神馬御劔等於 相摸國 一宮に 奉つ 被る。 三浦六郎兵衛尉時連 御使爲。

これ  すぎ  かいい  こと  よ   か
是、椙の恠異の事に依る歟。

現代語宝治元年(1247)八月大十四日甲午。馬と刀を相模国一の宮寒川神社に奉納しました。三浦六郎兵衛尉時連が代参です。これは、杉の木が焼けたおかしな出来事の為でしょう。

寳治元年(1247)八月大十五日乙未。放生會延引。去六月合戰觸穢之上。依彼追討餘炎。流鏑馬舎燒失之故也。京都就此事。自去六月九日關東飛脚入洛日。至七月五日觸穢云云。

読下し                ほうじょうええんいん
寳治元年(1247)八月大十五日乙未。放生會延引す。

さんぬ ろくがつかっせん  しょくえのうえ   か   ついとう  よえん  よっ    やぶさめしゃ しょうしつのゆえなり
去る 六月合戰の 觸穢之上、彼の追討の餘炎に依て、流鏑馬舎 燒失之故也。

きょうと こ  こと  つ     さんぬ ろくがつここのか かんとう  ひきゃくじゅらくび      しちがついつか  いた  しょくえ  うんぬん
京都此の事に就き、去る 六月九日 關東の飛脚入洛日から@、七月五日に至り觸穢と云云。

参考@關東の飛脚入洛日からは、飛脚が関東の穢れを持って行った事になる。

現代語宝治元年(1247)八月大十五日乙未。鶴岡八幡宮の放生会を延期しました。去る6月の合戦で大勢の血で穢れたうえ、その戦闘で流鏑馬用の建物が焼けてしまったからです。京都ではこの事によって、去る6月9日の関東の伝令が入京してから、7月5日まどを穢れとしてたそうな。

寳治元年(1247)八月大十八日戊戌。被圖繪千手觀音像。依爲將軍家御不例事也。

読下し               せんじかんのんぞう   ずえ さる    しょうぐんけごふれいたること  よっ  なり
寳治元年(1247)八月大十八日戊戌。千手觀音像を圖繪被る。將軍家御不例爲事に依て也。

現代語宝治元年(1247)八月大十八日戊戌。千手観音像を書かせました。将軍家頼嗣様が病気だからです。(観音の力で治るように)

寳治元年(1247)八月大廿日庚子。仰鎌倉中保々。註浪人。可追放之由。有其沙汰云々。

読下し              かまくらちう  ほうほう  おお      ろうにん  ちう    ついほうすべ  のよし  そ   さた あ    うんぬん
寳治元年(1247)八月大廿日庚子。鎌倉中の保々@に仰せて、浪人Aを註し、追放可き之由、其の沙汰有りと云々。

参考@は、街中に家の集合体としての単位で、保ごとに奉行人を置き、その支配として地奉行人(御家人)を任命した。
参考A
浪人は、江戸時代と違い武士以外も含め僧侶以外の無職者とか無所属者とか身元引受人の居ない者だと思われる。

現代語宝治元年(1247)八月大二十日庚子。鎌倉中の町内単位の保の奉行人に命令して、無職者を書き出して追い出すようにと、お決めになりましたとさ。

寳治元年(1247)八月大廿二壬寅。將軍家御不例事及御平愈云々。

読下し              しょうぐんけ ごふえい  こと   ごへいゆ   およ    うんぬん
寳治元年(1247)八月大廿二壬寅。將軍家御不例の事、御平愈に及ぶと云々。

現代語宝治元年(1247)八月大二十二日壬寅。将軍家頼嗣様の病気については、治りましたとさ。

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