吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)九月小

寳治元年(1247)九月小一日辛亥。自亥一刻至寅四點大風。佛閣人家多以顛倒破損云々。

読下し                   いのいっこく よ  とらのよんてん いた おおかぜ ぶっかく じんかおお  もっ  てんとう はそん    うんぬん
寳治元年(1247)九月小一日辛亥。亥一刻@自り寅四點Aに至り大風。佛閣 人家多く以て顛倒 破損すと云々。

参考@亥一刻は、21:00〜21:24。
参考A
寅四點は、04:12
〜04:36。

現代語宝治元年(1247)九月小一日辛亥。夜の9時頃から明け方の4時半まで大風が吹いて、仏閣や人家の多くが倒され破壊されましたとさ。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。なら3時〜3:24を一点、3:24〜3:48を二点、3:48〜4:12を三点、4:12〜4:36を四点、4:36〜5:00を五点。

寳治元年(1247)九月小二日壬子。子尅大風猶不休。樹木皆吹抜云々。

読下し                   ねのこく おおかぜ なおやまず じゅもくみな ふ  ぬ     うんぬん
寳治元年(1247)九月小二日壬子。子尅 大風 猶不休。樹木皆吹き抜くと云々。

現代語宝治元年(1247)九月小二日壬子。夜中の12時頃、大風は少しも止まず、樹木をなぎ倒しましたとさ。

寳治元年(1247)九月小九日己未。依仰諸人献菊。各所副一首和歌也。悉被植幕府北面小庭云々。

読下し                   おお    よっ  しょにん きく  けん   おのおの いっしゅ   わか   そ    ところなり
寳治元年(1247)九月小九日己未。仰せに依て諸人 菊を献ず。 各 一首の和歌を副える所也。

ことごと ばくふほくめん  こにわ  うえらる     うんぬん
悉く幕府北面の小庭に植被ると云々。

参考@菊を献ずは、重陽の節句。菊の節句とも云う。

現代語宝治元年(1247)九月小九日己未。将軍の命令に従って菊の花を献上しました。それぞれ、一首の和歌を書き添えていました。全て幕府の北側の小庭に植えさせたそうな。

寳治元年(1247)九月小十一日辛酉。筑後左衛門次郎知定捧和字款状。是愁漏合戰賞之事也。先載累家勳功之上。勘例云。朱雀院御宇承平二年己亥。平將門於東國反逆之間。同三年正月十八日。參議右衛門督藤原忠文蒙征夷大将軍 宣旨。賜節刀下向關東。而未到以前。同二月廿四日。爲藤原秀郷。將門被誅之間。忠文自途中歸洛。三月九日。秀郷。貞盛等被行賞之處。忠文同可蒙其賞之由就申之。有陣定。一座小野宮殿被申云。賞疑不行云々。次九條殿被申云。下着以前逆徒雖令滅亡。随勅定之功。何被弃捐乎。刑疑不行。賞疑聽云々。然而就先意見。無其沙汰。忠文喜恩言。進置家領券契状於九條殿訖。至卒逝之期。奉怨小野宮殿云々者。左親衛數返披覽之。知定已述獲麟一句。何無其沙汰哉。仰勳功奉行人等。究淵源之後。可披露評定次之由。直令示付諏方兵衛入道給云々。

読下し                      ちくごのさえもんじろうともさだ    わじ   かんじょう ささ    これ  かっせん しょう  も     のこと  うれ  なり

寳治元年(1247)九月小十一日辛酉。筑後左衛門次郎知定、和字@の款状Aを捧ぐ。是、合戰の賞に漏れる之事を愁う也。

 ま  るいけ   くんこう   の      のうえ  かんれい  い       すざくいん  おんう しょうへいにねん つちのとい  たいらのまさかど とうごく  をい  ほんぎゃくのあいだ
先づ累家の勳功を載せる之上、勘例に云はく。朱雀院の御宇 承平二年B己亥、 平將門、 東國に於て反逆之間C

おな   さんねんしょうがつじうはちにち さんぎうえもんのかみふじわらただふみ  せいいたいしょうぐん せんじ  こうむ   せっとう  たま      かんとう  げこう
同じき三年D正月十八日、 參議右衛門督藤原忠文、 征夷大将軍の宣旨を蒙り、節刀を賜はりて關東へ下向す。

しか    いま  いた      いぜん  おな   にがつにじゅよっか ふじわらのひでさと ため   まさかどちうさる  のあいだ  ただふみ とちゅうよ   きらく
而るに未だ到らざる以前、同じき二月廿四日、藤原秀郷の爲に、將門誅被る之間、 忠文 途中自り歸洛す。

さんがつここのか ひでさと  さだもりらしょう  おこなはれ のところ  ただふみ おな    そ   しょう こうむ べ   のよしこれ  もう     つ     じん  さだ  あ
 三月九日、秀郷、貞盛等賞を行被る 之處、 忠文 同じく其の賞を蒙る可き之由之を申すに就き、陣の定め有りE

いちざ  おののみやどのもうされ  い     しょう うたが       おこなはず うんぬん  つい  くじょうどの もうされ  い
一座の小野宮殿申被て云はく。賞の疑はしきは行不と云々。次で九條殿 申被て云はく。

げちゃくいぜん  ぎゃくとめつぼうせし  いへど   ちょくじょうのこう  したが     なん  きえん  ざら  や
下着以前に逆徒滅亡令むと雖も、勅定 之功に随いて、何ぞ弃捐せ被ん乎。

けい うたがは    おこなはず しょう うたがは    ゆる    うんぬん
刑の疑しきは行不。 賞は疑しきを聽せと云々。

しかれども さき  いけん  つ       そ   さた な     ただふみ おんごん  よろこ   けりょう  けんけいじょうを くじょうどの  しん  お をはんぬ
然而、先の意見に就きて、其の沙汰無し。 忠文 恩言を喜び、家領の券契状於 九條殿に進じ置きF訖。

そっきょ の ご  いた       おののみやどの  うら たてまつ  うんぬんてへ      さしんえいすうへんこれ  ひらん   ともさだすで  かくりん  いっく  の
卒逝之期に至るまで、小野宮殿を怨み奉ると云々者れば、左親衛數返之を披覽し、知定已に獲麟の一句を述ぶ。

なん  そ   さた な      や
何ぞ其の沙汰無からん哉。

くんこうぶぎょうにんら   おお     えんげん  きは    ののち ひょうじょう ついで ひろうすべ  のよし  じき  すわひょうえにゅうどう  しめ   つ   せし  たま    うんぬん
勳功奉行人等に仰せて、淵源を究むるG之後、評定の次に披露可き之由、直に諏方兵衛入道に示し付け令め給ふと云々。

参考@和字は、ひらがな。漢文は書けないようである。
参考A
款状は、手柄を書いて褒美を要求する。
参考B承平二年は、932年で藤原純友の乱。
参考C平將門の乱は、天慶二年939年。
参考D
同じき三年は、天慶三年940年。
参考E陣の定め有りは、上座の陣で会議をした。
参考F
九條殿に進じ置きは、九条師輔に荘園として寄進した。
参考G
獲麟の一句は、孔子が「春秋」の「西に狩して麟を獲たり」の句で絶筆したところから「絶筆」「物事の終り」「臨終」。
参考G
淵源を究むるは、調査をする。

現代語宝治元年(1247)九月小十一日辛酉。筑後左衛門次郎八田知定が、ひらがな書きの恩賞を望む上申書を提出しました。これは、三浦合戦での恩賞を抜かされた事を嘆いているからです。
まず、先祖代々の幕府に尽くした功績を書きあげたうえで、慣例を書き出しています。
朱雀院の時世、承平二年(932)己亥、平将門が、東国で反乱した(天慶二年の間違い)とき、同じ天慶3年1月18日参議右衛門督藤原忠文は、征夷大将軍の天皇の宣言を受け、征伐用の刀を与えられて関東へ出発しました。しかし、未だ関東へ到着する前に、同年2月24日に藤原秀郷に将門は攻め殺されましたので、忠文は途中から京都へ引き返しました。3月9日将門を退治した秀郷と平貞盛は表彰されましたので、忠文は征伐指名者なので同様に賞を貰いたいと上申したので、上座の陣で会議をしました。会議の席上で小野宮殿がおっしゃられたのは「賞を与える事が疑問の時は行うべきではない。」だとさ。ついで九条殿が云うには「現地へ到着する前に、反逆者が滅んだとしても、天皇の命令に従った功績を破棄することが出来ましょうか。罪の疑わしいのは罰せず。賞の疑わしいのは許すべきだ。」だとさ。しかし、先に出た意見は取り上げられませんでした。忠文は恩に着る言葉を喜んで、自分の領地を荘園として九条殿に寄進しました。死ぬ時まで、小野宮殿と怨んでいたんだそうな。」と書いたならば、時頼さまは何度かこれを開いて見て、「知定は、獲麒の一句「絶筆」を書いているのに、どうして恩賞をあげないのだろう。褒賞担当に云いつけて良く調査をさせて、政務会議のついでに計ろう。」と、直接諏訪兵衛
入道蓮仏盛重に指示しましたとさ。

寳治元年(1247)九月小十三日癸亥。左親衛令詣右大將家法花堂給。恒例御佛事。頗及結搆云云。

読下し                      さしんえい  うだいしょうけ ほけどう   もう  せし  たま    こうれい  おんぶつじ  すこぶ けっこう  およ    うんぬん
寳治元年(1247)九月小十三日癸亥。左親衛、右大將家法花堂に詣で令め給ふ。恒例の御佛事、頗る結搆に及ぶと云云。

現代語宝治元年(1247)九月小十三日癸亥。時頼さんは、頼朝様の法華堂にお詣りです。毎月恒例の仏事は、とても大事にしましたとさ。

解説十三日は、頼朝の月命日。

寳治元年(1247)九月小十六日丙寅。相摸國毛利庄山中有怪異等。毎夜成田樂粧之由。土民等言上云々。

読下し                     さがみのくに もうりのしょう さんちゅう  かいいら あ     まいよ でんがく よそお   な    のよし   どみんらごんじょう   うんぬん
寳治元年(1247)九月小十六日丙寅。相摸國毛利庄@の山中に怪異等有り。毎夜田樂の粧いを成す之由、土民等言上すと云々。

参考@毛利庄は、神奈川県厚木市から愛甲郡愛川町・相模原市緑区城山あたりまで含む荘園だったらしい。現在は厚木市毛利台に地名が残る。

現代語宝治元年(1247)九月小十六日丙寅。相模国毛利庄の山中に不可思議な出来事が起こってます。毎晩田楽舞の衣装をしていると、農民が云って来ましたとさ。

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