吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)十月大

寳治元年(1247)十月大八日丁亥。夘四點大地震云々。

読下し                    うのよんてん  おおじしん うんぬん
寳治元年(1247)十月大八日丁亥。夘四點、大地震と云々。

現代語宝治元年(1247)十月大八日丁亥。朝の6:30頃に大地震だとさ

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。卯なら5時〜5:24を一点、5:24〜5:48を二点、5:48〜6:12を三点、6:12〜6:36を四点、6:36〜7:00を五点。

寳治元年(1247)十月大十四日癸巳。可被移御所於他方否事。日來有其沙汰。遂不可改之由治定。即今日被仰出其趣。是嘉禎二年。武州前吏禪室殊撰其地。被新造當幕府之後移數年凉燠訖。今更可被用何勝地哉之由。有識之人傾申之故也云々。

読下し                      ごしょ を たほう   うつさる  べ     いな    こと   ひごろ そ   さた あ
寳治元年(1247)十月大十四日癸巳。御所於他方に移被る可きや否やの事、日來其の沙汰有り。

つい  あらた べからずのよしちじょう    すなは きょう そ おもむき おお いださる
遂に改む不可之由治定す。即ち今日其の趣を仰せ出被る。

これ  かていにねん  ぶしゅうぜんりぜんしつ こと  そ   ち   えら    とうばくふ   しんぞうさる  ののちすうねん りょういく  うつ をはんぬ
是、嘉禎二年、武州前吏禪室 殊に其の地を撰び、當幕府を新造被る之後數年、凉燠を移し訖。

いまさらなん  しょうち  もい  らる  べ   や のよし  ゆうしきのひと かたぶ もう   のゆえなり  うんぬん
今更何の勝地を用い被る可き哉之由、有識之人 傾け申す之故也と云々。

現代語宝治元年(1247)十月大十四日癸巳。御所を他の土地に移すかどうかについて、普段検討しております。ついに変えない事に決まりました。すぐに今日その趣旨を仰せになりました。これは、嘉禎二年(1236)武州前吏禅室泰時さんが、特にその土地を選んで、現幕府を新築してから数年して、歳月が移って来ました。今さら、どんな良い土地を使うことが出来ようか、有識者たちは反対意見を云っているからだそうな。

寳治元年(1247)十月大十八日丁酉。今日。左親衛寢殿被曳移傍地。大略如新造云々。

読下し                     きょう   さしんえい  しんでん かたわら ち  ひきうつさる    たいりゃく しんぞう  ごと   うんぬん
寳治元年(1247)十月大十八日丁酉。今日、左親衛の寢殿を傍の地に曳移被る。大略 新造の如しと云々。

現代語宝治元年(1247)十月大十八日丁酉。今日、時頼さんの寝殿を脇の土地へ引き移しました。おおむね新築と変わりありませんだとさ。

寳治元年(1247)十月大廿日己亥。來月放生會。依可有御參宮。供奉人以下事。今日有其沙汰。陸奥掃部助奉行之。

読下し                   らいげつ  ほうじょうえ    ごさんぐう あ  べ      よっ     ぐぶにん  いげ   こと   きょう そ    さた あ
寳治元年(1247)十月大廿日己亥。來月の放生會に、御參宮有る可きに依て、供奉人以下の事、今日其の沙汰有り。

むつかもんのすけこれ  ぶぎょう
陸奥掃部助之を奉行す。

現代語宝治元年(1247)十月大二十日己亥。来月の鶴岡八幡宮での贖罪の放生会にお詣りをするので、お供の人を始めとする雑事について、今日その命がありました。陸奥掃部助実時が担当です。

参考陸奥掃部助は、金沢流北条実時で、小侍所別当。

寳治元年(1247)十月大廿一日庚子。左親衛御第上棟。

読下し                     さしんえい  おんだいじょうとう
寳治元年(1247)十月大廿一日庚子。左親衛の御第上棟す。

現代語宝治元年(1247)十月大二十一日庚子。時頼さまの屋敷が上棟式です。

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