吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)十一月大

寳治元年(1247)十一月大一日庚戌。午剋。鶴岡馬塲流鏑馬舎被建之。去六月合戰之日依燒亡也。」又今日評定。被仰出云。雖爲地頭一圓之地。名主申子細者。依事之躰可有其沙汰云々。

読下し                     うまのこく つるがおかばば  やぶさめしゃ これ たてらる   さんぬ ろくがつかっせんのひ  しょうぼう  よっ  なり
寳治元年(1247)十一月大一日庚戌。午剋、鶴岡馬塲の流鏑馬舎之を建被る。去る六月合戰之日の燒亡に依て也。」

またきょうひょうじょう   おお  いだされ  い
又今日評定す。仰せ出被て云はく。

ぢとういちえん のちたり いへど   みょうしゅ しさい  もう   ば   ことのてい  よっ  そ   さた あ   べ     うんぬん
地頭一圓之地爲と雖も、名主子細を申さ者、事之躰に依て其の沙汰有る可しと云々。

現代語宝治元年(1247)十一月大一日庚戌。昼の12時頃、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の休憩所を建てられる。先達ての6月の合戦の日に焼けてしまったからです。」
又、今日政務会議をしました。将軍がおっしゃりだしたのは、地頭が一手に管理している土地であっても、地の名の付いた本来の開発者の名主が注文を付けたならば、その内容によって検討をするようにとの事だとさ。

寳治元年(1247)十一月大七日丙辰。丑刻。依失火。金剛壽福寺佛殿以下至総門悉以災。

読下し                     うしのこく  しっか   よっ    こんごうじゅふくじぶつでん いげ そうもん  いた ことごと もっ わざわい
寳治元年(1247)十一月大七日丙辰。丑刻、失火に依て、金剛壽福寺佛殿以下総門に至り悉く以て災す。

現代語宝治元年(1247)十一月大七日丙辰。夜中の2時頃に、失火によって、金剛寿福寺では、仏殿を始めとしてすべて焼けてしまいました。

寳治元年(1247)十一月大十一日庚申。筑後左衛門次郎知定浴恩澤。去六月五日勳功賞也。是依有疑貽。暫被閣之處。頻愁申之間。被究其沙汰。而武藤左衛門尉景頼爲證人進起請文稱。知定於須知替橋致合戰。討補岩崎兵衛尉事無異儀者。就之及此儀云々。今度勳功間珎事是也。有都鄙口遊云々。今日。地頭一圓之地名主百姓訴訟事。被定法云。開發領無過失者。任道理可有御成敗云々。

読下し                        ちくごさえもんじろうともさだ     おんたく  よく    さんぬ ろくがついつか くんこうしょうなり
寳治元年(1247)十一月大十一日庚申。筑後左衛門次郎知定、恩澤に浴す。去る六月五日の勳功賞也。

これ  ぎたい あ    よっ    しばら さしおかれ のところ  しきり うれ  もう  のあいだ  そ    さた   きは  らる
是、疑貽有るに依て、暫く 閣被る之處、 頻に愁い申す之間、其の沙汰を究め被る。

しか    むとうさえもんのじょうかげより しょうにん  な   きしょうもん  しん    いは    ともさだ すじかえばし  をい  かっせん いた
而るに武藤左衛門尉景頼、證人と爲し起請文を進じて稱く、知定須知替橋@に於て合戰を致し、

いわさきひょうえのじょう うちと  こと いぎ な   てへ      これ  つ   かく  ぎ   およ    うんぬん
岩崎兵衛尉を 討補る事異儀無し者れば、之に就き此の儀に及ぶと云々。

このたび くんこう あいだちんじこれなり   とひ   こうゆうあ     うんぬん
今度の勳功の間珎事是也。都鄙の口遊有りと云々。」

きょう    ぢとういちえん のち みょうしゅ ひゃくしょう そしょう  こと  ほう  さだ  られ  い
今日、地頭一圓之地の名主 百姓の訴訟の事、法を定め被て云はく。

かいはつりょう  かしつな     ば   どうり   まか  ごせいばい あ  べ     うんぬん
開發領は過失無くん者、道理に任せ御成敗有る可しと云々。

参考@須知替橋は、鎌倉市雪ノ下3丁目3−20地先に石碑あり。昔は西御門川に架かる橋であったが、現在は暗渠のためわかりにくい。

現代語宝治元年(1247)十一月大十一日庚申。筑後左衛門次郎八田知定は、恩賞を貰いました。先達ての6月5日の褒美です。この賞は疑問があったので、しばらく猶予されていましたが、盛んに嘆き訴えるので、その検討を追加調査しました。そしたらば、武藤左衛門尉景頼が、証人として誓約書を提出して、「知定は筋替橋で合戦し、岩崎兵衛尉を討ち取った事は間違いありません。」と云いましたので、これを根拠にこの賞としたのだそうな。今回の表彰における珍しい事はこの事だ。と世間の評判になりましたとさ。」
今日、地頭が一手に管理している土地
の、本来の開発者の名主百姓からの訴訟について、規則を定められた内容は「開発領主は、過失が無ければ、正論に合わせて是非を問うように。」とこの事です。

寳治元年(1247)十一月大十四日癸亥。相州新造花亭有移徙之儀。評定所并訴訟人等着座屋。東小侍等。今度始所造加也。

読下し                      そうしゅうしんぞう  かてい   いし のぎ あ
寳治元年(1247)十一月大十四日癸亥。相州新造の花亭に移徙之儀有り。

ひょうじょうしょなら    そしょうにんら  ちゃくざおく ひがし こさむらいら このたびはじ    つく  くは   ところなり
評定所并びに訴訟人等の着座屋、東の小侍等、今度始めて造り加へる所也。

現代語宝治元年(1247)十一月大十四日癸亥。相州重時は、新築の綺麗な屋敷に引っ越し式がありました。裁判裁決所それに訴訟人の座る建物、東の侍だまりなどを、今度初めて作り足しました。

寳治元年(1247)十一月大十五日甲子。天リ。鶴岡八幡宮放生會也。依去六月五日泰村追討觸穢。并流鏑馬舎炎上等事。式月延而及今日云々。將軍家有御出〔御束帶。御車〕之儀。卿相雲客參會。五品以下扈從如例。
先陣随兵
 波多野出雲前司  三浦五郎左衛門尉
 壹岐次郎左衛門尉 宇佐美藤内左衛門尉
 信濃四郎左衛門尉 和泉次郎左衛門尉
 武藤四郎     下野七郎
 北條六郎     越後五郎
後陣随兵
 前大藏權少輔   城九郎
 長井太郎     上野三郎
 佐渡五郎左衛門尉 攝津左衛門尉
 伊豆太郎左衛門尉 伊賀加藤左衛門尉
 伊賀次郎左衛門尉 江戸七郎太郎
 大須賀左衛門尉  梶原右衛門尉

読下し                       そらはれ つるがおかはちまんぐう ほうじょうえなり
寳治元年(1247)十一月大十五日甲子。天リ。 鶴岡八幡宮 放生會也。

さんぬ ろくがついつか  やすむらついとう  しょくえなら    やぶさめしゃえんじょうら   こと  よっ    しきげつ  のばしてきょう  およ    うんぬん
去る 六月五日の泰村追討の觸穢并びに流鏑馬舎炎上等の事に依て、式月を延而今日に及ぶと云々。

しょうぐんけおにで 〔おんそくたい おくるま〕   のぎ あ    けいしょううんきゃくさんかい   ごほん いげ   こしょうれい  ごと
將軍家御出〔御束帶。御車〕之儀有り。卿相雲客參會す。五品以下の扈從例の如し。

せんじん ずいへい
先陣の随兵

  はたのいずものぜんじ      みうらのごろうさえもんのじょう
 波多野出雲前司  三浦五郎左衛門尉

  いきのじろうさえもんのじょう   うさみのとうないさえもんのじょう
 壹岐次郎左衛門尉 宇佐美藤内左衛門尉

  しなののしろうさえもんのじょう  いずみのじろうさえもんのじょう
 信濃四郎左衛門尉 和泉次郎左衛門尉

  むとうのしろう            しもつけのしちろう
 武藤四郎     下野七郎

  ほうじょうろくろう          えちごのごろう
 北條六郎     越後五郎

こうじん ずいへい
後陣の随兵

  さきのおおくらごんのしょうゆう  じょうのくろう
 前大藏權少輔   城九郎

  ながいのたろう           こうづけのさぶろう
 長井太郎     上野三郎

  さどのごろうさえもんのじょう    せっつのさえもんのじょう
 佐渡五郎左衛門尉 攝津左衛門尉

  いずのたどうさえもんのじょう   いがのかとうさえもんのじょう
 伊豆太郎左衛門尉 伊賀加藤左衛門尉

  いがのじろうさえもんのじょう   えどのしちろうたろう
 伊賀次郎左衛門尉 江戸七郎太郎

  おおすがのさえもんのじょう    かじわらうえもんのじょう
 大須賀左衛門尉  梶原右衛門尉

現代語宝治元年(1247)十一月大十五日甲子。空は晴です。鶴岡八幡宮での生き物を放ち謝罪する儀式放生会です。去る6月5日の三浦泰村を滅ぼした際の流れた血の穢れと流鏑馬馬場の休憩所が燃えてしまった事で、式の月を延期して今日になりましたとさ。
将軍家頼嗣様〔束帯で牛車〕のお出ましの儀式がありました。公家と殿上人が集まりました。五位以下のお供は何時もの通りです。
先を行く武装儀仗兵
 波多野出雲前司義重    三浦五郎左衛門尉盛時
 壱岐次郎左衛門尉宗氏   宇佐美藤内左衛門尉祐秀
 信濃四郎左衛門尉行忠   和泉次郎左衛門尉景氏
 武藤四郎頼隆       下野七郎経綱
 北条六郎時定       越後五郎時員
後から育武装儀仗兵
 前大蔵権少輔結城朝広   城九郎安達泰盛
 長井太郎         上野三郎国氏
 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 摂津左衛門尉
 伊豆太郎左衛門尉実保   伊賀加藤左衛門尉
 伊賀次郎左衛門尉光房   江戸七郎太郎重光
 大須賀左衛門尉胤氏    梶原右衛門尉景俊

寳治元年(1247)十一月大十六日乙丑。天リ。申刻以後南風烈。今日。三浦五郎左衛門尉盛時捧状有訴申事。其旨趣雖多之。詮句如昨日随兵風記者。以盛時被書載于出雲前司義重之下訖。當家代々未含超越遺恨之處。匪啻被書番于一眼之仁。剩又被註其名下。旁失面目之間。可止供奉儀之由云々。出雲前司義重聞此事。殊憤申云。於累家規摸者。誰比肩哉。至一眼事者。承久兵乱之時。抽抜群軍忠被疵。施名譽於都鄙之上。還面目之疵也。今更因覃盛時横難云々。爲陸奥掃部助奉行。相州并左親衛等凝評定。被宥兩方。但爲五位之間。猶以義重所被注上也。午刻。將軍家御出。及馬塲之儀等如例。

読下し                      そらはれ さるのこくいごなんぷうはげ    きょう   みうらのごろうさえもんのじょうもりとき  じょう  ささ  うった  もう  ことあ
寳治元年(1247)十一月大十六日乙丑。天リ。申刻以後南風烈し。今日、三浦五郎左衛門尉盛時、状を捧げ訴へ申す事有り。

 そ  ししゅこれおお   いへど   せん    く   さくじつ  ずいへい  ほのき   ごと  は   もりとき  もっ  いずものぜんじよししげのしたに か   の  られをはんぬ
其の旨趣之多しと雖も、詮ずる@句は昨日の随兵の風記Aの如き者、盛時を以て出雲前司義重之下于書き載せ被訖。

とうけだいだいいま しょうえつ  いこん  ふく      のところ  ただ  いちがんのじんに か   つが  らる    あらず
當家代々未だ超越の遺恨を含まざる之處、啻に一眼之仁于書き番へ被るに匪。

あまつさ また そ  な   した  ちうされ かたがためんもく  うしな のあいだ   ぐぶ   ぎ   や     べ   のよし  うんぬん
 剩へ 又其の名の下に註被、 旁 面目を失う之間、供奉の儀を止める可き之由と云々。

いずものぜんじよししげ   こ  こと  き     こと  いか  もう    い       るいけ   きぼ   をい  は   だれ  ひかく    や
出雲前司義重、此の事を聞き、殊に憤り申して云はく。累家の規摸に於て者、誰が比肩せん哉。

いちがん こと  いた    は  じょうきゅうへいらんのとき  ばつぐん ぐんちゅう ぬき   きずされ  めいよを  とひ のうえ  ほどこ
一眼の事に至りて者、 承久兵乱之時、抜群の軍忠を抽んじ疵被、名譽於都鄙之上に施す。

かへっ めんもくのきずなり  いまさらもりとき  おうなん  およ  がた    うんぬん
還て面目之疵也。 今更盛時が横難に覃び因しと云々。

むつかもんのすけぶぎょう  な     そうしゅうなら    さしんえいらひょうじょう こ     りょうほう  なだ  らる
陸奥掃部助奉行と爲し、相州并びに左親衛等評定を凝らす。兩方を宥め被る。

ただ   ごいたるのあいだ  なおよししげ  もっ  かみ  ちうさる ところなり  うまのこく しょうぐんけおんいで  ばば のぎら    およ  れい  ごと
但し五位爲之間、猶義重を以て上に注被る所也。午刻、將軍家御出。馬塲之儀等に及び例の如し。

参考@詮ずるは、筋道を辿って深く考える。
参考A風記は、儀式その他の諸事を行うに先立って期日を占って上申する文書。

現代語宝治元年(1247)十一月大十六日乙丑。空は晴です。午後4時頃以後南風が烈しい。
今日、三浦五郎左衛門尉佐原盛時が、文書を差し出して云いたいことが有ります。その内容は沢山ありますが、筋道を辿って深く考えた文章は、「昨日のお供の儀仗兵を先だって書かれたのに、盛時をして出雲前司波多野義重の下に書き載せられました。当家は代々未だに他を越えた恨みもないはずなのに、なぜか片目の人と組んで書かれる覚えはない。そればかりかその人の下に書かれています。まるで面目がつぶれてしまううので、お供の役は止めたいのだ。」との事です。
波多野義重は、この事を聞いて、特に怒って言いました。「先祖代々の家格の大きさは同等なので、誰が比較するでしょうか。片目になった事は、承久の乱の時、抜き出た手柄を立てた際の傷
なので、その名誉を世間に知らせています。帰って名誉の負傷です。いまどき、盛時の横車に押されるものではありません。」だとさ。
陸奥掃部助北条実時が担当して、相州重時それに時頼などで検討をし、双方をなだめました。但し、五位を持っているので、なお義重を上に書いているのです。
昼の12時頃、将軍家頼嗣様のお出ましです。馬場での奉納は何時もの通りです

寳治元年(1247)十一月大十七日丙寅。出雲前司義重猶有申旨。是昨日者。爲不成御出障碍。強不竭所存。盛時申状太以傍若無人。爲後日尤欲被糺明云々。殊宥御沙汰畢。重不可有欝憤之旨。被仰出云々。

読下し                       いずものぜんじよししげ なおもう  むねあ
寳治元年(1247)十一月大十七日丙寅。出雲前司義重、猶申す旨有り。

これさくじつは  おんいで しょうがい なさざら ため  あなが  しょぞん  つくさず
是昨日者、御出の障碍を成不ん爲、強ちに所存を竭不。

もりとき  もうしじょう はなは もっ  ぼうじゃくぶじん  ごじつ  ためもっと きゅうめいされ   ほっ    うんぬん
盛時が 申状 太だ以て傍若無人。後日の爲尤も糺明被んと欲すと云々。

こと  なだ    おんさたをは      かさ    うっぷんあ   べからずのむね  おお  いだされ   うんぬん
殊に宥めの御沙汰畢りて、重ねて欝憤有る不可之旨、仰せ出被ると云々。

現代語宝治元年(1247)十一月大十七日丙寅。出雲前司波多野義重は、未だ云いたいことがあります。これは、昨日は将軍のお出ましを邪魔しないため、必ずしも云いたいことを云いませんでした。盛時の言い分はとっても傍若無人です。後日のためにちゃんと調べて欲しいとの事です。特に将軍から宥めのお言葉があり、これ以上怒らないようにと、仰せになられましたとさ。

寳治元年(1247)十一月大廿日己巳。鶴岡臨時祭也。九月九日分祭礼延引之間。被遂行之云々。

読下し                    つるがおか りんじさいなり  くがつここのかぶん  さいれいえんいん   のあいだ  これ  すいこうさる   うんぬん
寳治元年(1247)十一月大廿日己巳。鶴岡の臨時祭也。九月九日分の祭礼延引する之間、之を遂行被ると云々。

現代語宝治元年(1247)十一月大二十日己巳。鶴岡八幡宮の臨時の祭りです。9月9日の重陽の節句を延期したので、それを行いましたとさ。

寳治元年(1247)十一月大廿三日壬申。從五位上行伊豆守藤原朝臣尚景死〔年廿五〕。大夫尉景廉男也。

読下し                       じゅごいのじょうぎょう いずのかみ ふじわらのあそん なおかげ し  〔としにじうご〕   たいふのじょうかげかど だんなり
寳治元年(1247)十一月大廿三日壬申。 從五位上行@伊豆守 藤原朝臣 尚景死す〔年廿五〕。大夫尉景廉Aが男也。

参考@は、上位下官。下位上官は、守。
参考A景廉は、加藤次景廉で飛騨国遠山庄を貰い、子孫は「遠山」と名乗り遠山金四郎景元がいる。

現代語宝治元年(1247)十一月大二十三日壬申。従五位上行伊豆守藤原さんの加藤尚景が死にました〔歳は25〕。大夫尉加藤次景廉の息子です。

寳治元年(1247)十一月大廿六日乙亥。陰。丑一點大地震云々。

読下し                       くもり うしのいってんおおぢしん うんぬん
寳治元年(1247)十一月大廿六日乙亥。陰。丑一點大地震と云々。

現代語宝治元年(1247)十一月大二十六日乙亥。曇りです。午前1時過ぎに大地震だそうな。

解説時刻の點は、2時間を5等分したのが点。丑なら1時〜1:24を一点、1:24〜1:48を二点、1:48〜2:12を三点、2:12〜2:36を四点、2:36〜3:00を五点。

寳治元年(1247)十一月大廿七日丙子。畿内諸國守護地頭等所務事。有散亂子細之由。依令風聞。今日有其沙汰。所被仰遣六波羅也。其詞云。
 諸國守護地頭等。遂内檢。責取過分所當之間。難令安堵土民百姓事。就國司領家目録。可致沙汰之由。可相觸守護地頭之状。依仰執達如件。
   寳治元年十一月廿七日                   左近將監
                                相

   相摸左近大夫將監殿
又主從敵對事。不論理非。自今以後。不可及沙汰之由。被定云々。

読下し                       きないしょこく   しゅご ぢとう ら   しょむ   こと  さんらん  しさい あ   のよし  ふうぶんせし    よっ
寳治元年(1247)十一月大廿七日丙子。畿内諸國の守護地頭等が所務@の事、散亂の子細有る之由、風聞令むに依て、

きょう  そ   さた あ        ろくはら   おお  つか  さる ところなり
今日其の沙汰有りて、六波羅に仰せ遣は被る所也。

 そ ことば  い
其の詞に云はく。

  しょこく しゅご ぢとうら   ないけん  と     かぶん  しょとう  せ   と   のあいだ  どみんひゃくしょう あんどせし  がた  こと
 諸國守護地頭等、内檢を遂げ、過分の所當を責め取る之間、土民 百姓を安堵令め難き事、

  くし   りょうけ  もくろく  つ        さた いた  べ   のよし
 國司・領家の目録に就きて、沙汰致す可き之由、

  しゅごぢとう   あいふる  べ  のじょう  おお    よっ  しったつくだん ごと
 守護地頭に相觸る可き之状、仰せに依て執達件の如し。

     ほうじがんねんじういちがつにじうしちにち                                      さこんしょうげん
   寳治元年十一月廿七日                   左近將監

                                                                    さがみのかみ
                                相

      さがみのさこんたいふしょうげんどの
   相摸左近大夫將監殿

また しゅじゅうてきたい  こと   りひ   ろんぜず  いまよ   いご     さた   およ  べからずのよし  さだ  らる    うんぬん
又、主從敵對する事、理非を論不、今自り以後、沙汰に及ぶ不可之由、定め被ると云々。

参考@所務は、領地関係。金銭相続関係が雑務。

現代語宝治元年(1247)十一月大二十七日丙子。関西諸国の守護地頭などの領地関係について、バラバラだとの苦情があったと、噂を聞いたので、今日決裁があって、六波羅探題へ命令を出したところです。その内容は、
 諸国の守護地頭などが、勝手に検地をして、不当に多くの年貢を無理やりとって行くので、市民農民を安心させられない事について、国司や上級荘園管理者の領家の年貢量書き出し文書に従って処理をするように、守護地頭に知らせるべき手紙は、将軍の仰せに従って書き出したのはこのとおりです。
   宝治元年11月27日         左近将監(北条時頼)
                    相模守 (北条重時)
   相模左近大夫将監北条時定殿
又、主従が争う裁判沙汰について、何も問題にせず、手を出す必要は
ないと、決めましたので。

十二月へ

吾妻鏡入門第卅八巻

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