吾妻鏡入門第卅八巻

寳治元年丁未(1247)十二月大

寳治元年(1247)十二月大一日庚辰。相州。左親衛等會合。及萬事遊興云々。

読下し                     そうしゅう さしんえいら かいごう     ばんじ ゆうきょう およ    うんぬん
寳治元年(1247)十二月大一日庚辰。相州@、左親衛A等會合し、萬事遊興Bに及ぶと云々。

参考@相州は、極楽寺流北条重時1198生50才。
参考A
左親衛は、北条時頼1227生21才。
参考B萬事遊興と、断わっているのが怪しい。

現代語宝治元年(1247)十二月大一日庚辰。相州重時さんと時頼さんが会合して、宴会になりましたとさ。

寳治元年(1247)十二月大三日壬午。左親衛被始御祈等云々。

読下し                     さしんえい おいのりら  はじ  らる    うんぬん
寳治元年(1247)十二月大三日壬午。左親衛御祈等を始め被ると云々。

現代語宝治元年(1247)十二月大三日壬午。時頼さんは御祈りを始めましたとさ。

寳治元年(1247)十二月大五日甲申。名越尾張前司邊人家數十宇燒亡云々。

読下し                     なごえおわりのぜんじ へん  じんか すうじゅうう しょうぼう    うんぬん
寳治元年(1247)十二月大五日甲申。名越尾張前司@邊の人家數十宇 燒亡すと云々。

参考@名越尾張前司は、名越流北条時章で屋敷は大蔵薬師堂(覚園寺)手前らしい。

現代語宝治元年(1247)十二月大五日甲申。名越流尾張前司北条時章近所の数十軒が火災に遭いましたとさ。

寳治元年(1247)十二月大八日丁亥。有評定。就諸國守護地頭等與雜掌相論。有被一决之事。所謂有限年貢進濟之外。於庄官百姓等名田畠者。可進止之由。地頭等申之。有限給田加徴地頭雜免等外。於名田畠下地者。自往古。本所進止之由。雜掌申之。任先々度々御下知。可守率法之旨。被仰出云々。

読下し                     ひょうじょうあ   しょこく しゅご ぢとうら   よ  ざっしょうそうろん  つ    いっけつさる  の ことあ
寳治元年(1247)十二月大八日丁亥。評定有り。諸國守護地頭等の與す雜掌相論に就き、一决被る之事有り。

いはゆる かぎ  あ   ねんぐ しんさいのほか  しょうかん ひゃくしょうら みょうでんぱた  をい  は   しんじ すべ  のよし  ぢとうら これ  もう
所謂、限り有る年貢進濟之外、庄官 百姓等の 名田畠に 於て者、進止可き之由、地頭等之を申す。

かぎ  あ  きゅうでん かちょう ぢとうぞうめん ら   ほか みょうでんぱた  したぢ  をい  は   おうこよ     ほんじょしんじ    のよし  ざっしょうこれ  もう
限り有る給田の加徴@地頭雜免A等の外、名田畠Bの下地に於て者、往古自り、本所進止する之由、雜掌之を申す。

さきざき たびたび  おんげち  まか    りっぽう  まも  べ   のむね  おお  いださる    うんぬん
先々 度々の御下知に任せ、率法Cを守る可き之旨、仰せ出被ると云々。

参考@加徴は、課徴米。
参考A
地頭雜免は、地頭給田の雑役免除。
参考B名田畠は、開墾などによって取得者の名のついた田や畠。
参考C
率法は、比率。収穫に対する税率(前例に従うべし)。

現代語宝治元年(1247)十二月大八日丁亥。政務会議がありました。諸国の守護地頭が対決する官人との裁判について、判例を決めた事があります。
ようするにそれは、あらかじめ決められている年貢の納付の他、荘園管理担当百姓の開墾者の名のついた田畑も、納税すべきだと地頭は主張しています。
予め決めらえている課徴米・地頭給田の雑役免除のほか、開墾者の名のついた田畑の年貢については、昔から最上級荘園領主の本所に納付するべきだと、官人は云っております。この先は、今迄に出された命令に従って、比率を守るようにと、仰せになられましたとさ。

寳治元年(1247)十二月大十日己丑。將軍家出御馬塲殿。覽遠笠懸。相州。左親衛令參候給。
射手
 陸奥掃部助    北條六郎
 城九郎      佐渡五郎左衛門尉
 遠江次郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉
 下野七郎     武田五郎三郎
 武藤四郎     小笠原與一

読下し                     しょうぐんけ ばばどの しゅつご  とおがさがけ  み    そうしゅう  さしんえい さんこうせし  たま

寳治元年(1247)十二月大十日己丑。將軍家馬塲殿へ出御。遠笠懸を覽る。相州、左親衛參候令め給ふ。

 いて
射手

  むつかもんのすけ         ほうじょうろくろう
 陸奥掃部助    北條六郎

  じょうのくろう            さどのごろうさえもんのじょう
 城九郎      佐渡五郎左衛門尉

  とおとうみのじろうさえもんのじょう しなののしろうさえもんのじょう
 遠江次郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉

  しもつけのしちろう         たけだのごろさぶろう
 下野七郎     武田五郎三郎

  むとうのしろう            おがさわらのよいち
 武藤四郎     小笠原與一

現代語宝治元年(1247)十二月大十日己丑。将軍家頼嗣様は馬場の建物へお出ましです。遠笠懸をご覧です。時頼さんも来ております。
射手は
 陸奥掃部助実時    北条六郎時定
 城九郎泰盛      佐渡五郎左衛門尉基隆
 遠江次郎左衛門尉光盛 信濃四郎左衛門尉行忠、
 下野七郎経綱     武田五郎三郎政綱
 武藤四郎頼隆     小笠原与一長経

寳治元年(1247)十二月大十二日辛夘。有評定。以其次。就諸國地頭所務。有被定法事。所謂縱押領以後雖過廿箇年。不可依年紀。本地頭者任先例。新地頭者守率法。可致沙汰之由云々。」今日。被定訴論人參候之所。其状云。
一訴訟人座籍事
  侍客人座〔奉行人召外不可參後座〕
  郎等廣庇〔召外不可參南廣庇。但陸奥沙汰之時者。隨召可參。郡郷沙汰人者。依時儀。可參小縁〕
  雜人大庭〔不應召外。相摸武藏雜人等不可參入南坪〕
 右差定奉行人。召問兩方之後。一方致難澁送日數。自對决之日。過廿箇日者。不顧理非。任訴人申状。可有御 成敗者。
    寳治元年十二月十二日

読下し                     ひょうじょうあ     そ  ついで もっ     しょこく  ぢとう しょむ   つ     ほう  さだ  らる  ことあ
寳治元年(1247)十二月大十二日辛夘。評定有り。其の次を以て、諸國の地頭所務@に就き、法を定め被る事有り。

いはゆる たと  おうりょういご にじっかねん  す      いへど    ねんき  よるべからず
所謂、縱い押領以後廿箇年を過ぎると雖も、年紀に依不可。

  ほんぢとう は せんれい まか    しんぢとう  は りっぽう   まも     さた いた  べ   のよし  うんぬん
本地頭A者先例に任せ、新地頭B者率法を守り、沙汰致す可き之由と云々。」

きょう   そろんにんさんこうのところ  さだ  らる    そ  じょう  い
今日、訴論人參候之所を定め被る。其の状に云はく。

ひとつ そしょうにんざせき  こと
 一、訴訟人座籍の事

   さむらい まろうど  ざ   〔ぶぎょうにん  め   ほか   こうざ   まい   べからず〕
  侍は客人の座〔奉行人が召す外、後座に參る不可d〕

    ろうとう  ひろびさし
  郎等は廣庇

      〔めし  ほか  みなみ ひろびさし まい  べからず  ただ    むつ    さた  の とき は   めし  したが  まい  べ      ぐんごう    さたにん  は    じぎ   よっ    しょうえん  まい  べ   〕
  〔召の外、南の廣庇に參る不可。但し陸奥Cの沙汰之時者、召に隨い參る可し。郡郷の沙汰人者、時儀に依て、小縁に參る可し〕

    ぞうにん おおにわ 〔めし  ほかおうぜず  さがみ    むさし   ぞうにんら   みなみ つぼ  さんにゅう べからず〕
  雜人は大庭〔召の外應不。相摸・武藏の雜人等、南の坪に參入す不可〕

  みぎ  ぶぎょうにん さしさだ    りょうほう  めしと    ののち    いっぽう なんじゅう いた にっすう  おく   たいけつ のひ よ     はつか    す   は
 右は奉行人を差定め、兩方を召問う之後に、一方 難澁を致し日數を送り、對决之日自り、廿箇日を過ぐ者、

   りひ  かえりみず  そにん  もうしじょう まか    ごぜいばいあ   べ   てへ
 理非を顧不、訴人の申状に任せ、御成敗有る可き者り。

         ほうじがんねんじうにがつじうににち
    寳治元年十二月十二日

参考@所務は、領地関係。金銭相続関係が雑務。
参考A
本地頭は、本補地頭で承久乱以前から。前々からの決まり通り。
参考B
新地頭は、新補地頭で、承久乱以後の領地。11町につき1町が地頭給田。兵糧米反別五升。
参考C陸奥は、得宗領。

現代語宝治元年(1247)十二月大十二日辛卯。政務会議がありました。そのついでに諸国の地頭の領地関係について、規則を決める事がありました。
ようするにそれは、例え占拠してから20年を過ぎていても、年数には関係ありません。承久の乱以前から決まり通りに、新しく任命された地頭は比率を守って対処すべきであるとの事です。」
今日、裁判を提訴する人の法廷場所を決めました。その文書には
一、訴訟人の座席につて
  侍は、客人の座席〔裁判担当者が呼ばない限り、後ろの座席にきてはならない。〕
  家来身分は、部屋外の濡れ縁〔呼ばれない限り南の濡れ年へ来てはならない。但し、得宗領の陸奥の問題の時は、呼ばれたら来るように。郡郷の現地管理者、その時々に応じて外側の小濡れ縁にくること。〕
  下働きは大庭〔呼ばれない時はきてはならない。相模・武蔵の下働きは、南の坪庭には来てはいけない〕
 右の内容は、裁判担当者を指名して、原告被告双方を呼びつけ言い分を聞いた後に、被告方が呼び出しの答えないで日を過ぎた場合は、対決の日から20日を過ぎたら、内容の是非に係らず、訴訟人の言い分どおりに裁決するように命じます。
    宝治元年12月12日

寳治元年(1247)十二月大十六日甲午。評定之後。於御所有御酒宴。左親衛以下人々數輩參候。是去十日御笠懸御勝負會也。

読下し                      ひょうじょうののち  ごしょ  をい  ごしゅえん あ     さしんえい いげ  ひとびと すうやから さんこう
寳治元年(1247)十二月大十六日甲午。評定之後、御所に於て御酒宴有り。左親衛以下の人々 數輩 參候す。

これ さんぬ とおかおんかさがけ おんしょうぶ  え なり
是、去る十日御笠懸の御勝負の會也。

現代語宝治元年(1247)十二月大十六日甲午。政務会議の後、御所で宴会がありました。時頼さん以下数人がまざりました。これは、10日の遠笠懸の勝負の宴会です。

寳治元年(1247)十二月大廿九日丁未。有恩澤沙汰。去六月合戰之賞相交之。結城上野入道日阿拝領鎭西小鳥庄。是就泰村追討事。頗及過言之間。可被咎仰歟之由。雖有沙汰。其性素廉直也。稱過言者。只無私之所致也。且適爲關東遺老。咎言語之誤。令漏巡恩條。可爲政道耻之由。左親衛殊令執申給云々。又京都大番勤仕事結番之。各面々限三箇月。可令致在洛警巡之旨。被定下之云々。
一番   小山大夫判官
二番   遠山前大藏少輔
三番   嶋津大隅前司
四番   葛西伯耆前司
五番   中條藤次左衛門尉
六番   隱岐出羽前司
七番   上野大藏權少輔
八番   千葉介
九番   完戸壹岐前司
十番   足立左衞門尉跡
十一番  後藤佐渡前司
十二番  伊東大和前司
十三番  佐々木隱岐前司
十四番  佐々木壹岐前司
十五番  三浦介
十六番  名越尾張前司
十七番  秋田城介
十八番  大友豊前々司跡
十九番  足立左馬頭入道
二十番  天野和泉前司跡
廿一番  信濃民部大夫入道
廿二番  宇都宮下野前司
廿三番  甲斐前司

読下し                       おんたく  さた あ     さんぬ ろくがつ かっせんのしょう これ あいまじ
寳治元年(1247)十二月大廿九日丁未。恩澤の沙汰有り。去る六月 合戰之賞 之を相交る。

ゆうきのこうづけにゅうどうにちあ ちんぜい おどりのしょう はいりょう
結城上野入道日阿、 鎭西 小鳥庄を拝領す。

これ やすむらついとう  こと  つ    すこぶ かごん  およ  のあいだ  とが  おお  らる  べ   か のよし   さた あ    いへど    そ  しょうもと    れんちょくなり
是、泰村追討の事に就き、頗る過言に及ぶ之間、咎め仰せ被る可き歟之由、沙汰有ると雖も、其の性素より廉直也。

かごん  しょう    もの  ただ むし のいた ところなり  かつう たまた かんとう  いろう たり
過言を稱する者、只無私之致す所也。 且は適ま關東の遺老爲。

げんごのあやま    とが   じゅんおん も   せし   じょう  せいどう  はじたるべ   のよし  さしんえいこと   と   もうせし  たま    うんぬん
言語之誤りを咎め、巡恩に漏れ令むの條、政道の耻爲可し之由、左親衛殊に執り申令め給ふと云々。

また  きょうとおおばんごんじ ことこれ  けちばん  おのおの めんめん さんかげつ  かぎ   ざいらく けいじゅん いたせし  べ   のむね  これ  さだ  くださる    うんぬん
又、京都大番勤仕の事之を結番す。各 面々に三箇月を限り、在洛 警巡を致令む可し之旨、之を定め下被ると云々。

いちばん     おやまのたいふほうがん
一番   小山大夫判官(小山長村)

 にばん     とおやまのさきのおおくらしょうゆう
二番   遠山前大藏少輔(加藤景朝)

さんばん     しまづおおすみのぜんじ
三番   嶋津大隅前司(島津忠時)

よんばん     かさいほうきのぜんじ
四番   葛西伯耆前司(葛西清親)

 ごばん     ちゅうじょうとうじさえもんのじょう
五番   中條藤次左衛門尉

ろくばん     おきでわのぜんじ
六番   隱岐出羽前司(二階堂行義)

しちばん     こうづけおおくらごんのしょうゆう
七番   上野大藏權少輔(結城朝広)

はちばん     ちばのすけ
八番   千葉介(千葉頼胤)

 くばん      ししどいきのぜんじ
九番   完戸壹岐前司(宍戸家周)

じうばん      あだちさえもんのじょうあと
十番   足立左衞門尉跡(足立遠元跡)

じういちばん   ごとうさどのぜんじ
十一番  後藤佐渡前司(後藤基綱)

じうにばん    いとうやまとのぜんじ
十二番  伊東大和前司(伊東祐時)

じうさんばん   ささきおきのぜんじ
十三番  佐々木隱岐前司(佐々木義清)

じうよんばん   ささきいきのぜんじ
十四番  佐々木壹岐前司(佐々木泰綱)

じうごばん     みうらのすけ
十五番  三浦介(佐原盛時)

じうろくばん    なごえおわりのぜんじ
十六番  名越尾張前司(北条時章)

じゅうしちばん  あいだのじょうすけ
十七番  秋田城介(安達義景)

じゅうはちばん  おおともぶぜんぜんじあと
十八番  大友豊前々司跡(大友能直跡)

じゅうくばん    あだちのさまのかみにゅうどう
十九番  足立左馬頭入道

にじゅうん     あまのいずみぜんじあと
二十番  天野和泉前司跡(天野正景)

にじゅういちばん  しなのみんぶたいふにゅうどう
廿一番  信濃民部大夫入道(二階堂行盛)

にじゅうにばん   うつのみやしもつけぜんじ
廿二番  宇都宮下野前司(宇都宮泰綱)

にじゅうさんばん  かいぜんじ
廿三番  甲斐前司(大江泰秀)

現代語宝治元年(1247)十二月大二十九日丁未。恩賞の授与式がありました。去る6月の合戦の褒美も加えてます。
結城上野入道日阿朝光は、九州の小鳥庄を貰いました。この人は、三浦泰村を追悼したことについて、かなり云い過ぎていますので、お咎めを受けるべきだはないかと、検討されましたが、元々一本気な人です。云い過ぎてはいますが、自分の損得に無い意見でした。そしてまた関東での残り少ない功労者でもあります。言葉の誤りを咎めて、廻るべき褒美も漏らすのは、政治をするものとしては恥ずかしい事だと、時頼さんは特に推薦しましたとさ。
又、京都朝廷警護のための大番役勤めの順番を決めました。それぞれに3か月を限度に、京都に駐屯し警戒巡検を勤めるように、これをお決めになられましたとさ。

一番は、小山大夫判官長村。二番は、遠山前大蔵少輔加藤景朝。三番は、島津大隅前司忠時。四番は、葛西伯耆前司清親。五番は、中条藤二左衛門尉。
六番は、隠岐出羽前司二階堂行義。七番は、上野大蔵権少輔結城朝広。八番は、千葉介頼胤。九番は、宍戸壱岐前司家周。十番は、足立左衛門尉遠元子孫。
十一番は、後藤佐渡前司基綱。十二番は、伊東大和前司祐時。十三番は、佐々木隠岐前司義清。十四番は、佐々木壱岐前司泰綱。十五番は、三浦介盛時。
十六番は、名越尾張前司時章。十七番は、秋田城介安達義景。十八番は、大友豊前前司能直子孫。十九番は、足立左馬入道。
二十番は、天野和泉前司正景子孫。二十一番は、信濃民部大夫入道二階堂行盛。二十二番は、宇都宮下野前司泰綱。二十三番は、甲斐前司大江泰秀。

不明小鳥庄は、不明。熊本県山鹿市津留小鳥町の名があるが不明。

吾妻鏡入門第卅八巻

inserted by FC2 system