寳治二年(1248)五月小
寳治二年(1248)五月小二日己酉。鶴岡別當法印。爲左親衛御祈。去月八日參諏方社。今夕皈參。 |
読下し つるがおかべっとうほういん さしんえい おんいの
ため
さんぬ つきようか すわしゃ まい こんゆうきさん
寳治二年(1248)五月小二日己酉。
鶴岡別當法印、左親衛@の御祈りの爲、去る月八日諏方社Aへ參り、今夕皈參す。
参考@左親衛は、左近將監の唐名で時頼。
参考A諏訪社は、信濃か鎌倉内か?一ヶ月近く掛かっているので信州の諏訪神社と思われる。諏訪神社神主は信州内に諏訪の神域があり、承久の乱に初めてよそへ出たことになっている。但し木曾冠者義仲についていってる。この時期から北條氏は諏訪信仰となるようだ。
現代語宝治二年(1248)五月小二日己酉。鶴岡八幡宮筆頭の法印隆弁は、左親衛時頼さまの祈願の為、先月8日諏訪大社へお参りし、今日の夕方帰って来ました。
寳治二年(1248)五月小五日壬子。鶴岡神事如例。武藏守朝直朝臣爲奉幣御使參宮云々。」今日。於幕府有和歌御會。左親衛參給云々。 |
読下し つるがおかしんじれい
ごと むさしのかみともなおあそん
ほうへい おんし な さんぐう うんぬん
寳治二年(1248)五月小五日壬子。鶴岡
神事例の如し。武藏守朝直朝臣@、奉幣の御使と爲し參宮すと云々。」
きょう
ばくふ をい わか おんえ あ
さしんえい さん たま うんぬん
今日、幕府に於て和歌の御會有り。左親衛A參じ給ふと云々。
参考@武藏守朝直は、時房の子、この時期二番引付頭人。
参考A左親衛時頼は、漢詩は残っているが、和歌は残っていない。
現代語宝治二年(1248)五月小五日壬子。鶴岡八幡宮の神事は何時もの通りです。武蔵守北条朝直さんが、幣を納める為代参しましたとさ。」
今日、幕府で和歌の会がありました。左親衛時頼さんも参加しましたとさ。
寳治二年(1248)五月小十五日壬戌。今日評定。有條々被仰出事。所謂盜人罪科輕重事。稱爲小過。致一倍辨之後。於企小過盜犯者。准重科。可被行一身咎也。雜務奉行人可存知之者。明石左近將監爲奉行。次主從對論事。自今以後。不論是非。不可有御沙汰云々。 |
読下し きょう
ひょうじょう じょうじょう おお いださる ことあ
寳治二年(1248)五月小十五日壬戌。今日
評定。條々@の仰せ出被る事有り。
いはゆる ぬすっと
ざいか けいちょう こと しょうかたり しょう いちばい わきま いた ののち しょうか とうはん くはだて
をい は
所謂、盜人の罪科の輕重の事、小過爲と稱し、一倍の辨へを致す
ちょうか なぞら いっしん
とが おこはれ べ なり
重科に准い、一身の咎
ぞうむぶぎょうにんこれ
ぞんちすべ てへ
あかしさこんしょうぐんぶぎょうたり
雜務奉行人之を存知可き者り。明石左近將監奉行爲。
つい しゅじゅうたいろん こと いまよ いご ぜひ
ろんぜず おんさた あ べからず うんぬん
次で主從對論Cの事、今自り以後、是非を不論
参考@條々は、箇条書きで出した意。
参考A一倍の辨へを致すは、倍の弁償をする。
参考B一身の咎は、死刑。
参考C主從對論是非を論ぜずは、有無を言わさず主人の勝ち。
現代語宝治二年(1248)五月小十五日壬戌。今日、政務会議で色々仰せになった事がありました。
それは、盗人の罪の軽重について、小さな罪だと云って、盗んだ額の倍額の弁償した後、またぞろ小さな罪を犯した者については、再犯なので思い罪と同様に死刑にするべきである。雑務(金銭相続関係)処理の担当者は認識しなさいとの事です。明石左近将監兼綱が担当します。
次に、主従による対決裁判については、今から以後は、有無を言わさず(主人の勝ちとし)干渉する必要はないとの事です。
寳治二年(1248)五月小十六日癸亥。兄弟相論之時。以父母立申證人事。和泉前司子息兄弟等相論之時。以母堂雖立申證人。自今以後。不可被許容之由。今日及評定云々。 |
読下し きょうだいそうろんのとき
ふぼ もっ
しょうにん たてもう こと いずみのぜんじ しそくきょうだいらそうろんのとき
寳治二年(1248)五月小十六日癸亥。兄弟相論之時、父母を以て證人を立申す事、和泉前司が子息兄弟等相論之時、
ぼどう
もっ しょうにん たてもう いへど いまよ いご きょようさる べからず
のよし きょう ひょうじょう およ うんぬん
母堂を以て證人に立申すと雖も、今自り以後、許容被る不可被之由、今日評定に及ぶと云々。
現代語宝治二年(1248)五月小十六日癸亥。兄弟による対決裁判の時、父母を証人に立てる事は、和泉前司天野政景の息子兄弟が対決した時は、母親を証人に建てましたけど、今から以後は、認めないと決定しましたとさ。
寳治二年(1248)五月小十八日乙丑。秋田城介入道〔号高野入道。法名覺地〕卒。〔于時在高野〕 |
読下し あいだのじょうすけにゅうどう 〔こうやにゅうどう
ごう ほうみょうかくち 〕 そつ 〔とき に こうや あ 〕
寳治二年(1248)五月小十八日乙丑。
秋田城介入道 〔高野入道と号す。法名覺地〕卒。〔時于高野に在り〕
じゅごいのげぎょう でわごんのすけふじわらそんかげもり 〔ほうみょうかくち だいれんぼう ごう 〕
從五位下行@出羽權介藤原朝臣景盛〔法名覺地、大蓮房と号す〕
とうくろうもちなが なん はは
たんごのないし
藤九郎盛長が男 母は丹後内侍A
けんえいにねんがっぴうえもんのじょう
にん けんぽうろくねん さんがつむいか
でわごんのすけ にん
あきたのじょうすけ じょうむたるべ よしせんげ
建永二年月日右衛門尉に任ず。建保六年
三月六日 出羽權介に任ず。秋田城介が城務爲可し由宣下す。
おな
しがつここのかじょしゃく おな しちねんしょうがつにじうしちにちしゅっけ
同じき四月九日敍爵B。同じき七年 正月 廿七日 出家。
参考@從五位下行の行は、高位低官を差す。逆の低位高官は守と書く。
参考A丹後内侍は、比企四郎能員の妹。
参考B敍爵は、初めて從五位下を授けられること。
現代語宝治二年(1248)五月小十八日乙丑。秋田城介入道安達景盛〔高野入道と呼ばれ、出家名は覚地〕無くなりました。〔その時は高野山にいました〕
従五位下行出羽権介藤原安達景盛〔出家名は覚地、大蓮房と云います〕
藤九郎盛長の息子、母は丹後内侍
建永2年(1207)月日右衛門尉に任命。建保6年(1218)3月6日出羽権介に任命。秋田城介の国境警備業務であると命じられた。
同4月9日従五位を授けられる。同7年1月27日出家。
解説この記事を没年記事と云う。
解説高野山の過去帳には五十六歳となっているらしい。
寳治二年(1248)五月小廿日丁夘。就雜務等事。有被定下之篇目。雜人訴訟事。雖下度々奉書。論人不叙用。自今以後。召文三ケ度之後者。今度令違背者。可有後悔之由。差日數。以國雜色。可被下遣召文也。此上或捧自由陳状。令違期者。任訴状。可有成敗者。又謀叛人出擧事。其一類所從者不及沙汰。至百姓等分者。早可致辨之由。可有御成敗者。且所被仰遣六波羅也。 |
読下し ぞうむ
ら こと つ さだ くださる のへんもくあ
寳治二年(1248)五月小廿日丁夘。雜務等の事に就き、定め下被る之篇目有り。
ぞうにん そしょう こと たびたびほうしょ
くだ いへど ろんにんじょようせず
雜人@訴訟の事、度々奉書Aを下すと雖も、論人叙用不B。
いまよ いご めしぶみさんかど ののちは このたびいはいせし ば
こうかいあ べ のよし にっすう さ
今自り以後、召文三ケ度之後者、今度違背令め者、後悔有る可き之由、日數を差し、
くにぞうしき もっ めしぶみ
くだ つか さる べ なり
國雜色
かく うえ ある じゆう
ちんじょう
ささ ご たが せし ば
そじょう まか せいばいあ べ てへ
此の上、或ひは自由の陳状を捧げ、期を違は令め者、訴状に任せ、成敗有る可き者り。
また むほんにんすいこ こと そ いちるしょじゅうは さた およばず
又、謀叛人出擧
ひゃくしょうら ぶん いた は
はや わきま いた べ のよし ごせいざいあ べ てへ
百姓等の分に至りて者、早く辨へを致す可き之由、御成敗有る可し者り。
かつう ろくはら
おお つか さる ところなり
且は六波羅へ仰せ遣は被る所也。
参考@雜人は、武士身分より下っ端。
参考A奉書は、裁判呼び出し状。
参考B論人敍用せずは、被告が仰せに従わない。
参考C國雜色は、国衙の下役人。
現代語宝治二年(1248)五月小二十日丁卯。雑務(金銭相続関係)の訴訟について、決定の上命じられた項目があります。
後家員以外の訴訟について、何度か公文書で呼び出しても、訴人が云う事を聞かない。今から以後は、呼び出し状を三度出した後、三度目に背いたならば、後悔することになる(敗訴する)との内容で、日数を決めて国衙の下働きを使って呼び出し状を与えなさい。その上で、勝手気ままな弁明書を出したり、期日を守らなかったら、訴状通りに裁決しなさい。
また、謀反人の借金については、その一族や家来には及ぼさない。
農民たちの分については、早く弁償するように、裁決をしなさいとの事です。
同様主旨を六波羅探題へも知らせました。
解説訴人(原告)が訴状を幕府に出すと、幕府は論人(被告)に文を出す。論人は陳状を返す。是を三度繰り返す(公卿は二回)。番訴陳。頼朝は御前評決をして御前判決をする。基準は道理。
寳治二年(1248)五月小廿八日乙亥。左親衛妾〔幕府女房〕男子平産云々。今日被授字。寳壽云々。 |
読下し さしんえい めかけ 〔ばくふ にょぼう〕
なんし へいさん うんぬん きょうあざな さず らる ほうじゅ うんぬん
寳治二年(1248)五月小廿八日乙亥。左親衛が妾〔幕府の女房〕男子を平産すと云々。今日字を授け被る。寳壽@と云々。
参考@宝寿は、後の時輔。
現代語宝治二年(1248)五月小二十八日乙亥。時頼さんの妾〔幕府の女官〕が男の子を安産しましたとさ。今日、名前を付けました。宝寿だそうな。