吾妻鏡入門第卅九巻  

寳治二年(1248)六月小

寳治二年(1248)六月小一日丁丑。左親衛以訶利帝十五童子像。被安置彼産所云々。

読下し                    さしんえい  かりてい じうご どうじ ぞう   もっ    か   さんじょ  あんちさる    うんぬん
寳治二年(1248)六月小一日丁丑。左親衛、訶利帝
@十五童子像を以て、彼の産所Aに安置被ると云々。

参考@訶利帝母は、鬼子母神。1000人の子を持つが、人の子を食らうので、釈迦が一人隠すと狂ったように嘆き悲しんだのを聡したので、人食いを止め子供の守護神となった。代わりにザクロを持つ。
参考A彼の産所は、5月28日に時頼妾が宝寿(後の時輔)を産んでいる。

現代語宝治二年(1248)六月小一日丁丑。時頼さんは、訶利帝母鬼子母神と15童子の像を、(子供の守り神に)宝寿の産室に安置しましたとさ。

寳治二年(1248)六月小五日辛巳。人勾引事。有其沙汰。兄弟者不可爲人勾引之儀。以他人可爲人勾引也。其科准盜犯云々。

読下し                   ひとこういん  こと  そ    さた あ
寳治二年(1248)六月小五日辛巳。人勾引
@の事、其の沙汰有り。

きょうだいはひとこういん のぎ たるべからず  たにん  もっ  ひとこういん たるべ   なり  そ   とがとうはん  なぞら   うんぬん
兄弟者人勾引之儀 爲不可、他人を以て人勾引 爲可き也。其の科盜犯に准うと云々。

参考@人勾引は、人攫い。兄弟は人攫いにならない。

現代語宝治二年(1248)六月小五日辛巳。人さらいについて、裁決がありました。兄弟では人さらいにならない。他人の場合に人さらいとなる。その罪は泥棒と同様に扱うとの事です。

寳治二年(1248)六月小九日乙酉。相摸河水其流如血。觀者恠之。試浸白布移其色。殆如紅梅云々。

読下し                   さがみがわ  みず そ  なが  ち   ごと    み   ものこれ  あやし
寳治二年(1248)六月小九日乙酉。相摸河の水其の流れ血の如し。觀る者之を恠む。

ため    しらふ  ひた    そ   いろうつ    ほと    こうばい  ごと    うんぬん
試しに白布を浸すと其の色移る。殆んど紅梅の如しと云々。

現代語宝治二年(1248)六月小九日乙酉。相模川の水の流れが血のようです。見た人は皆不思議に思いました。ためしに白い布を浸してみるとその色が移りました。まるで紅梅のようだそうな。

寳治二年(1248)六月小十日丙戌。諏方入道蓮佛爲左親衛新誕若君乳母云々。

読下し                   すわにゅうどうれんぶつ  さしんえい しんたん  わかぎみ めのと   な    うんぬん
寳治二年(1248)六月小十日丙戌。諏方入道蓮佛、左親衛が新誕の若君の乳母@を爲すと云々。

参考@乳母も乳母夫も読みは「めのと」である。

現代語宝治二年(1248)六月小十日丙戌。諏訪入道蓮仏盛重は、時頼さんの生まれたばかりの若君の乳母夫となりましたとさ。

寳治二年(1248)六月小十一日丁亥。相摸河流猶赤而似紅。縡已依及上聽。殊有其沙汰。可被行御祈等云々。

読下し                     さがみがわ  なが  なおあか    て べに  に
寳治二年(1248)六月小十一日丁亥。相摸河の流れ猶赤くし而紅に似たり。

ことすで じょうちょう およ    よっ    こと  そ   さた あ     おいのりら  おこなはれ べ     うんぬん
縡已に上聽に及ぶに依て、殊に其の沙汰有り。御祈等を行被る可しと云々。

現代語宝治二年(1248)六月小十一日丁亥。相模川の流れは相変わらず赤くて紅を流したようです。そのことは、すでに上部の耳に入っており、特に命令があってお祈りを行うようにとの事でだそうな。

寳治二年(1248)六月小十五日辛夘。酉尅。常陸國關郡仁木奈利郷白雪降。則休止云々。

読下し                     とりのこく ひたちのくに せきぐん にきなりごう   しらゆきふ     すなは きゅうし    うんぬん
寳治二年(1248)六月小十五日辛夘。酉尅、常陸國 關郡仁木奈利郷
@に白雪降る。則ち休止すと云々。

参考@仁木奈利郷は、茨城県下館市二木成

現代語宝治二年(1248)六月小十五日辛卯。午後6時頃、常陸国二木成郷に白雪がふったが、すぐに止んだそうな。

寳治二年(1248)六月小十六日壬辰。相摸河水赤色漸薄云々。

読下し                     さがみがわ  みず あかいろようや うす      うんぬん
寳治二年(1248)六月小十六日壬辰。相摸河の水の赤色漸く薄まると云々。

現代語宝治二年(1248)六月小十六日壬辰。相模川の水の赤色はやっと薄まってきたそうな。

寳治二年(1248)六月小十八日甲午。寅尅。濫橋邊一許町以下南雪降。其邊如霜云々。

読下し                     とらのこく みだればしへん いちばかりちょう いげ みなみ  ゆきふ    そ  へんしも  ごと    うんぬん
寳治二年(1248)六月小十八日甲午。寅尅、 濫橋邊の  一許町 以下南に雪降る。其の邊霜の如しと云々。

現代語宝治二年(1248)六月小十八日甲午。午前4時頃に、乱橋の100m程南で雪が降りました。そのあたりは霜が降ったみたいに真っ白だそうな。

寳治二年(1248)六月小廿一日丁酉。佐々木次郎兵衛尉實秀法師〔法名寂然〕捧款状。申可浴恩澤之由。是祖父三郎兵衛尉盛綱入道。兄弟四人共自右大將家義兵最初。爲御方軍士。專一依勵數度勳功。雖有連々恩賞。亡父太郎信實之時。或就相論。或自然被召放之。於今者其計略訖云々。數枚續之。載累家子細云々。

読下し                     ささきのじろうひょうえのじょうさねひでほっし 〔ほうみょうじゃくねん〕 かんじょう  ささ    おんたく  よく  べ   のよし  もう
寳治二年(1248)六月小廿一日丁酉。佐々木次郎兵衛尉實秀法師 〔法名寂然〕款状
@を捧げ、恩澤に浴す可き之由を申す。

これ   そふ さぶろうひょうのじょうもりつなにゅうどう きょうだい よにんとも うだいしょうけぎへい  さいしょよ     みかた  ぐんしたり
是、祖父 三郎兵衛尉盛綱入道
A兄弟四人B共、右大將家義兵の最初自り、御方の軍士爲。

せんいつ すうど  くんこう  はげ      よっ    れんれん おんしょうあ    いへど   ぼうふたろうのぶとき のとき
專一に數度の勳功を勵ますに依て、連々の恩賞有ると雖も、亡父太郎信實之時、

ある    そうろん  つ     ある    じねん  これ めしはなたれ  いま  をい  は そ  けいりゃくをは     うんぬん
或ひは相論に就き
C、或ひは自然にD之を召放被、 今に於て者其の計略訖んぬEと云々。

すうまいこれ  つ     るいけ   しさい  の        うんぬん
數枚之を續ぎ
F、累家の子細を載せると云々。

参考@款状は、手柄を告げ、賞の催促をする。
参考A
祖父三郎兵衛尉盛綱入道は、上州から越後にかけて領地があったが、名越北条氏に追われている。
参考B兄弟四人は、佐々木太郎定綱・佐々木次郎経高・佐々木三郎盛綱・佐々木四郎高綱の頼朝旗揚げ時の佐々木四兄弟。
参考C
相論に就きは、裁判。に負けて取られた。
参考D
自然には、おもいもよらず。以外にも。
参考E
計略訖んぬは、生活の術がなくなった。
参考F數枚之を續ぎは、何枚も過去の手柄などの紙を繋いだ。

現代語宝治二年(1248)六月小二十一日丁酉。佐々木次郎兵衛尉実秀法師〔出家名は寂然〕は、手柄の催促状を出して、褒美に預りたいと申し出ました。この祖父、佐々木三郎兵衛尉盛綱入道兄弟は、四人とも頼朝様の旗揚げの最初から味方の武士です。もっぱらに何度もの手柄を立てたので、続いてもらった領地があったのですが、亡き父太郎信実の時代に、ある時は裁判対決で取られ、ある時は思いもよらずに取り上げられてしまったりして、今では生活の術が無くなりました。
何枚もの紙を貼りついで、祖父以来の手柄などを書き連ねてきましたとさ。

七月へ

吾妻鏡入門第卅九巻

inserted by FC2 system