吾妻鏡入門第卅九巻  

寳治二年(1248)九月小

寳治二年(1248)九月小七日辛亥。黄蝶飛行。自由比浦。至于鶴岡宮寺并右大將家法花堂。群亘云々。

読下し                   きちょう と   ゆ     ゆいのうらよ    つるがおかぐうじなら     うだいしょうけ ほけどうに いた      むれわた    うんぬん
寳治二年(1248)九月小七日辛亥。黄蝶飛び行く。由比浦自り、鶴岡宮寺并びに右大將家法花堂于至りて、群亘ると云々。

現代語宝治二年(1248)九月小七日辛亥。黄色い蝶々が飛びました。由比浦から鶴岡八幡宮寺それに頼朝様の法華堂に、群れ飛んで来ましたとさ。

寳治二年(1248)九月小九日癸丑。鶴岡八幡宮寺神事如例。尾張前司時章朝臣〔束帶〕勤奉幣御使云々。」今日。難波少將宗教朝臣献大鞠二〔一燻。一白〕并韈一足〔各付松枝。納長櫃〕於左親衛。是當時依令賞翫鞠給也。

読下し                   つるがおかはちまんぐうじ しんじれい  ごと    おわりのぜんじときあきあそん 〔そくたい〕  ほうへい  おんし  つと    うんぬん
寳治二年(1248)九月小九日癸丑。鶴岡八幡宮寺の神事例の如し。尾張前司時章朝臣〔束帶〕奉幣の御使を勤むと云々。」

きょう  なんばのしょうしょうむねのりあそん おおまりに 〔いち  くん   いち  しろ〕 なら   したうず いっそく 〔おのおのまつ  えだ  つ    ながびつ  おさ  〕  を さしんえい  けん
今日、 難波少將宗教朝臣
@大鞠二〔一は燻。一は白〕并びに 韈A一足〔各松の枝に付け。長櫃に納む〕於左親衛に献ず。

これとうじまり しょうがんせし  たま    よっ  なり
是當時鞠を賞翫令め給ふに依て也。

参考@難波少將宗教は、蹴鞠で有名人。
参考A
したうずは、下沓。

現代語宝治二年(1248)九月小九日癸丑。鶴岡八幡宮の神事は何時もの通りです。尾張前司名越流北条時章さん〔束帯〕が幣を納める代参を勤めましたとさ。」
今日、蹴鞠の名人の難波少将宗教さんから、蹴鞠用の大きな鞠〔一つは革を燻製した色、一つは白色〕それと蹴鞠用の下沓一足〔左右共に松の枝に結わえ、長櫃に入れてある〕を時頼さんに献上しました。それは近頃蹴鞠を好んでいるからです。

寳治二年(1248)九月小十九日癸亥。未申兩時之間。黄蝶群飛。自三浦三崎方。出來于名越邊。其群集之幅。三許段云々。

読下し                    さるひつじりょうときのあいだ  きちょうむれと     みうら みさき   ほうよ     なごえへんに いできた
寳治二年(1248)九月小十九日癸亥。未 申 兩時之間、黄蝶群飛び、三浦三崎の方自り、名越邊于出來る。

そ  ぐんしゅうのはば さんばか  たん  うんぬん
其の群集之幅、三許り段と云々。

現代語宝治二年(1248)九月小十九日癸亥。午後2時から4時にかけて、黄色い蝶々が大軍で飛んで、三浦三崎の方から名越辺りに出てきました。その群れは、三反ほどもあったそうな。

寳治二年(1248)九月小廿日甲子。東中務入道素暹可成問状御教書之由。伊勢前司行綱。大曽祢左衛門尉長泰等。爲奉行傳仰。素暹申領状云々。千葉介常胤棟葉之中。右筆始例。文武兼備之士。殊至要之趣。頻及御沙汰云云。

読下し                   とうのなかつかさにゅうどうそせん といじょう みぎょうしょ  な  べ  のよし  いせのぜんじゆきつな  おおそねさえもんのじょうながやすら
寳治二年(1248)九月小廿日甲子。東中務入道素暹
@、問状A・御教書を成す可き之由、伊勢前司行綱・大曽祢左衛門尉長泰等、

ぶぎょう  な   つた  おお    そせん りょうじょう  もう    うんぬん
奉行と爲し傳へ仰す。
素暹 領状を申すと云々。

ちばのすけつねたね しよう のうち  ゆうひつ はじめ れい  ぶんぶけんび  のし  こと  しようのおもむき  すこぶ  おんさた  およ    うんぬん
千葉介常胤が棟葉之中、右筆の始の例、文武兼備之士、殊に至要之趣、頻る御沙汰に及ぶと云云。

参考@東中務入道素暹は、東胤行で和歌の名人。
参考A
問状は、答弁を求める文書。

現代語宝治二年(1248)九月小二十日甲子。東中務入道素暹胤行は、被告への答弁を求める問状や、命令書の御教書を書く担当になるよう、伊勢前司二階堂行綱・大曽根左衛門尉長泰が担当して伝言しました。胤行は承知の署名を書きましたとさ。千葉介常胤の系統で、右筆になった初めての例です。文武両道を供えた武士は、特に極めて重要であると、大変な褒めようでしたとさ。

寳治二年(1248)九月小廿二日丙寅。城九郎泰盛。山城前司盛時。民部丞行幹等。可爲番帳并御文C書之由被仰。各領状云云。

読下し                     じょうのくろうやすもり  やましろぜんじもりとき  みんぶのじょうゆきもとら  ばんちょうなら    ごふみ  せいしょ  な   べ   のよし
寳治二年(1248)九月小廿二日丙寅。城九郎泰盛、 山城前司盛時、民部丞行幹等、 番帳
@并びに御文のC書を爲す可き之由

おお  らる  おのおの りょうじょう   うんぬん
仰せ被る。 各 領状すと云云。

現代語宝治二年(1248)九月小二十二日丙寅。城九郎安達泰盛(18)・山城前司中原盛時・民部丞二階堂行幹などが、勤務日程を書いた帳面とお手紙の清書をするように、仰せになられました。それぞれ承知の署名を書きましたとさ。

参考@番帳は、勤務日程を書いた帳面。

寳治二年(1248)九月小廿六日庚午。天リ。於鶴岡別當法印雪下本坊有鞠會。上鞠熊王〔山柄子云々〕上足落中云々。

読下し                     そらはれ つるがおか べっとう ほういん ゆきのした ほんぼう  をい  まりえ あ
寳治二年(1248)九月小廿六日庚午。天リ。鶴岡 別當 法印 雪下 本坊に於て鞠會有り。

あげまり  くまおう 〔やまがら  こ    うんぬん〕じょうそくなか  おと    うんぬん
上鞠は熊王〔山柄が子と云々〕上足中に落すと云々。

現代語宝治二年(1248)九月小二十六日庚午。空は晴です。鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁の雪ノ下の宿舎で蹴鞠の会がありました。最初の蹴り人は熊王〔山柄の子だそうな〕上足の真中に鞠を落として蹴り始めたそうな。

寳治二年(1248)九月小廿九日癸酉。於御所有詩歌御會。被惜九月盡云々。

読下し                      ごしょ  をい  しいか  おんえ あ     くがつじん  おしまれ    うんぬん
寳治二年(1248)九月小廿九日癸酉。御所に於て詩歌の御會有り。九月盡
@を惜被ると云々。

参考@九月盡は、秋の季語。秋 最後の一日を惜しむ心。

現代語宝治二年(1248)九月小二十九日壬酉。御所で歌会がありました。お題は秋最後の一日を惜しむでしたとさ。

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