寳治二年(1248)十一月大
寳治二年(1248)十一月大十三日丙辰。左親衛招請難波少將羽林。令對面給。蹴鞠事。可爲門弟之由。及御約諾云々。 |
読下し さしんえい
なんばしょうしょう うりん しょうせい
たいめんせし
たま
寳治二年(1248)十一月大十三日丙辰。左親衛、難波少將羽林を招請し、對面令め給ふ。
けまり こと もんていたるべ のよし
おんやくだく およ うんぬん
蹴鞠の事、門弟爲可し之由、御約諾に及ぶと云々。
現代語宝治二年(1248)十一月大十三日丙辰。左親衛時頼さんは、難波近衛少将宗教さんを招待して、お会いになりました。蹴鞠について、門弟になりたいとお約束になられましたとさ。
寳治二年(1248)十一月大十五日戊午。陸奥國留守所注申云。去九月十日。津輕海邊。大魚死而浮寄。如人状云云。此事先規三ケ度也。皆非吉事之間。留守存斟酌。不申子細之處。就風聞之説。依被尋下之。如此云々。 |
読下し
むつのくにるすどころ ちう もう い
寳治二年(1248)十一月大十五日戊午。陸奥國留守所@注し申して云はく。
さんぬ くがつとおか つがるかいへん おおうお し て うか よ ひとじょう ごと うんぬん
去る九月十日、津輕海邊で、大魚死し而浮び寄す。人状の如きと云云。
かく こと
せんき
さんかどなり
此の事先規三ケ度A也。
みなきちじ あらざるのあいだ るすしんしゃく ぞん しさい
もうさざるのところ ふうぶん のせつ
つ これ
たず くださる よっ かく ごと うんぬん
皆吉事に非之間、留守斟酌を存じ、子細を申不之處、風聞B之説に就き、之を尋ね下被るに依て、此の如しと云々。
参考@留守所は、国主が遥任してるので、実質的に現地での最高司令官。後に陸奥国の留守所を差すようになる。元は井沢家景が留守家景となる。
参考A三ケ度でなく文治五年、建仁三年、建保元年、宝治元年の四回あった。で五回目になる、直後には戦が生じている。
参考B風聞は、噂が飛んだので幕府がこれを質問したので文書に注して出した。
現代語宝治二年(1248)十一月大十五日戊午。陸奥国の現地管理人留守所から文書で云って来ました。去る9月10日、津軽の海で大きな魚が死んで浮びました。人の歟對に似ているとの事です。このような事は過去に3度あります。全て悪い前兆なので、留守所は良く考えて知らせてこなかったのですが、人の噂に聞いたので、この事を質問した所、この様な報告でしたとさ。。
寳治二年(1248)十一月大十六日己未。難波少將〔香狩衣〕持參一巻書〔鞠秘書〕於左親衛御方。依有御所望也。親衛〔淺黄直垂〕令相逢給。覽彼書。羽林讀申。未及半巻之時。親衛起座。自収(取)金作劔〔長伏輪。納錦袋〕。令授羽林給。羽林跪賜之。一拝退出。々于廊。與共侍云々。 |
読下し なんばしょうしょう 〔こう かりぎぬ〕 いっかん しょ 〔まり ひしょ〕 を さしんえい おんかた じさん
寳治二年(1248)十一月大十六日己未。難波少將〔香の狩衣〕一巻の書〔鞠の秘書〕於左親衛の御方に持參す。
ごしょもう あ よっ なり しんえい〔あさぎ ひたたれ〕 あいあ せし たま か しょ み うりん
よみもう
御所望有るに依て也。親衛〔淺黄直垂〕相逢は令め給ひ、彼の書を覽る。羽林讀申す。
いま
はんかん
およ のとき しんえい ざ た みずか こがねづくり つるぎ 〔ながふくりん わたぶくろ おさ 〕 と うりん さず せし たま
未だ半巻に及ばざる之時、親衛座を起ち、自ら
金作の 劔〔長伏輪@。錦袋に納む〕を取り、羽林に授け令め給ふ。
うりん ひざまづ これ たま
いっぱい たいしゅつ ろうにいで とも せいし
あた うんぬん
羽林 跪き之を賜はり一拝し退出す。廊于々、共の侍Aに與うと云々。
参考@長伏輪は、長覆輪のことで、柄頭から石突まで覆輪をかけた太刀。
参考A青侍は、公卿や寺に仕える侍。
現代語宝治二年(1248)十一月大十六日己未。難波少将宗教さん〔丁子で染めた狩衣〕が一巻の巻物〔蹴鞠の秘伝書〕を時頼さんの所へ持ってきました。欲しがっていたからです。時頼さん〔浅黄色の直垂〕はお会いになって、その巻物を見ました。難波宗教さんが読んで聞かせました。半分も読み終わらないうちに、時頼さんは座を立って、自分で黄金造りの太刀〔柄頭から石突まで金覆輪。錦の袋に入れる〕を取って来て、難波さんに与えられました。
難波さんは、跪いてこれを受け取り、一礼して引き下がりました。廊下に出てから(公家に太刀を無用と)お供の侍に与えましたとさ。
寳治二年(1248)十一月大十八日辛酉。山城國悪黨對治事。可伺奏聞之旨。被仰六波羅歟。諸國狼戻事。尤可思靜謐籌策之由。所被凝評議也。 |
読下し やましろのくに あくとう
たいじ こと そうもん
うかが べ のむね
ろくはら おお らる か
寳治二年(1248)十一月大十八日辛酉。山城國の悪黨對治の事、奏聞を伺う可き之旨、六波羅へ仰せ被る歟。
しょこくろうるい こと もっと せいひつ ちゅうさく おも べ のよし ひょうぎ こ さる ところなり
諸國狼戻の事、尤も靜謐の籌策を思う可き@之由、評議を凝ら被る所也。
参考@靜謐の籌策を思う可きは、鎌倉から軍隊を出そうかどうかを六波羅に伝えようか。
現代語宝治二年(1248)十一月大十八日辛酉。山城国の無法者の退治の出動について、朝廷に相談しようかと、六波羅探題へ伝えようか。諸国での乱れについて、鎌倉から軍隊を派遣しようか、検討をしている所です。
寳治二年(1248)十一月大廿三日丙寅。問注奉行人等。閣雜務稽古。酒宴放遊爲事。不面謁訴人。不見究證文理非之間。臨評定座之時。預下問事等。所答申頗令停滯。於如然輩者。不可召仕之由。普可相觸之趣。今日被仰付大田民部大夫。信濃民部大夫行然等云々。 |
読下し もんちゅう ぶぎょうにんら ぞうむ
けいこ さしお しゅえんほうゆう こと な そにん
めんえつせず
寳治二年(1248)十一月大廿三日丙寅。問注@奉行人等、雜務の稽古を閣き、酒宴放遊を事と爲し、訴人に面謁不、
しょうもん りひ みきわ ざるのあいだ ひょうじょう
ざ のぞ のとき かもん あず ことら こた もう ところ
すこぶ ていたいせし
證文の理非を見究め不之間、 評定の座に臨む之時、下問に預かる事等、答へ申す所
頗る停滯令む。
しか ごと
やから をい は めしつか べからずのよし あまね あいふる
べ のおもむき
然る如きの輩に於て者、召仕う不可之由、普く相觸る可き之趣、
きょう おおたみんぶたいふ しなのみんぶたいふぎょうねんら おお つ らる うんぬん
今日、大田民部大夫、信濃民部大夫行然等に仰せ付け被ると云々。
参考@問注所は、裁判所的存在。鎌倉では、裁判を三つに分け、検断は、軍事警察で侍所。所務は、所領関係で政所。雑務は金銭相続関係で問注所。判決文原案などをつくり評定衆の質問に答える。
現代語宝治二年(1248)十一月大二十三日丙寅。相続などの裁判をする問注所の役人で、金銭相続関係の例を学ばないで、酒宴や遊蕩ばかりしていて、原告に会おうともせず、証拠文書が正しい内容かどうかも見極める事も出来ないで、政務会議へ出るから質問にもきちんと答えることが出来ない。そのような者は使う必要がないと、隅々まで伝えるようにと、今日問注所執事の大田民部大夫康連・信濃民部大夫行然(行盛)に命じましたとさ。
寳治二年(1248)十一月大廿九日壬申。去年募勳功賞拝領所々事。仰新地頭等。本所國司領家乃貢可致急速沙汰事。并不可宛課臨時役於土民。凡毎事守先司例。可停止新儀非法之由云々。 |
読下し
きょねん くんこうしょう
つの はいりょう しょしょ こと しんぢとうら おお
ほんじょ こくし りょうけ のうぐ
寳治二年(1248)十一月大廿九日壬申。去年、勳功賞@を募り拝領する所々の事、新地頭等に仰せて、本所・國司・領家の乃貢、
きゅうそく さた いた べ こと なら りんじ えきを どみん あてか べからず
急速の沙汰を致す可き事、并びに臨時の役於土民に宛課す不可。
およ まいじ せんし れい まも しんぎ
ひほう ちょうじすべ のよし うんぬん
凡そ毎事先司の例を守り、新儀の非法Aを停止可き之由と云々。
参考@去年、勳功賞は、三浦合戦の褒美。
参考A新儀の非法は、先例主義で先例の無いことは非法とする。先例を無視して新たな役を押し付けるな。
現代語宝治二年(1248)十一月大二十九日壬申。去年、三浦合戰での手柄の褒美として貰った領地について、新しく赴任した地頭に命令して、最上級荘園権利者の本所や、国司・上級荘園権利者の領家への年貢は、急いで納付する事、それと臨時の勤労奉仕を農民に負担させてはならない。全ての行為は先例を守って、先例を無視した新たな役を押しつけてはいけないとの事です。