吾妻鏡入門第卅九巻  

寳治二年(1248)後@十二月小

解説@は、閏の事。陰暦では一年が355日なので、3年から4年に一度閏月を作る。閏月は15日が満月になる月を選ぶ。

寳治二年(1248)後十二月小十日癸丑。天リ。將軍家爲御方違。入御于足利左馬入道政義大倉亭。
供奉人
騎馬
 武藏守朝直       陸奥掃部助實時
 北條六郎時定      越後五郎時家
 安藝前司親光      肥後前司盛時
 縫殿頭師連       那波左近大夫將監政茂
 〔波多野〕       〔完戸〕
 出雲前司義重      壹岐前司國家
 陸奥掃部助實時     武藤四郎時仲
 前大藏權少輔朝廣    伊賀前司時家
 和泉前司行方      佐々木壹岐前司泰綱
 筑後前司行泰      薩摩前司祐長
 弥次郎左衛門尉親盛   出羽次郎左衛門尉行有
 宇佐美藤内左衛門尉祐泰 城次郎頼景
 攝津左衛門尉      足立三郎左衛門尉
今日。令造畢大菩薩御影像。奉入于宮寺別當坊持佛堂云々。

読下し                      そらはれ  しょうぐんけ おんかたたが  ため  あしかがさまにゅうどうまさよし  おおくら  ていに い   たま
寳治二年(1248)後十二月小十日癸丑。天リ。將軍家 御方違への爲、足利左馬入道政義が大倉の亭
@于入り御う。

ぐぶにん
供奉人

 きば
騎馬

  むさしのかみともなお             むつかもんのすけさねとき
 武藏守朝直       陸奥掃部助實時

  ほうじょうろくろうときさだ            えちごのごろうときいえ
 北條六郎時定      越後五郎時家@

  あきのぜんじちかみつ            ひごぜんじもりとき
 安藝前司親光      肥後前司盛時

  ぬいどののとうもろつら            なわさこんたいふしょうげんまさもち
 縫殿頭師連       那波左近大夫將監政茂A

  いずもぜんじよししげ   〔 はたの 〕    いきのぜんじくにいえ   〔ししど〕
 出雲前司義重〔波多野〕  壹岐前司國家〔完戸〕

  「むつかもんのすけさねとき」         むとうしろうときなか
 「陸奥掃部助實時」   武藤四郎時仲

  さきのおおくらごんのしょうゆうともひろ    いがぜんじときいえ
 前大藏權少輔朝廣    伊賀前司時家

  いずみぜんじゆきかた             ささきいきぜんじやすつな
 和泉前司行方      佐々木壹岐前司泰綱

  ちくごぜんじゆきやす              さつまぜんじすけなが
 筑後前司行泰      薩摩前司祐長

  いやじろうさえもんのじょうちかもり       でわのじろうさえもんのじょうゆきあり
 弥次郎左衛門尉親盛   出羽次郎左衛門尉行有

  うさみのとうないさえもんのじょうすけやす   じょうのじろうよりかげ
 宇佐美藤内左衛門尉祐泰 城次郎頼景

  せっつのさえもんのじょう            あだちさぶろうさえもんのじょう
 攝津左衛門尉      足立三郎左衛門尉

きょう   だいぼさつ  みえいぞう  つく  せし をはんぬ ぐうじ  べっとうぼう  じぶつどうに い  たてまつ  うんぬん
今日、大菩薩の御影像を造ら令め畢。宮寺の別當坊の持佛堂于入れ奉ると云々。

参考@足利左馬入道政義が大倉の亭は、浄妙寺の東に鎌倉公方邸跡あり。
参考@越後五郎時家は、時房時盛時家(五男)。
参考A那波は、群馬県伊勢崎市堀口町に名和小学校。大江広元の子孫。
解説那波は、当初「岡山県児島湾の那波港で北条水軍の根拠地」としていたが、次の指摘を受けた。
「上野国那波郡の那波です。明治23年に現在の佐波郡に合併した。岡山の相生に那波湊(ナバミナト)はあるが、そこの那波は赤松系統で「吾妻鏡」の那波とは違う。現在の伊勢崎市に「那波城址」あり、また「那波家」建立の寺社が残っている。我家の系図では、将監政茂は大江広元の三男で、木曾義仲と共に滅んだ上州那波家を頼朝の命で継いだとある。」
指摘を受け、グーグルで検索した所、群馬県伊勢崎市堀口町に名和小学校・名和郵便局があり、名字の音が残っている。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小十日癸丑。空は晴です。将軍家頼嗣様は、方角替えの為、足利左馬入道政義の大倉の屋敷へ入りました。
お供の人は、乗馬
 武蔵守大仏流北条朝直 と 陸奥掃部助金沢流北条実時
 得宗家北条六郎時定  と 越後五郎佐助流北条時家
 安芸前司親光     と 肥後前司内藤盛時
 縫殿頭中原師連    と 那波左近大夫将監政茂
 出雲前司波多野義重  と 壱岐前司宍戸国家
「陸奥掃部助北条実時」 と 武藤四郎時仲
 前大蔵権少輔結城朝広 と 伊賀前司小田時家
 和泉前司二階堂行方  と 壱岐前司佐々木泰綱
 筑後前司二階堂行泰  と 薩摩前司安積祐長
 弥次郎左衛門尉親盛  と 出羽次郎左衛門尉二階堂行有
 宇佐美藤内左衛門尉祐泰と 城次郎安達頼景
 摂津左衛門尉     と 足立三郎左衛門尉
今日、八幡大菩薩のお像を作らせ終えました。八幡宮寺の筆頭の宿舎の守り本尊のお堂に安置しましたとさ。

寳治二年(1248)後十二月小十一日甲寅。及還御之刻。亭主進御引出物。其役人。
 御劔〔長輻輪〕     宮内少輔泰氏
 羽櫃〔蒔鶴〕      上野前司泰國
一御馬〔黒置蒔鞍絲鞦〕
 足利三郎        同次郎
二御馬〔鴾毛餝之〕
 里見弥太郎       同藏人三郎

読下し                        かんご のとき  およ    てい あるじ ひきでもの  すす  たま    そ   えき  ひと
寳治二年(1248)後十二月小十一日甲寅。還御之刻に及び、亭の主
@引出物を進め御う。其の役の人。

  ぎょけん 〔ながふくりん〕           くないしょうゆうやすうじ
 御劔〔長輻輪
A     宮内少輔泰氏

  はねびつ 〔まきつる〕            こうづけぜんじやすくに
 羽櫃〔蒔鶴〕      上野前司泰國
B

いちのおんうま 〔くろまきぐら  お  いとしりがい〕
一御馬 〔黒蒔鞍
Cを置く 絲鞦〕

  しかがらさぶろう                おなじきじろう
 足利三郎        同次郎

にのおんうま  〔つきげこれ   かざ  〕
二御馬 〔鴾毛之を餝る〕

  さとみのいやたろう              おなじきくらんどさぶろう
 里見弥太郎       同藏人三郎

参考@亭の主は、足利正義。
参考
A長伏輪は、長覆輪のことで、柄頭から石突まで覆輪をかけた太刀。
参考B
上野前司泰國は、畠山泰国で足利儀純系統。源性畠山氏。
参考C
蒔鞍は、蒔絵の鞍でしりがいつき。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小十一日甲寅。お帰りの時間になって、屋敷の主足利政義からお土産の引き出物を献上しました。その役をした人。
 刀〔全てが金細工で覆われています〕は、宮内少輔足利泰氏
 鷹の羽の入った箱は、上野前司畠山泰国
 一頭目の馬は、〔黒漆塗りの鞍を置き、赤糸飾りのしりがい〕は、足利三郎利氏と同足利次郎兼氏
 二頭目の馬は、〔月毛の飾り馬〕里見弥太郎義継と同里見蔵人三郎

寳治二年(1248)後十二月小十二日乙夘。天リ。左親衛御方信讀大般若經結願云々。

読下し                        そらはれ  さしんえい  おんかた しんどく だいはんにゃきょう けちがん   うんぬん
寳治二年(1248)後十二月小十二日乙夘。天リ。左親衛が御方の信讀 大般若經 結願すと云々。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小十二日乙卯。空は晴です。時頼さんが先月24日から始めさせた本読みの大般若経が完了しましたとさ。

寳治二年(1248)後十二月小十三日丙辰。相州。左親衛等令參右大將家法華堂并右京兆墳墓堂等給。恒例御佛事之上。有副供養經巻等。依爲歳末也。

読下し                       そうしゅう   さしんえいら  うだいしょうけ ほけどう なら    うけいちょうふんぼどうら   まい  せし  たま
寳治二年(1248)後十二月小十三日丙辰。相州、左親衛等右大將家法華堂并びに右京兆墳墓堂等へ參ら令め給ふ。

こうれい  おんぶつじ のうえ  そえくよう  きょうかんら あ     さいまつたる  よっ  なり
恒例の御佛事之上、副供養の經巻等有り。歳末爲に依て也。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小十三日丙辰。相州重時さんと時頼さんは、頼朝様の法華堂と義時さんの墓堂へお参りをしました。毎月恒例の法要ですが、特にお経を追加しました。年末だからです。

寳治二年(1248)後十二月小十六日己未。諸人訴論事。於申沙汰條數多々之奉行人者。可有御恩之由。今日被觸仰之云々。

読下し                        しょにんそうろん  こと   もう   さた  じょうすう たた の ぶぎょうにん  をい  は   ごおん あ   べ   のよし
寳治二年(1248)後十二月小十六日己未。諸人訴論の事、申し沙汰の條數多々之奉行人
@に於て者、御恩有る可き之由、

きょう これ  ふ   おお  らる    うんぬん
今日之を觸れ仰せ被ると云々。

参考@申し沙汰の條數多々の奉行人は、決裁事務の多かった担当者。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小十六日己未。人々からの訴訟について、決裁事務を多かった担当者には、褒美を与えるようにと、今日お知らせしましたとさ。

寳治二年(1248)後十二月小十八日辛酉。西國地頭等。寄事於左右。追放譜代書生田所職人之由。所々訴出來間。有其沙汰。相尋子細。慥可停止件濫吹。若不叙用者。可注進其交名之旨。今日被仰六波羅。明石左近將監奉行之。

読下し                        さいごく  ぢとう ら    ことを そう   よ     ふだい  しょせい  たどころしき  ひと  ついほう    のよし
寳治二年(1248)後十二月小十八日辛酉。西國の地頭@等、事於左右に寄せ、譜代の書生・田所職の人Aを追放する之由、

しょしょ  うった いできた   あいだ  そ   さた あ     しさい   あいたず  たしか くだん らんすい ちょうじすべ
所々の訴へ出來るの間、其の沙汰有り。子細を相尋ね、慥に件の濫吹を停止可し。

も   じょようせず  ば   そ  きょうみょう ちゅうしんすべ のむね  きょう ろくはら   おお  らる    あかしさこんしょうげんこれ ぶぎょう
若し叙用不ん者、其の交名を注進可し之旨、今日六波羅へ仰せ被る。明石左近將監之を奉行す。

参考@西國の地頭は、西遷御家人で関東から赴任して行った御家人。
参考A田所職の
は、国衙で土地の把握に関する業務を担当した。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小十八日辛酉。関東から関西以西へ赴任して行った御家人は、何かと文句をつけては、代々受け継いでいる台帳(田文)の管理人や国衙の土地管理業務人を追い出していると、あちこちで訴えが出ているので、裁決がありました。事情を詳しく調べ、ちゃんとその横暴を止めさせなさい。もし、云う事を聞かない場合は、その名前を書きだして送るように、六波羅探題へ命令しました。明石左近将監兼綱が担当です。

寳治二年(1248)後十二月小廿日癸亥。明春正月御弓始事。爲試其堪否。陸奥掃部助今日被催射手等之處。左親衛以安東五郎太郎爲御使。被仰遣云。寒中的調者。爲射手尤不便也。且聊属暖氣之後。弓猶可得其體之旨。古老射手等所申也。此上者明春可有其沙汰歟。如何云々。掃部助被報申云。年内的調者。依爲古例雖申行。頗不庶幾事也。今仰旁可相叶射手之所存歟。古老口傳可爲向後例之由云々。仍被止舊年的調云々。

読下し                     みょうしゅんしょうがつ おんゆみはじめ こと  そ   たんぴ  ため    ため
寳治二年(1248)後十二月小廿日癸亥。明春 正月の 御弓始の 事、其の堪否を試さん爲、

むつかもんのすけ  きょう  いてら    もよおさる のところ  さしんえい   あんどうごろたろう    もっ  おんし  な     おお  つか  され  い
陸奥掃部助、今日射手等を催被る之處、左親衛、安東五郎太郎を以て御使と爲し、仰せ遣は被て云はく。

かんちゅう まとしらべは  いて  ためもっと ふびんなり
寒中の的調者、射手の爲尤も不便也。

かつう いささ だんき   ぞく  ののち  ゆみなお そ  てい  え   べ   のむね  ころう    いてら  もう  ところなり
且は聊か暖氣に属す之後、弓猶 其の體を得る可し之旨、古老の射手等申す所也。

 こ  うえは みょうしゅん そ   さた あ   べ   か   いかん  うんぬん  かもんのすけ ほう  もうされ  い
此の上者 明春 其の沙汰有る可き歟。如何と云々。掃部助 報じ申被て云はく。

ねんない まとしらべは  これいたる  よっ  もう  おこな  いへど   すこぶ しょきせざ  ことなり  いま  おお かたがた いて の しょぞん  あいかな  べ   か
年内の的調者、古例爲に依て申し行うと雖も、頗る庶幾不る事也。今に仰せ 旁 射手之所存に相叶う可き歟。

ころう   くでんきょうこう れいたるべ   のよし  うんぬん  よっ きゅうねん まとしらべ や   られ    うんぬん
古老の口傳向後の例爲可き之由と云々。仍て舊年の的調を止め被ると云々。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小二十日癸亥。来春正月の弓始め式について、その上手下手を試すため、小侍所別当の陸奥掃部助北条実時は、今日射手を集めた処、時頼さんは安東五郎太郎に使いをさせて云い伝えました。「寒い中での弓のうまい下手を調べる試し射ちは、射手にとって難儀な事である。多少暖かくなった後の方が、弓の威力も出て来るのだと、年よりの弓名人が云っているのです。そういう訳なので、来春にそうした方が良い。どうかなー。」とのことです。実時は答えて云いました。「暮れの内の試し射ちは、昔からの慣習なので云いつけて行いますけど、とても願っていることではありません。今の仰せられた事は、射手の皆さんの思いと会っていると思います。古強者の云ってる事が、今後の例と言えましょう。」と云い、暮れの試し射ちは止める事にしましたとさ。

寳治二年(1248)後十二月小廿三日丙寅。今日。雜人訴訟事。被定其法。其事書樣。
一雜人訴訟事
 百姓等与地頭相論之時。百姓有其謂者。於妻子所從以下資財作毛等者。可被糺明也。田地并令安堵其身事。可 爲地頭進止歟。

読下し                         きょう   ぞうにん  そしょう  こと  そ   ほう  さだ  らる    そ   ことがき  さま
寳治二年(1248)後十二月小廿三日丙寅。今日、雜人が訴訟の事、其の法を定め被る。其の事書の樣。

ひとつ ぞうにんそしょう  こと
 一 雜人訴訟の事
@

  ひゃくしょうら ぢとうと そうろん のとき ひゃくしょう そ  いわ  あ   ば   さいししょじゅう いげ しざいさくもうら    をい  は  きゅうめいさる  べ   なり
 百姓等 地頭与相論之時、百姓 其の謂れ有ら者、妻子所從以下資財作毛等に於て者、糺明被る可き也。

  でんち なら    そ   み   あんどせし  こと   ぢとう   しんじたる べ   か
 田地并びに其の身を安堵令む事、地頭の進止爲可き歟。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小二十三日丙寅。今日、一般庶民からの訴訟について、その法を決めました。その書いてある内容は、
一 一般庶民からの訴訟について
  百姓などと地頭との裁判は、百姓に道理があれば、妻子下人以下の財産や作物については、明らかにするべきである。田圃やその身柄を守る事は、地頭の職とする。

解説@雜人訴訟の事は、同文が金沢文庫の手紙に残っている。鎌倉遺文7032号にあり(未確認)。かつて泰時の時代は百姓の訴えは地頭の許可が必要だった。ここで新たに百姓と地頭とを対等化し始めている。かつて妻子所從資材作毛を取り上げられていたが、由緒により守られ、田地とその身を守る事を地頭の職務とした。百姓の悪党化防止の為か?

寳治二年(1248)後十二月小廿五日戊辰。關東御分寺社不幾。一身兼帶數ケ所別當神主供僧職等事。向後被停止之。平均可有補任沙汰之旨。及評議云々。

読下し                         かんとうごぶん   じしゃ いく    ざる
寳治二年(1248)後十二月小廿五日戊辰。關東御分の寺社@幾なら不。

いっしん  すうかしょ  べっとう  かんぬし  ぐそうしきら   けんたい    こと  きょうこうこれ  ちょうじされ
一身で數ケ所の別當・神主・供僧職等を兼帶Aする事、向後之を停止被、

へいきん  ぶにん   さた あ   べ   のむね  ひょうぎ  およ   うんぬん
平均の補任の沙汰有る可き之旨、評議に及ぶと云々。

参考@關東御分の寺社は、幕府の直願寺の寺社。
参考A兼帯は兼務。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小二十五日戊辰。鎌倉幕府直轄の神社仏閣は限りありません。一人で数か所の寺の筆頭や神主やお供の坊さんを兼ねて勤める事は、今後禁止する。全体に行き届く任命の命令をすべきであると、検討をしました。

寳治二年(1248)後十二月小廿六日己巳。佐々木法橋孫子等。有相論事。与鴆毒於兄。欲令殺其身之由云々。可糺明之由。所被仰六波羅也。

読下し                          ささき ほっきょう   まご ら   そうろん  ことあ
寳治二年(1248)後十二月小廿六日己巳。佐々木法橋が孫子等、相論の事有り。

ちんどく を あに  あた    そ   み   ころせし      ほっ    のよし  うんぬん  きゅうめいすべ のよし   ろくはら   おお  らる ところなり
鴆毒@於兄に与へ、其の身を殺令めんと欲する之由と云々。糺明可き之由、六波羅へ仰せ被る所也。

参考@鴆毒(ちんどく)は、鴆と呼ばれる空想上の鳥の羽の毒。一説には、パプアニューギニアに 住むピトフイという毒鳥と同種の絶滅種の羽ともいうが、実際には亜砒酸との説が有力 である。あるいは酖毒とも書く。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小二十六日己巳。佐々木法橋(近江入道虚仮信綱カ?)の子孫同士で訴訟があり、毒を兄に飲ませて殺そうとした聞く、その真相を突きとめるように、六波羅探題へ命令しましたとさ。

寳治二年(1248)後十二月小廿八日辛未。今日。足利左馬頭入道政義与結城上野入道日阿相論書札礼事。被宥仰兩方。被閣之。此事。去比就雜人事。自足利遣結城状云。結城上野入道殿。足利政所云々。日阿得此状。投返事云。足利左馬頭入道殿御返事。結城政所云々。僕卿禪門甚憤之。訴申子細云。吾是右大將家御氏族也。日阿仕彼時。于今現存者也。相互未及子孫。忽忘往事。現奇恠。爭無誡沙汰哉云々。仍被下彼状於日阿之時。日阿稱不能費紙筆而献覽一通文書。是則右大將家御時。注爲宗之家子侍交名。被載御判之御書也。彼禪門嚴閣総州与日阿〔于時結城七郎〕可爲同等礼之由分明也。右京兆〔于時江間小四郎〕爲家子專一也。相州披覽之。召留件正文於箱底。染自筆書案文。被授日阿。剩被副送同御自筆消息状。其詞云。
 右大將家御書正文一通給置候訖。被載曩祖潤色之間。爲家規摸之故也。但御用之時者宜随命。且爲後日。以自 筆所書進案文候也云々。
日阿還施面目云々。

読下し                         きょう   あしかがさまのかみにゅうどうせいぎ と ゆうきこうづけにゅうどうにちあ  しょさつれい  こと  そうろん
寳治二年(1248)後十二月小廿八日辛未。今日、 足利左馬頭入道政義@与 結城上野入道日阿、書札礼の事を相論す。

りょうほう  なだ  おお  られ  これ  さしお れる
兩方を宥め仰せ被、之を閣か被。

 こ  こと  さんぬ ころ  ぞうにん  こと  つ     あしかがよ   ゆうき   つか    じょう い       ゆうきこうづけにゅうどうどの  あしかがまんどころ うんぬん
此の事、去る比、雜人の事に就き、足利自り結城へ遣はす状に云はく。結城上野入道殿、足利政所Aと云々。

にちあ こ   じょう え   へんじ  とう     い       あしかがさまのかみにゅうどうどの ごへんじ  ゆうきまんどころ うんぬん
日阿此の状を得、返事を投じて云はく。 足利左馬頭入道殿 御返事、結城政所と云々。

ぼっきょうぜんもん はなは これ  いか    しさい  うった もう    い
僕卿B禪門 甚だ之を憤り、子細を訴へ申して云はく。

われ  これうだいしょうけ  おんうじぞくなり  にちあ か  ときつか   いまに げんぞん  ものなり  あいたが   いま   しそん  およ
吾は是右大將家が御氏族也。日阿彼の時仕へ、今于現存の者也。相互いに未だ子孫に及ばず。

ちま おうじ  わす    きっかい  あら     いかで いさ     さた な   や   うんぬん
忽ち往事を忘れ、奇恠を現はす。爭か誡めの沙汰無き哉と云々。

よっ  か   じょう を にちあ  くださる  のとき  にちあ しひつ ついや   あたはず  しょう て いっつう  もんじょ  けんらん
仍て彼の状C於日阿へ下被る之時、日阿紙筆を費すに不能と稱し而一通の文書を献覽す。

これ すなは うだいしょうけ  おんとき  むねとたる の いえのこ さむらい きょうみょう ちゅう   ごはん   の   らる  の おんしょなり
是 則ち右大將家の御時、 宗爲 之 家子 侍 の交名を注し。御判を載せ被る之御書也。

か   ぜんもん げんこうそうしゅう と にちあ  〔 ときにゆうきのしちろう 〕  どうとう   れいたる のよしぶんみょうなり

彼の禪門 嚴閣総州 与日阿〔時于結城七郎〕同等の礼爲可之由分明也。

うけいちょう 〔ときに  えまのこしろう 〕 いえのこせんいつ  な   なり  そうしゅう これ  ひらん
右京兆〔時于江間小四郎〕家子專一を爲す也。相州 之を披覽す。

くだん しょうもんをはこぞこ  めしとど   みづか ふで  そ  あんぶん  か     にちあ  さず  らる
件の正文於箱底に召留め、自ら筆を染め案文Dを書き、日阿に授け被る。

あまつさ おな    おんじひつ しょうそこじょう そ   おくらる    そ   ことば い
 剩へ同じく御自筆の消息状を副へ送被る。其の詞に云はく。

  うだいしょうけ  おんしょ  せいぶんいっつうたま    お  そうら をはんぬ のうそ じゅんしょく の   らる のあいだ  いえ   きぼたる のゆえなり

 右大將家の御書の正文 一通給はり置き候ひ訖。 曩祖の潤色Eを載せ被る之間、家の規摸F爲之故也。

  ただ  ごよう のときは よろ    めい  したが  かつう  ごじつ  ため  じひつ  もっ  あんぶん  か   すす そうら ところなり うんぬん
 但し御用之時者宜しく命に随う。且は後日の爲、自筆を以て案文を書き進め候う所也と云々。

にちあ かえっ めんもく ほどこ   うんぬん
日阿 還て面目を施すと云々。

参考@足利正義は、法名で義氏。
参考A
政所は、足利は源氏御門葉なので政所を持って良い。
参考B僕卿は左馬守の唐名。
参考Cかの状は、足利の訴状。陳状を出さず。
参考D案文は、写し。
参考E潤色は普通飾り言葉と使うが、ここでは良い言葉と使っている。
参考F家の規模は、家格を差している。

現代語宝治二年(1248)閏十二月小二十八日辛未。今日、足利左馬頭入道政義と結城上野入道日阿朝光は、手紙の書き方で訴訟しました。双方をなだめられて棄却しました。これについては、先達て庶民の事について足利から結城へ出した手紙の中で、「結城上野入道殿へ足利政所(事務所)から」とあったそうな。日阿はこの手紙を貰って返事に書いたのは、「足利左馬入道殿へご返事を結城政所(事務所)」と書いたそうな。
足利政義は、これをとても怒って、いきさつを訴えて云うには、「私は、源氏一族で頼朝様の御門葉である。日阿は、その時に頼朝様に仕え、今でも生きている。お互いに子供の代になった訳ではない。安易に昔を忘れて、分不相応な行動をしている。どうして改めるように注意をしないのですか。」との事です。
そこで、その訴状を日阿へ渡した時に、日阿は「紙を余分に使う必要はない。」と云って一通の文書を見せました。これは、頼朝様の治世の時代に、主だった頼朝様の一家である侍の名前を書き出し、紙面の袖に花押を書いた文書です。
その出家者前上総介足利と日阿〔当時は結城七郎〕は同等の礼を取れるのははっきりとしています。
右京兆北条義時〔当時は江間小四郎〕は、一家の筆頭に書いてあります。
重時はこれを見て、その正文を文書箱の中に受け取って入れて、自分で写し文を書いて、日阿に渡しました。そればかりか、同様にいきさつを自分で書いて、添え状として渡しました。その内容は、
 頼朝様の花押のある正文一通を受け取って保存します。先祖の手柄を書いてあるので、わが北条家の家格が分かるからです。
 但し、そちらが必要な時は何時でもお渡しします。そう云う事で、後日のために自筆で写しを書いてお渡ししました。
だそうな。という訳で、日阿はむしろ名誉を保ちましたとさ。

吾妻鏡入門第卅九巻

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