吾妻鏡入門第四十巻

建長二年(1250)二月大

建長二年(1250)二月大五日辛丑。諸國守護地頭御家人等背六波羅召苻由事。有其沙汰。向後於如此之輩者。可被處罪科之由。被仰出云々。

読下し                   しょこく   しゅご ぢとう   ごけにんら    ろくはら  しょうふ  そむ  よし  こと  そ   さた あ
建長二年(1250)二月大五日辛丑。諸國の守護地頭の御家人等、六波羅の召苻に背く由の事、其の沙汰有り。

きょうこう  かく ごと  のやから をい  は   ざいか  しょさる  べ   のよし  おお  いださる   うんぬん
向後、此の如き之輩に於て者、罪科に處被る可き之由、仰せ出被ると云々。

現代語建長二年(1250)二月大五日辛丑。諸国の守護地頭をしている御家人が、六波羅探題の呼び出しに応じないについて、処分を決めました。今後、そういう連中については、罪人として処分するように、仰せになられましたとさ。

建長二年(1250)二月大八日甲辰。相州扶病氣。被參大倉藥師堂。聊依有靈夢之告。殊被抽信心云云。

読下し                  そうしゅう やまい け   たす   おおくらやくしどう まいらる
建長二年(1250)二月大八日甲辰。相州、病の氣を扶け、大倉藥師堂@へ參被る。

いささ れいむのつげあ    よっ    こと  しんじん  ぬき    らる    うんぬん
聊か靈夢之告有るに依て、殊に信心を抽んじ被ると云云。

参考@大倉藥師堂は、義時建立。鎌倉市二階堂421、後の覚園寺。

現代語建長二年(1250)二月大八日甲辰。相州時頼さんは、病気を押して大倉薬師堂へお参りです。多少夢のお告げがあったので、特に信仰を深くしましたとさ。

建長二年(1250)二月大十二日戊申。相州於鶴岡八幡宮。被行祈祷云々。

読下し                     そうしゅう つるがおかはちまんぐう をい    きとう   おこなはれ  うんぬん
建長二年(1250)二月大十二日戊申。相州、 鶴岡八幡宮に 於て、祈祷を行被ると云々。

現代語建長二年(1250)二月大十二日戊申。時頼さんは、鶴岡八幡宮で御祈祷を行わせましたとさ。

建長二年(1250)二月大十八日甲寅。相州出仕給。日來聊不例。於今者無殊事歟。

読下し                    そうしゅう  しゅっし  たま   ひごろ いささ ふれい  いま  をい  は こと    こと な  か
建長二年(1250)二月大十八日甲寅。相州、出仕し給ふ。日來聊か不例。今に於て者殊なる事無き歟。

現代語建長二年(1250)二月大十八日甲寅、時頼さんが幕府へ出勤しました。普段は病気中ですが、今日は特に問題が無いらしい。

建長二年(1250)二月大廿三日己未。鶴岡別當法印〔隆弁〕申可興隆園城寺由之事。爲C左衛門尉奉行。今日有其沙汰。當寺事。關東代々御歸依異他。殊有御助成云々。

読下し                   つるがおかべっとうほういん〔りゅうべん〕おんじょうじ こうりゅうすべ  よしのこと  もう    せいさえもんのじょうぶぎょうたり
建長二年(1250)二月大廿三日己未。鶴岡 別當法印〔隆弁〕園城寺を 興隆可き由之事を申す。 C左衛門尉 奉行爲。

きょう  そ   さた あ     とうじ   こと  かんとうだいだい  ごきえ  こと    ほか  こと  ごじょうせいあ    うんぬん
今日其の沙汰有り。當寺の事、關東代々の御歸依異なる他、殊に御助成有りと云々。

現代語建長二年(1250)二月大二十三日己未。鶴岡八幡宮の筆頭法印隆弁は、園城寺三井寺を盛んにしたいとと上申しました。左衛門尉清原満定が担当として、今日その検討がありました。この寺については、鎌倉幕府代々の信仰は他の寺とは違いますので、特に援助する事になったそうな。

建長二年(1250)二月大廿六日壬戌。將軍家可有文武御稽古之由。相州以消息状令諌申之給。爲和漢御學問。則縫殿頭。參河前司。爲弓馬御練習。亦秋田城介。小山出羽前司。遠江次郎左衛門尉。武田五郎。三浦介等。常令祗候御所中。各可随召云々。又爲和泉前司。武藤左衛門尉奉行。人々子息之中撰試好文并器量之士。可候同學趣。内々被仰付之云々。

読下し                     しょうぐんけ ぶんぶ  おんけいこあ   べ   のよし  そうしゅう しょうそこじょう もっ   これ  かん  もう  せし  たま
建長二年(1250)二月大廿六日壬戌。將軍家、文武の御稽古有る可き之由、相州、消息状を 以て、之を諌じ申さ令め給ふ。

 わかん  ごがくもん  ため すなは ぬいどののとう みかわのぜんじ
和漢の御學問の爲、則ち 縫殿頭、 參河前司。

きゅうば ごれんしゅう  ため  また あいだのじょうすけ おやまのでわぜんじ とおとうみのじろうさえもんのじょう たけだのごろう  みうらのすけら
弓馬の御練習の爲、亦 秋田城介、 小山出羽前司、 遠江次郎左衛門尉、 武田五郎、三浦介等、

つね ごしょちゅう  しこうせし   おのおの めし したが べ    うんぬん  また  いずみのぜんじ  むとうさえもんのじょう ぶぎょうたり
常に御所中に祗候令め、 各 召に随う可きと云々。又、和泉前司、武藤左衛門尉 奉行爲。

ひとびと しそく のうち   ため   ぶん  この  なら    きりょう のし   えら    どうがく  そうら べ   おもむき ないない  これ  おお  つけらる   うんぬん
人々子息之中から試しに文を好み并びに器量之士を撰び、同學に候う可きの趣、 内々に之を仰せ付被ると云々。

現代語建長二年(1250)二月大二十六日壬戌。将軍家頼嗣様は、文武両道の稽古をするべきであると、時頼さまは書状を出して忠告を与えました。日本や中国の文学の勉強には、縫殿頭中原師連や、三河前司新田頼氏。弓矢や乗馬の練習には、秋田城介安達義景・出羽前司小山長村・遠江次郎左衛門尉佐原光盛・武田五郎(五郎三郎政綱?)・三浦介佐原盛時などが、いつも御所に来ていて、呼び出しに応ずるように。」との事です。和泉前司二階堂行方・武藤左衛門尉景頼が担当するように。人々も、息子の中で文書が好きな者や弓矢の才能のある武士を撰んで、一緒に学ぶようにと、内々に云いつけましたとさ。

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