吾妻鏡入門第四十巻

建長二年(1250)四月大

建長二年(1250)四月大二日丁酉。諸人訴論事。於引付。勘决文書理非之間。加了見之處。旨趣爲分明者。任先規不能對决。又引付事。巳尅以前可始行之。云頭人。云奉行人。莫及遲參。且可進覽時付着到之由。被觸仰三方引付云々。秋田城介爲奉行云々。

読下し                   しょにん そろん  こと  ひきつけ  をい    もんじょ   りひ   かんけつ   のあいだ
建長二年(1250)四月大二日丁酉。諸人訴論の事、引付に於て、文書の理非を勘决する之間、

りょうけん くは    のところ  しいしゅぶんめいたらば   せんき  まか  たいけつ  あたはず
了見を加へる之處、旨趣 分明 爲者、先規に任せ對决に不能。

また  ひきつけ こと  みのこくいぜん  これ  しぎょうすべ   とうにん  い   ぶぎょうにん  い     ちさん  およ  なか
又、引付の事、巳尅以前に之を始行可し。頭人と云ひ奉行人と云ひ、遲參に及ぶ莫れ。

かつう ときつけ ちゃくとう  しんらんすべ  のよし  さんぽう  ひきつけ  ふ   おお  らる    うんぬん  あいだのじょうすけ ぶぎょう  な     うんぬん
且は時付の着到を進覽可し之由、三方の引付に觸れ仰せ被ると云々。 秋田城介、奉行を爲すと云々。

現代語建長二年(1250)四月大二日丁酉。領地の訴訟については、裁判担当官の引付衆が証拠文書の内容を正しいものと見極めて判断し、内容がはっきりしている時は、先例通りにして訴訟をする必要はない。又、裁判受付の引付については、午前10時以前に開始するように。班長も担当官も遅れる事のないように。又、受付時刻の書き出しを見せなさいと、三班の裁判担当官に命令を出しました。秋田城介安達義景は担当しました。

建長二年(1250)四月大三日戊戌。鶴岡神事也。

読下し                   つるがおか しんじなり
建長二年(1250)四月大三日戊戌。鶴岡の神事也。

現代語建長二年(1250)四月大三日戊戌。鶴岡八幡宮の神事です。

建長二年(1250)四月大四日己亥。於幕府有御勝負事。人々參進。如前右馬權頭。尾張前司。武藏守。秋田城介着座。面々及合手引出物。此間。式部兵衛太郎光政等有喧嘩。以引出物投合手。仍滿座興宴頗醒畢。于時前右典厩殊加禁制之間。光政起座云々。

読下し                   ばくふ  をい  おんしょうぶ  ことあ     ひとびとさんしん
建長二年(1250)四月大四日己亥。幕府に於て御勝負の事有り。人々參進す。

さきのうまごんのかみ おわりのぜんじ  むさしのかみ あいだのじょうすけ ごと     ちゃくざ
前右馬權頭、尾張前司、武藏守、 秋田城介の如きが着座す。

めんめんあいて  ひきでもの  およ    こ   かん  しきぶのひょうえたろうみつまさら けんか あ     ひきでもの  もっ   あいて   な
面々合手に引出物に及ぶ。此の間、式部兵衛太郎光政等 喧嘩有り。引出物を以て合手に投ぐ。

よっ  まんざ きょうえん すこぶ さ  をはんぬ  ときにさきのうてんきゅう  こと  きんせい  くは   のあいだ  みつまさ ざ  た    うんぬん
仍て滿座の興宴 頗る醒め畢。時于前右典厩、殊に禁制を加うる之間、光政座を起つと云々。

現代語建長二年(1250)四月大四日己亥。幕府で賭け事の勝負がありました。人々が集まりました。前右馬権頭北条政村・尾張前司北条時章・武蔵守北条時直・秋田城介安達義景などが、席に付きました。それぞれ賭け用の品物を見せ合いました。この時に式部兵衛太郎伊賀光政達が喧嘩を始めて、品物を相手に放り投げました。それで折角の楽しみが興ざめとなりました。そこで、前右典厩政村が特に注意をした処、光政は席を立って出て行ってしまいましたとさ。

建長二年(1250)四月大五日庚子。評定之次。式部兵衛太郎光政去夜於御前依現無礼事。可被處罪科否。雖有其沙汰。所被相宥也。但可誡向後之由。被仰付式部大夫入道光西云々。

読下し                   ひょうじょうのついで   しきぶのひょうえたろうみつまさ  さんぬ よ ごぜん  をい  ぶれい  こと  あらは   よっ
建長二年(1250)四月大五日庚子。評定 之次に、式部兵衛太郎光政、去る夜御前に於て無礼の事を現すに依て、

ざいか  しょさる  べ     いな    そ   さた あ    いへど   あいゆるさる ところなり
罪科に處被る可きや否や、其の沙汰有ると雖も、相宥被る所也。

ただ きょうこう  いさ  べ  のよし  しきぶのたいふにゅうどうこうさい おお  つ   らる   うんぬん
但し向後を誡む可き之由、式部大夫入道光西に仰せ付け被ると云々。

現代語建長二年(1250)四月大五日庚子。政務会議のついでに、式部兵衛太郎伊賀光政の夕べの将軍の前での無礼なふるまいをしたので、罰する事にしようかどうか検討しましたが、将軍は許しました。但し、今後の行動を注意しておくように、式部大夫入道光西伊賀光宗に命じましたとさ。

建長二年(1250)四月大十六日辛亥。山内證菩提寺住持申當寺修理事。爲C左衛門尉滿定奉行。今日有其沙汰。早召損色。可成土木之功之由。被仰出。是右大將家御時。爲資佐那田余一義忠菩提。建久八年建立之後。雨露雖相浸。未能此式云々。

読下し                    やまのうち しょうぼだいじ じゅうじ とうじ   しゅうり  こと  もう

建長二年(1250)四月大十六日辛亥。山内の證菩提寺@住持當寺の修理の事を申す。

せいさえもんのじょうみつさだぶぎょう  な    きょう  そ   さた あ
C左衛門尉滿定奉行と爲し、今日其の沙汰有り。

はや  そしき  め     とぼく のこう   な   べ   のよし  おお いださる
早く損色Aを召し、土木之功を成す可き之由、仰せ出被る。

これ  うだいしょうけ  おんとき  さなだのよいちよしただ  ぼだい  たす      ため  けんきゅうはちねん こんりゅうののち
是、右大將家の御時、佐那田余一義忠の菩提を資けんが爲、 建久八年 建立之後、

 あめつゆあいおか  いへど   いま  かく  しき  あた      うんぬん
 雨露 相浸すと雖も、未だ此の式に能はずと云々。

参考@證菩提寺は、神奈川県横浜市栄区上郷町1864。頼朝が石橋山合戦で戦死した佐那田余一義忠を祀る。
参考A損色は、建物の修理についての見積。そんじき。

現代語建長二年(1250)四月大十六日辛亥。山内の證菩提寺の住職が、寺の修理を望んできました。左衛門尉清原満定が担当して、今日検討がされました。早く建物の修理についての見積もりを出させて、修理をするようにと、仰せになられました。このお寺は、頼朝様の時代に、佐那田余一義忠の成仏を助けるために建久8年(1197)建立した後、雨露が建物を損傷してきましたが、未だに修理をしていませんでしたとさ。

建長二年(1250)四月大廿日乙夘。仰保々檢断奉行人及地下。凡卑之輩太刀并諸人夜行之時帶弓箭事。可令停止之由云々。明石左近將監兼綱傳仰於諸方云々。

読下し                   ほうほう  けんだんぶぎょうにんおよ  ぢげ   おお
建長二年(1250)四月大廿日乙夘。保々の檢断奉行人 及び地下に仰せて、

ぼんぴのやから  たち なら   しょにんやぎょうのとき ゆみや  お     こと  ちょうじせし  べ   のよし  うんぬん
凡卑之輩の太刀并びに諸人夜行之時弓箭を帶びる事、停止令む可き之由と云々。

あかしさこんしょうげんかねつな おお  を しょほう  つた   うんぬん
明石左近將監兼綱、仰せ於諸方に傳うと云々。

現代語建長二年(1250)四月大二十日乙卯。町内会保の犯罪監察者と地元の顔役に命令して、武士以外の刀の携帯それと一般人が夜出歩く時に弓矢を持つことを禁止させるようにとの事です。明石左近将監兼綱に命じて、あちこちに告げさせましたとさ。

建長二年(1250)四月大廿五日庚申。諸御家人任官之間。無本官之輩。直可任左右衛門尉之由望申之。向後可停止之由被仰出。C左衛門尉爲奉行。

読下し                     しょごけにん にんかんのあいだ  もと  かんな  のやから  じき  さゆうえもんのじょう  にん  べ   のよし  これ  のぞ  もう
建長二年(1250)四月大廿五日庚申。諸御家人任官之間、 本の官無き之輩、直に左右衛門尉に任ず可き之由、之を望み申す。

きょうこう ちょうじすべ  のよしおお  いださる   せいさえもんのじょうぶぎょう  な
向後、停止可き之由仰せ出被る。C左衛門尉奉行を爲す。

現代語建長二年(1250)四月大二十五日庚申。御家人の官職に付いて、何も官職の無い者が、すぐに左右衛門尉に任官したいと望みます。今後、禁止するよう左衛門尉清原満定が担当します。

建長二年(1250)四月大廿九日甲子。雜人訴訟事。諸國者可帶在所地頭擧状。鎌倉中者。就地主吹擧。可申子細。無其儀者。不可用直訴之由。今日被仰遣問注所政所。是爲被禁直訴之族也。

読下し                     ぞうにんそしょう  こと  しょこく  もの  ざいしょ  ぢとう   きょじょう たい  べ
建長二年(1250)四月大廿九日甲子。雜人訴訟の事、諸國の者は在所の地頭の擧状を帶す可し。

かまくらちう  もの     ぢぬし  すいきょ  つ       しさい  もう   べ
鎌倉中の者は、地主の吹擧に就きて、子細を申す可し。

 そ  ぎ な   もの    じきそ  もち  べからず のよし  きょうもんちゅうじょ まんどころ おお  つか  さる    これ  じきそのやから  きん  られ  ためなり
其の儀無き者は、直訴を用う不可之由、今日問注所・政所に仰せ遣は被る。是、直訴之族を禁ぜ被ん爲也。

現代語建長二年(1250)四月大二十九日甲子。一般人の訴訟について、地方のものは、住んでいる所の地頭の許可状を持ってくること。鎌倉内に居住のものは、地主の推薦を貰って訴訟をしなさい。そのようにしない者は、直接訴訟を受けてはならないと、今日裁判事務所・政務事務所に命令されました。これは、すぐに直訴をする者を禁止するためです。

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