吾妻鏡入門第四十巻

建長二年(1250)十月小

建長二年(1250)十月小七日己亥。京都大番間事。有其沙汰。諸御家人等。或褊惣領主。或背守護人之間。属其方。可令勤仕之由。近年頻望申。縡已濫吹之基也。於向後者。若随守護之催。若属一門上首可勤之。任雅意事。不可有免許之由云々。

読下し                   きょうとおおばん あいだ こと   そ   さた あ     しょごけにんら    ある    そうりょうしゅ  さみ
建長二年(1250)十月小七日己亥。京都大番@の間の事、其の沙汰有り。諸御家人等、或ひは惣領主を褊しA

ある    しゅごにん  そむ  のあいだ  そ   かた  ぞく    きんじ せし  べ    のよし  きんねんしき   のぞ  もう     ことすで  らんすいの もといなり
或ひは守護人に背く之間、其の方Bへ属し、勤仕令む可し之由、近年頻りに望み申す。縡已に濫吹之 基也。

きょうこう  をい  は   もし    しゅごのもよおし  したが     もし    いちもん  うはくび  ぞく   これ  きん  べ
向後に於て者、若くは守護之催に随うか、若くは一門の上首に属し之を勤ず可し。

 がい   まか    こと  めんきょあ   べからず のよし  うんぬん
雅意に任せる事、免許有る不可之由と云々。

参考@京都大番は、元々C盛が関東武士への威嚇と親近感を作るため手弁当で二年間經と朝廷を守護する制度を作った。これを頼朝は半年にして、時頼は三ヶ月にした。守護の役割として軍勢催促、悪人追捕、犯人処刑の仕事があったが、大番催促もしていた。
参考A総領主を(さみ)しは、馬鹿にして。総領主や総地頭や一族の惣領は大番催促をしていた。
参考B其の方は、総領主や守護人以外の誰かなので、惣領制の崩壊の始り。時頼は別の機会にも総領と庶子は並んで戦うように示している。

現代語建長二年(1250)十月小七日己亥。京都大番役に関することを、検討採決がありました。諸国の御家人達の間で、総領主を馬鹿にしてないがしろにしたり、守護人の大番催促の命令に反して、他の大物について大番に仕えたいと最近希望する声が多いが、それは規律崩壊の始まりである。今後については、守護の催促に従うか、一族の惣領について勤務しなさい。本人の意のままに好き勝手させることは許可をしてはならないだとさ。

建長二年(1250)十月小十四日丙午。前周防守從五位下藤原朝臣朝親法師卒云々。

読下し                     さきのすおうのかみ じゅごいのげ ふじわらあそんともちかほっし  そつ    うんぬん
建長二年(1250)十月小十四日丙午。 前周防守 從五位下 藤原朝臣朝親法師 卒すと云々。

現代語建長二年(1250)十月小十四日丙午。前周防守従五位下 藤原塩谷朝親法師が亡くなりましたとさ。

建長二年(1250)十月小十六日戊申。貢馬御覽也。奥州。相州以下人々列候云々。

読下し                     くめ ごらんなり  おうしゅう そうしゅう いげ  ひとびとなら  そうら   うんぬん
建長二年(1250)十月小十六日戊申。貢馬御覽也。奥州、相州以下の人々列び候うと云々。

現代語建長二年(1250)十月小十六日戊申。幕府から京都朝廷へ献上する馬を将軍がご覧になる儀式です。奥州重時さん・相州時頼さん以下の人々が並んで従いましたとさ。

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