吾妻鏡入門第四十巻

建長二年(1250)十一月大

建長二年(1250)十一月大一日壬戌。三嶋社神事間。被始御精進。依殊御宿願。今年專可被致精誠之間。兼參籠人數之外。不可有推參儀之由。所被相觸也。

読下し                     みしましゃしんじ あいだ  ごしょうじん  はじ  らる
建長二年(1250)十一月大一日壬戌。三嶋社神事の間、御精進を始め被る。

こと     ごすくがん  よっ    ことしもっぱ せいせい いたさる  べ  のあいだ  かね  さんろう  にんずうのほか  すいさん  ぎ あ  べからずのよし  あいふ   らる ところなり
殊なる御宿願に依て、今年專ら精誠 致被る可き之間、兼て參籠の人數之外、推參の儀有る不可之由、相觸れ被る所也。

現代語建長二年(1250)十一月大一日壬戌。三島神社の神事をしている期間は、精進潔斎を勤めました。特別な願いがあるので、今年こそと精神を清め熱意を持って勤めるので、予め一緒に参拝する事になっている人数以外は、詣でてはいけないと周知させる事にしました。

建長二年(1250)十一月大十一日壬申。入夜。若宮大路大騒動。是故塩谷周防前司入道郎從等。依有確論事及鬪殺。此間。宇都宮下野前司郎等々稱方人蜂起。弥欲増喧嘩。已珎事也。彼輩主人朝親法師他界之後。未過忌景。幕府又御精進折節也。平生雖爲無慙之俗。盍存公私機嫌哉。奇恠之企。爲狼藉重科之由。有其沙汰。殊可加炳誡之旨。被仰含下野前司泰綱。仍直向其塲。相鎭之間。無爲云々。

読下し                       よ   い     わかみやおおじ おおそうどう
建長二年(1250)十一月大十一日壬申。夜に入り、若宮大路で大騒動。

これ  こえんやすおうぜんじにゅうどう   ろうじゅうら   かくろん  ことあ     よっ  とうさつ  およ
是、故塩谷周防前司入道が郎從等、確論の事有るに依て鬪殺に及ぶ。

 こ あいだ  うつのみやしもつけぜんじ  ろうとうら   かたうど  しょう  ほうき    やや        けんか  ま       ほっ    すで  ちんじなり
此の間、宇都宮下野前司が郎等々、方人
@と稱し蜂起す。弥もすれば喧嘩を増さんと欲す。已に珎事也。

か  やから  しゅじんともちかほっし たかいののち  いま  きけい  す      ばくふまたごしょうじん  おりふしなり
彼の輩、主人朝親法師他界之後、未だ忌景を過ぎず。幕府又御精進の折節也。

へいせいむざんのぞく たり  いへど   なん  こうし  きげん  ぞん    や   きっかいのくはだ   ろうぜき  ちょうかたるのよし  そ   さた あ
平生無慙之俗
A爲と雖も、盍ぞ公私の機嫌を存ぜん哉。奇恠之企て、狼藉の重科爲之由、其の沙汰有り。

こと  へいかい  くは    べ   のむね  しもつけぜんじやすつな  おお  ふく  らる
殊に炳誡
Bを加へる可し之旨、下野前司泰綱Cに仰せ含め被る。

よっ  じき  そ   ば   むか    あいしず   のあいだ   ぶい   うんぬん
仍て直に其の塲へ向ひ、相鎭める之間、無爲と云々。

参考@方人は、味方。
参考A無慙之俗は、仏教を知らない連中。
参考B炳誡は、明らかにいましめること。
参考C
下野前司泰綱は、宇都宮氏で政子の妹の息子。

現代語建長二年(1250)十一月大十一日壬申。夜になって、若宮大路で大騒ぎです。これは、塩谷周防前司入道朝親の子分達が、意見が反する事があって相討ちをしました。この間に、宇都宮下野前司泰綱の子分達が、味方だと云って武装集合しました。へたをすると大喧嘩に加わろうとしています。これはとんでもない出来事です。
相討ちの連中は、主人の塩屋朝親法師が亡くなって、未だ喪も明けないし、幕府では将軍が精進潔斎中なのです。普段戒律を破っている俗人の連中ではありますが、どうして幕府や主人の謹慎を分からないのであろうか。とんでもない非常識な行いは、乱暴な行為の重罪であると決裁しました。
特に明らかに戒めるよう、下野前司宇都宮泰綱に云って聞かせました。それで、すぐにその場へ行って静まらせたので、無事だったんだとさ。

建長二年(1250)十一月大廿日辛巳。宇佐美左衛門尉祐泰廷尉事。可有御擧之由。及御沙汰云々。

読下し                     うさみのさえもんのじょうすけやす  ていい  こと  おんきょあ   べ   のよし  おんさた  およ    うんぬん
建長二年(1250)十一月大廿日辛巳。宇佐美左衛門尉祐泰が廷尉の事、御擧有る可し之由、御沙汰に及ぶと云々。

現代語建長二年(1250)十一月大二十日辛巳。宇佐美左衛門尉祐泰の検非違使任官について、推薦すると決裁しましたとさ。

建長二年(1250)十一月大廿八日己丑。放遊浮餐之士。寄事於雙六。好四一半。博奕爲事。就中陸奥。常陸。下総。此三ケ國之間。殊此態盛也。随有風聞之説。今日有驚御沙汰。於自今以後者。圍碁之外。至博奕者。一向可停止之由。所被仰出也。陸奥國留守所兵衛尉。常陸國完戸壹岐前司。下総國千葉介等。可加禁制之由。各含仰旨云々。

読下し                      ほうゆう ふさん のし   ことを すごろく  よ     しいちはん  この    ばくえき  こと  な
建長二年(1250)十一月大廿八日己丑。放遊浮餐之士、事於雙六に寄せ、四一半を好み、博奕を事と爲す。

なかんづく  むつ  ひたち  しもうさ  こ   さんかこくのあいだ  こと  こ  わざさか  なり  ふうぶんのせつあ    したが     きょう おどろ  おんさたあ
就中に陸奥・常陸・下総、此の三ケ國之間、殊に此の態盛ん也。風聞之説有るに随いて、今日驚き御沙汰有り。

いまよ    いご   をい  は   いご のほか  ばくえき  いた    は   いっこう  ちょうじすべ  のよし  おお  いださる ところなり
今自り以後に於て者、圍碁之外、博奕に至りて者、一向に停止可き之由、仰せ出被る所也。

むつのくに  るすどころひょうえのじょう  ひたちのくに  いしどいきぜんじ   しもうさのくに ちばのすけら   きんぜい くは    べ    のよし
陸奥國は 留守所兵衛尉
@、 常陸國は完戸壹岐前司、下総國は千葉介等、禁制を加へる可し之由、

おのおの おお   むね  ふく     うんぬん
 各 仰せの旨を含むと云々。

参考@留守所兵衛尉は、文治6年3月15日任命の井沢家景(留守家景)の子孫であろう。

現代語建長二年(1250)十一月大二十八日己丑。好き勝手に遊び歩いて適当に食っている武士が、双六に身を任せ、四一半のサイコロ賭博を商売にしている。中でも陸奥(福島・宮城・岩手・青森東部)・常陸(茨木)・下総(千葉北部)の三国で、特にその傾向があります。その噂が流れれいると聞いて、今日驚いてし指示がありました。
今後は、囲碁以外の博打については、全て禁止するように、云いだしたのでした。
陸奥国は、幕府代官の留守所兵衛尉。常陸国は、宍戸壱岐前司家周。下総国は千葉介頼胤が、禁止を徹底させるように、それぞれ命令を胸に納めましたとさ。

建長二年(1250)十一月大廿九日庚寅。鷹狩事。諸人已背嚴重制苻。以之爲日次之業。所處喧嘩狼藉。職而由斯。仍可停止之由。被仰諸國守護人等。其状云。
    鷹鸇事
 右。自右大將家御時。諸社贄鷹外禁断之處。近年諸人令好仕云々。甚不可然。於自今以後者。所々供祭之外。大小鷹一向被停止之。存此旨。當國中随聞及。可被加制止。若不承引之輩出來者。早可注申。殊可有御沙汰也者。 依仰執達如件。
  建長二年十一月廿九日                相摸守
                            陸奥守
    某殿

読下し                      たかがり  こと
建長二年(1250)十一月大廿九日庚寅。鷹狩の事。

しょにんすで  げんじゅう せいふ  そむ    これ  もっ  ひなみのなりわ  な      しょしょ   けんかろうぜき  もとより か    よ
諸人已に嚴重の制苻に背き、之を以て日次之業い@と爲し、所處の喧嘩狼藉、職而斯くの由A

よっ  ちょうじすべ  のよし  しょこく  しゅごにんら   おお  らる    そ   じょう い
仍て停止可き之由、諸國の守護人等に仰せ被る。其の状に云はく。

        ようせん  こと
    鷹鸇の事(たか・はやぶさ)

  みぎ  うだいしょうけ  おんときよ     しょしゃにえたか ほか きんだんのところ きんねんしょにん こうじせし    うんぬん  はなは しか  べからず
 右、右大將家の御時自り、諸社贄鷹Bの外 禁断之處、近年諸人 好仕令むと云々。甚だ然る不可。

  いまよ    いご   をい  は   しょしょ  ぐさいのほか  だいしょう たか  いっこう  これ  ちょうじさる
 今自り以後に於て者、所々の供祭之外、大小の鷹、一向に之を停止被る。

   こ   むね  ぞん   とうごくちゅう  き   およ    したが   せいし  くは  らる  べ
 此の旨を存じ、當國中、聞き及ぶに随い、制止を加へ被る可し。

   も  しょういんせざ のやから  い   き     ば  はや ちゅうしんすべ   こと   おんさた あ   べ   なりてへ      おお    よっ  しったつくだん ごと
 若し承引不る之輩、出で來たら者、早く注申可し。殊に御沙汰有る可き也者れば、仰せに依て執達件の如し。

    けんちょうにねんじういちがつにじうくにち                               さがみのかみ
  建長二年十一月廿九日                相摸守

                                                           むつのかみ
                            陸奥守

         ぼうどの
    某殿

参考@日次之業いは、普段から飯の種にしている。
参考A
職而斯くの由は、鷹狩が諸悪の元だ。
参考B
贄鷹は、鷹が取った神への捧げもの(いけにえ)。

現代語建長二年(1250)十一月大二十九日庚寅。鷹狩について、武士達が、厳しい制止の命令書を無視して、これを普段から飯の種にしているのは、全ての喧嘩諸悪の根源である。だから禁止するように、諸国の守護人に命令を出しました。その文書の内容は、
   鷹・はやぶさの鷹狩について
 右は、右大将家頼朝様の時代から、神社の鷹狩での生贄以外は、禁止しておりますが近頃武士が好んでいると聞く。とんでもない事である。今後については、神社へ捧げるお供物以外には、大小の鷹狩を全面的に禁止する。この内容を承知して、守護している国内で噂を聞いたら、禁止するように。もし、承服しない連中が出て来たら、早く名前を書いて出しなさい。特に命令が出ましたので、将軍の仰せに従って書いたのはこの通りです。
  建長2年11月29日        相模守北条時頼
                  陸奥守北条重時
   どちら様にも

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