吾妻鏡入門第四十一巻

建長三年(1251)三月大

建長三年(1251)三月大六日丙寅。武藏國淺草寺。如牛者忽然出現。奔走于寺。于時寺僧五十口計。食堂之間集會也。見件之恠異。廿四人立所受病痾。起居進退不成。居風云云。七人即座死云云。

読下し                   むさしのくにせんそうじ    うし  ごと  もの こつぜん しゅつげん   てらに ほんそう
建長三年(1251)三月大六日丙寅。武藏國淺草寺に、牛の如き者@忽然と出現し、寺于奔走す。

ときに じそう  ごじっく ばか    じきどう の ま  しゅうかいなり
時于寺僧五十口計り、食堂之間に集會也。

くだんのかいい  み    にじうよにん たちどころ びょうあ  う      ききょ  しんたいならざり きょふう  うんぬん  しちにんそくざ  し     うんぬん
件之恠異を見て、廿四人 立所に病痾を受け、起居の進退不成。居風と云云。七人即座に死ぬと云云。

参考@牛の如き者は、牛頭天王を象徴し、子の八王子権現や眷属と共に異国由来の疫病神として祀る。

現代語建長三年(1251)三月大六日丙寅。武蔵国浅草寺に、牛の様な者が突然現れて、寺内を走り回りました。その時は、寺の僧50人ほどが食堂に集って法会をしていました。その怪物を見て、24人がたちまち病気になって、起き上がる事も動くこともできなくなりました。流行性感冒だそうな。7人がすぐに死んだそうな。

建長三年(1251)三月大七日丁卯。去月十四日。熊野山神倉燒亡。此事兼日相州在御夢想之間。殊驚噪賜。造營等事。有御助成之由云云。

読下し                   さんぬ つき じうよか   くまのさん  かみくらしょうぼう
建長三年(1251)三月大七日丁卯。去る月十四日、熊野山の神倉燒亡す。

かく  こと  けんじつそうしゅう ごむそう あ  のあいだ  こと  おどろ さわ  たま    ぞうえいら   こと  ごじょせい あ   のよし  うんぬん
此の事、兼日相州、御夢想在る之間、殊に驚き噪ぎ賜ひ、造營等の事、御助成有る之由と云云。

現代語建長三年(1251)三月大七日丁卯。先月14日、熊野権現山の神の依代としての祭祀場である神倉が燃えました。この事を、前もって時頼さんは夢のお告げがあったので、特に驚いて大騒ぎをして、再建の援助をするようにとの事です。

建長三年(1251)三月大九日己巳。天霽風靜也。今日。相州於御第。被供養法華經形木。鶴岡別當法印爲導師。是依年來御素願。手自令畢功令修結云云。

読下し                   そらはれ かぜしずかなり きょう  そうしゅう  おんだい をい    ほけきょう   かたぎ   くよう さる
建長三年(1251)三月大九日己巳。天霽、風靜也。今日、相州、御第に於て、法華經の形木を供養被る。

つるがおか べっとうほういん どうしたり  これねんらい  ごそがん   よっ    みづか   こう  お   せし しゅうけつせし   うんぬん
 鶴岡 別當法印 導師爲。是年來の御素願に依て、手自ら功を畢へ令め修結令むと云云。

現代語建長三年(1251)三月大九日己巳。空は晴れました。風も静かです。今日、時頼さんは自分の家で、法華経の版木供養をしました。鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁が指導僧です。これは、以前からの願で自ら作成して修練を積み上げましたとさ。

建長三年(1251)三月大十日庚午。天リ。將軍家永福寺之花御覽。被持女房輿。武藏守。相摸右近大夫將監。相摸式部大夫以下爲供奉云云。

読下し                   そらはれ しょうぐんけようふくじ のはら ごらん  にょぼうごし  もち  らる
建長三年(1251)三月大十日庚午。天リ。將軍家永福寺之花御覽。女房輿を持い被る。

むさしのかみ さがみうこんたいしょうげん   さがみしきぶのたいふ いげ  ぐぶ   な     うんぬん
武藏守・相摸右近大夫將監・相摸式部大夫以下供奉を爲すと云云。

現代語建長三年(1251)三月大十日庚午。空は晴です。将軍家頼嗣様は永福寺の桜の花見です。女性用の輿で行きました。武蔵守北条朝直・相模右近大夫将監時定・相摸式部大夫北条時弘以下がお供をしましたとさ。

建長三年(1251)三月大十四日甲戌。去比。信濃國諏方社頭湖大嶋并唐船等出現。片時之間如消而失云云。此事無先規之由。社家驚申云云々。

読下し                    さんぬ ころ  しなののくに すわしゃりょう みずうみ   おおしまなら   からぶねら しゅつげん
建長三年(1251)三月大十四日甲戌。去る比、信濃國 諏方社頭の湖に、大嶋并びに唐船等出現す。

かたときのあいだ け    ごと    て うしな   うんぬん  こ   こと   せんき な   のよし  しゃけおどろ もう    い     うんぬん
片時之間に消すが如くし而失うと云云。此の事、先規無き之由、社家驚き申して云うと云々。

現代語建長三年(1251)三月大十四日甲戌。先達て、信濃国の諏訪大社の先の湖(諏訪湖)に、大きな島と中国のらしき船が現れました。ほんのちょっとの間に姿を消していなくなりましたとさ。こんなことは、今まで例がありませんと、諏訪神社の責任者が驚いて云って来ましたとさ。

建長三年(1251)三月大十五日乙亥。天リ。永福寺恒例之法會也。前右馬權頭。武藏守等參堂云云。」今日。相州造立羅計二星。令供養賜。各可被祈御運賜依事也。

読下し                     そらはれ  ようふくじ こうれいのほうえなり  さきのうまごんのかみ むさしのかみら さんどう    うんぬん
建長三年(1251)三月大十五日乙亥。天リ。永福寺恒例之法會也。前右馬權頭・武藏守等參堂すと云云。」

きょう   そうしゅう らけいにせい  ぞうりゅう    くよう せし  たま    おのおの ごうん  たま         いのらる  べ    よることなり
今日、相州 羅計二星@を造立し、供養令め賜ふ。 各 御運を賜はるようA祈被る可きに依事也。

現代語建長三年(1251)三月大十五日乙亥。それは晴です。永福寺の恒例の法要です。前右馬権頭北条政村・武蔵守北条朝直等がお参りしましたとさ。」
今日、相州時頼さんは、羅喉星と
計都星二つの神像を作って供養をしました。それぞれ良い運を与えられるようにお祈りするためです。

解説@羅計二星は、羅喉星計都星羅喉星は、九曜星の1番目。本尊は大日如来。方位は南東。胎蔵界曼荼羅では南。この年に当たるときは大凶。他行すれば災難有り。又、損失病気口説事あり。慎むべし。計都星は、九曜星の7番目. 本尊 地蔵菩薩. 方位 南西 胎蔵界曼荼羅では東. この年にあたるときは、何ごとも悪し。 商売は損失または住居に心配事あり。 秋冬は少し良し。計都星は、インドの神話の星。計斗星は、九曜の一。昴宿にある星。両手に日月を捧げ憤怒相で青竜に乗る。ヒンドゥー教の神話では日食が起こる月の昇交点がラーフ(羅喉星)、降交点がケートゥ(計斗星)という2人の魔神として擬人化されこの二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で羅喉星・計斗星の名で七曜に付けくわえられ、九曜の一員を成している。
疑問A
各御運を賜はるようは、この5月15日に時宗が誕生するので、その運を祈ったのか?

四月へ

吾妻鏡入門第四十一巻

inserted by FC2 system