吾妻鏡入門第四十一巻

建長三年(1251)五月大

建長三年(1251)五月大一日庚申。天霽。相州室家産所〔松下禪尼甘繩第〕被始御祈祷等行云云。

読下し                   そらはれ そうしゅうしつけ  さんじょ 〔まつしたぜんに  あまなわ  だい 〕   ごきとうら   おこな はじ  らる    うんぬん
建長三年(1251)五月大一日庚申。天霽。相州室家の産所〔松下禪尼の甘繩の第〕御祈祷等を行い始め被ると云云。

現代語建長三年(1251)五月大一日庚申。空は晴れました。相州時頼さんの奥さんのお産場所〔松下禅尼の尼縄の屋敷〕で無事な出産を祈る加持祈祷を始めましたとさ。

建長三年(1251)五月大三日壬戌。天陰。若君御前俄不例。頗御辛苦。諸人群集。營中周章云云。

読下し                   そらくもり わかぎみごぜん にはか ふれい すこぶ  ごしんく  しょにんぐんしゅう  えいちゅう しゅうしょう   うんぬん
建長三年(1251)五月大三日壬戌。天陰。若君御前 俄に不例。頗る御辛苦。諸人群集し、營中 周章すと云云。

現代語建長三年(1251)五月大三日壬戌。空は曇りです。将軍の弟の若君が急に具合が悪くなりました。とても苦しそうです。皆さん集まって来たので、御所の中は大騒ぎだそうな。

建長三年(1251)五月大五日甲子。入道相摸三郎資時〔法名眞昭〕卒。〔年五十三〕修理權大夫時房朝臣三男也。三番之引付頭人也。

読下し                   にゅうどうさがみさぶろうすけとき 〔ほうみょうしんしょう〕 そつ 〔としごじうさん〕
建長三年(1251)五月大五日甲子。入道相摸三郎資時〔法名眞昭〕卒す〔年五十三〕

しゅりごんのたいふときふさあそん さんなんなり さんばんのひきつけとうにんなり
修理權大夫時房朝臣が三男也。三番之引付頭人也。

現代語建長三年(1251)五月大五日甲子。入道相模三郎資時〔出家名は真昭〕亡くなりました〔歳は53です〕。この人は、修理権大夫北条時房さんの三男です。三班の裁判担当官班長です。

建長三年(1251)五月大八日丁卯。以河越修理亮重資。去貞永元年十二月廿三日任廳宣。可令任武藏國惣檢校職之旨。被仰出云云。

読下し                   かわごえしゅりさかんしげすけ もっ   さんぬ じょうえいがんねんじうにがつにじうさんにち ちょうせん  まか
建長三年(1251)五月大八日丁卯。河越修理亮重資を以て、去る 貞永元年 十二月 廿三日 廳宣に任せて、

むさしのくに そうけんぎょうしき にん  せし  べ   のむね  おお  いださる    うんぬん
武藏國 惣檢校職に任じ令む可し之旨、仰せ出被ると云云。

現代語建長三年(1251)五月大八日丁卯。河越修理亮重資を、去る貞永元年(1232)12月23日の院からの命令書の通りに、武蔵国国司代行軍事権職に任命するようにと、云いだしましたとさ。

建長三年(1251)五月大十四日癸酉。天リ。彼御産之事。可爲明日酉剋之由。若宮別當法印〔隆弁〕依被申。參集人々悉退散云云。

読下し                     そらはれ  か   おさん のこと  あすとりのこくたるべ   のよし  わかみやべっとうほういん〔りゅうべん〕 もうさる    よっ
建長三年(1251)五月大十四日癸酉。天リ。彼の御産之事、明日酉剋爲可き之由、若宮別當法印〔隆弁〕申被るに依て、

さんしゅう ひとびと ことごと たいさん   うんぬん
參集の 人々 悉く退散すと云云。

現代語建長三年(1251)五月大十四日癸酉。空は晴です。時頼さんの奥さんの出産は、明日の午後6時頃でしょうと、鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁が云われたので、集まっていた皆さんは、全てその場から引き揚げましたとさ。

建長三年(1251)五月大十五日甲戌。天リ風靜也。今朝。相州以安東五郎太郎爲御使。被送御書於若宮別當法印〔隆弁〕稱。女房産之事。日來可爲今日之由雖被仰。于今無其氣分之間。御存知之旨。頗不審云云。献返報畢。今日酉尅可爲必定。不可有御不審云云。於申刻。漸御氣分出現之間。醫師典藥頭時長朝臣。陰陽師主殿助泰房。驗者C尊僧都。并良親律師等參候。酉終刻。法印〔隆弁〕參加而奉加持之。則若君誕生。奥州兼而被座。此外御一門之老若。惣而諸人參加不可勝計。頃之。御驗者以下祿。各可賜生衣一領。野劔一柄。馬一疋也。于時三浦介盛時〔白直垂〕馳參。抃悦之餘。騎用所之馬以。〔置銀鞍〕自令引泰房與。是名馬也。大嶋鹿毛云云。抑此誕生祈祷之事。對相州。若宮別當法印不等閑被付示之。仍於鶴岡八幡宮寳前。從去年正朔。碎丹誠肝膽。夢告有之。同八月令姙可賜之由。被申之上。今年二月。侍于伊豆國三嶋社壇而祈請之間。同十二日寅尅夢。白髪老翁告法印曰。祈念所之懷婦。來五月十五日酉尅。可男子於平産也云云。果如旨。奇特可謂歟。

読下し                     そらはれかぜしずか
建長三年(1251)五月大十五日甲戌。天リ風靜也。

 けさ  そうしゅう   あんどうごろたろう    もっ  おんし  な     おんしょをわかみやべっとうほういん〔りゅうべん〕   おくられ  しょう
今朝、相州、安東五郎太郎を以て御使と爲し、御書於若宮別當法印〔隆弁〕に送被て稱す。

にょぼう  さん のこと  ひごろ きょうたるべ   のよしおお  らる   いへど   いまに そ  きぶん な   のあいだ  ごぞんちのむね  すこぶ ふしん  うんぬん
女房が産之事、日來今日爲可き之由仰せ被ると雖も、今于其の氣分無き之間、御存知之旨、頗る不審と云云。

へんぽう  けん をはんぬ きょうとりのこくひつじょうたるべ   ごふしん あ  べからず  うんぬん
返報を献じ畢。 今日酉尅必定爲可し。御不審有る不可と云云。

さるのこく をい    ようや ごきぶんしゅつげんのあいだ  くすし  てんやくのかみときながあそん おんみょうじ とのものすけやすふさ
申刻に於て、漸く御氣分出現之間、 醫師は典藥頭時長朝臣。 陰陽師は主殿助泰房。

げんざ  せいそんそうづ なら    りょうしんりっしら さんこう
驗者はC尊僧都并びに良親律師等參候す。

とり  おわ    こく  ほういん 〔りゅうべん〕 まい  くは    てこれ  かじたてまつ  すなは わかぎみ たんじょう
酉の終りの刻、法印〔隆弁〕參り加はり而之を加持奉る。則ち若君 誕生す。

おうしゅう かねてすわらる   こ   ほか ごいちもんのろうにゃく そう  て しょにん  さんか   あげ  かぞ  べからず
奥州 兼而座被る。此の外御一門之老若、惣じ而諸人の參加、勝て計う不可。

しばらく      ごげんざ  いげ   ろく  おのおの すずしいちりょう のだちいっぺい うまいっぴき たま    べ   なり
頃之して、御驗者以下の祿。 各 生衣一領・野劔一柄・馬一疋 賜はる可き也。

ときに みうらのすけもりとき 〔しろ ひたたれ〕  へ   さん   べんえつのあま    きよう    ところのうま   もっ   〔ぎん  くら  お   〕 みづか ひ  せし  やすふさ  あた
時于三浦介盛時〔白の直垂〕馳せ參じ、抃悦之餘り、騎用する所之馬を以て〔銀の鞍を置く〕自ら引き令め泰房に與う。

これめいばなり  おおしまかげ   うんぬん
是名馬也。大嶋鹿毛と云云。

そもそ こ  たんじょうきとうのこと   おうしゅう たい    わかみやべっとうほういん なおざりせず これ  つ  しめさる
抑も此の誕生祈祷之事、相州に對し、 若宮別當法印 等閑不に之を付け示被る。

よっ つるがおかはちまんぐうほうぜん をい    きょねん しょうさくより  たんせいかんたん  くだ    ゆめ  つげこれあ
仍て 鶴岡八幡宮 寳前に於て、去年の正朔從、丹誠肝膽を碎く。夢の告之有り。

おな    はちがつはらまし  たま    べ   のよし  これ  もうさる    うえ  ことしにがつ  いずのくにみしま  しゃだんに じ   て きしょうのあいだ
同じく八月 姙令め賜はる可き之由、之を申被るの上、今年二月、伊豆國三嶋の社壇于侍し而祈請之間、

おな   じうににちとらのこく  ゆめ    はくはつ  ろうおう  ほういん  つ     い
同じき十二日寅尅の夢に、白髪の老翁、法印に告げて曰はく。

きねん    ところのかいふ  きた  ごがつじうごにちとりのこく  なんしをへいさんすべ  なり  うんぬん
祈念する所之懷婦、來る五月十五日酉尅、男子於平産可き也と云云。

はた    むね  ごと    きとく  い     べ   か
果して旨の如し。奇特と謂ひつ可き歟。

現代語建長三年(1251)五月大十五日甲戌。空は晴れて風も静かです。今朝、時頼さんは安東五郎太郎を使者として、お手紙を鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁に送って云うには、「妻の出産について、先日今日だと云っておられましたが、未だにその気配はありませんので、おっしゃっておられることが、とてもおかしいのです。」だそうな。返事をよこしました。「今日の夕方6時頃は絶対ですから、御心配には及びません。」だそうな。
午後4時頃になって、ようやく産気づき始めたので、医師は、典薬寮筆頭丹波時長先生。陰陽師は、主殿助安陪泰房。祈祷師は、清尊僧都と良親律師が来ました。
午後5時半頃になって、法印隆弁が参加して加持祈祷をしました。すぐに男の子が生まれました。
奥州重時さんは、予め座敷に居ました。この他北条一族の老いも若きもみんな集まって、数えきれませでした。
暫くして修験者以下へのお礼の褒美です。それぞれに、すずし絹の織物一揃い、野太刀一、馬一頭を与えました。なんと三浦介盛時〔白の直垂〕で走って来て歓喜のあまり、乗ってきた馬〔銀覆輪の鞍乗せ〕を自分で引いて泰房にくれてやりました。この馬は名馬で大島鹿毛と云います。だいたい、この誕生の祈祷については、時頼さんに対して、鶴岡八幡宮筆頭法印はいい加減には扱わずきちんとやっていました。それなので、鶴岡八幡宮の本殿で、去年の正月朔日から懸命に拝んだので、夢のお告げがありました。同じ八月に、子供を妊娠するように云っておられたので、今年二月、伊豆国の三島大社へ行って本殿に入って拝んでいたら、同じ12日の午前4時頃の夢に、白髪の老人が現れて法印に伝えました。「拝んでいる妊婦は、来る5月15日に男の子を生むであろう。」だとさ。なんとその通りでした。何とも不思議な現象ですね。

建長三年(1251)五月大廿一日庚辰。七夜事。奥州令盡經營賜云々。

読下し                     しちや   こと おうしゅうけえい  つくせし  たま    うんぬん
建長三年(1251)五月大廿一日庚辰。七夜の事、奥州經營を盡令め賜ふと云々。

現代語建長三年(1251)五月大二十一日庚辰。お七夜のお祝いは、奥州重時さんが豪華にセットしましたとさ。

建長三年(1251)五月大廿七日丙辰。天リ。新誕若公令歸住本所賜。其後募御祈之賞。以能登國諸橋保。若宮別當法印被避。工藤三郎左衛門尉光泰爲御使。相州御書云。今度男子平産。併所致御法驗也。就中兼日之仰。一事無相違。不言語之及所云云。」今夕酉尅。南風悪。由比濱之民居燒亡。延御所之南。到隣人家。則南面棟門之災。雖令至營中。希有而遣餘災云云。

読下し                     そらはれ  しんたん わかぎみ  ほんしょ  きおうせし  たま     そ   ご おいの  のしょう つの
建長三年(1251)五月大廿七日丙辰。天リ。新誕の若公、本所へ歸住令め賜ふ。其の後御祈り之賞を募る。

のとのくにもろはしのほう もっ    わかみやべっとうほういん さけさる    くどうのさぶろうさえもんのじょうみつやすおんしたり  そうしゅうおんしょ  い
能登國諸橋保@を以て、若宮別當法印に避被る。工藤三郎左衛門尉光泰 御使爲。相州御書に云はく。

このたび  なんしへいさん  しかしなが  ごほうけん  いた ところなり なかんづく けんじつのおお   いちじ  そうい な     げんご の およ  ざるところ うんぬん
今度の男子平産、 併ら 御法驗の致す所也。就中に兼日之仰せ、一事も相違無く、言語之及ば不所と云云。」

こんゆうとりのこく なんぷうあく   ゆうのはまのみんきょしょうぼう  ごしょのみなみ  の    りんじん  いえ  いた
今夕酉尅。南風悪し。由比濱之民居燒亡。御所之南に延び、隣人の家に到る。

すなは なんめん むねもんのわざわ  えいちゅう いた  せし   いへど    けう     て よさい  のこ    うんぬん
則ち 南面 棟門之災い、營中に至ら令むと雖も、希有にし而餘災を遣すと云云。

参考@諸橋保は、石川県鳳珠郡穴水町字前波ホ-108に諸橋郵便局有。又、近くに諸橋駐在所や公民館もある。

現代語建長三年(1251)五月大二十七日丙辰。空は晴です。新しく生まれた若君は、松下禅尼の尼縄の屋敷から時頼さんの本宅へ戻りました。そのご、お祈りの褒美を与えました。能登国諸橋保(穴水町字前波)を鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁に自分の分から引き去り与えました。工藤三郎左衛門尉光泰が使いです。その手紙には、「今度の男の子の無事な誕生は、つくづく思うにあなたの法力に拠るところです。中でも、前もって云っておられたことが、一つとして相違することなく文句のつけようもありません。」だとさ。」
今日の夕方の6時頃に、南の風が悪さをして、由比ガ浜の庶民の家が焼けました。御所の南まで迫って来て、隣の家まで来ました。すでに南の棟門が燃え、御所内に及ぼうとしましたが、奇跡的に燃えずに済みましたとさ。

建長三年(1251)五月大廿九日戊子。天霽。相州室御産之後。有痢病之惱。已及數日。然押有沐浴事。忽減氣屬可賜之由。被別當法印申。産穢雖不幾。入産所可被爲加持之由。相州頻依有御所望。則參入奉加持云云。

読下し                     そらはれ そうしゅう  しつ おさんののち  りびょう のなや  あ     すで  すうじつ  およ
建長三年(1251)五月大廿九日戊子。天霽。相州が室御産之後、痢病之惱み有り。已に數日に及ぶ。

しか    お     もくよく  ことあ       たちま げんき  しょく たま  べ   のよし  べっとうほういんもうさる
然るに押して沐浴の事有らば、忽ち減氣に屬し賜う可き之由、別當法印申被る。

さんえいくならず いへど  さんじょ  い   かじ なさる   べしのよし  そうしゅうしき    ごしょもう あ     よっ   すなは さんにゅう  かじたてまつ  うんぬん
産穢幾不と雖も、産所に入り加持爲被る可之由、相州頻りに御所望有るに依て、則ち參入し加持奉ると云云。

現代語建長三年(1251)五月大二十九日戊子。空は晴れました。時頼さんの奥さんは出産後、下痢を伴う病気で悩んでいます。すでに数日も経ちました。しかし、無理してでも穢れを落とす沐浴をすれば、たちまち病気は治るでしょうと、鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁が云ってます。出産の穢れからいくらも経っていませんけど、出産した建物に入って加持祈祷をしてほしいと、時頼さんが何度も頼むので、すぐに入って加持祈祷をしましたとさ。

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