吾妻鏡入門第四十一巻

建長三年(1251)十二月大

建長三年(1251)十二月大二日丁巳。宮内少輔泰氏朝臣。於所領下総國埴生庄。潜被遂出家〔年三十六〕。即遂年來素懷云云。偏山林斗薮之志挾焉云云。是左馬頭入道政義嫡男也。

読下し                     くないしょうゆうやすうじあそん  しょりょう しうさのくに はにゅうのしょう をい   ひそか しゅっけ  と   らる   〔としさんじうろく〕
建長三年(1251)十二月大二日丁巳。宮内少輔泰氏朝臣、所領 下総國 埴生庄に於て、潜に出家を遂げ被る〔年三十六〕

すなは  ねんらい  そかい  と    うんぬん  ひとへ さんりんとそうのこころざし さしはさ をは     うんぬん  これ  さまのかみにゅうどうまさよし ちゃくなんなり
即ち年來の素懷を遂ぐと云云。偏に山林斗薮之 志を 挾み 焉んぬと云云。是、左馬頭入道政義が嫡男也。

現代語建長三年(1251)十二月大二日丁巳。宮内少輔足利泰氏さんは、領地の下総国埴生庄で、内緒で出家をしてしまいました〔36才〕。これは前からあこがれていたのですでに思いを遂げたそうです。ひたすら山林に修行を積みたいとの気持ちを持っていたからだそうな。この人は、左馬頭入道足利政義の跡取りです。

参考埴生庄は、千葉県成田市郷部に埴生神社あり。成田市西部一帯らしい。

建長三年(1251)十二月大三日戊午。鎌倉中在々處々。小町屋及賣買設之事。可加制禁之由。日來有其沙汰。今日被置彼所々。此外一向可被停止之旨。嚴密觸之被仰之處也。佐渡大夫判官基政。小野澤左近大夫入道光蓮等奉行之云云。
 鎌倉中小町屋之事被定置處々
  大町    小町     米町    龜谷辻   和賀江
  大倉辻   氣和飛坂山上
 不可繋牛於小路事
 小路可致掃除事
   建長三年十二月三日

読下し                         かまくらちう  ざいざいしょしょ  こまちや およ ばいばい もう   のこと   せいきん  くは  べ   のよし  ひごろ そ   さた あ
建長三年(1251)十二月大三日戊午。鎌倉中の在々處々の小町屋及び賣買の設け之事、制禁を加う可し之由、日來其の沙汰有り。

きょう    か  しょしょ   お   らる     こ  ほかいっこう  ちょうじさる  べ   のむね  げんみつ  これ  ふ   おお らる  のところなり
今日、彼の所々に置か被る。此の外一向に停止被る可し之旨、嚴密に之を觸れ仰せ被る之處也。

さどのたいふほうがんもとまさ  おのざわのさこんたいふにゅうどうこうれんら これ  ぶぎょう    うんぬん
佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等之を奉行すと云云。

  かまくらちう こまちや の こと さだ  お   る   しょしょ
 鎌倉中小町屋之事定め置か被る處々

    おおまち      こまち      よねまち    かめがやつのつじ    わがえ       おおくらのつじ      け わ ひさかさんじょう
  大町   小町   米町   龜谷辻   和賀江   大倉辻   氣和飛坂山上

  うしを  こうじ   つな  べからざ  こと
 牛於小路に繋ぐ不可る事

   こうじ   そうじ いた  べ   こと
 小路を掃除致す可き事

      けんちょうさんねんじうにがつみっか
   建長三年十二月三日

現代語建長三年(1251)十二月大三日戊午。鎌倉中のあちこちでの商店や臨時の市場の設定について、制限を加えるように、普段その検討がありました。今日、それらのカ所に触書を置きました。この他は、全て禁止する旨、厳しくこれを布告したところです。佐渡大夫判官後藤基政・小野沢左近大夫入道光蓮たちがこれを担当したそうな。
  鎌倉中の商店の事、決められた
場所
   大町 小町 米町 亀谷辻 和賀江 大倉辻 化粧坂山上
   牛を狭い小道につないでおいてはいけない事
   小道を掃除する事
     建長3年12月3日

建長三年(1251)十二月大五日庚申。諏方兵衛入道之邊聊物忩。夜半之刻。人々加小具足。於相州御第門前窺參。依無其實而悉退。且又被加制止云云。凡巷説非一云云。

読下し                         すわひょうえにゅうどうのへんいささ ぶっそう  やはんのきざみ ひとびと こぐそく  くは    そうしゅう おんだい もんぜん をい  うかが まい
建長三年(1251)十二月大五日庚申。諏方兵衛入道之邊聊か物忩。夜半之刻、人々小具足を加へ、相州の御第の門前に於て窺い參る。

よっ  そ   じつな   てことごと の    かつう また  せいし  くは  らる    うんぬん  およ  こうせついつ  あらず うんぬん
依て其の實無く而悉く退く。且は又、制止を加へ被ると云云。凡そ巷説一に非と云云。

現代語建長三年(1251)十二月大五日庚申。諏訪兵衛入道のあたりで騒ぎがありました。夜中なのに、人々は鎧下の小手や葉佩をつけて時頼さんの屋敷の門前を警戒しに来ました。それで何もないので皆引き上げました。ついでに皆をおとなしくするように忠告しました。騒ぎの噂は色々あるようです。

建長三年(1251)十二月大七日壬戌。宮内少輔泰氏自申出家之過。依之所領下総國埴生庄被召離之。陸奥掃部助實時賜之。是不諧之上。小侍別當勞依危也。當庄者。泰氏朝臣始拝領之地。始而入部之刻。於此處者遂素懷。不思議不謂之乎。然泰氏朝臣各以爲相州縁者。其上父左馬頭入道爲關東宿老。頻雖嘆子細申。依人不可枉法之由。及御沙汰云云。

読下し                     くないしょうゆうやすうじ みずか しゅっけのとが  もう    これ  よっ しょりょう しもうさのくに はにゅうのしょう これ  めしはなたれ
建長三年(1251)十二月大七日壬戌。宮内少輔泰氏 自ら出家之過を申す。之に依て所領 下総國 埴生庄 之を召離被る。

むつかもんのすけさねとき これ  たま      これ ふかいのうえ  こさむらい べっとう ろうあやう   よっ  なり
陸奥掃部助實時 之を賜はる。是不諧之上、小侍 別當の勞危きに依て也。

とうしょうは  やすうじあそんはじ    はいりょうのち  はじ  てにゅうぶのきざみ  こ  ところ をい  は そかい  と     これ   ふしぎ   いわざらんや
當庄者、泰氏朝臣始めて拝領之地。始め而入部之刻。此の處に於て者素懷を遂ぐ。之を不思議と謂不乎。

しか  やすうじあそん おのおの もっ  そうしゅう えんじゃたり  そ   うえちち さまのかみにゅうどう かんとう  すくろうたり
然し泰氏朝臣 各 以て相州の縁者爲。其の上父 左馬頭入道は關東の宿老爲。

しき    しさい  なげ  もう   いへど    ひと  よっ  ほう  まげ べからず のよし   ごさた   およ    うんぬん
頻りに子細を嘆き申すと雖も、人に依て法を枉る不可之由、御沙汰に及ぶと云云。

現代語建長三年(1251)十二月大七日壬戌。宮内少輔足利泰氏が、自分から無断出家の罪を自首しました。これにより領地の下総国埴生庄を取り上げられました。
陸奥掃部助北条実時がこれを与えられました。これは窮乏していて、将軍の身の回りの世話をする小侍の筆頭職をやりきれないからです。
この荘園は、足利泰氏さんが初めて貰った土地に初めて入った時に、この場所で出家をしてしまいました。これは不思議な事だと云われます。
しかし、泰氏さんも実時さんもそれぞれ時頼さんの縁者です。そのうえ、父の左馬頭入道足利政義は、鎌倉幕府での古い重鎮です。さかんに状況を嘆いて訴えましたが、人によって法を曲げる訳にもいかないので、決裁しましましたとさ。

参考不諧は、吉川弘文館の現代語吾妻鏡に、窮乏と書いてあったのでそれに従う。

建長三年(1251)十二月大十二日丁夘。相州御第轉讀大般若之事結願云々。

読下し                      そうしゅう おんだい てんどくだいはんにゃのこと  けちがん    うんぬん
建長三年(1251)十二月大十二日丁夘。相州 御第の轉讀 大般若之事、結願すと云々。

現代語建長三年(1251)十二月大十二日丁卯。時頼さんの屋敷で、摺り読みの大般若経が成就しましたとさ。

建長三年(1251)十二月大十七日壬申。將軍家爲御方違而。武藏守朝直第入御。從幕府當辰未之方云々。

読下し                      しょうぐんけ  おんかたたが   ため   て   むさしのかみともなお  だい  い   たま
建長三年(1251)十二月大十七日壬申。將軍家、御方違への爲とし而、武藏守朝直の第に入り御う。

ばくふ よ  たつひつじのほう  あた    うんぬん
幕府從り辰 未之方に當ると云々。

現代語建長三年(1251)十二月大十七日壬申。将軍家頼嗣様は、方角替えの為として、武蔵守北条朝直の屋敷へ入りました。幕府から東南東と南南西にあたるそうな。

建長三年(1251)十二月大廿二日丁丑。鎌倉中無故有物忩。謀反之輩之由。巷説相交。幕府并相州御第警巡頗嚴密云云。

読下し                      かまくらじゅうゆえな  ぶっそう  むほんのやからあ   のよし  こうせつあいまじ
建長三年(1251)十二月大廿二日丁丑。鎌倉中故無く物忩。謀反之輩有る之由、巷説相交る。

ばくふなら    そうしゅう おんだい けいじゅん すこぶ げんみつ うんぬん
幕府并びに相州の御第、 警巡 頗る嚴密と云云。

現代語建長三年(1251)十二月大二十二日丁丑。鎌倉中が、理由もなく騒がしい。謀反の連中があるらしいと、世間に噂が流れています。幕府と時頼さんの屋敷の警備が厳重になりましたとさ。

建長三年(1251)十二月大廿六日辛巳。雹降。於地積之事三寸。今日未尅之及一點而。世上物忩也。近江大夫判官氏信。武藤左衛門尉景頼生虜了行法師。矢作左衛門尉〔千葉介近親〕。長次郎左衛門尉久連等。件之輩有謀叛之企云云。仍諏方兵衛入道蓮佛承之義。推問子細。大田七郎康有而記詞。逆心悉顯露云云。其後鎌倉中弥騒動。諸人競集云云。

読下し                      ひょうふ     ち を つも  のことさんずん  きょう ひつじのこくのいってん  およ  て  せじょうぶっそうなり
建長三年(1251)十二月大廿六日辛巳。雹降る。地於積る之事三寸。 今日 未尅之一點に及び而、世上物忩也。

おうみたいふほうがんうじのぶ  むとうさえもんのじょうかげより   りょうぎょうほっし  やはぎさえもんのじょう 〔ちばのすけきんしん〕  ちょうのじろうさえもんのじょうひさつらら  いけど
近江大夫判官氏信・武藤左衛門尉景頼が、了行法師・矢作左衛門尉〔千葉介近親〕・長次郎左衛門尉久連等を生虜る。

くだんのやから むほんのくわだ  あ    うんぬん
件之輩 謀叛之企て有りと云云。

よっ  すわひょうえにゅうどうれんぶつ うけたまわ のぎ     しさい  すいもん    おおたしちろうやすあり    てことば  き    ぎゃくしんことごと ろけん    うんぬん
仍て諏方兵衛入道蓮佛が承り之義とし、子細を推問す。大田七郎康有をし而詞を記す。 逆心 悉く顯露すと云云。

 そ  ご  かまくらじゅうややそうどう  しょにんきそ  あつ     うんぬん
其の後、鎌倉中弥騒動。諸人競い集まると云云。

現代語建長三年(1251)十二月大二十六日辛巳。票が降りました。地面に積もったのが9cmです。今日、午後2時過ぎになって、世間が大騒ぎです。近江大夫判官佐々木氏信・武藤左衛門尉景頼が、了行法師・矢作左衛門尉〔千葉介近親〕・長谷部次郎左衛門尉久連を逮捕しました。この連中は謀反の計画があるそうな。それで諏方兵衛入道蓮仏が任されて詳細を聞き取り調査をしました。大田七郎康有に命じて記録をさせました。反逆の内容がすべて分かりましたとさ。
その後、鎌倉中で少々騒ぎがあり、御家人が競うように集まりましたとさ。

建長三年(1251)十二月大廿七日壬午。天リ。被誅逆叛之衆。又有配流之者云云。近國御家人群參如雲霞。皆以可皈國之由被仰出也。

読下し                      そらはれ  むほんのしゅう ちゅうさる    また  はいる のもの あ   うんぬん
建長三年(1251)十二月大廿七日壬午。天リ。逆叛之衆を誅被る。又、配流之者有りと云云。

きんごく  ごけにん ぐんさん  うんか  ごと    みなもっ  きこくすべ   のよし  おお  いださる  なり
近國の御家人群參し雲霞の如し。皆以て皈國可き之由、仰せ出被る也。

現代語建長三年(1251)十二月大二十七日壬午。空は晴です。叛逆の連中が死刑にされました。又、流罪の者もあるそうな。鎌倉に近い国の御家人が雲や霞の如く集まりました。皆、国元へ帰るように命令されました。

建長四年(1252)正月小

吾妻鏡入門第四十一巻

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