序文
院〔御諱久仁〕。後嵯峨院第二皇子。御母大宮院〔太政大臣從一位實氏公嫡女〕。 |
いん 〔おんいみなひさひと〕 ごさがいん だいに みこ
おんはは だいぐういん 〔
だじょうだいじん じゅいちい さねうじこう ちゃくじょ〕
院〔御諱久仁〕。後嵯峨院第二皇子。御母は大宮院〔太政大臣從一位實氏公の嫡女〕。
かんげんがんねん たいし な 〔しゅんじゅうひとつ〕 ごじゅぜん おな ごそくい
寛元々年八月十日太子と爲す〔春秋一〕。四年正月廿九日御受禪@。同じき三月廿一日御即位。
けんちょうごねん ごげんぷく 〔じゅういち〕 しょうげんがんねん ごだっし しょうおうさんねん
おんらくしょく 〔
ごほうみょう そうじつ〕
建長五年正月三日御元服〔十一〕。正元々年十一月廿六日
御脱屣A。正應三年二月十一日御落餝B〔御法名素實〕。
参考@受禪は、位を譲り受ける。参考A御脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。参考B御落餝は、飾りを落とす。髪を剃る。出家する。
攝政左大臣〔兼經公。猪隈殿三男〕。第二度。 |
せっしょうさだいじん 〔かねつねこう いのくまどの さんなん〕
だいにど
攝政左大臣〔兼經公。猪隈殿の三男〕。第二度。
かんげんごねん さら せっしょう みことの こうむ うじ
ちょうじゃ な ずいしんへいじょう たま
ぎっしゃもと ごと
寛元五年正月十九日更に攝政の詔りを蒙る。氏の長者と爲す。隨身@兵杖Aを賜はる牛車B元の如し。
けんちょうよねん せっしょう じ さだいじんを ゆず こうげんにねん しゅっけ 〔ほうみょうしんり〕 しょうげんにねん こう
建長四年十月三日攝政を辞す。左大臣於讓る。康元二年三月八日出家〔法名眞理〕。正元二年五月三日薨ず〔年五十一〕。
参考@随身は、朝廷から護衛を付けられる。SP参考A兵杖は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考B牛車は、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。
攝政左大臣〔兼平公〕。 |
せっしょうさだいじん 〔かねひらこう 〕
攝政左大臣〔兼平公〕。
けんちょうよねん
せっしょう みことの こうむ うじ ちょうじゃ な ずいしんへいじょう たま だじょうだいじん にん
建長四年十月三日攝政の詔りを蒙る。氏の長者@と爲す。十月三日隨身兵杖を賜はる。十一月十三日太政大臣に任ず。
参考@氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。
龜山院〔御諱恒仁〕。後嵯峨院第三皇子。御母同上。 |
かめやまいん〔おんいみなつねひと〕 ごさがいん だいさん みこ おんはは うえ おな
龜山院〔御諱恒仁〕。後嵯峨院第三皇子。御母は上に同じ。
しょうかにねん たいし な 〔じゅんじゅうとお〕 しょうげんがんねん ごげんぷく ごじゅぜん ごそくい
正嘉二年八月七日太子と爲す〔春秋十〕。正元々年八月廿八日御元服〔十一〕。十一月廿六日御受禪@。十二月廿八日御即位〔十一〕。
ぶんえいじういちねん ごだっし しょうおうにねん おんらくしょく 〔ごほうみょうこんごうげん〕
文永十一年正月廿六日御脱屣A。正應二年九月七日御落餝B〔御法名金剛源〕。
参考@受禪は、位を譲り受ける。参考A御脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。参考B御落餝は、飾りを落とす。髪を剃る。出家する。
攝政左大臣〔兼平公〕。 |
せっしょうさだいじん 〔かねひらこう 〕
攝政左大臣〔兼平公〕。
けんちょうごねん だじょうだいじん じ せっしょう あらた かんぱく な ただ せっしょう じゅん
〔
きょねん ぎっしゃ ゆる 〕
建長五年十一月八日太政大臣を辞す。六年十二月二日攝政を改め關白と爲す。但し攝政に准ず〔去年三月廿二日牛車を聽さる〕。
こうちょうがんねん かんぱく と ぶんえいごねん へいじょう たま はじ ぎっしゃ の さんだい
弘長元年四月廿九日關白を止む。文永五年十二月二日兵杖Aを賜はる。六年正月十七日始めて牛車Bに乘り參内す。
参考A兵杖は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考B牛車は、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。
關白右大臣〔良實公〕。第二度。 |
かんぱくうだいじん 〔よしざねこう〕 だいにど
關白右大臣〔良實公〕第二度。
こうちょうがんねん さら かんぱく みことの こうむ うじ ちょうじゃ な
弘長元年四月廿九日更に關白の詔りを蒙る。氏の長者@と爲す。
ぶんえいにねねんうるう かんぱく と さら へいじょう たま ちょくし つか
文永二年閏四月十八日關白を止む。廿五日更に兵杖Aを賜はる。七月十六日勅使を遣はす。
もんじょ もと ごと ないらんあ べ よしこれ おお くださる
文書は元の如く内覽有る可きの由之を仰せ下被る。
はじ ぎっしゃ の さんだい しゅっけ
こう
十七日始めて牛車Bに乘り參内す。七年十一月十一日出家す。廿九日薨ず〔年五十五〕。
参考@氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。
参考A兵杖は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考B牛車は、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。
關白左大臣〔實經公〕。第二度。 |
かんぱくさだいじん 〔さねつねこう〕 だいにど
關白左大臣〔實經公〕第二度。
ぶんえいにねんうるう さら
かんぱく みことの こうむ
文永二年閏四月十八日更に關白の詔りを蒙る。
うじ ちょうじゃ な 〔へいじょう をい は さだいじん とき さゆう ふしょう いげ たま ずいしん な よっ かさ せんげ な 〕
氏の長者と爲す〔兵杖に於て者、左大臣の時、左右府生@以下を賜はり、隨身と爲す。仍て重ねての宣下無し〕。
さだいじん じ 〔しっぺい だいさんど ひょう つぐ ちょっきょあ 〕 ぎっしゃ の
はじ さんだい
九月十二日左大臣を辞す〔執柄第三度を表すA。次に勅許有り〕。十一月廿七日牛車に乘り始めて參内す。
かんぱく じ 〔へいじょうもと ごと 〕
四年十二月九日關白を辞す〔兵杖元の如し〕。
へいじょう じ こうあんしちねん しゅっけ 〔ほうみょうぎょうそ〕 こう
五年十二月十四日兵杖を辞す。弘安七年五月十九日出家す〔法名行祚〕。七月十八日薨ず〔年六十二〕。
参考@府生は、近衛府の検非違使の下役。参考A第三度を表すは、辞表を三回出した。(二度までは儀式として返す)
已上。當將軍一代〔自建長四年夏。至文永三年秋〕帝王攝關所奉載一處也。 |
いじょう とうしょうぐんいちだい 〔けんちょうよねんなつよ ぶんえいさんねんあき いた 〕 ていおうせっかんひとつところ の たてまつ ところなり
已上。當將軍一代〔建長四年夏自り、文永三年秋に至る〕帝王攝關 一處に載せ奉る所也。
建長四年〔壬子〕 |
けんちょうよねん〔みずのえね〕
建長四年〔壬子〕
せいいたいしょうぐんいっぽんなかつかさのきょう 〔むねたか〕 しんのう 〔ときにさんぽん〕 ごさがいん だいいちみこ
征夷大将軍 一品 中務卿 〔宗尊〕親王〔時于三品〕。後嵯峨院第一皇子。
おんはは じゅんごうたいらのあそんむねこ 〔くろうど かげゆのすけ むねもと むすめ〕
御母は 准后 平朝臣棟子〔藏人勘解由次官棟基が女〕。