吾妻鏡入門第四十二巻

序文

院〔御諱久仁〕。後嵯峨院第二皇子。御母大宮院〔太政大臣從一位實氏公嫡女〕。
 寛元々年八月十日爲太子〔春秋一〕。四年正月廿九日御受禪。同三月廿一日御即位。建長五年正月三日御元服〔十一〕。正元々年十一月廿六日御脱屣。正應三年二月十一日御落餝〔御法名素實〕。

いん 〔おんいみなひさひと〕  ごさがいん  だいに みこ   おんはは だいぐういん 〔 だじょうだいじん じゅいちい さねうじこう ちゃくじょ〕
〔御諱久仁〕。後嵯峨院第二皇子。御母は大宮院〔太政大臣從一位實氏公の嫡女〕

  かんげんがんねん       たいし  な   〔しゅんじゅうひとつ〕                 ごじゅぜん  おな               ごそくい

 寛元々年八月十日太子と爲す〔春秋一〕。四年正月廿九日御受禪@。同じき三月廿一日御即位。

   けんちょうごねん       ごげんぷく 〔じゅういち〕  しょうげんがんねん            ごだっし  しょうおうさんねん         おんらくしょく 〔 ごほうみょう そうじつ〕
 建長五年正月三日御元服〔十一〕。正元々年十一月廿六日 御脱屣A。正應三年二月十一日御落餝B〔御法名素實〕

参考@受禪は、位を譲り受ける。参考A御脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。参考B御落餝は、飾りを落とす。髪を剃る。出家する。

攝政左大臣〔兼經公。猪隈殿三男〕。第二度。
 寛元五年正月十九日更蒙攝政詔。爲氏長者。賜隨身兵杖牛車如元。建長四年十月三日辞攝政。讓於左大臣。康 元二年三月八日出家〔法名眞理〕。正元二年五月三日薨〔年五十一〕。

せっしょうさだいじん 〔かねつねこう  いのくまどの さんなん〕    だいにど
攝政左大臣〔兼經公。猪隈殿の三男〕。第二度。

  かんげんごねん         さら  せっしょう みことの  こうむ   うじ  ちょうじゃ  な    ずいしんへいじょう たま    ぎっしゃもと  ごと
 寛元五年正月十九日更に攝政の詔りを蒙る。氏の長者と爲す。隨身@兵杖Aを賜はる牛車B元の如し。

  けんちょうよねん       せっしょう  じ    さだいじんを ゆず    こうげんにねん         しゅっけ 〔ほうみょうしんり〕  しょうげんにねん         こう
 建長四年十月三日攝政を辞す。左大臣於讓る。康元二年三月八日出家〔法名眞理〕。正元二年五月三日薨ず〔年五十一〕

参考@随身は、朝廷から護衛を付けられる。SP参考A兵杖は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考B牛車は、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。

攝政左大臣〔兼平公〕。
 建長四年十月三日蒙攝政詔。爲氏長者。十月三日賜隨身兵杖。十一月十三日任太政大臣。

せっしょうさだいじん 〔かねひらこう 〕
攝政左大臣〔兼平公〕。

  けんちょうよねん       せっしょう みことの こうむ    うじ ちょうじゃ  な              ずいしんへいじょう たま                 だじょうだいじん  にん
 建長四年十月三日攝政の詔りを蒙る。氏の長者@と爲す。十月三日隨身兵杖を賜はる。十一月十三日太政大臣に任ず。

参考@氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。

龜山院〔御諱恒仁〕。後嵯峨院第三皇子。御母同上。
 正嘉二年八月七日爲太子〔春秋十〕。正元々年八月廿八日御元服〔十一〕。十一月廿六日御受禪。十二月 廿八日御即位〔十一〕。文永十一年正月廿六日御脱屣。正應二年九月七日御落餝〔御法名金剛源〕。
攝政左大臣〔兼平公〕。

かめやまいん〔おんいみなつねひと〕 ごさがいん  だいさん みこ   おんはは うえ  おな
龜山院〔御諱恒仁〕。後嵯峨院第三皇子。御母は上に同じ。

  しょうかにねん         たいし  な   〔じゅんじゅうとお〕   しょうげんがんねん         ごげんぷく                      ごじゅぜん               ごそくい
 正嘉二年八月七日太子と爲す〔春秋十〕。正元々年八月廿八日御元服〔十一〕。十一月廿六日御受禪@。十二月廿八日御即位〔十一〕

  ぶんえいじういちねん         ごだっし   しょうおうにねん        おんらくしょく 〔ごほうみょうこんごうげん〕
 文永十一年正月廿六日御脱屣A。正應二年九月七日御落餝B〔御法名金剛源〕

参考@受禪は、位を譲り受ける。参考A御脱屣は、靴を脱ぐ、退位、譲位。参考B御落餝は、飾りを落とす。髪を剃る。出家する。

攝政左大臣〔兼平公〕。
 建長五年十一月八日辞太政大臣。六年十二月二日改攝政爲關白。但准攝政〔去年三月廿二日聽牛車〕。
 弘長元年四月廿九日止關白。文永五年十二月二日賜兵杖。六年正月十七日始乘牛車參内。

せっしょうさだいじん 〔かねひらこう 〕
攝政左大臣〔兼平公〕

  けんちょうごねん         だじょうだいじん  じ                   せっしょう あらた かんぱく な     ただ  せっしょう じゅん  〔 きょねん            ぎっしゃ  ゆる      〕
 建長五年十一月八日太政大臣を辞す。六年十二月二日攝政を改め關白と爲す。但し攝政に准ず〔去年三月廿二日牛車を聽さる〕

  こうちょうがんねん        かんぱく  と     ぶんえいごねん          へいじょう たま                    はじ    ぎっしゃ  の  さんだい
 弘長元年四月廿九日關白を止む。文永五年十二月二日兵杖Aを賜はる。六年正月十七日始めて牛車Bに乘り參内す。

参考A兵杖は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考B牛車は、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。  

關白右大臣〔良實公〕。第二度。
 弘長元年四月廿九日更蒙關白詔。爲氏長者。
 文永二年閏四月十八日止關白。廿五日更賜兵杖。七月十六日遣勅使。文書如元可有内覽由被仰下之。十七日始 乘牛車參内。七年十一月十一日出家。廿九日薨〔年五十五〕。

かんぱくうだいじん 〔よしざねこう〕  だいにど
關白右大臣〔良實公〕第二度。

  こうちょうがんねん         さら  かんぱく みことの  こうむ   うじ ちょうじゃ  な
 弘長元年四月廿九日更に關白の詔りを蒙る。氏の長者@と爲す。

  ぶんえいにねねんうるう       かんぱく  と           さら  へいじょう たま                ちょくし  つか
 文永二年閏四月十八日關白を止む。廿五日更に兵杖Aを賜はる。七月十六日勅使を遣はす。

  もんじょ  もと  ごと  ないらんあ   べ    よしこれ  おお  くださる
 文書は元の如く内覽有る可きの由之を仰せ下被る。

        はじ    ぎっしゃ  の   さんだい                    しゅっけ          こう
 十七日始めて牛車Bに乘り參内す。七年十一月十一日出家す。廿九日薨ず〔年五十五〕

参考@氏長者は、藤原鎌足以来の大豪族となった藤原一族の総本家嫡家を表す。天皇家と同じように三種の神器的な物もある。
参考A兵杖は、武器を持った警護人をつけてくれる。
参考B牛車は、牛車に乗ったまま大内裏に入ることを許可される。許可前は大内裏の門前で牛車を降りなければならない。  

關白左大臣〔實經公〕。第二度。
 文永二年閏四月十八日更蒙關白詔。爲氏長者。〔於兵杖者。左大臣時。賜左右府生以下。爲隨身。仍重無宣下 〕九月十二日辞左大臣〔執柄第三度表。次有勅許〕。十一月廿七日乘牛車始參内。四年十二月九日辞關白〔兵杖如元〕。五年十二月十四日辞兵杖。弘安七年五月十九日出家〔法名行祚〕。七月十八日薨〔年六十二〕。

かんぱくさだいじん 〔さねつねこう〕 だいにど
關白左大臣〔實經公〕第二度。

  ぶんえいにねんうるう         さら  かんぱく みことの  こうむ
 文永二年閏四月十八日更に關白の詔りを蒙る。

  うじ ちょうじゃ  な   〔へいじょう  をい  は   さだいじん   とき     さゆう ふしょう いげ   たま       ずいしん   な     よっ   かさ      せんげ な  〕
 氏の長者と爲す〔兵杖に於て者、左大臣の時、左右府生@以下を賜はり、隨身と爲す。仍て重ねての宣下無し〕

              さだいじん  じ    〔しっぺい だいさんど ひょう    つぐ  ちょっきょあ   〕                ぎっしゃ  の   はじ    さんだい
 九月十二日左大臣を辞す〔執柄第三度を表すA。次に勅許有り〕。十一月廿七日牛車に乘り始めて參内す。

                 かんぱく  じ    〔へいじょうもと  ごと   〕
 四年十二月九日關白を辞す〔兵杖元の如し〕

                  へいじょう  じ    こうあんしちねん          しゅっけ   〔ほうみょうぎょうそ〕              こう
 五年十二月十四日兵杖を辞す。弘安七年五月十九日出家す〔法名行祚〕。七月十八日薨ず〔年六十二〕

参考@府生は、近衛府の検非違使の下役。参考A第三度を表すは、辞表を三回出した。(二度までは儀式として返す)

  已上。當將軍一代〔自建長四年夏。至文永三年秋〕帝王攝關所奉載一處也。

    いじょう  とうしょうぐんいちだい 〔けんちょうよねんなつよ    ぶんえいさんねんあき  いた  〕 ていおうせっかんひとつところ の たてまつ ところなり
  已上。當將軍一代〔建長四年夏自り、文永三年秋に至る〕帝王攝關 一處に載せ奉る所也。

建長四年〔壬子〕
 征夷大将軍一品中務卿〔宗尊〕親王〔于時三品〕。後嵯峨院第一皇子。御母准后平朝臣棟子〔藏人勘解由 次官棟基女〕。

けんちょうよねん〔みずのえね〕
建長四年〔壬子〕

  せいいたいしょうぐんいっぽんなかつかさのきょう 〔むねたか〕 しんのう 〔ときにさんぽん〕     ごさがいん だいいちみこ
 征夷大将軍 一品 中務卿 〔宗尊〕親王〔時于三品〕。後嵯峨院第一皇子。

  おんはは  じゅんごうたいらのあそんむねこ 〔くろうど  かげゆのすけ  むねもと  むすめ
 御母は 准后 平朝臣棟子〔藏人勘解由次官棟基が女〕

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