吾妻鏡入門第四十二巻

建長四年(1252)六月大

建長四年(1252)六月大二日甲寅。陰。巳刻御所事始也。前佐渡守基綱。前出羽守行義等奉行之。午刻。被始行評定并五方引付云云。」今日。爲將軍家御祈。可修藥師護摩之由。被仰下云云。

読下し                   くも    みにこく ごしょ  ことはじ  なり  さきのさどのかみもとつな さきのでわのかみゆきよしらこれ  ぶぎょう
建長四年(1252)六月大二日甲寅。陰り。巳刻御所の事始め
@也。 前佐渡守基綱・ 前出羽守行義等之を奉行す。

うまのこく ひょうじょうなら   ごほうひきつけ  しぎょうさる    うんぬん
午刻、評定并びに五方引付Aを始行被ると云云。」

きょう   ほうぐんんけ  おにのり ため  やくし ごま   しゅう べ   のよし  おお  くださる    うんぬん
今日、將軍家の御祈の爲、藥師護摩を修す可し之由、仰せ下被ると云云。

参考@御所の事始めは、方違えの為の泉谷の仮御所の工事。
参考A
五方引付は、4月30日に三組から五組にした。

現代語建長四年(1252)六月大二日甲寅。曇りです。午前10時頃に、泉谷の新築の仮御所の着工式です。前佐渡守後藤基綱・前出羽守二階堂行義がこれを指揮担当します。
昼の12時頃に政務会議と五組み(五班)の引付衆を開始しましたとさ。」
今日、病気予防を祈るため、薬師如来の護摩炊きを勤めるように仰せになられましたとさ。

建長四年(1252)六月大十日壬戌。天リ。御所築地以下事。被催諸御家人云云。

読下し                   そらはれ  ごしょ  ついぢ いげ    こと   しょごけにん   もよ  さる    うんぬん
建長四年(1252)六月大十日壬戌。天リ。御所の築地
@以下の事、諸御家人に催お被ると云云。

参考@築地は、掻揚げの土手。

現代語建長四年(1252)六月大十日壬戌。空は晴です。仮御所の掻き揚げの土手を始めとする諸事の費用負担について、諸御家人に割り当てたんだとさ。

建長四年(1252)六月大十六日戊辰。天リ。將軍家聊御惱。亦炎旱渉日間。爲御祈。被行赦。及數十人云云。

読下し                     そらはれ  しょうぐんけいささ ごのう
建長四年(1252)六月大十六日戊辰。天リ。將軍家聊か御惱。

また えんかん ひ  わた   あいだ おいのり ため  しゃ  おこなわれ  すううじうにん およ    うんぬん
亦 炎旱日を渉るの間、御祈の爲、赦を行被る。數十人に及ぶと云云。

現代語建長四年(1252)六月大十六日戊辰。空は晴です。宗尊親王将軍家が少し具合が悪いようです。又、日照りが続いているので、雨乞いのお祈りの為、恩赦を行いました。その恩恵を受けたのは数十人もいたそうです。

建長四年(1252)六月大十七日己巳。天リ。大和守從五位上藤原朝臣祐時卒。

読下し                     そらはれ  やまとのかみじゅごいじょうふじわらあそんすけとき そっ
建長四年(1252)六月大十七日己巳。天リ。大和守從五位上 藤原朝臣祐時 卒す。

現代語建長四年(1252)六月大十七日己巳。空は晴です。大和守従五位上藤原朝臣伊東祐時が亡くなりました。

建長四年(1252)六月大十九日辛未。天リ。祈雨事。被仰鶴岡別當法印隆辨。C左衛門尉滿定帶其御教書。爲御使行向彼雪下本坊。仍申領状。及申刻。於八幡宮東廊始行北斗法。晩天聊陰云云。是去十日爲和泉前司行方奉行雖被仰下固辞。昨日〔十八日〕相州有御對面。 親王家御下向之後。天下泰平關東靜謐之處。旱魃一事已爲人庶愁歎。殊可被祈請之旨。令懇望給云云。」今日。六波羅使者參着。去八日。宣陽門院〔觀子内親王〕崩御云云。

読下し                     そらはれ   きう   こと  つるおかべっとう ほういんりゅうべん おお  らる
建長四年(1252)六月大十九日辛未。天リ。祈雨の事、鶴岡別當 法印隆辨に仰せ被る。

せいさえもんのじょうみつさだ そ みぎょうしょ  お     おんし  な   か ゆきのしたほんぼう  ゆ   むか    よっ りょうじょう もう
 C左衛門尉滿定 其の御教書を帶び、御使と爲し彼の雪下本坊へ行き向う。仍て領状を申す。

さるのこく およ   はちまんぐう ひがしろう をい  ほくとほう   しぎょう    ばんてん いささ くも    うんぬん
申刻に及び、八幡宮 東廊に於て北斗法を始行す。晩天 聊か陰ると云云。

これ  さんぬ とおか いずみぜんじゆきかた ぶぎょう  な   おお  くださる   いへど   こじ
是、去る十日 和泉前司行方 奉行と爲し仰せ下被ると雖も固辞す。

さくじつ 〔じうはちにち〕 そうしゅうごたいめんあ     しんのうけ ごげこう ののち  てんかたいへい かんとうせいひつのところ  かんばつ いちじ  すで  じんしょ しゅうたんたり
昨日〔十八日〕相州御對面有り。親王家御下向之後、天下泰平 關東靜謐 之處、 旱魃の一事が已に人庶の愁歎爲。

こと  きしょうさる  べ   のむね  こんもうせし  たま    うんぬん
殊に祈請被る可し之旨、懇望令め給ふと云云。」

きょう    ろくはら   ししゃさんちゃく   さんぬ ようか  せんようもんいん 〔きんしないしんのう〕  ほうぎょ    うんぬん
今日、六波羅の使者參着す。去る八日、宣陽門院
@〔觀子内親王〕崩御すと云云。

参考@宣陽門院は、後白河天皇の第六皇女(養和元年十月五日1181.11.13-建長四年六月八日1252.7.15)72。

現代語建長四年(1252)六月大十九日辛未。空は晴です。雨乞いの祈りについて、鶴岡八幡宮筆頭法印隆弁に命じました。清原左衛門尉満定が、その命令書を持って正式な使者として筆頭の雪ノ下の宿舎へ行って会いました。そこで承知の返事をしました。午後4時頃になって、鶴岡八幡宮の東の廊下で北斗七星の御祈りを始めました。夜になって多少曇って来たそうな。
このことは、先日の10日に和泉前司二階堂行方が担当して命令を伝えましたが、辞退しました。昨日〔18日〕時頼さんとお会いになりました。宗尊親王が鎌倉へお下りの後、天下は安定し、関東も静まっているのに、日照りの一事がもう庶民の嘆きの元なのです。特にお祈りをするようにと、御望みになられたからだそうな。」
今日、六波羅探題の使いが到着して、先日の8日に宣陽門院〔観子内親王〕が亡くなったそうです。

建長四年(1252)六月大廿日壬申。リ。入夜雨降。法驗之至。無比類之由。有沙汰云々。

読下し                   はれ  よ   い   あめふ    ほうけんの いた   ひるい な   のよし   さた あ     うんぬん
建長四年(1252)六月大廿日壬申。リ。夜に入り雨降る。法驗之至り、比類無し之由、沙汰有りと云々。

現代語建長四年(1252)六月大二十日壬申。晴です。夜になって雨が降りました。雨乞いの祈りの効果は比べようもないと、感心されました。

建長四年(1252)六月大廿一日癸酉。雨降。夘刻。小野寺四郎左衛門尉通時爲使節上洛。依女院御事也。

読下し                     あめふ     うのこく  おのでらしろうさえもんのじょうみちとき しせつ  な   じょうらく    にょいん  おんこと  よっ  なり
建長四年(1252)六月大廿一日癸酉。雨降る。夘刻。小野寺四郎左衛門尉通時使節と爲し上洛す。女院の御事に依て也。

現代語建長四年(1252)六月大二十一日癸酉。雨降りです。午前6時頃、小野寺四郎左衛門尉通時が幕府からの使いとして京都へ上ります。宣陽門院の事でです。

建長四年(1252)六月大廿三日乙亥。自半更甚雨。凡去十九日。若宮別當奉祈雨法之處。自同廿日至昨日。連日降雨之間。申刻。被送御馬御劔。武藤左衛門尉景頼爲御使。

読下し                     はんそうよ  はなは あめ
建長四年(1252)六月大廿三日乙亥。半更自り甚だ雨。

およ  さんぬ じうくにち  わかみやべっとう きう   ほう たてまつ のところ  おな    はつかよ   さくじつ  いた   れんじつこううのあいだ
凡そ去る十九日、若宮別當 祈雨の法を奉る之處、 同じき廿日自り昨日に至り、連日降雨之間、

さるのこく  おんうまぎょけん おくらる    むとうさえもんのじょうかげよりおんしたり
申刻、御馬御劔を送被る。武藤左衛門尉景頼御使爲。

現代語建長四年(1252)六月大二十三日乙亥。真夜中から大雨です。実は先日の19日、鶴岡八幡宮筆頭が雨乞いの祈りをささげた処、同20日から昨日まで連日の雨降りだったので、午後4時頃、馬と刀を送りました。武藤左衛門尉景頼がお使いです。

説明武藤は、太宰小弐になり、苗字も小弐になる。

建長四年(1252)六月大廿五日丁丑。天リ。諸寺佛供灯油等。追日及陵廢由。住持訴申之。仍今日有其沙汰。被下御教書云云。其状云。
   諸堂寺用供米事
 右。陵遲無沙汰之間。有其訴。就中大慈寺者。右大臣家建立。異于他之間。可專御佛事之處。雜掌等存疎畧。 致緩怠之儀。尤以不便。早尋明子細。可被申沙汰之状。依仰執達如件。
    建長四年六月廿五日                相摸守
                             陸奥守
     秋田城介殿

読下し                     そらはれ しょじぶつぐ とうゆら   ついじつりょうはい およ    よし  じゅうじこれ  うった もう
建長四年(1252)六月大廿五日丁丑。天リ。諸寺佛供
@灯油等、追日陵廢Aに及ぶの由、住持之を訴へ申す。

よっ  きょう そ    さた あ       みぎょうしょ  くださる    うんぬん  そ  じょう  い
仍て今日其の沙汰有りて、御教書を下被ると云云。其の状に云はく。

      しょどう じ よう くまい  こと
   堂寺用供米の事

  みぎ りょうち  さた な  のあいだ  そ   うった  あ
 右、陵遲沙汰無き之間、其の訴へ有り。

  なかんづく  だいじじは   うだいじんけこんりゅう    たに こと    のあいだ  おんぶつじ もっぱ   すべ のところ  ざっしょうら そりゃく  ぞん
 就中に大慈寺者、右大臣家建立し、他于異なる之間、御佛事を專らに可き之處、雜掌等疎畧を存じ、

  かんたいいた  のぎ   もっと もっ  ふびん  はや  しさい   たず  あか     さた もうさる  べ   のじょう  おお    よっ  しったつくだん ごと
 緩怠致す之儀、尤も以て不便。早く子細を尋ね明し、沙汰申被る可し之状、仰せに依て執達件の如し。

        けんちょうよねんろくがつにじうごにち                               さがみのかみ
    建長四年六月廿五日                相摸守

                                                             むつのかみ
                             陸奥守

          あいだのじょうすけどの
     秋田城介B殿

参考@仏供は、供え物。
参考A陵廃は、滞る。
参考B
秋田城介は、安達義景だが市中取締りを兼務しているのカ?それとも源氏建立寺の管理カ?

現代語建長四年(1252)六月大二十五日丁丑。空は晴です。諸寺への供え物や灯明料などが、日を追って滞ってしまっていると、住職たちが訴えてきました。それで今日、その検討があって、命令書を出されましたとさ。その文章には、

   諸お堂や寺へのお供えの年貢について
 右は、次第になまけて納付がないと訴えがありました。とりわけ大慈寺は、右大臣実朝様が建立したので、他とは特別なので、法要などの仏事を専門にしている所、年貢を集める雜掌たちがおろそかに扱い怠けているのが、本当に困った事だ。早く状況を調べて、納付するようにとの命令は、将軍の仰せによって書き出すのはこのとおりである。
   建長4年6月25日                 相模守北条時頼
                           陸奥守北条重時
   秋田城介安達義景さんへ

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