吾妻鏡入門第四十三巻

建長五年(1253)正月小

建長五年(1253)正月小一日庚辰。天霽。垸飯〔相州御沙汰〕。奥州。相州以下人々〔布衣〕多以出仕。時剋。將軍家出御南面。土御門宰相中將〔顯方卿〕上御簾。進物役人。
 御劔  前右馬頭〔政村〕   御弓矢 武藏守〔朝直〕
 御行騰 秋田城介義景
 一御馬 遠江六郎教時      同七郎時基
 二御馬 遠江次郎左衛門尉光盛  同十郎頼連
 三御馬 薩摩七郎左衛門尉祐能  同十郎祐廣
 四御馬 大曽祢太郎左衛門尉長泰 同次郎左衛門尉盛經
 五御馬 北條六郎時定      工藤次郎左衛門尉頼光

読下し                   そらはれ  おうばん 〔そうしゅう  おんさた 〕   おうしゅう そうしゅう いげ  ひとびと 〔 ほい 〕  おお  もっ  しゅっし
建長五年(1253)正月小一日庚辰。天霽。垸飯〔相州の御沙汰〕。奥州・相州以下の人々〔布衣〕多く以て出仕す。

 じこく  しょうぐんけなんめん しゅつご  つちみかどさいしょうちゅうじょう 〔あきかたきょう〕 おんみす  あ     しんもつ  えき  ひと
時剋@に將軍家南面へ出御。 土御門宰相中將 〔顯方卿〕御簾を上ぐ。進物の役の人。

  ぎょけん   さきのうまのかみ 〔まさむら〕       おんゆみや  むさしのかみ 〔ともなお〕
 御劔  前右馬頭〔政村〕   御弓矢 武藏守〔朝直〕

  おんむかばき あいだのじょうすけよしかげ
 御行騰 秋田城介義景

 いちのおんうま とおとうみろくろうのりとき           おな    しちろうときもと
 一御馬 遠江六郎教時      同じき七郎時基

  にのおんうま とおとうみじろうさえもんのじょうみつもり   おな    じうろうよりつら
 二御馬 遠江次郎左衛門尉光盛  同じき十郎頼連

 さんのおんうま さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし  おな    じうろうすけひろ
 三御馬 薩摩七郎左衛門尉祐能  同じき十郎祐廣

 よんのおんうま おおそねたろうさえもんのじょうながやす  おな    じろうさえもんのじょうもりつね
 四御馬 大曽祢太郎左衛門尉長泰 同じき次郎左衛門尉盛經

  ごのおんうま ほうじょうろくろうときさだ            くどうじろうさえもんのじょうよりみつ
 五御馬 北條六郎時定      工藤次郎左衛門尉頼光

参考@時尅は、定刻、時刻の分かるものがあったのか?。

現代語建長五年(1253)正月小一日庚辰。空は晴です。将軍への御馳走のふるまい〔時頼さんの提供〕。重時さん・時頼さん以下の人々は礼服の布衣(狩衣)で沢山出勤しました。時刻になって宗尊親王将軍家は、南面へお出ましです。土御門宰相中将顕方さんが御簾を上げました。将軍への進物の役の人は、
 刀は、前右馬頭北条政村 弓矢は、武蔵守北条朝直 乗馬袴は、秋田城介安達義景
 一の馬 遠江六郎北条教時     同七郎北条時基
 二の馬 遠江次郎左衛門尉佐原光盛 同十郎佐原頼連
 三の馬 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 同十郎伊東祐広
 四の馬 大曽祢太郎左衛門尉長泰  同次郎左衛門尉大曽祢盛経
 五の馬 北条六郎時定       工藤次郎左衛門尉頼光

建長五年(1253)正月小二日辛巳。天リ。垸飯〔入道左馬頭義氏朝臣沙汰〕。宰相中將上御簾。
 御劔  武藏守〔朝直〕     御弓箭 陸奥掃部助〔實時〕
 御行騰 和泉前司行方
 一御馬 上野三郎國氏      刑部次郎左衛門尉國俊
 二御馬 筑前次郎左衛門尉行頼  伊勢次郎行經
 三御馬 平新左衛門尉盛時    同四郎兵衛尉
 四御馬 三村新左衛門尉時親   同三郎兵衛尉親泰
 五御馬 足利太郎家氏      同次郎兼氏
明日依可有御行始于相州御亭。今夕被催供奉人。是以元日着庭衆所被撰也。小侍所司平岡左衛門尉實俊。令朝夕雜色等廻其散状云々。

読下し                   そらはれ  おうばん 〔にゅうどうさまのかみよしうじあそん  さた  〕  さいしょうちゅうじょうおんみす  あ

建長五年(1253)正月小二日辛巳。天リ。垸飯〔入道左馬頭義氏朝臣が沙汰〕。宰相中將御簾を上ぐ。

  ぎょけん   むさしのかみ 〔ともなお〕           おんゆみや  むつかもんのすけ 〔さねとき〕
 御劔  武藏守〔朝直〕     御弓箭 陸奥掃部助〔實時〕

  おんむかばき いずみぜんじゆきかた
 御行騰 和泉前司行方

 いちのおんうま  こうづけさぶろうくにうじ            ぎょうぶじろうさえもんのじょうくにとし
 一御馬 上野三郎國氏      刑部次郎左衛門尉國俊

  にのおんうま ちくぜんじろうさえもんのじょうゆきより    いせじろうゆきつね
 二御馬 筑前次郎左衛門尉行頼  伊勢次郎行經

 さんのおんうま へいしんさえもんのじょうもりとき       おな    しろうひょうのじょう
 三御馬 平新左衛門尉盛時@   同じき四郎兵衛尉

 よんのおんうま みむらしんさえもんのじょうときちか     おな    さぶろうひょうえんじょうちかやす
 四御馬 三村新左衛門尉時親A  同じき三郎兵衛尉親泰

  ごのおんうま あしかがたろういえうじ             おな    じろうかねうじ
 五御馬 足利太郎家氏      同じき次郎兼氏

 あす  そうしゅう  おんていに みゆきじはじ あ   べ    よっ    こんゆう ぐぶにん  もよ  さる    これ がんじつ ちゃくていしゅう もっ  えらばれ ところなり
明日、相州の御亭于御行始め有る可きに依て、今夕供奉人を催お被る。是 元日の 着庭衆を以て撰被る所也。

こさむらい しょし ひらおかさえもんのじょうさねとし ちょうせき  ぞうしきら   し     そ  さんじょう  めぐ     うんぬん
 小侍の所司 平岡左衛門尉實俊、朝夕の雜色等を令て、其の散状Bを廻らすと云々。

参考@平新左衛門尉盛時ー盛綱ー頼綱。
参考A三村は、常陸。時親は忍性を呼んで極楽寺を常陸につくる。
参考B
散状は、回覧

現代語建長五年(1253)正月小二日辛巳。空は晴です。将軍への御馳走のふるまい〔入道左馬頭足利義氏の提供〕。土御門宰相中将顕方さんが御簾を上げました。
 刀は、武蔵守北条朝直 弓矢は、陸奥掃部助北条実時 乗馬袴は、和泉前司二階堂行方
 一の馬 上野三郎畠山国氏      刑部次郎左衛門尉国俊
 二の馬 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 伊勢次郎二階堂行経
 三の馬 平新左衛門尉盛時      同四郎兵衛尉三村親泰
 五の馬 足利太郎家氏        同次郎足利兼氏

明日、時頼さんの屋敷へお出かけ始めがあるので、今日の夕方にお供の人を選びました。これは、元日に御所での式典に庭に来ていた人を決めました。将軍の身の回りの世話をする小侍所の次官の平岡左衛門尉実俊が、御所勤務の雑役夫を使って、その回覧を回させましたとさ。

建長五年(1253)正月小三日壬午。細雨下。垸飯〔奥州御沙汰〕。相公羽林上御簾。
 御劔  前右馬權頭〔政村〕   御調度 尾張守〔時章〕
 御行騰 下野前司泰綱
 一御馬 遠江六郎教時      同七郎時基
 二御馬 武藏四郎時仲      同五郎時忠
 三御馬 遠江太郎C時      同次郎時通
 四御馬 城九郎泰盛       同四郎時盛
 五御馬 陸奥弥四郎時茂     同七郎業時
垸飯之後。將軍家御行始也。出御自南門〔御車。御烏帽子。直衣〕。
供奉人〔布衣〕
 〔御劔役〕
 前右馬權頭        尾張前司時章
 武藏守朝直        相摸式部大夫時弘
 陸奥掃部助實時      越後右馬助時親
 足利太郎家氏       佐渡前司基綱
 出羽前司行義       秋田城介義景
 前大藏權少輔朝廣     前太宰少貳爲佐
 伊豆前司頼定       遠山大藏少輔景朝
 和泉前司行方       大隅前司忠時
 參河前司頼氏       安藝前司親光
 日向右馬助親家      薩摩前司祐長
 伊賀前司時家       伊勢前司行綱
 壹岐守基政        三浦介盛時
 弥次郎左衛門尉親盛    梶原右衛門尉景俊
 大曽祢左衛門尉長泰    豊後四郎左衛門尉忠綱
昨日雖不入散状今朝進加之。
 武藤左衛門尉景頼     隱岐三郎左衛門尉行氏
 和泉五郎左衛門尉政泰   小野寺四郎左衛門尉通時
 大須賀左衛門尉胤氏    阿曽沼小次郎光綱
 筑前次郎左衛門尉行頼   常陸次郎兵衛尉行雄
 佐々木孫四郎左衛門尉泰信 加藤左衛門尉景經
 善五郎左衛門尉康家    狩野五郎左衛門尉爲廣
 式部兵衛太郎光政     長次右衛門尉義連
 伯耆左衛門三郎C經    鎌田兵衛三郎義長
經小町大路。入御相州南門。奥州〔布衣下括〕等豫被着庭上。土御門宰相中將〔顯方卿〕寄御車於寢殿妻戸出居。豫被置菓子〔八合。十二合〕瓶子。鯉〔置俎木。副箸刀〕。又積色革羽等。盃酌數巡之後有御遊。次出御寢殿東向。被上御簾〔役人如前〕。供三獻。兩國司并前右典厩等被候陪膳。次進御馬御引出物。役人。
 御劔  足利太郎家氏   砂金  相摸八郎時隆
 羽   伊勢前司行綱
 一御馬 陸奥(弥)四郎時茂   同七郎業時
 二御馬 尾張次郎公時   諏方三郎左衛門尉盛經
 三御馬 城九郎泰盛    同四郎時盛
次相公羽林垂御簾給。御釼被奉授役人。則寄御車。還御。路次取松明。

読下し                    さいう ふ    おうばん 〔おうしゅう  おんさた 〕    そうこう うりんおんみす  あ

建長五年(1253)正月小三日壬午。細雨下る。垸飯〔奥州の御沙汰〕。相公羽林御簾を上ぐ。参考奥州は、重時。義時の三男。

  ぎょけん    さきのうまごんのかみ 〔まさむら〕       ごちょうど   おわりのかみ 〔ときあき〕
 御劔  前右馬權頭〔政村〕   御調度 尾張守〔時章〕

  おんむかばき しもつけぜんじやすつな
 御行騰 下野前司泰綱

 いちのおんうま とおとうみのろくろうのりとき         おな    しちろうときもと
 一御馬 遠江六郎教時      同じき七郎時基

  にのおんうま むさしのしろうときなか            おな    ごろうときただ
 二御馬 武藏四郎時仲      同じき五郎時忠

 さんのおんうま とおとうみのたろうきよとき          おな    じろうときみち
 三御馬 遠江太郎C時      同じき次郎時通

 よんのおんうま じょうのくろうやすもり             おな    しろうときもり
 四御馬 城九郎泰盛       同じき四郎時盛

  ごのおんうま むつのいやしろうときもち           おな    しちろうなりとき
 五御馬 陸奥弥四郎時茂     同じき七郎業時

おうばんののち しょうぐんけ みゆきはじ なり みなみもんよ  しゅつご 〔おんくるま   おんえぼし    のうし 〕
垸飯之後、將軍家御行始め也。南門自り出御〔御車。御烏帽子。直衣〕参考直衣は、天皇以下、三位以上の貴族の平常の服。

 ぐぶにん  〔 ほい 〕
供奉人〔布衣〕

  さきのうまごんおかみ 〔ぎょけんやく〕        おわりのぜんじときあき
 前右馬權頭〔御劔役〕    尾張前司時章

  むさしのかみともなお               さがみしきぶのたいふときひろ
 武藏守朝直        相摸式部大夫時弘

  むつかもんのすけさねとき             えちごうまのすけときちか
 陸奥掃部助實時      越後右馬助時親

  あしかがたろういえうじ               さどぜんじもとつな
 足利太郎家氏       佐渡前司基綱

  でわぜんじゆきよし                あいだのじょうすけよしかげ
 出羽前司行義       秋田城介義景

  さきのおおくらごんのしょうゆうともひろ     さきのだざいしょうにためすけ
 前大藏權少輔朝廣     前太宰少貳爲佐

  いずぜんじよりさだ                とおやまおおくらしょうゆうかげとも
 伊豆前司頼定       遠山大藏少輔景朝@

  いずみのぜんじゆきかた             おおすみぜんじただとき
 和泉前司行方       大隅前司忠時

  みかわぜんじよりうじ                あきのぜんじちかみつ
 參河前司頼氏       安藝前司親光

  ひゅうがうまのすけちかいえ            さつまのぜんじすけなが
 日向右馬助親家      薩摩前司祐長

  いがぜんじときいえ                 いせぜんじゆきつな
 伊賀前司時家       伊勢前司行綱

  いきのかみもとまさ                 みうらのすけもりとき
 壹岐守基政        三浦介盛時

  いやじろうさえもんのじょうちかもり        かじわらうえもんのじょうかげとし
 弥次郎左衛門尉親盛    梶原右衛門尉景俊

  おおそねさえもんのじょうながやす       ぶんごのしろうさえもんのじょうただつな
 大曽祢左衛門尉長泰    豊後四郎左衛門尉忠綱

さくじつさんじょう いれず いへど こんちょうこれ すす くわ
昨日散状に入不と雖も今朝之を進め加う。

  むとうさえもんのじょうかげより           おきのさぶろうさえもんのじょうゆきうじ
 武藤左衛門尉景頼     隱岐三郎左衛門尉行氏

  いずみのごろうさえもんのじょうまさやす     おのでらしろうさえもんのじょうみちとき
 和泉五郎左衛門尉政泰   小野寺四郎左衛門尉通時

  おおすがさえもんのじょうたねうじ        あそぬまこじろううみつつな
 大須賀左衛門尉胤氏    阿曽沼小次郎光綱

  ちくぜんじろうさえもんのじょうゆきより      ひたちじろうひょうえのじょうゆきかつ
 筑前次郎左衛門尉行頼   常陸次郎兵衛尉行雄

  ささきのまごしろうさえもんのじょうやすのぶ   かとうさえもんのじょうかげつね
 佐々木孫四郎左衛門尉泰信 加藤左衛門尉景經

  ぜんのごろうさえもんのじょうやすいえ      かのうのごろうさえもんのじょうためひろ
 善五郎左衛門尉康家    狩野五郎左衛門尉爲廣

  しきぶのひょうえたろうみつまさ          ちょうじうえもんのじょうよしつら
 式部兵衛太郎光政     長次右衛門尉義連

  ほうきさえもんさぶろうきよつね          かまたひょうえあぶろうよしなが
 伯耆左衛門三郎C經    鎌田兵衛三郎義長

こまちおおじ   へ    そうしゅう みなみもん にゅうぎょ おうしゅう 〔 ほい  げぐく  〕 ら あらかじ ていじょう  つかれ
小町大路を經て、相州の南門へ入御。奥州〔布衣下括り〕等 豫め庭上に着被る。

つちみかどさいしょうちゅうじょう〔あきかたきょう〕 おくるまを しんでんつまど   でい   よ
 土御門宰相中將 〔顯方卿〕 御車於寢殿妻戸の出居に寄せる。参考出居は、寝殿造りに設けられた居間と来客 接待用の部屋とを兼ねたもの。

あらかじ かし  〔はちごう  じゅうにごう〕  へいし  こい 〔 まないた  お     はしかたな そ      〕   おかれ     また いろかわはねなど  つ   はいしゃくすうじゅんののち  ごゆう あ
豫め菓子〔八合。十二合〕瓶子・鯉〔俎木に置き、箸刀を副える〕を置被る。又、色革羽等を積む。盃酌 數巡之後、御遊有り。

つい しんでんひがしむ  しゅつご  おんみす  あげらる   〔えき  ひとまえ  ごと    〕   さんこん そな   りょうこくしなら    さきのうてんきゅうら ばいぜん こうじられ
次で寢殿東向きに出御。御簾を上被る〔役の人前の如し〕。三獻を供う。兩國司并びに前右典厩等陪膳に候被る。

つい おんうまおんひきでもの  すす    えき  ひと
次に御馬御引出物を進む。役の人。

  ぎょけん    あしかがたろういえうじ       さきん    さがみはちろうときたか
 御劔  足利太郎家氏   砂金  相摸八郎時隆

  はね      いせのぜんじゆきつな
 羽   伊勢前司行綱

 いちのおんうま  むつのいやしろうときもち    おな    しちろうなりとき
 一御馬 陸奥弥四郎時茂  同じき七郎業時

  にのおんうま おわりのじろうきんとき      すわのさぶろうさえもんのじょうもりつね
 二御馬 尾張次郎公時   諏方三郎左衛門尉盛經

 さんのおんうま じょうのくろうやすもり       おな    しろうときもり
 三御馬 城九郎泰盛    同じき四郎時盛

つぎ  そうこううりんおんみす  たら  たま    ぎょけん  えき  ひと  さず たてまつらる   すなは おくるま  よ   かんご   ろじ   たいまつ  と
次に相公羽林御簾を垂し給ふ。御釼は役の人に授け 奉 被る。則ち御車を寄せ還御。路次は松明を取る。

参考@遠山は、飛騨遠山荘。

現代語建長五年(1253)正月小三日壬午。霧雨です。将軍への御馳走のふるまい〔重時さんの提供〕。土御門宰相中将顕方さんが御簾を上げました。
 刀は、前右馬頭北条政村 弓矢は、尾張守北条時章 乗馬袴は、下野前司宇都宮泰綱
 一の馬 遠江六郎北条教時  同七郎北条時基
 二の馬 武蔵四郎北条時仲  同五郎北条時忠
 三の馬 遠江太郎北条清時  同次郎北条時通
 四の馬 城九郎安達泰盛   同四郎安達時盛
 五の馬 陸奥弥四郎北条時茂 同七郎北条業時

ご馳走ふるまいの後、宗尊親王将軍家のお出かけ始めです。南門からお出まし〔牛車・烏帽子・直衣〕。

お供の人〔布衣(武士の礼服の狩衣)〕
 
前右馬頭北条政村〔刀持ち〕 尾張前司北条時章
 武蔵守北条朝直       相模式部大夫北条時弘
 陸奥掃部助北条実時     越後右馬助北条時親
 足利太郎家氏        佐渡前司後藤基綱
 出羽前司二階堂行義     秋田城介安達義景
 前大蔵権少輔結城朝広    前太宰少弐狩野為佐
 伊豆前司若槻頼定      遠山大蔵少輔景朝
 和泉前司二階堂行方     大隅前司島津忠時
 三河前司新田頼氏      安芸前司親光
 日向右馬助親家       薩摩前司伊東祐長
 伊賀前司時家        伊勢前司二階堂行綱
 壱岐守後藤基政       三浦介盛時
 弥次郎左衛門尉親盛     梶原右衛門尉景俊
 大曽祢左衛門尉長泰     豊後四郎左衛門尉島津忠綱
昨日の回覧に載せてなかったけど、今朝これを推薦して加えました。
 武藤左衛門尉景頼      隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
 和泉五郎左衛門尉天野政泰  小野寺四郎左衛門尉通時
 大須賀左衛門尉胤氏    阿曽沼小次郎光綱
 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
 佐々木孫四郎左衛門尉泰信  加藤左衛門尉景経
 善五郎左衛門尉三善康家   狩野五郎左衛門尉為広
 式部兵衛太郎伊賀光政    長次右衛門尉長谷部義連
 伯耆左衛門三郎葛西清経   鎌田兵衛三郎義長

小町大路を通って、時頼さんの南門からお入りです。重時さん〔布衣で袴は裾縛り〕達は、前もって庭の床几に座っています。土御門宰相中将顕方さんが牛車を寝殿の妻戸の客間に寄せました。前もって果物〔8種と12種〕徳利・鯉〔俎板に置いて箸と小刀を添える〕を置いてありました。又、色染めの皮や鷹の羽も積まれています。
酒を数杯の後、管弦や朗詠がありました。次いで、寝殿の東向きにお出ましです。御簾を上げました〔
この役の人は前と同じ土御門宰相中将顕方さん〕。三々九度を用意して、重時さんと時頼さんの両国司それに前右典厩北条政村たちが、お給仕をしました。次に馬と引き出を進上しました。その役の人は、
 刀 足利太郎家氏  砂金 相模八郎北条時隆  鷲の羽 伊勢前司二階堂行綱
 一の馬 陸奥弥四郎北条時茂 同七郎北条業時
 二の馬 尾張次郎公時    諏訪三郎左衛門尉盛経
 三の馬 城九郎安達泰盛   同四郎安達時盛
次に
土御門宰相中将顕方さんが御簾を降ろしました。刀は、役の足利家氏に預けました。すぐに牛車を寄せて帰りました。道では松明を灯しました。

建長五年(1253)正月小八日丁亥。リ。被行恒例心經會。奥州。相州被着座西侍。將軍家〔御直衣〕出御二棟御所。

読下し                   はれ  こうれい  しんぎょうえ おこなはれ  おうしゅう そうしゅう にし さむらい ちゃくざされ   しょうぐんけ 〔 ごのうし 〕   にとう   ごしょ  しゅつご
建長五年(1253)正月小八日丁亥。リ。恒例の心經會を行被る。奥州・相州 西の侍に 着座被る。將軍家〔御直衣〕二棟の御所に出御。

現代語建長五年(1253)正月小八日丁亥。晴です。恒例の般若心経を唱える供養を行いました。重時さんと時頼さんは、西の侍だまりに着きました。宗尊親王将軍家〔直衣〕二棟の御所にお出ましです。

建長五年(1253)正月小九日戊子。於前濱被撰御的射手。雖令參向。多以有申障之輩。
 武田五郎七郎 〔雖參弓塲加灸治之由申〕
 二宮弥次郎 〔有難治故障云々〕
 桑原平内 〔雖參弓塲所勞之後不歴幾日數之間故障申〕
   右近三郎 子細同前
 薩摩十郎 〔所勞之由申〕
 佐々宇左衛門三郎 〔在國〕
 横溝七郎五郎 〔在國〕
 平井八郎 〔在國 但今明之間可參之由申〕
以所殘之人數有其試云々。一五度射之。
 早河二郎太郎    山城次郎左衛門尉
 佐々宇左衛門五郎  海野矢四郎
 佐貫弥四郎     眞板五郎次郎
 佐貫七郎      周枳兵衛四郎
 多賀谷弥五郎
射訖之。撰定散状。奥書之樣。
 右明後日十一日。可有御弓塲始。夘尅以前可致參勤之状。依仰所廻如件
   建長五年正月九日

読下し                   まえはま  をい  おんまと   いて   えらばる   さんこうせし   いへど   おお  もっ  さわり もう  のやからあ
建長五年(1253)正月小九日戊子。前濱に於て御的の射手を撰被る。參向令む@と雖も、多く以て障を申す之輩有り。

  たけだのごろしちろう    〔 ゆんば  まい    いへど  きゅうじ   くわ   のよし   もう  〕
 武田五郎七郎 〔弓塲へ參ると雖も灸治Aを加う之由、申す〕

  にのみやいやじろう   〔 なんち  こしょう あ     うんぬん〕
 二宮弥次郎 〔難治の故障有りと云々〕

  くわばらへいない   〔 ゆんば  まい   いへど  しょろうののち いくにっすう   へず のあいだ  こしょう もう  〕
 桑原平内 〔弓塲へ參ると雖も所勞之後幾日數を歴不之間、故障申す〕

       こんさぶろう   しさい まえ  おな
   右近三郎 子細前に同じ

  さつまじうろう    〔 しょろう のよし  もう  〕
 薩摩十郎 〔所勞之由を申す〕

  ささうざえもんさぶろう       〔 くに   あ   〕
 佐々宇左衛門三郎 〔國に在り〕

  よこみぞしちろうごろう   〔 くに   あ   〕
 横溝七郎五郎 〔國に在り〕

  ひらいはちろう    〔 くに  あ     ただ  こんみょうのあいだ さん   べ   のよし   もう〕
 平井八郎 〔國に在り、但し今明之間、參ず可き之由を申す〕

のこ  ところのにんずう  もっ  そ   ため  あ     うんぬん  ひと ご ど これ  い
殘る所之人數を以て其の試し有りと云々。一五度B之を射る。

  はやかわじろたろう          やましろじろざえもんんじょう
 早河二郎太郎    山城次郎左衛門尉

  ささうさえもんごろう           うんののやしろう
 佐々宇左衛門五郎  海野矢四郎

  さぬくいやしろう             まいたのごろじろう
 佐貫弥四郎     眞板五郎次郎

  さぬきしちろう              すきひょうえしろう
 佐貫七郎      周枳兵衛四郎C

  たがやいやごろう
 多賀谷弥五郎

これ  いをは    さんじょう せんてい   おくがきのさま
之を射訖り、散状を撰定する奥書之樣。

  みぎ みょうごにちじういちにち おんゆんばはじ あ   べ    うのこくいぜん  さんきんいた  べ   のじょう  おお    よっ  めぐ   ところ  くだん ごと
 右明後日十一日、御弓塲始め有る可し。夘尅以前に參勤致す可き之状、仰せに依て廻らす所、件の如し

      けんちょうごねんしょうがつここのか
   建長五年正月九日

参考@参向せしむは、来いと命令したにもかかわらず。
参考A
灸治は、穢れ。

参考
B一五度は、四十九巻正元二年(1260)正月十二日・十四日の記事により、一五度は、二本づつ五度で、二五度は二本づつ五度を二回らしい。
参考C周枳兵衛四郎は、丹後国須枳郷京都府京丹後市大宮町周枳。

現代語建長五年(1253)正月小九日戊子。権五郎神社の前の浜で、的始めの射手の選考をしました。参加するように命令したにもかかわらず、多くの支障を云ってる連中がおります。
 武田五郎七郎政平〔弓の場所へ来ましたが、お灸をすえたのでと云っております〕
 二宮弥次郎時光 〔治らない病気中だそうな〕
 桑原平内盛時〔弓の場所へ来ましたが、病気から幾日も経っていないので調子が良くないと云ってます〕
   右近三郎 事情は前人と同じ
 薩摩十郎工藤祐広〔病気だと云ってました〕
 佐々宇左衛門三郎光高〔在国中です〕
 横溝七郎五郎忠光〔在国中です〕
 平井八郎清頼〔在国中です、但し今朝には、来ると云ってました〕
残った人数で試し打ちがありましたそうな。二本を五度射ました。
 早川次郎太郎祐泰 山城次郎左衛門尉
 佐々宇左衛門五郎 海野矢四郎助氏
 佐貫弥四郎広信  真板五郎次郎経朝
 佐貫七郎広胤   
周枳兵衛四郎頼泰
 多賀谷弥五郎重茂
これを射終わって、回覧に選び書いた奥書に、次の通り書き載せました。

 右は、明後日の11日に弓場始め式があります。午前6時前に出勤するようにとの文書は、将軍の仰せによって回覧するのはこの通りです。
    建長5年1月9日

建長五年(1253)正月小十一日庚寅。雪降。積四寸。今日。被行評定始。其衆皆參。

読下し                     ゆきふ     よんすん つ      きょう ひょうじょうはじ   おこなはれ   そ  しゅうみなさん
建長五年(1253)正月小十一日庚寅。雪降る。四寸積もる。今日、評定始めを行被る。其の衆皆參ず。

現代語建長五年(1253)正月小十一日庚寅。雪が降りました。12cmも積もりました。今日、政務会議始めを行いました。そのメンバーは皆出勤しました。

建長五年(1253)正月小十四日癸巳。有御的始。將軍家於簾中有御覽。射手十人。二五度射之。
 一番
  平井八郎     早河次郎太郎
 二番
  佐貫弥四郎    眞板五郎次郎
 三番
  佐々宇左衛門五郎 海野矢四郎
 四番
  佐貫七郎     須枳兵衛四郎
 五番
  多賀谷弥五郎   山城三郎左衛門尉

読下し                     おんまとはじ  あ    しょうぐんけれんちゅう をい  ごらん あ     いて じうにん  ふたご ど これ  い
建長五年(1253)正月小十四日癸巳。御的始め有り。將軍家簾中に於て御覽有り。射手十人。二五度@之を射る。

  いちばん
 一番

    ひらいのはちろう         はやかわのじろたろう
  平井八郎     早河次郎太郎

   にばん

 二番

    さぬきのいやしろう         まいたのごろじろう
  佐貫弥四郎    眞板五郎次郎A

  さんばん

 三番

    ささうさえもんごろう        うんののやしろう
  佐々宇左衛門五郎 海野矢四郎B

  よんばん

 四番

    さぬきのしちろう          すきひょうえしろう
  佐貫七郎     須枳兵衛四郎

   ごばん
 五番

    たがやのいやごろう        やましろさぶろうさえもんのじょう
  多賀谷弥五郎   山城三郎左衛門尉

参考@五度は、四十九巻正元二年(1260)正月十二日・十四日の記事により、二本づつ五度を二回らしい。
参考A眞板は、京都の久世荘。久世流藤原氏の領地であるが、チョイチョイ上納を忘れる。
参考B四郎の四郎は、又四郎、小四郎、弥四郎(矢四郎)という。

現代語建長五年(1253)正月小十四日癸巳。的始め式がありました。宗尊親王将軍家は御簾の中から見ていました。射手は10人。2本づつ5回射ました。
 一番 平井八郎清頼   VS 早川次郎太郎祐泰
 二番 佐貫弥四郎広信  VS 真板五郎次郎経朝
 三番 佐々宇左衛門五郎 VS 海野矢四郎助氏
 四番 佐貫七郎広胤   
VS 周枳兵衛四郎頼泰
 五番 多賀谷弥五郎重茂 VS 
山城三郎左衛門尉

建長五年(1253)正月小十六日乙未。來廿一日。依可有御參于鶴岡八幡宮。被催促供奉人。而太宰少貳爲佐。筑前々司行泰者申障云々。有御撰。 奉行之。 爲陪膳。能登右近大夫仲時候役送云々。自西門出御。若宮大路。
行列
御車
 〔三浦〕        〔伊賀〕
 遠江十郎頼連      式部兵衛太郎光政
 梶原右衛門太郎景綱   小野寺新左衛門尉行通
 海上弥次郎胤景     大須賀左衛門次郎胤氏
 伊賀四郎景家      武藤七郎兼頼
 土屋新三郎光時     大泉九郎長氏
 内藤肥後三郎左衛門尉
御劔役人〔布衣〕
 武藏守朝直       武藤左衛門尉景頼
御後〔布衣〕
 尾張前司時章      遠江前司時直
 相摸右近大夫將監時定  相摸式部大夫時弘
 越後右馬助時親     北條六郎時定
 遠江六郎教時      陸奥弥四郎時茂
 尾張次郎公時      越後五郎時家
 武藏太郎朝房      遠江太郎C時
 足利太郎家氏      伊豆前司頼定
 〔小山〕        〔後藤〕
 出羽前司長村      佐渡前司基綱
             〔宇都宮〕
 秋田城介義景      下野前司泰綱
             〔新田〕
 和泉前司行方      三河前司頼氏
 〔結城〕        〔後藤〕
 前大藏權少輔朝廣    壹岐守基政
 能登右近大夫仲時    安藝前司親光
 〔佐々木〕
 壹岐前司泰綱      日向右馬助親家
 〔嶋津〕
 大隅前司忠時      伊勢前司行綱
             〔小田〕
 備後前司康持      伊賀前司時家
 薩摩前司祐長      城九郎泰盛
             〔三浦〕
 三浦介盛時       遠江次郎左衛門尉光盛
 梶原右衛門尉景俊    出羽次郎左衛門尉行有
 〔結城〕
 上野五郎左衛門尉重光  豊後四郎左衛門尉忠綱
 伊賀次郎左衛門尉光房  大曽祢左衛門尉長泰
 隱岐三郎左衛門尉行氏  大須賀左衛門尉胤氏
 筑前次郎左衛門尉行頼  和泉五郎左衛門尉政泰
 同六郎左衛門尉景村   伊豆太郎左衛門尉實保
 小野寺左衛門尉時通   伯耆四郎左衛門尉光C
 弥次郎左衛門尉親盛   出羽藤次左衛門尉頼平
 足立太郎左衛門尉直元  押垂左衛門尉基時
 善右衛門尉康長     紀伊次郎左衛門尉爲經
 薩摩七郎左衛門尉祐能  澁谷左衛門尉武重
 加地七郎左衛門尉氏綱  常陸次郎兵衛尉行雄
 伯耆左衛門尉C經
以上供奉人事。懸御點交名。依加催促。參上之處。佐々木壹岐前司。足立左衛門尉推參。而掃部助實時爲小侍所別當不知之。於供奉路次。各承別仰令參給歟之由。尋問之處。無分明返答云々。

読下し                     きた にじういちにち つるがおかはちまんぐう に ぎょさんあ   べ     よっ    ぐぶにん  さいそくさる
建長五年(1253)正月小十六日乙未。來る廿一日、 鶴岡八幡宮 于御參有る可きに依て、供奉人を催促被る。

しか   だざいしょうにためすけ ちくぜんぜんじゆきやすは さわり もう    うんぬん  ごせん あ         これ  ぶぎょう         ばいぜんたり
而るに太宰少貳爲佐・筑前々司行泰者障を申すと云々。御撰@有り。(名欠)之を奉行す。(名欠)陪膳爲。

 のとうこんたいふなかとき  やくそう そうら   うんぬん  にしもんよ   しゅつご  わかみやおおじ
能登右近大夫仲時役送に候うと云々。西門自り出御A。若宮大路。

参考@御撰は、選び直し。
参考A
西門自り出御は、西門初出。

ぎょうれつ
行列

おくるま
御車

  とおとうみじうろうよりつら 〔 みうら 〕     しきぶのひょうえたろうみつまさ 〔 いが 〕
 遠江十郎頼連〔三浦〕   式部兵衛太郎光政〔伊賀〕

  かじわらうえもんたろうかげつな        おのでらいんさえもんのじょうゆきみち

 梶原右衛門太郎景綱   小野寺新左衛門尉行通

  うなかみいやじろうたねかげ          おおすがさえもんじろうたねうじ
 海上弥次郎胤景     大須賀左衛門次郎胤氏

  いがしろうかげいえ               むとうしちろうかねより
 伊賀四郎景家      武藤七郎兼頼

  つちやしんざぶろうみつとき         おおいずみくろうながうじ
 土屋新三郎光時     大泉九郎長氏

  ないとうひごさぶろうさえもんのじょう
 内藤肥後三郎左衛門尉

ぎょけん  えき  ひと  〔 ほい 〕
御劔の役の人〔布衣〕

  むさしのかみともなお            むとうさえもんのじょうかげより
 武藏守朝直       武藤左衛門尉景頼

おんうしろ 〔 ほい 〕
御後〔布衣〕

  おわりのぜんじときあき           とおとうみぜんじときなお
 尾張前司時章      遠江前司時直

  さがみうこんおたいふしょうげんときさだ  さがみしきぶのたいふときひろ
 相摸右近大夫將監時定  相摸式部大夫時弘

  えちごうまのすけときちか           ほうじょうろくろうときさだ
 越後右馬助時親     北條六郎時定

  とおとうみのろくろうのりとき           むついやしろうときもち
 遠江六郎教時      陸奥弥四郎時茂

  おわりじろうきんとき              えちごのごろうときいえ
 尾張次郎公時      越後五郎時家

  むさしのたろうともふさ            とおとうみのたろうきよとき
 武藏太郎朝房      遠江太郎C時

  あしかがのたろういえうじ           いずのぜんじよりさだ
 足利太郎家氏      伊豆前司頼定

  でわぜんじながむら   〔 おやま 〕      さどのぜんじもとつな 〔 ごとう 〕
 出羽前司長村〔小山〕   佐渡前司基綱〔後藤〕

  あいだのじょうすけよしかげ          しもつけぜんじやすつな〔 うつのみや 〕
 秋田城介義景      下野前司泰綱〔宇都宮〕

  いずみのぜんじゆきかた           みかわのぜんじよりうじ 〔 にった 〕
 和泉前司行方      三河前司頼氏〔新田〕

  さきのおおくらごんのしょうゆうともひろ〔ゆうき 〕 いきのかみもとまさ 〔 ごとう 〕
 前大藏權少輔朝廣〔結城〕 壹岐守基政〔後藤〕

  のとうこんのたいふなかとき          あきぜんじちかみつ

 能登右近大夫仲時    安藝前司親光

  いきぜんじやすつな   〔 ささき 〕     ひゅうがうまのすけちかいえ

 壹岐前司泰綱〔佐々木〕  日向右馬助親家

  おおずみぜんじただとき 〔 しまづ 〕     いせぜんじゆきつな
 大隅前司忠時〔嶋津〕   伊勢前司行綱

  びんごぜんじやすもち             いがぜんじときいえ  〔 おだ 〕
 備後前司康持      伊賀前司時家〔小田〕

  さつまぜんじすけなが            じょうのくろうやすもり
 薩摩前司祐長      城九郎泰盛

  みうらのすけもりとき              とおとうみのじろうさえもんのじょうみつもり  〔 みうら 〕
 三浦介盛時       遠江次郎左衛門尉光盛〔三浦〕

  かじわらうえもんのじょうかげとし       でわのじろうさえもんのじょうゆきあり
 梶原右衛門尉景俊    出羽次郎左衛門尉行有

  こうづけごろうさえもんのじょうしげみつ  〔 ゆうき 〕   ぶんごのしろうさえもんのじょうただつな
 上野五郎左衛門尉重光〔結城〕  豊後四郎左衛門尉忠綱

  いがのじろうさえもんのじょうみつふさ    おおそねさえもんのじょうながやす
 伊賀次郎左衛門尉光房  大曽祢左衛門尉長泰

  おきのさぶろうさえもんのじょうゆきうじ    おおすがさえもんのじょうたねうじ
 隱岐三郎左衛門尉行氏  大須賀左衛門尉胤氏

  ちくぜんのじろうさえもんのじょうゆきより   いずみのごろうさえもんのじょうまさやす
 筑前次郎左衛門尉行頼  和泉五郎左衛門尉政泰

  おな   ろくろうさえもんのじょうかげむら  いずのたろうさえもんのじょうさねやす
 同じき六郎左衛門尉景村 伊豆太郎左衛門尉實保

  おのでらさえもんのじょうときみち       ほうきのしろうさえもんのじょうみつきよ
 小野寺左衛門尉時通   伯耆四郎左衛門尉光C

  いやじろうさえもんのじょうちかもり      でわのとうじさえもんのじょうよりひら
 弥次郎左衛門尉親盛   出羽藤次左衛門尉頼平

  あだちのたろうさえもんのじょうなおもと   おしだれさえもんのじょうもととき
 足立太郎左衛門尉直元  押垂左衛門尉基時

  ぜんのうえもんのじょうやすなが       きいのじろうさえもんのじょうためつね
 善右衛門尉康長     紀伊次郎左衛門尉爲經

  さつまのしちろうさえもんのじょうすえけよし しぶやさえもんのじょうたけしげ
 薩摩七郎左衛門尉祐能  澁谷左衛門尉武重

  かぢのしちろうさえもんのじょううじつな    ひたちのじろうひょえのじょうゆきかつ
 加地七郎左衛門尉氏綱  常陸次郎兵衛尉行雄

  ほうきさえもんのじょうきよつね
 伯耆左衛門尉C經

いじょう ぐぶにん  こと   ごてん きょうみょう か     さいそく  くは      よっ    さんじょうのところ   ささきいきぜんじ    あだちさえもんのじょうすいさん
以上供奉人の事、御點の交名を懸け、催促を加へるに依て、參上之處、佐々木壹岐前司・足立左衛門尉推參す。

しか   かもんのすけさねとき こさむらいどころべっとう  な   これ  しらず
而るに掃部助實時、 小侍所 別當と爲し之を不知。

 ぐぶ    ろじ   をい  おのおの べつ   おお  うけたまは まい  せし  たま  か のよし  じんもんのところ ぶんめい  へんとうな   うんぬん
供奉の路次に於て、各 別なる仰せを承り 參り令め給ふ歟之由、尋問之處、分明の返答無しと云々。

現代語建長五年(1253)正月小十六日乙未。来る二十一日、鶴岡八幡宮にお詣りがあるので、お供の人を催促しました。しかし、太宰少弐狩野為佐と筑前前司二階堂行泰は支障を申し出ているそうな。撰び直しがあり○○が指揮担当して、○○がお給仕係で、能登右近大夫仲時が配送係だそうな。
西門から出発して、若宮大路です。
行列は
牛車
 遠江十郎三浦佐原頼連   式部兵衛太郎伊賀光政
 梶原右衛門太郎景綱    小野寺新左衛門尉行通
 海上弥次郎胤景      大須賀右衛門次郎胤氏
 
伊賀四郎景家       武藤七郎兼頼
 土屋新三郎光時      大泉九郎長氏
 内藤肥後三郎左衛門尉
太刀持ちの役の人〔布衣〕
 武藏守北条朝直      武藤左衛門尉景頼
将軍の後ろ〔布衣〕
 尾張前司北条時章     遠江前司北条時直
 相模右近大夫将監北条時定 相模式部大夫北条時弘
 越後右馬助北条時親    北条六郎時定
 遠江六郎北条教時     陸奥弥四郎北条時茂
 尾張次郎北条公時     越後五郎北条時家
 武藏太郎北条朝房     遠江太郎北条清時
 足利太郎家氏       伊豆前司若槻頼定
 出羽前司小山長村     佐渡前司後藤基綱
 秋田城介安達義景     下野前司宇都宮泰綱
 和泉前司二階堂行方    三河前司新田頼氏
 前大蔵権少輔結城朝広   壱岐守後藤基政
 能登右近大夫仲時     安芸前司親光
 壱岐前司佐々木泰綱    日向右馬助親家
 大隅前司島津忠時     伊勢前司二階堂行綱
 備後前司三善康持     伊賀前司小田時家
 薩摩前司伊東祐長     城九郎安達泰盛
 三浦介盛時        遠江次郎左衛門尉三浦佐原光盛
 梶原右衛門尉景俊     出羽次郎左衛門尉二階堂行有
 上野五郎左衛門尉結城重光 豊後四郎左衛門尉島津忠綱
 伊賀次郎左衛門尉光房   大曽祢左衛門尉長泰
 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 大須賀左衛門尉胤氏
 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 和泉五郎左衛門尉天野政泰
 同六郎左衛門尉天野景村  伊豆太郎左衛門尉実保
 小野寺左衛門尉時通    伯耆四郎左衛門尉葛西光

 弥次郎左衛門尉親盛    出羽藤次左衛門尉頼平
 足立太郎左衛門尉直元   押垂左衛門尉基時
 善右衛門尉三善康長    紀伊次郎左衛門尉為経
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 渋谷左衛門尉武重
 加地七郎左衛門尉氏綱   常陸次郎兵衛尉二階堂行雄
 伯耆七郎左衛門尉葛西清経
以上のお供の人について、将軍が承知のチェックをした名簿を張り紙して催促をしたので、壱岐前司佐々木泰綱と足立太郎左衛門尉直元がやってきました。それなのに掃部助北条実時は、将軍の身の回りの世話をする小侍所筆頭としてこれを知らなかったので、お供の道中でそれぞれ特別な命令をされて、来たのかと思って質問しましたが、二人も意味が分からずはっきりした返事はしませんでしたとさ。

建長五年(1253)正月小廿六日乙巳。リ。將軍家二所御精進始也。

読下し                     はれ  しょうぐんけ  にしょ  ごしょうじんはじ  なり
建長五年(1253)正月小廿六日乙巳。リ。將軍家、二所の御精進始め也。

現代語建長五年(1253)正月小二十六日乙巳。晴れです。宗尊親王将軍家は、箱根伊豆の二権現参りの精進潔斎の始めです。

建長五年(1253)正月小廿八日丁未。霽。戌剋。相州室家令平産男子給。加持若宮別當僧正〔隆弁〕。驗者C尊僧都云々。僧正參會。C尊并醫陰兩道等者。皆産以後馳參。然而各有祿物。御釼衣御馬也。又奥州被馳參施別祿等。藤二左衛門尉泰經爲御使云々。依御産事觸穢。二所御精進可延引之由。被定云々。

読下し                     はれ いぬのこく そうしゅう しつけ なんし  へいさんせし  たま     かじ  わかみやべっとうそうじょう 〔りゅうべん〕
建長五年(1253)正月小廿八日丁未。霽。戌剋、相州が室家男子@を平産令め給ふ。加持は若宮別當僧正〔隆弁〕

 げざ   せいそんそうづ  うんぬん そうじょうさんかい  せいそんなら    いいんりょうどうらは   みなさん いご   は   さん
驗者はC尊僧都と云々。僧正參會す。C尊并びに醫陰兩道等者、皆産以後に馳せ參ず。

しかしながら おのおの ろくぶつあ     ぎょけん ころも おんうまなり また おうしゅうは   さん  られべつろくら  ほどこ   とうじさえもんのじょうやすつね おんしたり  うんぬん
 然而  各  祿物有り。御釼・衣・御馬也。又、奥州馳せ參じ被別祿等を施す。藤二左衛門尉泰經御使爲と云々。

 おさん  こと  しょくえ  よっ     にしょ  ごしょうじん  えんいんすべ  のよし  さだ  らる    うんぬん
御産の事の觸穢に依て、二所の御精進を延引可き之由、定め被ると云々。

参考@男子は、北条宗政。時宗の弟。

現代語建長五年(1253)正月小二十八日丁未。晴れました。午後8時頃、時頼さんの奥さんが男の子を安産しました。加持は鶴岡八幡宮筆頭の僧正隆弁です。祈祷修験者は清尊僧都だそうな。隆弁僧正は間に合いました。清尊あおれに医者と陰陽師は、皆生まれた後からやってきました。しかし、全員にお礼の贈りもがありました。刀・着物・馬です。又、重時さんも駆けられて、別な贈り物をしました。藤二左衛門尉泰経が将軍の代理だそうな。お産の穢れによって、二権現参りの精進潔斎を延期するとお決めになったそうな。

二月へ

吾妻鏡入門第四十三巻

inserted by FC2 system