吾妻鏡入門第四十四巻

建長六年(1254)五月大

建長六年(1254)五月大一日壬申。人質事有沙汰。被定其法。今日被施行云々。所謂御制以前。雖入流質券。御制以後至經訴訟者。早可致一倍弁。質事不可及沙汰。凡御制以後質人事。一向可停止之由云々。如此可申沙汰之旨。自相州被仰問注所云々。勸湛 實綱 寂阿 爲奉行。

読下し                    ひとしち   こと さた あ       そ   ほう  さだ  らる    きょう せぎょうさる    うんぬん
建長六年(1254)五月大一日壬申。人質@の事沙汰有りて、其の法を定め被る。今日施行被ると云々。

いはゆる  ごぜい  いぜん  い  なが  しちけん  いへど   ごせい いご   そしょう  へ     いた  ば   はや いちばい わきまえ いた  べ     しち  こと さた   およ  べからず
所謂、御制A以前に入れ流る質券と雖も、御制以後に訴訟を經るに至ら者、早く一倍Bの 弁に致す可し。質の事沙汰に及ぶ不可。

およ  ごせい いご  しちひと  こと  いっこう  ちょうじすべ  のよし  うんぬん  かく  ごと   さた のむねもう  べ    そうしゅうよ   もんちゅうじょ  おお  らる    うんぬん
凡そ御制以後の質人の事、一向に停止可き之由と云々。此の如く沙汰之旨申す可く、相州自り問注所に仰せ被ると云々。

かんたん さねつな じゃくあ ぶぎょうたり
勸湛・實綱・寂阿C 奉行爲。

参考@人質は、質草に人を入れる。
参考A御制は、泰時の法。
参考B一倍は、元の額の一倍。元金共なら2倍。
参考C勤湛、実綱、寂阿は、得宗被官。

現代語建長六年(1254)五月大一日壬申。質草の人について指示があり、その法を定めました。今日法を施行したそうな。それは、この施行前に流れてしまった質権であっても、施行以後に訴訟が起きた場合は、早く等倍の弁償をする事で、それ以上取り上げる必要はありません。おおむね施行以後の質草の人については、全て廃止する事だそうな。このように指示をするように、時頼さんから裁判所の執事三善康連へ命じられましたとさ。勘湛・実綱・寂阿が担当です。

建長六年(1254)五月大五日丙子。リ。鶴岡神事如例。但於下廻廊中巽維。有鬪乱。被疵者三人。死者一人。又中流鏑馬之箭者二人。被踏殺馬蹄者一人云々。彼是匪直也事歟。

読下し                   はれ つるがおか しんじ れい  ごと    ただ  しもかいろう  うち たつみ すみ  をい    とうらんあ     きずさる  ものさんにん  ししゃひとり
建長六年(1254)五月大五日丙子。リ。 鶴岡 神事例の如し。但し下廻廊の中 巽の維に於て、鬪乱有り。疵被る者三人。死者一人。

また  やぶさめ の や   あた  ものふたり   ばてい  ふみころさる  ものひとり  うんぬん  かれこれ ただならざることか
又、流鏑馬之箭に中る者二人。馬蹄に踏殺被る者一人と云々。彼是、直也匪事歟。

現代語建長六年(1254)五月大五日丙子。晴れです。鶴岡八幡宮の端午の節句の神事は何時もの通りです。ただし、下の宮の回廊の中の南東の角で乱闘がありました。怪我をさせられたのが3人、死んだのが1人。また、流鏑馬の流れ矢に当ったのが2人。馬に蹴殺されたのが、1人だそうな。それもこれもただ事ではありません。

建長六年(1254)五月大七日戊寅。陰。一昨日鶴岡廻廊殺害觸穢之間。可有造替之由被經評議。亦召陰陽師等。於評定所。彼殺害事被行御占。リ茂。爲親。リ宗。各別紙勘申之。

読下し                    くも    おととい  つるがおかかいろう   せつがい しょくえのあいだ  ぞうたいあ   べ   のよしひょうぎ  へ らる
建長六年(1254)五月大七日戊寅。陰り。一昨日の鶴岡廻廊での殺害の觸穢之間、造替有る可き之由評議を經被る。

また  おんみょうじら   め   ひょうじょうしょ  をい    か  せつがい こと  おんうらな  おこなはれ   はるもち ためちか はるむね おのおの べっし  これ  かん  もう
亦、陰陽師等を召し、評定所に於て、彼の殺害の事の御占いを行被る。リ茂・爲親・リ宗、 各、別紙に之を勘じ申す。

現代語建長六年(1254)五月大七日戊寅。曇り。一昨日の鶴岡八幡宮回廊での殺害の穢れの為、造り替える必要があるか検討を経ました。又、陰陽師を呼びつけて、政務事務所でその殺害について占いをさせました。安倍晴茂・為親・晴宗らはそれぞれ別の紙で上申しました。

建長六年(1254)五月大八日己夘。於聖福寺神驗宮有舞樂云々。

読下し                    しょうふくじ しんけんぐう  をい  ぶがく あ    うんぬん
建長六年(1254)五月大八日己夘。聖福寺@神驗宮Aに於て舞樂有りと云々。

参考@聖福寺は、時頼が息子の聖寿丸(時宗)と福寿丸(宗政)の長久を祈願して建立。
参考A神驗宮は、お寺を守る神様。神仏混淆。

現代語建長六年(1254)五月大八日己卯。聖福寺内の神験宮で、舞や神楽を奉納しましたとさ。

建長六年(1254)五月大九日庚辰。霽。去比。石C水八幡宮有自害僧之由。彼宮使申之。

読下し                   はれ さんぬ ころ  いわしみずはちまんぐう  じがい  そう あ   のよし   か  みやじ これ  もう
建長六年(1254)五月大九日庚辰。霽。去る比、石C水八幡宮で自害の僧有る之由、彼の宮使之を申す。

現代語建長六年(1254)五月大九日庚辰。晴れました。先達て、石清水八幡宮で自殺した坊さんがあったと、石清水の宮司が報告しました。

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