吾妻鏡入門第四十四巻

建長六年(1254)七月大

建長六年(1254)七月大一日辛丑。甚雨暴風。人屋顛倒。稼穀損亡。古老云。廿年以來無如此大風云々。

読下し                   はなは あめ ぼうふう  じんおくてんとう    かこく そんぼう     ころう い       にじうねんいらいかく  ごと  おおかぜな   うんぬん
建長六年(1254)七月大一日辛丑。甚だ雨と暴風。人屋顛倒し、稼穀損亡す。古老云はく。廿年 以來此の如き大風無しと云々。

現代語建長六年(1254)七月大一日辛丑。豪雨と暴風。人家の倒壊が多く、田畑の作物が損害を受けました。老人たちが云うには、20年来これほどの大風は無かったんだとさ。

建長六年(1254)七月大五日乙巳。來月鶴岡八幡宮放生會隨兵以下供奉人被催。

読下し                   らいげつ つるがおかはちまんぐう ほうじょうえ ずいへい いげ   ぐぶにん  もよおさる
建長六年(1254)七月大五日乙巳。來月の 鶴岡八幡宮 放生會の隨兵以下の供奉人を催被る。

現代語建長六年(1254)七月大五日乙巳。来月の鶴岡八幡宮の放生会の武装儀仗兵を始めとするお供を選び催促しました。

建長六年(1254)七月大十四日甲寅。可供奉放生會之旨。被仰佐渡前司基綱之處。申障。非指故障之由。依聞食及之。重雖非催之。猶如先云々。又今日被催可參廻廊之人々。其中備後前司申障云々。

読下し                     ほうじょうえ   ぐぶ すべ  のむね  さどのぜんじもとつな  おお  らる  のところ  さわ    もう
建長六年(1254)七月大十四日甲寅。放生會に供奉可き之旨、佐渡前司基綱に仰せ被る之處、障りを申す。

 さ    こしょう  あら    のよし  これ  き      め   およ    よっ    かさ    これ  もよおさざ  いへど    なおさき ごと    うんぬん
指せる故障に非ざる之由、之を聞こし食し及ぶに依て、重ねて之を催非ると雖も、猶先の如しと云々。

またきょう   かいろう  さん  べ   のひとびと   もよおさる    そ   うち  びんごぜんじさわり もう    うんぬん
又今日、廻廊に參ず可き之人々@を催被る。其の中、備後前司障を申すと云々。

参考@回廊に参ずべきの人々は、放生会会場に先に行ってる人。

現代語建長六年(1254)七月大十四日甲寅。放生会にお供をするように、佐渡前司後藤基綱命じたところ、具合が悪いと云ってます。たいした病気でもないと聞いたので、再度催促しましたけれど、前の通りでした。又、今日は、予め回廊に控えている人を催促しました。その中で、備後前司三善康持が具合悪いと云ってます。

建長六年(1254)七月大十七日丁巳。於相州御第。被始行御祈祷等云々。

読下し                     そうしゅう おんだい  をい    ごきとう ら    しぎょうさる    うんぬん
建長六年(1254)七月大十七日丁巳。相州の御第に於て、御祈祷等を始行被ると云々。

現代語建長六年(1254)七月大十七日丁巳。時頼さんの屋敷で、加持祈祷を始めたそうな。

建長六年(1254)七月大廿日庚申。供奉人等事。重有催促。日來連々申子細人々。
布衣
 右馬權頭         尾張前司
 駿河四郎         新田太郎
 後藤佐渡前司       小山出羽前司
 下野七郎         大須賀次郎左衛門尉
 土肥三郎左衛門尉     伊豆太郎左衛門尉
 加地七郎右衛門尉     加藤左衛門三郎
 常陸次郎兵衛尉〔聊有懸心事之由申之〕
   已上申障。
隨兵
 陸奥六郎〔可令七郎勤仕之由申〕
 千葉介 〔故障〕

読下し                    ぐぶにんら   こと  かさ    さいそくあ      ひごろ れんれん しさい  もう  ひとびと
建長六年(1254)七月大廿日庚申。供奉人等の事、重ねて催促有り。日來 連々子細を申す人々。

 ほい
布衣

  うまごんのかみ                   おわりのぜんじ
 右馬權頭         尾張前司

  するがのしろう                   にったのたろう
 駿河四郎         新田太郎@

  ごとうさどぜんじ                   おやまでわぜんじ
 後藤佐渡前司       小山出羽前司

  しもつけのしちろう                 おおすがのじろうさえもんのじょう
 下野七郎         大須賀次郎左衛門尉

  つちやのさぶろうさえもんのじょう        いずのたろうさえもんのじょう
 土肥三郎左衛門尉     伊豆太郎左衛門尉

  かぢのしちろううえもんのじょう           かとうさえもんさぶろう
 加地七郎右衛門尉     加藤左衛門三郎

  ひたちのじろうひょうえのじょう 〔いささ  こころ  か      こと あ    のよし  これ   もう  〕
 常陸次郎兵衛尉  〔聊か心に懸ける事有る之由、之を申す〕

      いじょう さわ   もう
   已上障りを申す。

ずいへい
隨兵

  むつのろくろう  〔しちろう ごんじ せし  べ     のよし   もう  〕
 陸奥六郎A〔七郎勤仕令む可し之由を申す〕

  ちばのすけ   〔 こしょう 〕
 千葉介 〔故障〕

参考@新田太郎は、政義だとすると、35巻寛元2年(1244)6月14日条。京都大番役のとき,無断出家のため,所領の一部没収,隠居の処分をうけたので謹慎蟄居中のはず。
参考A
陸奥六郎は、塩田流北条義政。

現代語建長六年(1254)七月大二十日庚申。お供の人について、再度催促がありました。この頃、何人も辞退を云ってる人々は、
布衣(狩衣の礼服)
 右馬権頭北条政村   尾張前司北条時章
 駿河四郎北条兼時   新田太郎
 後藤佐渡前司基綱   小山出羽前司長村
 下野七郎宇都宮経綱  大須賀次郎左衛門尉胤氏
 土肥三郎左衛門尉維平 伊豆太郎左衛門尉実保
 加地七郎右衛門尉氏綱 加藤左衛門三郎景経
 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄〔多少心に引っ掛かる事がありますので、と
云ってます
   以上の人が具合が悪いと云ってます。
武装儀仗兵
 陸奥六郎北条義政〔代りに七郎業時が勤めますと云ってます〕
 千葉介頼胤〔具合が悪い〕

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