吾妻鏡入門第四十四巻

建長六年(1254)十月大

建長六年(1254)十月大二日辛未。西國堺相論事。有其沙汰。一向可爲本所御成敗之間。雖有訴訟。不及召决。其中一向關東御領事者。尤可有其沙汰之由。所被仰遣六波羅也。

読下し                   さいごく さかいそうろん  こと   そ   さた あ
建長六年(1254)十月大二日辛未。西國の堺相論の事、其の沙汰有り。

いっこう  ほんじょ  ごせいばいたるべ  のあいだ  そしょうあ    いへど    めしけっ   およばず
一向に本所の御成敗爲可き之間、訴訟有ると雖も、召决すに不及。

 そ  なかいっこう  かんとうごりょう   ことは   もっと  そ    さた  あ   べ    のよし   ろくはら   おお  つか  さる ところなり
其の中一向に關東御領@の事者、尤も其の沙汰有る可き之由、六波羅へ仰せ遣は被る所也。

参考@関東御領は、摂関政治の頃は摂関家の領地を殿下渉領なのに、清盛の娘が近衛基実に嫁ぎ、基実が早世したので娘名義で乗っ取った。平氏没落後平家没官領となり頼朝に渡され関東御領となる。(内12箇所は一条家にあげた。)本所領家は將軍家、地頭は得宗。結果得宗領になる。地頭代官の又代官が得宗被官。次に後醍醐天皇が没収。その後三つに分かれ朝堂領は後醍醐天皇分。尊氏が貰って御料所となる。朝堂領は後、尊氏が没収する。

現代語建長六年(1254)十月大二日辛未。墨俣川以西の境界訴訟について、その命令がありました。それは全て最上級荘園領主の本所の判断に任せるので、訴訟があっても裁判をする必要はない。その中でも、全て鎌倉が采配する平家没官領については、ちゃんと裁判をしてあげなさいと、六波羅探題へ命令を流しました。

建長六年(1254)十月大四日癸酉。快リ。戌尅。俄甚雨。雷電鳴霰相交。曉更又雷鳴數返驚耳者也。

読下し                   かいせい いぬのこく にはか はなは あめ らいでんな  ひょうあいまじ
建長六年(1254)十月大四日癸酉。快リ。 戌尅、俄に甚だ 雨。雷電鳴り霰相交はる。

あかつき  さら  またらいめい すうへん みみ おど     ものなり
 曉に、更に又雷鳴 數返 耳を驚ろかす者也。

現代語建長六年(1254)十月大四日癸酉。快晴。午後8時頃、急に大雨です。雷が鳴り、雹が混じりました。明け方になおも雷が数回鳴って、耳を驚かされました。

建長六年(1254)十月大六日乙亥。リ。寅尅。相州室平産姫公。加持若宮僧正〔隆弁〕。驗者C尊僧都也。奥州女房。松下禪尼。相州等群集。爲安東左衛門尉光成奉行。有祿物等。銀釼。五衣。馬〔置鞍〕。万年九郎兵衛尉以下祗候人等隨所役云々。又奥州被送驗者之祿等。隅田次郎左衛門尉爲其使者云々。

読下し                   はれ とらのこく そうしゅう しつひめぎみ へいさん    かぢ  わかみやそうじょう 〔りゅうべん〕   げんざ  せいそんそうづなり
建長六年(1254)十月大六日乙亥。リ。寅尅、相州が室姫公を平産す。加持は若宮僧正〔隆弁〕。驗者はC尊僧都也。

おうしゅう にょぼう まつしたぜんに  そうしゅうら ぐんしゅう
奥州が女房・松下禪尼・相州等群集す。

あんどうさえもんのじょうみつなり ぶぎょう  な     ろくぶつら あ    ぎんけん  ごい   うま  〔くらおき〕
 安東左衛門尉光成 奉行と爲し、祿物等有り。銀釼・五衣・馬〔置鞍〕

まんねんくろうひょうえのじょう いげ   しこうにんら しょやく  したが   うんぬん
 万年九郎兵衛尉 以下の祗候人等所役に隨うと云々。

また  おうしゅう げざ の ろく ら   おくらる   すだのじろうさえもんのじょう  そ   ししゃ   な     うんぬん
又、奥州 驗者之祿等を送被る。隅田次郎左衛門尉@其の使者を爲すと云々。

参考@隅田は、須田八幡で、茨城県神栖市須田1300(旧波崎)。重時の被官。

現代語建長六年(1254)十月大六日乙亥。晴れです。午前4時頃時頼さんの奥さんが娘を安産しました。加持は鶴岡八幡宮僧正隆弁。祈祷は清尊僧都です。重時さんの奥さんや松下禅尼、時頼さんが集まって来ました。安東左衛門尉光成が指揮担当して、褒美がありました。銀造りの刀・衣服・鞍置き馬です。万年九郎兵衛尉を始めとする得宗家被官たちがその役を引き受けましたとさ。
また、重時さんからも祈祷の坊さんに褒美を届けました。隅田次郎左衛門尉がお届け役をしましたとさ。

建長六年(1254)十月大十日己夘。鎌倉中保々奉行條々事。殊不可有緩怠之儀之旨被定之。又政所下部。侍所小舎人等可止鎌倉中騎馬事。同被仰出云々。次押買以下事可停止事。被仰万年九郎兵衛尉云々。後藤壹岐前司基政。小野澤左近大夫入道光蓮等爲奉行。

読下し                   かまくrたちゅう ほうほう  ぶぎょう じょうじょう こと  こと  けたい のぎ  あ  べからずのむねこれ  さだ  らる

建長六年(1254)十月大十日己夘。鎌倉中の保々の奉行 條々の事、殊に緩怠之儀有る不可之旨之を定め被る。

また まんどころ しもべ さむらいどころ ことねりら かまくらちゅう  きば    と     べ   こと  おな    おお  いださる    うんぬん
又、政所の下部、侍所の小舎人等鎌倉中の騎馬を止める可き事、同じく仰せ出被ると云々。

つぎ  おしかい  いげ  ことちょうじすべ  こと  まんねんくろうひょうえのじょう おお  らる   うんぬん
次に押買@以下の事停止可き事、万年九郎兵衛尉に仰せ被ると云々。

  ごとういきぜんじもとまさ    おのざわさこんたいふにゅうどうみつつら らぶぎょうたり
後藤壹岐前司基政・小野澤左近大夫入道光蓮A等奉行爲。

参考@押買いは、迎買とも云い、腕ずくで安く買う事。
参考A小野澤は、地奉行。地奉行から保奉行(現地人)に伝える。

現代語建長六年(1254)十月大十日己卯。鎌倉中の町内責任者に箇条書きの規則について、特になまける事の無いようにお決めになりました。
また、政務事務所の下っ端や、武者溜まりの作業員の鎌倉中での乗馬を禁止について、同様におっしゃられましたとさ。
つぎに、腕づくで安くたたく無理買いについて、禁止するように、万年九郎兵衛尉に云いつけましたとさ。後藤壱岐前司基政・小野沢左近大夫入道光蓮が担当です。

建長六年(1254)十月大十二日辛巳。自公家。被仰下六波羅檢断事。有其沙汰。今日被遣御教書。其状云。
   被差遣武士於所々事
 御成敗之後。不用御下知。於致狼藉者。不及子細。未断之時。無是非被差遣者。尤申上子細。可被重仰者。又 人倫賣買事。守延應 宣下状。一向可停止之由云々。

読下し                      こうけ よ      ろくはら   おお  くださる  けんだん   こと  そ   さた あ
建長六年(1254)十月大十二日辛巳。公家自り、六波羅に仰せ下被る檢断@の事、其の沙汰有り。

きょう   みぎょうしょ  つか  さる    そ  じょう  い
今日、御教書を遣は被る。其の状に云はく。

        ぶし を  しょしょ  さ   つか  さる  こと
   武士於を所々へ差し遣は被る事

  ごせいばい ののち  おんげち  もちいず  ろうぜき  いた    をい  は   しさい  およばず
 御成敗之後、御下知を用不、狼藉を致すに於て者、子細に不及。

   みだんのとき   ぜひ な   さ  つか  さる  もの  もっと  しさい  もう  あ     かさ    おお  らる  べ   てへ
 未断之時、是非無く差し遣は被る者、尤も子細を申し上げ、重ねて仰せ被る可し者り。

  また  じんりんばいばい こと  えんのう  せんげじょう まも    いっこう  ちょうじすべ  のよし  うんぬん
 又、人倫賣買の事、延應の宣下状を守り、一向に停止可き之由と云々。A

参考@検断は、軍事警察関係、派遣された武士が決断後、越権行為をすること。
参考A人倫売買は、禁止。33巻延応1年(1239)4月14日条で泰時から、同5月1日条で朝廷から。

現代語建長六年(1254)十月大十二日辛巳。京都朝廷から、六波羅探題へ行ってきた地頭の越権行為について、決定がありました。今日、将軍からの命令書を送りました。その内容は、
    地頭をあちこちへ派遣することについて
 御成敗式目発布の後に、命令書も持ってないのに、勝手に支配する事は、無条件にだめです。決裁が下りてなくてもやむを得ず派遣している者は、きちんと事情を届け出て、再度許可を得るようにしなさいと命じられております。
 また、人身売買については、延応年間に発出された朝廷の命令書を守り、全て禁止するようにとの事です。

建長六年(1254)十月大十七日丙戌。雜物等依有高直(値)之聞。被定其法。今日所被施行也。
   炭薪萱藁糠事
 高直(値)
@過法之間。依爲請人之煩。先日雖被定下置。於自今以後者。不可有其儀。如元可被免交易。但至押買并迎 買者。可令停止也。以此旨可被相觸相摸國如然之物交易所也者。依仰執達如件。
    建長六年十月十七日                    相摸守
                                 陸奥守
    筑前々司殿

読下し                     ぞうぶつら たかね のきこ  あ     よっ    そ   ほう  さだ  られ  きょうせこうさる ところなり

建長六年(1254)十月大十七日丙戌。雜物等高値之聞へ有るに依て、其の法を定め被、今日施行被る所也。

      すみ まき かや わら ぬか こと
   炭 薪 萱 藁 糠の事

  たかね ほう  す    のあいだ  うけにんのわずら たる  よっ   せんじつさだ  くだ  お かる   いへど   いまよ    いご   をい  は   そ   ぎ あ  べからず
 高値法を過ぐる之間、請人之煩ひ爲に依て、先日定め下し置被ると雖も、今自り以後に於て者、其の儀有る不可。

  もと  ごと  こうえき  めん  らる  べ     ただ おしがいなら    むか  がい  いた    は   ちょうじせし  べ   なり
 元の如く交易を免じ被る可し。但し押買并びに迎ひ買に至りて者、停止令む可き也。

   こ  むね  もっ  さがみのくに  しか  ごと  のものこうえき   ところ  あいふれらる  べ   なりてへ      おお    よっ  しったつくだん ごと
 此の旨を以て相摸國の然る如き之物交易する所Aへ相觸被る可き也者れば、仰せに依て執達件の如し。

         けんちょうろくねんじうがつじうしちにち                                      さがみのかみ
    建長六年十月十七日                    相摸守

                                                                     むさしのかみ
                                 陸奥守

        ちくぜんぜんじどの
    筑前々司殿

参考@高直は、高値。
参考A
交易する所は、町屋。

現代語建長六年(1254)十月大十七日丙戌。諸消耗品が物価が高いとのうわさを聞いているので、その物価統制法を定めて、今日施行したところです。
   炭・薪・萱・藁・糠の値段について
 物価の値段が法を越えて高くなっていて、消費者が困っているので、先日決めて公布しているにもかかわらず守らないので、今から以後は違反はいけません。元の様な値段に戻せば商売する町屋を許可します。ただし、腕ずくで値をたたいて無理やり買う事や、販売所の町屋へ行く前に腕ずくで差し押さえて買う事は、禁止します。この内容で相模国内の市が立つ場所へ通知するようにとの命令を、将軍の仰せを承って執行するのは、このとおりです。
    建長六年十月十七日           相模守時頼
                       陸奥守重時
   筑前前司二階堂行泰殿

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