吾妻鏡入門第四十六巻

建長八年(1256)七月大

建長八年(1256)七月大五日癸巳。尾張右衛門太郎。同子息五郎。可入小侍番帳之由。景頼申沙汰之達小侍云々。

読下し                     おわりのうえもんたろう   おな    しそくごろう  こさむらい ばんちょう い  べ    のよし  かげよりこれ  もう    さた
建長八年(1256)七月大五日癸巳。尾張右衛門太郎、同じき子息五郎、小侍 番帳に入る可き之由、景頼之を申し沙汰す。

こさむらい  たっ    うんぬん
 小侍に達すと云々。

現代語建長八年(1256)七月大五日癸巳。尾張右衛門太郎、同息子五郎は、将軍の身の回りの世話する小侍所の班に入るように、武藤景頼が云って処理しました。小侍所へも告げました。

建長八年(1256)七月大六日甲午。朝雨。辰尅属霽。夕又雨降。今日爲前武藏禪室後室禪尼。被供養一切經。導師若宮別當僧正隆弁云々。」又六波羅大夫將監長時朝臣室重病云々。」放生會御出隨兵。今日廻散状。是注惣人數。申下御點云々。今度雖載風記。漏御點人々。
 武藏太郎            同五郎
 同八郎             遠江次郎
 出羽三郎左衛門尉        大隅修理亮
 周防三郎左衛門尉        越中右衛門尉
 阿曽沼小太郎          武石四郎

読下し                   あさあめ たつのこく はれ ぞく    ゆう  またあめふ
建長八年(1256)七月大六日甲午。朝雨、辰尅 霽に属し、夕に又雨降る。

きょう   さきのむさしぜんしつ こうしつぜんに  ため いっさいきょう  くよう さる    どうし  わかみやべっとう そうじょう りゅうべん うんぬん
今日、前武藏禪室が後室禪尼の爲、一切經を供養被る。導師は若宮別當 僧正 隆弁と云々。」

また  ろくはらたいふしょうげんながときあそん しつ じゅうびょう うんぬん
又、六波羅大夫將監長時朝臣が室 重病と云々。」

ほうじょうえ おんいで ずいへい きょうさんじょう  めぐ      これそうにんずう ちゅう    ごてん  もう  くだ    うんぬん
放生會 御出の隨兵。今日散状を廻らす。是惣人數を注し、御點を申し下すと云々。

このたびほのき  の      いへど    ごてん  も     ひとびと
今度風記@に載せると雖も、御點に漏るの人々。

  むさしのたろう                         おな    ごろう
 武藏太郎            同じき五郎

  おな    はちろう                      とおとうみのじろう
 同じき八郎           遠江次郎

  でわのさぶろうさえもんのじょう                おおすみしょりのすけ
 出羽三郎左衛門尉A        大隅修理亮B

  すおうのさぶろうさえもんのじょう               えっちゅううえもんのじょう
 周防三郎左衛門尉        越中右衛門尉

  あそぬまのこじろう                       たけいしのしろう
 阿曽沼小太郎          武石四郎C

参考@風記(ほのき)は、下書き。
参考A
出羽三郎は、二階堂行資で後に所司になる。
参考B大隅修理亮は、島津久時で日向薩摩も手に入れる。
参考C武石四郎は、胤氏。下野で領地が増える。
参考84日だが百か日の法要。前なら良い。

現代語建長八年(1256)七月大六日甲午。朝は雨で、午前8時頃に晴れましたが、夕方に又雨が降りました。今日、前武蔵禅室の未亡人の禅尼のために、一切経の供養をしました。指導僧は鶴岡八幡宮筆頭僧正隆弁だそうな。」
また、六波羅探題の大夫将監長時さんの奥さんが重病だそうな。」
鶴岡八幡宮の放生会へのお出かけの武装儀仗兵について、今日回覧を回しました。これは、総人数を書き出して、将軍がチェックをしてよこしました。今度の下書きには載せられていましたが、チュッケに漏れた人々は、
 武蔵太郎朝房        同武蔵五郎時忠
 同武蔵八郎頼直       遠江次郎光盛
 出羽三郎左衛門尉二階堂行資 大隅修理亮島津久時
 周防三郎左衛門尉島津忠行  越中右衛門尉
 阿曾沼小太郎        武石四郎胤氏 

建長八年(1256)七月大十二日庚子。リ。去六月十四日光物見男山之由。別當申之。自仙洞有御尋之處。司天等依申不伺見之由。同自石C水令注進其圖云々。」又大宮院新造御所〔五條大宮〕今月三日御移徙。兩院同車。一員御幸云々。

読下し                     はれ さんぬ ろくがつじうよっか ひかりもの おとここやま み     のよし  べっとうこれ もう
建長八年(1256)七月大十二日庚子。リ。去る六月十四日 光物 男山に見ゆる之由、別當之を申す。

せんとうよ   おたず  あ   のところ  したんら みうかがわざるのよし  もう     よっ    おな   いわしみずよ   そ   ず  ちゅうしんせし   うんぬん
仙洞自り御尋ね有る之處、司天等 見伺不之由 申すに依て、同じく石C水自り其の圖を注進令むと云々。」

また  おおみやいん しんぞうごしょ 〔ごじょうおおみや〕 こんげつみっか ごいし  りょういんどうしゃ   いちいんぎょうこう   うんぬん
又、 大宮院@新造御所〔五條大宮〕今月三日御移徙。兩院A同車す。一員B御幸すと云々。

参考@大宮院は、姞子きつし。五条大宮大路東。
参考A両院は、大宮院と後嵯峨。
参考B一院は、亀山。

現代語建長八年(1256)七月大十二日庚子。晴れです。去る6月14日に、光る物が男山石清水八幡宮に見えましたと、検非違使長官が報告しました。院から質問された所、天文方の連中は見えなかったと云ってるので、石清水八幡宮からその光物の絵をかいて提出しましたとさ。」
また、大宮院の新築御所〔五条大宮大路東〕に今月3日引っ越ししました。大宮院と後嵯峨院は、牛車に同乗しました。亀山院が訪問しましたとさ。

建長八年(1256)七月大十七日乙巳。リ。將軍家御參山内最明寺。此精舎建立之後。始御礼佛也。相州可被遂御素懷之由。内々有其沙汰。依思食餘波歟。殊被刷今日御出之儀云々。
御出行列
先随兵十二人〔騎馬〕
 足利次郎兼氏          遠江三郎左衛門尉泰盛
 武田八郎信經          小笠原三郎時直
 城次郎頼景           下野四郎景綱
 河越次郎經重          大須賀次郎左衛門尉胤氏
 小山出羽前司長村        佐々木對馬守氏信
 北條六郎時定          武藏四郎時中
次御車網代庇
 大隅修理亮           出羽三郎左衛門尉行資
 相馬次郎兵衛尉胤継       武石四郎胤氏
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐次郎左衛門尉時C
 山内藤内左衛門尉通重      平賀新三郎惟時
 三浦介六郎頼盛         城四郎時盛
 周防五郎左衛門尉忠景      出羽七郎行頼
 肥後次郎左衛門尉爲時      南部又次郎時實
 大須賀左衛門四郎朝氏      近江孫四郎左衛門尉泰信
 氏家余三經朝          土肥四郎實綱
 波多野小次郎宣經        鎌田次郎兵衛尉行俊
次御釼役人
 遠江太郎C時
次御調度役
 小野寺四郎左衛門尉通時
次御後供奉廿二人〔各布衣下括 騎馬 武官皆帶弓箭〕
 越後守實時           刑部少輔教時
 足利三郎利氏          備前三郎長頼
 長井太郎時秀          佐々木壹岐前司泰綱
 新田參河前司頼氏        和泉前司行方
 内藤權頭親家          伊勢前司行綱
 上総介長泰           武藤少卿景頼
 筑前次郎左衛門尉行頼      河内三郎左衛門尉祐氏
 式部太郎左衛門尉光政      和泉三(次)@郎左衛門尉行章
 出羽次郎左衛門尉行有      壹岐新左衛門尉基頼
 上野五郎兵衛尉重光       善右衛門尉康長
 小田左衛門尉時知        薩摩七郎左衛門尉祐能
次小侍所司
 平岡左衛門尉實俊
奥州相州被候堂前。又武藏守。遠江前司。出羽前司。佐渡前司。三浦介等同參候。大夫尉泰C。時連等豫於門外左右。搆敷皮。御礼佛之後。入御于相州御亭。廷尉行忠〔布衣冠〕參會此砌。有御遊和歌御會等。今日御逗留也。
参考@二階堂行章は、1245〜1256正月11日まで次郎で14回書かれ、同年7月12日から以後三郎で17回書かれているが、次郎で統一する。別紙しらべ参照

読下し                     はれ  しょうぐんけ やまのうち さいみょうじ  ぎょさん  こ  しょうじゃこんりゅうののち はじ      ごれいぶつなり
建長八年(1256)七月大十七日乙巳。リ。將軍家、山内の最明寺@へ御參。此の精舎建立之後、始めての御礼佛也。

そうしゅう ごそかい  と   らる  べ   のよし  ないないそ   さた あ      なごり  おぼ  め       よっ  か   こと   きょう ぎょしゅつのぎ  さっ  らる    うんぬん
相州御素懷を遂げ被るA可し之由、内々其の沙汰有り。餘波を思し食さるに依て歟。殊に今日御出之儀を刷せ被ると云々。

おんいで ぎょうれつ
御出の行列

 ま  ずいへいじうににん 〔 きば 〕
先ず随兵十二人〔騎馬〕

  あしかがのじろうかねうじ                   とおとうみのさぶろうさえもんのじょうやすもり
 足利次郎兼氏          遠江三郎左衛門尉泰盛

  たけだのはちろうのぶつね                 おがさわらのさぶろうときなお
 武田八郎信經          小笠原三郎時直

  じょうのじろうよりかげ                     しもつけのしろうかげつな
 城次郎頼景           下野四郎景綱

  かわごえのじろうつねしげ                   おおすがのじろうさえもんのじょうたねうじ
 河越次郎經重          大須賀次郎左衛門尉胤氏

  おやまのでわぜんじながむら                 ささきつしまのかみうじのぶ
 小山出羽前司長村        佐々木對馬守氏信

  ほうじょうのろくろうときさだ                   むさしのしろうときなか
 北條六郎時定          武藏四郎時中

つい  おくるまあじろびさし
次で御車網代庇

  おおすみしゅりのすけ                    でわのさぶろうさえもんのじょうゆきすけ
 大隅修理亮           出羽三郎左衛門尉行資

  そうまのじろうひょうえのじょうたねつぐ           たけいしのしろうたねうじ
 相馬次郎兵衛尉胤継       武石四郎胤氏

  おのでらしんさえもんのじょうゆきみち           おきのじろうさえもんのじょうとききよ
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐次郎左衛門尉時C

  やまのうちのとうないさえもんのじょうみちしげ       ひらがのしんざぶろうこれとき
 山内藤内左衛門尉通重      平賀新三郎惟時

  みうらのすけろくろうよりもり                  じょうのしろうときもり
 三浦介六郎頼盛         城四郎時盛

  そおうのごろうさえもんのじょうただかげ           でわのしちろうゆきより
 周防五郎左衛門尉忠景      出羽七郎行頼

  ひごんじろうさえもんのじょうためとき             なんぶのまたじろうときざね
 肥後次郎左衛門尉爲時      南部又次郎時實

  おおすがのさえもんしろうともうじ               おうみのまごしろうさえもんのじょうやすのぶ
 大須賀左衛門四郎朝氏      近江孫四郎左衛門尉泰信

  うじいえのよざつねとも                     といのしろうさねつな
 氏家余三經朝          土肥四郎實綱

  はたののこじろうのぶつね                  かまたのじろうひょうえのじょうゆきとし
 波多野小次郎宣經        鎌田次郎兵衛尉行俊

つい ぎょけんやく  ひと
次で御釼役の人

  とおとうみのたろうきよとき
 遠江太郎C時

つい  ごちょうどやく
次で御調度役

  おのでらのしろうさえもんのじょうみちとき
 小野寺四郎左衛門尉通時

つい おんうしろ  ぐぶ にじうさんにん 〔おのおの ほい   げぐくり   きば   ぶかん みなきゅうせん  たい  〕
次で御後の供奉 廿二人 〔 各 布衣に下括 騎馬 武官皆弓箭を帶す〕

  えちごのかみさねとき                     ぎょうぶしょうゆうのりとき
 越後守實時           刑部少輔教時

  あしかがのさぶろうとしうじ                   びぜんのさぶろうながより
 足利三郎利氏          備前三郎長頼

  ながいのたろうときひで                      ささきいきぜんじやすつな
 長井太郎時秀          佐々木壹岐前司泰綱

  にったみかわぜんじよりうじ                  いずみのぜんじゆきかた
 新田參河前司頼氏        和泉前司行方

  ないとうごんのかみちかいえ                  いせぜんじゆきつな
 内藤權頭親家          伊勢前司行綱

  かずさのすけながやす                     むとうしょうけいかげより
 上総介長泰           武藤少卿景頼

  ちくぜんのじろうさえもんのじょうゆきより           かわちのさぶろうさえもんのじょうすけうじ
 筑前次郎左衛門尉行頼      河内三郎左衛門尉祐氏

  しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ           いずみのじろうさえもんのじょうゆきあき
 式部太郎左衛門尉光政      和泉次郎左衛門尉行章

  でわのじろうさえもんのじょうゆきあり              いきのしんさえもんのじょうもとより
 出羽次郎左衛門尉行有      壹岐新左衛門尉基頼

  こうづけのごろうひょうえのじょうしげみつ          ぜんのうえもんのじょうやすなが
 上野五郎兵衛尉重光       善右衛門尉康長

  おだのさえもんのじょうときとも                 さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし
 小田左衛門尉時知        薩摩七郎左衛門尉祐能

つい  こさむらいしょし
次で小侍所司

  ひらおかさえもんのじょうさねとし
 平岡左衛門尉實俊

うしゅう そうしゅ」う どうまえ  こう  らる    また むさしのかみ とおとうみのぜんじ でわのぜんじ  さどのぜんじ  みうらのすけらおな    さん そうらう
奥州、相州、堂前に候じ被る。又、武藏守、遠江前司、出羽前司、佐渡前司、三浦介等同じく參じ候。

たいふのじょうやすきよ ときつらら あらかじ もん そと  さゆう  をい    しきがわ  かま    ごれいぶつののち  そうしゅう おんていに にゅうぎょ
大夫尉泰C、 時連等 豫め門の外の左右に於て、敷皮を搆う。御礼佛之後、相州の御亭于入御す。

ていいゆきただ〔ほい かんむり〕  こ  みぎり さんかい    ごゆう わかのおんかいら あ    きょう ごとうりゅうなり
廷尉行忠〔布衣に冠〕此の砌に參會す。御遊和歌御會等有り。今日御逗留也。

参考@最明寺は、時頼が死ぬと三年後、時宗が禪興寺に立て替える。室町時代に上杉憲方が明月院に立て替える。建長三年二月十四日付け古文書に「最明寺殿御代 建長二年」とある。
参考A御素懷を遂げるは、出家する。

現代語建長八年(1256)七月大十七日乙巳。晴れです。宗尊親王将軍家は、山内の西明寺へお参りです。このお寺が出来た後、初めての仏様へのお参りです。時頼さんは、出家したいと内々にその打ち明け話がありました。病気の余波が残っていると思っているからでしょうか。それで今日、特にお出ましの儀式を用意したんだとさ。
お出ましの行列
まず武装儀仗兵十二人〔乗馬〕
 足利次郎兼氏          遠江三郎左衛門尉泰盛
 武田八郎信経          小笠原三郎時直
 城次郎安達頼景         下野四郎宇都宮景綱
 河越次郎経重          大須賀次郎左衛門尉胤氏
 小山出羽前司長村        佐々木対馬守氏信
 北条六郎時定          武蔵四郎時

次に牛車は網代の庇車
 
大隅修理亮島津久時       出羽三郎左衛門尉二階堂行資
 相馬次郎兵衛尉胤継       武石四郎胤氏
 小野寺新左衛門尉行通      隠岐次郎左衛門尉時

 山内藤内左衛門尉通重      平賀新三郎惟時
 三浦介六郎頼盛         城四郎安達時盛
 周防五郎左衛門尉島津忠景    出羽七郎二階堂行頼
 肥後次郎左衛門尉藤原為時    南部又次郎時実
 大須賀左衛門四郎朝氏      近江孫四郎左衛門尉佐々木泰信
 氏家余三経朝          土肥四郎実綱
 波多野小次郎宣経        鎌田次郎兵衛尉行俊
次に刀持ちの人
 遠江太郎清時
次に弓矢を担いでいる人
 小野寺四郎左衛門尉通時
次に将軍の後ろのお供二十二人〔それぞれ礼服の狩衣に袴は足首結わえで、乗馬。武官は皆弓矢を担いでいます〕
 越後守北条実時         刑部少輔名越教時
 足利三郎利氏          備前三郎名越長頼
 長井太郎時秀          佐々木壱岐前司泰綱
 新田三河前司頼氏        和泉前司二階堂行方
 内藤権頭親家          伊勢前司二階堂行綱
 上総介大曽祢長泰        武藤少卿景頼
 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   河内三郎左衛門尉祐氏
 式部太郎左衛門尉伊賀光政    和泉次郎左衛門尉二階堂行章
 出羽次郎左衛門尉二階堂行有   壱岐新左衛門尉後藤基頼
 上野五郎左衛門尉結城重光    善右衛門尉三善康長
 小田左衛門尉時知(八田)     薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
次に小侍所次官
 平岡左衛門尉実俊
奥州政村・相州時頼は、
最明寺のお堂の前に控えていました。また、武蔵守朝直・遠江前司時直・出羽前司小山長村・佐渡前司後藤基綱・三浦介盛時なども同様に来ていました。
大夫尉佐々木泰清と三浦時連たちは、前もって門の外の左右で敷き皮を敷いて待機していた。将軍はお堂にお詣りした後、時頼さんの家へ入りました。左衛門尉二階堂行忠〔礼服の狩衣に冠〕がそばについていました。お遊びや和歌の会があり。今夜はお泊りです。

建長八年(1256)七月大十八日丙午。リ。入夜雨降。將軍家自山内還御。御導師左大臣法師嚴惠。

読下し                     はれ  よ   い   あめふ   しょうぐんけやまのうちよ   かんご   ごどうし  さだいじんほっしげんえ
建長八年(1256)七月大十八日丙午。リ。夜に入り雨降る。將軍家山内自り還御す。御導師は左大臣法師嚴惠。

現代語建長八年(1256)七月大十八日丙午。晴れです。夜になって雨が降りました。宗尊親王将軍家は、山内からお戻りです。指導僧は、左大臣法印厳恵です。

建長八年(1256)七月大廿日戊申。將軍家有御惱云々。

読下し                   しょうぐんけ ごのう あ    うんぬん
建長八年(1256)七月大廿日戊申。將軍家御惱有りと云々。

現代語建長八年(1256)七月大二十日戊申。宗尊親王将軍家が病気だそうな。

建長八年(1256)七月大廿六日甲寅。リ。度々變異等事。可被行御祈祷之旨。可計申之由。爲和泉前司行方。C左衛門尉滿定等奉行。被仰諸道。仍陰陽師等群參。前陰陽權大允リ茂朝臣可被行雷公祭之由申之。天文博士爲親朝臣申云。此祭。公家之外不聞被行之例。去寛喜三年。依前武州禪室之仰。亡父泰貞行風伯祭。翌日風休止。任其例可被行此祭歟云々。リ茂朝臣重申云。如諸國受領行之例。進覽親職自筆状。行方披露之處。難被决斷之間。被問右京權大夫茂範朝臣。參河守教隆等。茂範朝臣申云。去寛喜三年。被興行彼祭之時。被尋安賀兩家之處。安家者不覺悟之由申之。陰陽頭賀茂在親朝臣勤仕之例以後俊憲朝臣奉仕之。其外例不存知之云々。教隆眞人申云。凡人勤仕之例。更以無所見云々。依之。不可被行之由被定之云々。

読下し                     はれ たびたび  へんいら   こと   ごきとう  おこなはれ べ   のむね  はか  もう  べ   のよし
建長八年(1256)七月大廿六日甲寅。リ。度々の變異等の事、御祈祷を行被る可し之旨、計り申す可し之由、

いずみのぜんじゆきかた せいのさえもんのじょうみつさだら ぶぎょう  な    しょどう  おお  らる
 和泉前司行方・ C左衛門尉滿定等 奉行と爲し、諸道に仰せ被る。

よっ  おんみょうじら ぐんさん   さきのおんみょうごんのだいじょうはるもちあそん らいこうさい おこなはれ べ  のよしこれ  もう
仍て陰陽師等群參す。 前陰陽權大允リ茂朝臣、  雷公祭を行被る可し之由之を申す。

てんもんはくじためちかあそん もう     い       こ  まつり  こうけ のほか おこなはれ のれい  きかず
天文博士爲親朝臣 申して云はく。此の祭、公家之外 行被る之例を聞不。

さんぬ かんぎさんねん さきのぶしゅうぜんしつ のおお  よっ    ぼうふやすさだ ふうはくさい  おこな   よくじつかぜきゅうし
去る 寛喜三年、前武州禪室 之仰せに依て、亡父泰貞 風伯祭を行う。翌日風休止す。

 そ  れい  まか  こ  まつり おこなはれ べ  か  うんぬん
其の例に任せ此の祭を行被る可き歟と云々。

はるもちあそんかさ    もう    い       しょこくずりょう  おこな のれい  ごと
リ茂朝臣重ねて申して云はく。諸國受領が行う之例の如し。

ちかもと じひつ じょう  しんらん   ゆきかたひろう のところ けつだんされがた のあいだ  うきょうごんのたいふしげのりあそん  みかわのかみのりたから  とはる
親職自筆の状を進覽す。行方披露之處、决斷被難き之間、 右京權大夫茂範朝臣・ 參河守教隆等に問被る。

しげのりあそんもう    い       さんぬ かんぎさんねん  か  まつり  こうぎょうさる  のとき  あんが  りょうけ  たず  らる  のところ  あんけは かくご せざるのよしこれ  もう
茂範朝臣申して云はく。去る寛喜三年、彼の祭を興行被る之時、安賀@兩家に尋ね被る之處、安家者覺悟A不之由之を申す。

おんみょうのかみ かものありちかあそん きんじ のれい いご としのりあそん これ  ほうし    そ   ほか  れいこれ  ぞんぜず  うんぬん
 陰陽頭 賀茂在親朝臣 勤仕之例以後俊憲朝臣之を奉仕す。其の外の例之を存知不と云々。

のりたかまひと  もう    い      ぼんじん きんじのれい  さら  もっ  しょけんな    うんぬん  これ  よっ    おこなはれ べからずのよし これ  さだ  らる    うんぬん
教隆眞人B申して云はく。凡人C勤仕之例、更に以て所見無しと云々。之に依て、行被る 不可之由 之を定め被ると云々。

参考@安賀は、安倍家と賀茂家。
参考A
覚悟は、承知している、知っている。
参考B
真人は、律令以来の姓。
参考C凡人は、普通の人。

現代語建長八年(1256)七月大二十六日甲寅。晴れです。度々起きる異常等について、将軍名で祈祷をするようにとの旨を伝えるように、和泉前司二階堂行方・清原左衛門尉満定が担当として、仏道や陰陽道などに命じました。それで、陰陽師達が群れを成して集まって来ました。
前陰陽権大允安倍晴茂さんは、雷を祀る雷公祭を行うのが良いよ報告しました。
天文博士の安倍為親さんが云うには、「この祭は天皇家以外が行った例は聞いたことが無い。去る寛喜三年(1231)に前武州禅室泰時さんの命令で、私の亡父安倍泰貞が風を祀る風伯祭を行ったら、翌日風が止みました。その例に合わせてこの祭を行うべきでしょう。」との事です。
安倍晴茂は、又発言しました。「それは諸国の国司クラスが行う例と同じですよ。
(将軍レベルには合いませんよ)
安倍親職は、自分で書いた手紙を見せました。二階堂行方が音読しましたが、決めにくいので、右京権大夫茂範さんや三河守清原教隆にお尋ねです。
茂範さんが云うには、「去る寛喜3年、その祭を再興するときは、阿部と賀茂の両陰陽道家にお尋ねになったら、安倍家は承知している旨を云っております。「陰陽寮筆頭の陰陽頭賀茂在親さんが、勤めた以後は、俊憲さんがこれを勤めました。その他の例は知らない。」だとさ。清原教隆真人が云うには、「普通の人がやった例は見たことがありません。」だとさ。
これらの意見によって、やらない事に決めましたとさ。

建長八年(1256)七月大廿九日丁巳。放生會御參宮供奉人事。廻散状之。其状兩樣也。所謂一通方。各着布衣可供奉之由云々。一通方。着直垂可供奉之由云々。其躰雖爲兩樣。於散状者。數通書分之。被相觸云々。日來又所催促也。其中申障之輩相交。所謂。
随兵
 畠山上野前司          三浦介
 小田左衛門尉          土肥三郎左衛門尉
 遠江十郎左衛門尉〔輕服〕
直垂
 出羽七郎左衛門尉〔所勞之間鹿食之由申〕  足立左衛門四郎〔依所勞七月十日皈國〕
 周防三郎左衛門尉〔父周防守着布衣可供奉由進奉畢弟六郎又爲流鏑馬射手旁依令了見沙汰難參之由申〕
神馬役事
 上野太郎左衛門尉〔進奉〕
 弥次郎左衛門尉〔稱内々仰差進子息新左衛門尉云々〕

読下し                     ほうじょうえ ごさんぐう ぐぶにん   こと  さんじょう これ  めぐ      そ  じょうりょうようなり
建長八年(1256)七月大廿九日丁巳。放生會御參宮供奉人の事、散状 之を廻らす。其の状兩樣也。

いはゆる いっつう  ほう   おのおの ほい   き    ぐぶ すべ   のよし  うんぬん  いっつう  ほう    ひたたれ  き    ぐぶ すべ  のよし  うんぬん
所謂 一通の方は、 各 布衣@を着て供奉可し之由と云々。一通の方は、直垂Aを着て供奉可し之由と云々。

 そ ていりょうよたる いへど    さんじょう をい  は  すうつう か  これ  わ     あいふる     うんぬん
其の躰兩樣爲と雖も、散状に於て者、數通書き之を分け、相觸被ると云々。

ひごろまた  さいそく   ところなり  そ   なかさわ    もう  のやから あいまじは  いはゆる
日來又、催促する所也。其の中障りを申す之輩 相交る。所謂、

ずいへい
随兵

  はたけやまのこうづけぜんじ                 みうらのすけ
 畠山上野前司          三浦介

  おだのさえもんのじょう                    といのさぶろうさえもんのじょう
 小田左衛門尉          土肥三郎左衛門尉

  とおとうみのじうろうさえもんのじょう〔きょうぶく〕
 遠江十郎左衛門尉〔輕服〕

ひたたれ
直垂

  でわのしちろうさえもんのじょう  〔しょろうのあいだしかぐいのよしもう  〕       あだちのさえもんしろう  〔 しょろう   よっ  しちがつとおか きこく  〕

 出羽七郎左衛門尉〔所勞之間鹿食之由申す〕  足立左衛門四郎〔所勞に依て七月十日皈國すB

  すおうのさぶろうさえもんのじょう 〔ちちすおうのかみ ほい  き    ぐぶ すべ  よししんぽう をはんぬ おとうとろくろう また やぶさめ     いて たり  かたがたりょうけん さた  せし     よっ   まい  がた   のよし  もう  〕
 周防三郎左衛門尉〔父周防守布衣を着て供奉可き由進奉し畢。弟六郎 又流鏑馬の射手爲。 旁 了見沙汰令むに依て參り難き之由申す〕

しんめやく  こと
神馬役の事

  こうづけのたろうさえもんのじょう 〔しんぽう  〕
 上野太郎左衛門尉〔進奉す〕

  いやじろうさえもんのじょう  〔ないない  おお    しょう  しそくしんさえもんのじょう    さししん    うんぬん〕
 弥次郎左衛門尉〔内々の仰せと稱し子息新左衛門尉を差進ずと云々〕

参考@は、礼装の狩衣。武装していない着物。
参考A
直垂は、鎧下に着るので直ぐに武装できる着物。直垂は庶民の着る物で鎧の下に着ていた。それが袖が大きくなって正装になった。
参考B
皈國(帰国)は、領地ヘ行くこと。

現代語建長八年(1256)七月大二十九日丁巳。放生会のお詣りにお供をする人について、回覧を回しました。その紙は二つの書き方です。
いはゆる一通の方は、それぞれ礼服の狩衣を着てお供をするようにだとさ。一通の方は、正装の直垂を着てお供をするようにだとさ。その内容は二種類だけど回覧については、数枚これを書いて内容を分けて廻しましたとさ。そうしてお供を催促しましたが、都合が悪いと言い出すものがおりました。それはね、
武装儀仗兵では、
 畠山上野前司泰国  三浦介盛時
 小田左衛門尉時知  土肥三郎左衛門尉維平
 遠江十郎左衛門尉頼連〔軽い服喪〕
直垂役
 出羽七郎左衛門尉二階堂行頼〔病気なので鹿の肉を食べたと云ってます〕 足立左衛門四郎〔病気で7月10日に国へ帰りました〕
 周防三郎左衛門尉島津忠行〔父の周防守島津忠綱が礼服の狩衣を着てお供を承知の旨提出してます。弟の六郎島津忠頼は流鏑馬の射手です。それぞれが負担しているので、私は出にくいのですと云ってます〕
神様に捧げる馬を引く役
 上野太郎左衛門尉梶原景綱〔承知している〕
 弥次郎左衛門尉親盛〔内々の命令を受けた云って息子の新左衛門尉を参加させるそうです〕

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吾妻鏡入門第四十六巻

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