吾妻鏡入門第四十六巻

建長八年(1256)八月小

建長八年(1256)八月小六日甲子。甚雨大風。河溝洪水。山岳大頽毀。男女多横死云々。

読下し                   はなは あめ おおかぜ  かこうこうずい   さんがくおお   たいき    なんにょおお  おうし     うんぬん
建長八年(1256)八月小六日甲子。甚だ雨に大風。河溝洪水し、山岳大いに頽毀して@男女多く横死すと云々。

参考@山岳大いに頽毀しては、山崩れを起こして。

現代語建長八年(1256)八月小六日甲子。ものすごい雨に大風で、川や溝が洪水を起こし、山は崩れて男女が多く不慮の死を遂げましたとさ。

建長八年(1256)八月小八日丙寅。陰。依去六日大風。田園作毛等悉損亡之由。近國申之。」今日。信濃僧正道禪入滅。〔年八十八〕

読下し                    くも   さんぬ むいか  おおかぜ  よっ    でねんさくもうらことごと そんぼう のよし  きんごくこれ  もう
建長八年(1256)八月小八日丙寅。陰り。去る六日の大風に依て、田園作毛等悉く損亡之由、近國之を申す。」

きょう   しなのそうじょうどうぜんにゅうめつ    〔としはちじうはち〕
今日、信濃僧正道禪入滅す。〔年八十八〕

現代語建長八年(1256)八月小八日丙寅。曇りです。去る6日の大風で、田畑の作物が全滅したと、関東の国々で云ってます。」
今日、信濃僧正道禅が亡くなりました〔年は八十八です〕。

建長八年(1256)八月小九日丁夘。武州室所勞減氣之間。有沐浴之儀云々。

読下し                    ぶしゅう  しつ   しょろうげんきのあいだ  もくよく のぎ あ    うんぬん
建長八年(1256)八月小九日丁夘。武州が室@の所勞減氣之間、沐浴之儀有りと云々。

参考@武州の室は、長時の妻で北條政村の娘。

現代語建長八年(1256)八月小九日丁卯。武州長時さんの奥さんの病気が良くなってきたので、病の気を洗い流す沐浴の儀式があったそうな。

建長八年(1256)八月小十一日己巳。雨降。相州御息被加首服。号相摸三郎時利〔後改時輔〕。加冠足利三郎利氏〔後改頼氏〕。

読下し                     あめふ     そうしゅう おんそくしゅふく くは  らる    さがみさぶろうときとし  ごう   〔 のち  ときすけ  あらた 〕
建長八年(1256)八月小十一日己巳。雨降る。相州が御息首服を加へ被る。相摸三郎時利と号す〔後に時輔と改む〕

 かかん  あしかがのさぶろうとしうじ 〔のち  よりうじ  あらた 〕
加冠@は足利三郎利氏〔後に頼氏と改む〕。

参考@加冠親と子は親の分、子の分で親分子分になる。子の名前が変わると烏帽子親子は縁が切れる。烏帽子親も名が変えると同様に縁が切れる。此の日に四代將軍頼經39歳が京都で死んでいる。百連抄では十日。その息子の頼継18歳は九月二十四日か十月二日のどちらかに死んでいる。

現代語建長八年(1256)八月小十一日己巳。雨降りです。相州時頼さんの息子さんに元服式を与えました。相模三郎時利と名付けました〔後に時輔に変えます〕。冠親は、足利三郎利氏です〔後に頼氏を変えます〕。

建長八年(1256)八月小十二日庚午。リ。來十六日競馬役事。仰相州已下諸方。被召強力輩。共被令習彼藝。亦御随心挌勤等之中。被撰堪能者。爰左右事。秦弘員。種久。行久等。頻有申子細。而侍与随身。如馬打之相論。雖有子細。任院御例。以侍可爲左之由被定云々。

読下し                     はれ  きた じうろくにち くらべうま  やく  こと  そうしゅう いげ しょほう  おお
建長八年(1256)八月小十二日庚午。リ。來る十六日の競馬の役の事、相州已下諸方に仰せて、

ごうりき  やから  めされ   とも  か   げい  なら  せし  らる
強力の輩を召被、共に彼の藝を習は令め被る。

また ごずいしん かくきん ら のうち  たんのう  もの  えらばれ    ここ   とこう  こと   はらのひろかず たねひさ いくひさら  しき    しさいもう     あ
亦御随心@挌勤A等之中、堪能の者を撰被る。爰に左右の事B、秦弘員・種久・行久等、頻りに子細申すこと有り。

しか さむらいと ずいしん    うまうちごと  のそうろん  しさい あ    いへど    いん  おんれい  まか  さむらいたるべ   もっ  ひだりのよしさだ  らる   うんぬん
而るに侍与随身は、馬打如き之相論、子細有ると雖も、院の御例に任せ、侍爲可を以て左之由定め被ると云々。

参考@御随身は、本来三位以上に朝廷がつける警護の武士を差すが意味が変わってきていて側近を指す。
参考A格勤は、側近。
参考B
左右の事は、左が上なので、席の上下。

現代語建長八年(1256)八月小十二日庚午。晴れです。来る16日放生会のくらべ馬の役に付いて、相州時頼さんはじめの人々に命令して、力のある連中を呼び寄せて、一緒にそのくらべ馬の芸を習わせました。また、朝廷の警固の者やおそばに勤務する者達のうち、達者な連中を選考しました。そしたら、それについて、秦弘員・種久・行久たちが盛んに文句を言上することがありました。しかし、侍と朝廷の警固の者とは、馬扱いについて云い分がありますけど、院でのくらべ馬の例の通りに、侍であるから左を勤めるようにお決めになりましたとさ。

建長八年(1256)八月小十三日辛未。明後日御參宮供奉人等之中。帶釼者依有故障之輩。重相催之。
 近江孫四郎左衛門尉       山内三郎左衛門尉
 平賀新三郎
   已上三人進奉
 阿曽沼五郎           大曽祢左衛門太郎
   已上二人申障云々

読下し                     みょごにち ごさんぐう   ぐぶにんら のうち  たいけんしゃこしょうのやからあ     よっ    かさ    これ  さいそく

建長八年(1256)八月小十三日辛未。明後日御參宮の供奉人等之中、帶釼者故障之輩有るに依て、重ねて之を相催す。

  おうみまごしろうさえもんのじょう              やまのうちのさぶろうさえもんのじょう
 近江孫四郎左衛門尉       山内三郎左衛門尉

  ひらがのしんざぶろう
 平賀新三郎

       いじょうさんにんすす たてまつ
   已上三人進み奉る

  あそぬまのごろう                        おおそねさえもんたろう
 阿曽沼五郎@           大曽祢左衛門太郎

       いじょうふたりさわり もう    うんぬん
   已上二人障を申すと云々

参考@阿曽沼は、栃木県佐野市浅沼。

現代語建長八年(1256)八月小十三日辛未。明後日の宮参りのお供の人の内、鎧直垂で太刀を佩いてる役で具合が悪い連中がいるので、次いで指名しました。
 近江孫四郎左衛門尉佐々木泰信 山内三郎左衛門尉通広

 平賀新三郎維時
   以上の三人が申し出ました
 阿曾沼五郎 大曽祢左衛門太郎長継
   以上の二名が支障を云ってるんだそうな。

建長八年(1256)八月小十五日癸酉。小雨降。北風烈。今日。鶴岳八幡宮放生會也。將軍家御出。
行列
先檢非違使三人
 〔佐々木〕           〔三浦〕
 隱岐大夫判官泰C        遠江大夫判官時連
 信濃判官行忠
次先陣随兵十人
 〔三浦〕
 遠江三郎左衛門尉泰盛      相馬弥五郎左衛門尉胤村
 〔佐々木後藤〕
 佐渡五郎左衛門尉基隆      出羽次郎左衛門尉行有
 上総太郎兵衛尉長經       武藤次郎左衛門尉頼泰
 河越四郎經重          和泉三(次)郎左衛門尉行章
 備前三郎長經(頼)        足利次郎兼氏
次先駈八人
次殿上人十人
次御車
 善次郎左衛門尉康有       隱岐次郎左衛門尉時C
 〔後藤〕            〔内藤〕
 壹岐新左衛門尉基頼       肥後六郎左衛門尉時景
 近江弥四郎左衛門尉泰信     山内三郎左衛門尉通廣
 土肥四郎實綱          鎌田三郎左衛門尉義長
 大須賀左衛門四郎朝氏      肥後四郎兵衛尉行定
 鎌田次郎兵衛尉行俊       平賀新三郎惟時
   以上着直垂帶釼。候御車左右。
御釼役人
 刑部少輔教時
御調度役
 小野寺四郎左衛門尉通時
次御後
五位十五人〔布衣下括〕
 越後守實時           越後右馬助時親
 中務權大輔家氏         佐々木壹岐前司泰綱
 三河前司頼氏          那波左近大夫政茂
 和泉前司行方          越中前司頼業
 周防前司忠綱          伊勢前司行綱
 上総介長泰           對馬守氏信
 武藤少卿景頼
六位十人〔布衣下括〕
 足利上総三郎滿氏        長井太郎時秀
 式部太郎左衛門尉光政      伊賀次郎左衛門尉光房
 薩摩七郎左衛門尉祐能      大曾祢次郎左衛門尉盛經
 筑前次郎左衛門尉行頼      善右衛門尉康長
 小野寺新左衛門尉行通      祢善太郎左衛門尉
次後陣随兵十人
 遠江七郎時基          武藏四郎時仲
 上野五郎兵衛尉重光       足立太郎左衛門尉直元
 常陸次郎兵衛尉行雄       武石三郎左衛門尉朝胤
 伯耆新左衛門尉C經       河内三郎左衛門尉祐氏
 城次郎頼景           大須賀次郎左衛門尉胤氏
御奉幣之後。於廻廊覽舞樂。。其結搆異例年。陸奥守被候其所。此外伊豆前司頼定。前大宰少貳爲佐。出羽前司行義。刑部大輔入道成献。常陸入道行日等同參加云々。申尅還御之後。六波羅飛脚參着。前將軍入道前大納言家。去十一日依御病痢薨御之由申之。

読下し                      こさめ ふ     きたかぜはげ    きょう つるがおかはちまんぐう ほうじょうえなり  しょうぐんけおんいで

建長八年(1256)八月小十五日癸酉。小雨降る。北風烈し。今日、 鶴岳八幡宮 放生會也。將軍家 御出。

ぎょうれつ
 行列

 ま   けびいし  さんにん
先ず檢非違使三人@

  おきのたいふほうがん やすきよ 〔 ささき 〕          とおとうみのたいふほうがんときつら 〔 みうら 〕
 隱岐大夫判官A泰C〔佐々木〕    遠江大夫判官時連〔三浦〕

  しなののほうがんゆきただ
 信濃判官行忠

つい せんじん ずいへいじうにん
次で先陣の随兵十人

  とおとうみのさぶろうさえもんのじょうやすもり 〔みうら〕    そうまのいやごろうさえもんのじょうたねむら
 遠江三郎左衛門尉泰盛〔三浦〕   相馬弥五郎左衛門尉胤村

  さどのごろうさえもんのじょうもとたか    〔ごとう〕       でわのじろうさえもんのじょうゆきあり
 佐渡五郎左衛門尉基隆〔後藤〕   出羽次郎左衛門尉行有

  かずさのたろうひょうえのじょうながつね            むとうのじろうさえもんのじょうよりやす
 上総太郎兵衛尉長經        武藤次郎左衛門尉頼泰

  かわごえのしろうつねしげ                    いずみのじろうさえもんのじょうゆきあり
 河越四郎經重           和泉次郎左衛門尉行章

  びぜんのさぶろうながより                   あしかがのじろうかねうじ
 備前三郎長頼           足利次郎兼氏

つい さきがけはちにん
次で先駈八人

つい てんじょうびとじうにん
次で殿上人十人

つい おくるま
次で御車

  ぜんのじろうさえもんのじょうやすあり             おきのじろうさえもんのじょうとききよ
 善次郎左衛門尉康有       隱岐次郎左衛門尉時C

  いきのしんさえもんのじょうもとより   〔ごとう〕         ひごのろくろうさえもんのじょうときかげ 〔ないとう〕
 壹岐新左衛門尉基頼〔後藤〕    肥後六郎左衛門尉時景〔内藤〕

  おうみのいやしろうさえもんのじょうやすのぶ         やまのうちのさぶろうさえもんのじょうみちひろ
 近江弥四郎左衛門尉泰信     山内三郎左衛門尉通廣

  といのしろうさねつな                      かまたのさぶろうさえもんのじょうよしなが

 土肥四郎實綱          鎌田三郎左衛門尉義長

  おおすがのさえもんしろうともうじ               ひごのしろうひょうえのじょうゆきさだ
 大須賀左衛門四郎朝氏      肥後四郎兵衛尉行定

  かまたのじろうひょうえのじょうゆきとし            ひらがのしんざぶろうこれとき
 鎌田次郎兵衛尉行俊       平賀新三郎惟時

       いじょうひたたれ  き   たいけん    おくるま  さゆう  そうら
   以上直垂を着て帶釼し、御車の左右に候う。

ぎょけんやく ひと
御釼役の人

  ぎょうぶしょうゆうのりとき
 刑部少輔教時

ごちょうどやく
御調度役

  おのでらのしろうさえもんのじょうみちとき
 小野寺四郎左衛門尉通時

つい おんうしろ
次で御後

 ごい じうごにん  〔 ほい   げぐく  〕
五位十五人〔布衣に下括り〕

  えちごのかみさねとき                     えちごのうまのすけときちか
 越後守實時           越後右馬助時親

  なかつさかごんのだいゆういえうじ              ささきのいきぜんじやすつな
 中務權大輔家氏         佐々木壹岐前司泰綱

  みかわのぜんじよりうじ                    なわのさこんたいふまさしげ
 三河前司頼氏          那波左近大夫政茂B

  いずみのぜんじゆきかた                   えっちゅうぜんじよりやす
 和泉前司行方          越中前司頼業

  すおうのぜんじただつな                    いせぜんじゆきつな
 周防前司忠綱          伊勢前司行綱

  かずさのすけながやす                    つしまのかみうじのぶ
 上総介長泰           對馬守氏信

  むとうのしょうけいかげより
 武藤少卿C景頼

ろくい じうにん 〔 ほい   げぐく  〕
六位十人〔布衣に下括り〕

  あしかがかずさのさぶろうみつうじ              ながいのたろうときひで
 足利上総三郎滿氏        長井太郎時秀D

  しきぶのたいふさえもんのじょうみつまさ           いがのじろうさえもんのじょうみつふさ
 式部太郎左衛門尉光政      伊賀次郎左衛門尉光房

  さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし           おおそねじろうさえもんのじょうもりつね
 薩摩七郎左衛門尉祐能      大曾祢次郎左衛門尉盛經

  ちくぜんじろうさえもんのじょうゆきより            ぜんのうえもんのじょうやすなが
 筑前次郎左衛門尉行頼      善右衛門尉康長

  おのでらのしんさえもんのじょうゆきみち          いやぜんたろうさえもんのじょう
 小野寺新左衛門尉行通      祢善太郎左衛門尉

つい こうじん  ずいへいじうにん
次で後陣の随兵十人

  とおとうみのしちろうときもと                  むさしのしろうときなか
 遠江七郎時基          武藏四郎時仲

  こうづけのごろうひょうえのじょうしげみつ           あだちのたろうさえもんのじょうなおもと
 上野五郎兵衛尉重光       足立太郎左衛門尉直元

  ひたちのじろうひょうえのじょうゆきかつ           たけいしのさぶろうさえもんのじょうともたね
 常陸次郎兵衛尉行雄       武石三郎左衛門尉朝胤

  ほうきのしんさえもんのじょうきよつね            かわちのさぶろうさえもんのじょうすけうじ
 伯耆新左衛門尉C經       河内三郎左衛門尉祐氏

  じょうのじろうよりかげ                      おおすがのじろうさえもんのじょうたねうじ
 城次郎頼景           大須賀次郎左衛門尉胤氏

ごほうへい ののち  かいろう  をい  ぶがく  み     そ   けっこうれいねん こと
御奉幣之後、廻廊に於て舞樂を覽る。其の結搆例年に異なる。

むつのかみそ  ところ こうざる
陸奥守其の所に候被る。

 こ  ほか  いずぜんじよりさだ  さきのだざいしょうにためすけ  でわぜんじゆきよし  ぎょうぶだいゆうにゅうどうじょうけん ひたちにゅうどうぎょうじつら
此の外、伊豆前司頼定E・前大宰少貳爲佐・出羽前司行義・ 刑部大輔入道成献・ 常陸入道行日等

おな    さんか    うんぬん
同じく參加すと云々。

さるのこく かんごののち  ろくはら  ひきゃくさんちゃく
申尅、還御之後、六波羅の飛脚參着す。

さきのしょうぐんにゅうどう さきのだいなごんけ さんぬ じういちにち ごびょうり よっ  こうぎょ のよし   これ  もう
  前將軍入道 前大納言家、去る十一日御病痢に依て薨御之由、之を申す。

参考@先ず檢非違使三人は、検非違使が先頭なのは京風。
参考A判官は、検非違使。
参考B那波は、大江広元の孫。
参考C
少卿は、太宰小弐。
参考D
長井は、武蔵長井妻沼で因幡守廣元の孫。
参考E頼定は、清和源氏庶流。

現代語建長八年(1256)八月小十五日癸酉。小雨が降っています。北風が激しいです。今日、鶴岡八幡宮の放生会です。宗尊親王将軍家お出ましです。
 行列
まず、検非違使三人
 隠岐大夫判官佐々木泰清 遠江大夫判官三浦時連
 信濃判官二階堂行忠
次に、前を行く武装儀仗兵十人
 遠江三郎左衛門尉三浦泰盛 相馬弥五郎左衛門尉胤村
 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 出羽次郎左衛門尉二階堂行有
 上総太郎兵衛尉長経    武藤次郎左衛門尉頼泰
 河越四郎経重       和泉次郎左衛門尉二階堂行章
 備前三郎長頼       
足利次郎兼氏
次に露払いの先走り八人
次に殿上人十人
次に牛車
 善次郎左衛門尉三善康有  隠岐次郎左衛門尉清時
 壱岐新左衛門尉後藤基頼  肥後六郎左衛門尉内藤時景
 近江弥四郎左衛門尉佐々木泰信 山内三郎左衛門尉通広
 土肥四郎実綱       鎌田三郎左衛門尉義長
 大須賀左衛門四郎朝氏   肥後四郎兵衛尉大見行定
   以上は鎧直垂を着て、太刀を佩いて牛車の左右に居る
太刀持ちの人
 刑部少輔北条教時
弓矢を担いでいる人
 小野寺四郎左衛門尉通時
将軍の後ろについていく人〔礼服の狩衣に袴は足首で括る〕
 越後守北条実時      越後右馬助時親
 中務権大輔足利家氏    壱岐前司佐々木泰綱
 三河前司新田頼氏     
那波左近大夫政茂
 和泉前司二階堂行方    
越中前司(宇都宮)横田頼業
 周防前司島津忠綱     伊勢前司二階堂行綱
 上総介大曽祢長泰     対馬守佐々木氏信
 武藤少卿景頼
 六位十人
〔礼服の狩衣に袴は足首で括る〕
 足利上総三郎満氏     長井太郎時秀
 式部太郎左衛門尉光政      伊賀次郎左衛門尉光房
 薩摩七郎左衛門尉祐能      大曾祢次郎左衛門尉盛経
 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   善右衛門尉三善康長
 小野寺新左衛門尉行通      祢善太郎左衛門尉三善康義
次に後ろを行く武装儀仗兵
 遠江七郎時基          武蔵四郎時仲
 上野五郎兵衛尉結城重光     足立太郎左衛門尉直元
 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄    武石三郎左衛門尉朝胤
 伯耆新左衛門尉葛西清経     河内三郎左衛門尉祐氏
 城次郎安達頼景         大須賀次郎左衛門尉胤氏
幣を捧げた後、回廊で舞楽の奉納を見ました。その準備は例年と違って華美しています。
陸奥守政村は先に来ていました。その他にも、伊豆前司源頼定・前太宰少弐狩野為佐・出羽前司二階堂行義・刑部大輔入道成献・常陸入道行日二階堂行久などが、同様に来ていました。
午後4時頃お帰りの後、六波羅探題の伝令が到着しました。前将軍入道頼継さんと前大納言家頼経さんが、病気で亡くなったと、報告しました。

建長八年(1256)八月小十六日甲戌。陰。將軍家御出。流鏑馬。射手已下役。殊被撰其人。所謂相摸三郎時利。陸奥六郎義政。足利三郎利氏。武藏五郎時忠。三浦介六郎頼盛等爲其最。又競馬五番。
  左追持 富所左衛門尉
一番
  右   村岡弥三郎
   三度之後。右好而在外。空馳及數度。左追表手。前取合落馬。富所自額血出。
  左   當麻右馬五郎
二番
  右追勝 檢仗三郎
   右先出。互相競。各空馳二度。右追下手。無程馳追。當麻擬取鞦。組合取抜畢。
  左追持 下條四郎
三番
  右   泰弘員
   下條追之。暫不得相並。但於勝負挿内取之。弘員離馬。懷共落馬。而左勝之由雖有沙汰。右頻申子細。祿畢。
  左追持 澁谷右衛門三郎
四番
  右   泰種久
   右先出。々遲之間左追之。即取之挿脇。種久離馬。取澁谷腰。共落馬。左顯勇力。右存故實。太有其奥。

  左追勝 烏子左衛門次郎
五番
  右   泰行久
   右先出。空馳度々。左追之。行久不合鞭止畢。是怖烏子之勇力之故也。

読下し                      くも    しょうぐんけおんいで   やぶさめ   いれ いげ  やく  こと  そ   ひと    えらばる
建長八年(1256)八月小十六日甲戌。陰り。將軍家御出。流鏑馬の射手已下の役、殊に其の人を、撰被る。

いはゆる さがみのさぶろうときとし むつのろくろうよしまさ  あしかがさぶろうとしうじ むさしのごろうときただ  みうらのすけろうろうよりもりら   そ  もっと  たり
所謂、相摸三郎時利@・陸奥六郎義政・足利三郎利氏・武藏五郎時忠・三浦介六郎頼盛等が其の最も爲。

また くらべうま  ごばん
又、競馬 五番。

     〔ひだりおいもち〕    〔とみどころさえもんのじょう〕
  〔左追持A〕 〔富所左衛門尉〕

いちばん
一番

      〔みぎ〕          〔むらおあかいやさぶろう〕
  〔右〕   〔村岡弥三郎〕

     さんど ののち みぎこの  て そと  あ     からは  すうど  およ   ひだりおもてて  お    まえ  とりあ   らくば    とみどころひたいよ   ち いで
  三度之後、右好み而外に在り。空馳せ數度に及ぶ。左表手を追い、前を取合い落馬す。富所 額 自り血出る。

     〔ひだり〕           〔 とうま  うまごころ 〕
  〔左〕   〔當麻右馬五郎〕

 にばん
二番

      〔みぎおいがち〕      〔けんじょうさぶろう〕
  〔右追勝〕 〔檢仗三郎〕

     みぎさき  い     たが    あいきそ  おのおのからは   にど   みぎ しもて  お     ほどな  はせお    とうま しりがい と       こ
  右先に出で、互いに相競う。 各 空馳せ二度。右下手を追ひ、程無く馳追ひ、當麻鞦を取らんと擬らす。

     くみあ     と   ぬ をはんぬ
  組合いて取り抜き畢。

     〔ひだりおいもち〕      〔しもじょうしろう〕
  〔左追持〕 〔下條四郎〕

んばん
三番

      〔みぎ〕          〔はたのひろかず〕
  〔右〕   〔泰弘員〕

    しもじょうこれ  お    しばら あいなら    えず   ただ  しょうぶ  をい      うち  さし  これ  と
  下條之を追う。暫く相並ぶを不得。但し勝負に於ては、内を挿て之を取る。

    ひろかずうま  はな    いだ    とも  らくば     しか   ひだりかち のよし さた あ    いへど   みぎしき    しさい  もう    ろくをはんぬ
  弘員馬を離れ、懷きて共に落馬す。而るに左勝之由沙汰有ると雖も、右頻りに子細を申す。祿B畢。

     〔ひだりおいもち〕      〔 しぶやうえもんさぶろう 〕
  〔左追持〕 〔澁谷右衛門三郎〕

よんばん
四番

      〔みぎ〕          〔はたのたねひさ〕
  〔右〕   〔泰種久〕

  右先に出で、々遲れ之間 左 之を追う。即ち之を取り脇に挿む。種久馬を離れ、澁谷の腰を取り、共に落馬す。

     ひだり ゆうりき  あらは   みぎ  こじつ  ぞん   はなは そ  おくあ
  左は勇力を顯し。右は故實を存ず。太だ其の奥有り。

     〔ひだりおいかち〕      〔 からすこさえもんじろう 〕
  〔左追勝  〔烏子左衛門次郎〕

 ごばん
五番

      〔みぎ〕          〔はたのゆきひさ〕
  〔右〕   〔泰行久〕

     みぎさき  い    からは  たびたび ひだりこれ  お    ゆきひさ むち あわせず と をはんぬ  これ からすこのゆうりき  おそ    のゆえなり
  右先に出で。空馳せ度々。左之を追う。行久 鞭を不合 止め畢。 是 烏子之勇力を怖れる之故也。

参考@時利は、後の時輔。
参考A
〔左追持〕持は、引き分け。
参考B
祿は、勝者に与えられる白い布らしいが分からないので、相撲の懸賞みたいなものとしてみた。

現代語建長八年(1256)八月小十六日甲戌。曇りです。宗尊親王将軍家お出ましです。流鏑馬の射手を始めとする役に付いては、特に人を指名して選びました。それは、相模三郎北条時利(後の時輔)・陸奥六郎北条義政(後の塩田流)・武蔵五郎北条時忠・三浦介六郎頼盛などがその該当者です。又、くらべ馬が五番
 一番 左が追って引き分けて冨所左衛門尉。右は、村岡弥三郎
    三回引き分けて、右はあえて左側に出るが、無勝負が何度かあって、左の弓手へ出て馬の轡を捕えましたが落馬しました。冨所は額から血を流しました。

 二番 左が、当麻右馬五郎。右が追いついて勝ち検仗三郎です。
    右が先に出て、お互いに走り合いましたが、それぞれ無勝負が二度。右は右側から追いかけて、直ぐに追いつき、当麻はお尻の飾りを攫もうと頑張って、組みついて抜き取りました。

 三番 左が追いましたが引き分けて下条四郎。右は、秦弘員。
    下条が追い駆けても、中々並べませんでした。但し勝負については、懐に飛び込んで捕まえ、弘員は右馬から体を放し下条を抱いたまま一緒に落馬しました。しかし、左が勝ちだと判定がありましたが、右は盛んに異論を唱えましたので、褒美が出ました。

 四番 左が追いましたが引き分けて渋谷右衛門三郎。右は、秦種久。
    右が先にスタートして、スタートし損なった左がこれを追いかけました。すぐに追いついて体をつかんで小脇に抱えました。種久は馬から体を放し、渋谷の腰にしがみついて、一緒に落馬しました。左は力自慢を表し、右は昔からの技で逃げました。中々深い奥儀があります。

 五番 左が追いかけて勝ちは烏子左衛門次郎。右は、秦行久。
    右が先にスタートして、無勝負が何度か、左がこれを追いかけました。行久は鞭を振るわずに止めてしまいました。これは、烏子の腕力を恐れたからです。
(馬鹿力で怪我でもさせられちゃかなわん)

     みぎさき  い     いでおく のあいだ ひだり これ  お    すなは これ  と   わき  さしはさ  たねひさうま  はな   しぶや  こし  と      とも  らくば

建長八年(1256)八月小廿日戊寅。新奥州〔元前右馬權頭〕奉執權事之後。將軍家始可有入御于彼御常葉別業之由。日來有其沙汰。治定。既依可爲來廿三日。今日被催供奉人。其散状披覽之後。於御前。故障之替已下有被相加事。
 足利次郎            遠江次郎
 佐渡五郎左衛門尉〔可催加之者〕
 常陸次郎兵衛尉〔申所勞之由以善次郎左衛門尉可爲其替者〕

読下し                   しんおうしゅう 〔もとさきのうまごんのかみ〕 しっけん  こと たてまつ ののち
建長八年(1256)八月小廿日戊寅。新奥州〔元前右馬權頭〕執權の事を奉る之後、

しょうぐんけ はじ    か  おんときわべつぎょう に にゅうぎょあ  べ   のよし  ひごろ そ   さた あ       ちじょう
將軍家 始めて彼の御常葉別業 于入御有る可き之由、日來其の沙汰有りて、治定す。

すで  きた にじうさんにちたるべ    よっ    きょう ぐぶにん   もよ  さる
既に來る廿三日爲可きに依て、今日供奉人を催お被る。

 そ  さんじょうひらん ののち  ごぜん  をい     こしょう のかえ いげ あいくは  らる  ことあ
其の散状披覽@之後、御前に於て、故障之替已下相加へ被る事有り。

  あしかがのじろう                        とおとうみのじろう
 足利次郎            遠江次郎

  さどのごろうさえもんのじょう  〔 もよお  くは  べ     のもの〕
 佐渡五郎左衛門尉〔催し加う可き之者〕

  ひたちのじろうひょうえのじょう 〔しょろう のよし  もう   ぜんのじろうさえもんのじょう   もっ  そ    かえたるべ   もの〕
 常陸次郎兵衛尉 〔所勞之由を申す善次郎左衛門尉を以て其の替爲可き者〕

参考@披覧は、敬語が入っている。

現代語建長八年(1256)八月小二十日戊寅。新奥州〔元は前右馬権頭〕政村が、執権の職に就いてから宗尊親王将軍家は初めて彼の常盤の別荘にお出かけになると、普段その検討がありましたが、決定しました。既に来る二十三日と決まったので、お供の人を決めました。その回覧版を御覧になった後、将軍の前で故障の交換などを書き加える事がありました。
 足利次郎顕氏  遠江次郎佐原光盛
 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆〔催促して加える人〕
 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄〔病気と云ってるので善次郎左衛門尉三善康有をその替りの人〕

建長八年(1256)八月小廿三日辛巳。天リ。將軍家入御于新奥州常葉第。巳刻御出〔御水干。御騎馬〕。
供奉人
歩行
 御釼              進奉不參
 備前三郎長頼          城四郎時盛
 佐渡五郎左衛門尉基隆      式部太郎左衛門尉光政
 常陸次郎兵衛尉行雄       薩摩七郎左衛門尉祐能
 武藤右近將監兼頼        和泉次郎左衛門尉行章
 武藤次郎兵衛尉頼泰       後藤壹岐新左衛門尉基頼
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐次郎左衛門尉時C
 善次郎左衛門尉康有       鎌田三郎左衛門尉義長
 土肥左衛門四郎實綱       鎌田次郎左衛門尉行俊
騎馬
 土御門中納言顯方卿       花山院宰相中將長雅卿
 武藏守長時           越後守實時
 刑部少輔教時          尾張左近大夫將監公時
 足利次郎兼氏          同三郎頼氏
 陸奥七郎業時          武藏五郎時忠
 和泉前司行方          長井太郎時秀
 三河前司頼氏          佐々木壹岐前司泰綱
 後藤壹岐前司基政        筑前々司行泰
 上総介長泰           武藤少卿景頼
 出羽三郎左衛門尉行資      城次郎頼景
 下野四郎景綱
陸奥入道。奥州。相州。尾張前司。出羽前司等。豫候彼亭。先入御出居。其所立衣架。被懸御服半尻狩御衣〔浮線綾〕。御水干袴〔地白格子〕。色々御小袖十具。御帷子五等也。御棚居八合菓子。又巻絹三十疋。紺布三十。檀帋百帖。扇五十本積廣盖。次供御〔六本立〕。次供盃酒。三獻之後渡御泉屋。以金銀以下作屋形船〔金五十兩。南廷三。色々紺絹三十。帷三十。墨二。錦一端。呉綾一端。紫扇五十本等也〕。被置此所。次女房一條殿。近衛殿。別當殿。新右衛門督局。兵衛督局。小督局。右衛門佐局。美濃局等參上。及晩。被奉御引出物。刑部少輔教時持參御釼〔竹作〕。金五十兩〔置敷折銀〕。陸奥七郎業時役之。南廷五〔置銀折敷〕。足利三郎利氏持參之。
次御馬二疋。
 一御馬〔置鞍〕陸奥三郎時村     式部太郎左衛門尉光政
 二御馬    出羽三郎左衛門尉義賢 同七郎行頼等引之
女房贈物衣今木小袖帷等也。御共侍各沓行騰也。

読下し                     そらはれ  しょうぐんけしんおうしゅう  ときはだい に にゅうぎょ みのこくおんいで 〔おんすいかん  おんきば 〕

建長八年(1256)八月小廿三日辛巳。天リ。將軍家新奥州が常葉第于入御。巳刻御出〔御水干。御騎馬〕

 ぐぶにん
供奉人

 かち
歩行

ぎょけん                              すす たてまつ まいらず
 御釼              進め奉り不參

  びぜんのさぶろうながより                  じょうのしろうときもり
 備前三郎長頼          城四郎時盛

  さどのごろうさえもんのじょうもとたか            しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ
 佐渡五郎左衛門尉基隆      式部太郎左衛門尉光政

  ひたちのじろうひょうえのじょうゆきかつ          さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし
 常陸次郎兵衛尉行雄       薩摩七郎左衛門尉祐能

  むとううこんしょうげんかねより                いずみのじろうさえもんのじょうゆきあき
 武藤右近將監兼頼        和泉次郎左衛門尉行章

  むとうじろうひょうえのじょうよりやす             ごとういきしんさえもんのじょうもとより
 武藤次郎兵衛尉頼泰       後藤壹岐新左衛門尉基頼

  おのでらのしんさえもんのじょうゆきみち          おきのじろうさえもんのじょうとききよ
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐次郎左衛門尉時C

  ぜんのじろうさえもんのじょうやすあり            かまたのさぶろうさえもんのじょうよしなが
 善次郎左衛門尉康有       鎌田三郎左衛門尉義長

  といのさえもんしろうさねつな                かまたのじろうさえもんのじょうゆきとし
 土肥左衛門四郎實綱       鎌田次郎左衛門尉行俊

 きば
騎馬

  つちみかどちゅうなごんあきかたきょう           かざんいんさいしょうちゅうじょうながまさきょう
 土御門中納言顯方卿       花山院宰相中將長雅卿

  むさしのかみながとき                    えちごのかみさねとき
 武藏守長時           越後守實時

  ぎょうぶしょうゆうのりとき                   おわりさこんたいふしょうげんきんとき
 刑部少輔教時          尾張左近大夫將監公時

  あしかがのじろうかねうじ                   おな    さぶろうよりうじ
 足利次郎兼氏          同じき三郎頼氏参考足利三郎頼氏は、利氏から改名している。

  むつのしちろうなりとき                    むさしのごろうときただ
 陸奥七郎業時          武藏五郎時忠

  いずみのぜんじつきかた                   ながいのたろうときひで
 和泉前司行方          長井太郎時秀

  みかわのぜんじよりうじ                    ささきのいきぜんじやすつな
 三河前司頼氏          佐々木壹岐前司泰綱

  ごとうのいきぜんじもとまさ                   ちくぜんぜんじゆきやす
 後藤壹岐前司基政        筑前々司行泰

  かずさのすけながやす                    むとうしょうけいかげより
 上総介長泰           武藤少卿景頼

  でわのさぶろうさえもんのじょうゆきすけ           じょうのじろうよりかげ
 出羽三郎左衛門尉行資      城次郎頼景

  しもつけしろうかげつな
 下野四郎景綱

むつのにゅうどう おうしゅう そうしゅう おわりのぜんじ  でわぜんじ あ  あらかじ か  てい  そうら
陸奥入道、奥州、相州、尾張前司、出羽前司等、豫め彼の亭に候う。

 ま    でい   いりたま    そ  ところ  いか   た     ごふく  はんじり かりおんぎぬ 〔ふせんりょう〕  かけらる
先ず出居@に入御う。其の所に衣架Aを立て、御服の半尻B 狩御衣〔浮線綾Cを懸被る。

おんすいかんばかま 〔 ぢ  しろ  あおごうし 〕   いろいろ  おんこそでじゅうぐ  おんかたびらご らなり
御水干袴 〔地は白、格子〕。色々の御小袖十具。御帷子五等也。

おんたない  はちごう  かし   また まきぎぬさんじっぴき こんぷさんじゅう  だんしひゃくちょう おうぎごじっぽんひろぶた  つ
御棚居は八合Dの菓子。又、巻絹三十疋。紺布三十。 檀帋百帖。 扇E五十本廣盖に積む。

つい   くご  〔ろっぽんだて〕   つぎ  はいしゅ  そな    さんこんののち おんいずみのや わた
次で供御F〔六本立G。次に盃酒を供う。三獻之後 御泉屋Hに渡る。

きんぎんいげ  もっ  やかたぶね  つく   〔 きんごじうりょう   なんてい さん  いろいろ  こんぎぬさんじう かたびらさんじう  すみに  にしきいったん  ごあやいったん  むらさき おうぎごじっぽんなり〕
金銀以下を以て屋形船を作り〔金五十兩。南廷I三。色々の紺絹三十。帷三十。墨二。錦一端。呉綾一端。紫の扇五十本等也〕

 こ  ところ おかれ
此の所に置被る。

つぎ にょぼういちじょうどの このえどの べっとうどの しんうえもんのかみのつぼね ひょうえのかみのつぼね おごうのつぼね うえもんのすけのつぼね みののつぼねら さんじょう
次に女房一條殿。近衛殿。別當殿。新右衛門督局。  兵衛督局。 小督局。 右衛門佐局。 美濃局等 參上す。

ばん  およ    おんひきでもの たてまつらる  ぎょうぶしょうゆうのりとき ぎょけん  じさん  〔たけづくり〕
晩に及び、御引出物を奉被る。 刑部少輔教時御釼を持參す〔竹作〕

きんごじうりょう  〔ぎん   おしき   お  〕    むつのしちろうなりときこれ  えき    なんていご 〔ぎん   おしき   お   〕  あしかがのさぶろうとしうじこれ  じさん
金五十兩〔銀の折敷に置く〕。陸奥七郎業時之を役す。南廷五〔銀の折敷に置く〕。足利三郎利氏之を持參す。参考今度は利氏で出てる。

つぎ  おんうまにひき
次に御馬二疋。

 いちのおんうま〔くら  お  〕   むつのさぶろうときむら         しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ
 一御馬〔鞍を置く〕陸奥三郎時村     式部太郎左衛門尉光政

  にのおんうま       でわのさぶろうさえもんのじょうよしかた おな    しちろうゆきよりら これ  ひ
 二御馬    出羽三郎左衛門尉義賢 同じき七郎行頼等之を引く。

にょぼう   おくりもの ころも  いまき  こそで かたびららなり  おんとも さむらい  おのおの くつ  むかばきなり
女房への贈物は衣・今木J・小袖・帷等也。御共の侍には 各に 沓・行騰也。

参考@出居は、縁側が部屋になっている。輿は輿のまま乗り入れる。
参考A
衣架は、着物をかける。衣桁いこう。

参考B
半尻は、裾の後ろが前より長い狩衣。
参考C
浮線綾は、丸文で四分割し唐花を配す。
参考D八合は、八つの箱。参考菓子は、果物。
参考Eは、扇子越しに物を見ると穢れを避けるが扇が穢れるので焼かなければならない。
参考F供御は、料理。
参考G
六本立は、六本足の長いお膳。
参考H
泉屋は、泉殿・寝殿造りの南庭の泉水に突き出した納涼・観月の小建物。
参考I南廷は、銀。四角い板型と巴形がある。
参考J今木は、湯巻。

現代語建長八年(1256)八月小二十三日辛巳。空は晴です。宗尊親王将軍家は奥州政村の常盤の屋敷へお出かけです。午前10時頃出発〔水干に乗馬〕
お供の人
歩き
太刀持ち なし
 備前三郎名越長頼        城四郎安達時盛
 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆    式部太郎左衛門尉伊賀光政
 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄    薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
 武藤右近將監兼頼        和泉次郎左衛門尉二階堂行章
 武藤次郎兵衛尉頼泰       後藤壱岐新左衛門尉基頼
 小野寺新左衛門尉行通      隠岐次郎左衛門尉佐々木時
 善次郎左衛門尉三善康有     鎌田三郎左衛門尉義長
 土肥左衛門四郎実綱       鎌田次郎左衛門尉行俊
乗馬
 土御門中納言顕方卿       花山院宰相中将長雅卿
 武藏守北条長時         越後守北条実時
 刑部少輔北条教時        尾張左近大夫将監北条公時
 足利次郎兼氏          同三郎足利頼氏
 陸奥七郎北条業時        武蔵五郎北条時忠
 和泉前司二階堂行方       長井太郎時秀(大江)
 三河前司新田頼氏        佐々木壱岐前司泰綱
 後藤壱岐前司基政        筑紫前司二階堂行泰
 上総介大曽祢長泰        武藤少卿景頼
 出羽三郎左衛門尉二階堂行資   城次郎安達頼景
 下野四郎宇都宮景綱

陸奥入道重時・奥州政村・相州時頼・尾張前司時章・出羽前司小山長村は、前もってその家へ来ています。
まず、輿を乗りつける縁側部屋へ入りました。その場所に着物懸けの衣桁を立てて、裾の後ろが長い半尻の狩衣〔丸紋の唐花模様〕を懸けてあります。
ほかに水干袴〔白地に青格子模様〕。多色刷りの小袖が十枚。帷子が五枚などです。
棚に置いてあるのは、八つの箱に入った果物。また、絹の反物30疋。紺色染の布三十。大高檀紙百帖。扇五十本蓋つきの箱に入れてます。
次にお料理〔六本足の横長の御膳〕。次にお酒を用意しました。三々九度の後、庭の泉水に着きだした部屋へ行きました。
金銀や反物などで屋形船を作り〔金五十両、銀の延べ板三、色々の藍染の絹三十。帷子三十。唐墨二。錦一反。呉の綾織一反。紫の扇五十本などです〕この場所に置いています。
次に、幕府女官の一条殿・近衛殿・別当殿・新右衛門督局・兵衛局・小督局・右衛門佐局・美濃局たちが来ました。
夜になって、引き出物を差し上げました。
刑部少輔北条教時が、刀を差し上げました〔竹の鞘です〕。金五十両〔銀貼りのお盆に置く〕陸奥七郎北条業時がこれを差し出します。銀の延べ板5〔銀貼りのお盆に置く〕足利三郎利氏(頼氏)がこれを持ってきました。
次に馬を二頭
 一の馬〔鞍を置く〕陸奥三郎時村 式部太郎左衛門尉伊賀光政
 二の馬 出羽三郎左衛門尉義賢  同七郎行頼がこれを引いてきました
女官達への贈り物は、衣・湯巻・小袖・帷子などです。お供の近習にはそれぞれに乗馬沓と乗馬袴です。

建長八年(1256)八月小廿四日壬午。霽。將軍家御惱。奥州。相州已下群參。

読下し                      はれ しょうぐんけ ごのう   おうしゅう そうしゅう いげ ぐんさん
建長八年(1256)八月小廿四日壬午。霽。將軍家御惱す。奥州・相州已下群參す。

現代語建長八年(1256)八月小二十四日壬午。晴れました。宗尊親王将軍家が病気です。奥州政村・相州時頼はじめ皆集まりました。

建長八年(1256)八月小廿六日甲申。陰。御惱増氣之間。若宮別當僧正隆弁修不動護摩。又於御所被行泰山府君祭。リ茂朝臣奉仕之。出羽前司行義爲奉行。

読下し                      くも    ごのう ましけ のあいだ  わかみやべっとうそうじょうりゅうべん ふどうごま  しゅう

建長八年(1256)八月小廿六日甲申。陰り。御惱増氣@之間。 若宮別當僧正隆弁 不動護摩を修す。

また ごしょ  をい  たいさんふくんさい おこなはれ   はるもちあそん これ  ほうし    でわのぜんじゆきよしぶぎょうたり

又御所に於て泰山府君祭を行被る。リ茂朝臣之を奉仕す。出羽前司行義奉行爲。

参考@増氣は、病の気が増える。病気が悪化する。

現代語建長八年(1256)八月小二十六日甲申。曇りです。将軍の病気が悪化しておりますので、若宮筆頭僧正隆弁が、お不動様の護摩炊きを勤めました。又、御所では泰山府君祭を行いました。安陪晴茂さんが勤めました。出羽前司二階堂行義が担当です。

建長八年(1256)八月小廿九日丁亥。終夜雨降。依御惱事。重有御祈。大土公資俊。靈氣泰継。四角宣賢。リ長。リ秀。リ成。四堺リ尚。親貞。維行。重氏等也。

読下し                     よもすがらあめふ     ごのう   こと  よっ    かさ    おいの  あ
建長八年(1256)八月小廿九日丁亥。終夜雨降る。御惱の事に依て、重ねて御祈り有り。

だいどくう  すけとし  りょうけ  やすつぐ  しかく  のぶかた はるなが はるひで はるしげ  しさかい  はるなお ちかさだ これゆき しげうじら なり
大土公は資俊。靈氣は泰継。四角は宣賢・リ長・リ秀・リ成。四堺はリ尚・親貞・維行・重氏等也。

現代語建長八年(1256)八月小二十九日丁亥。一晩中雨降りです。将軍の病気について、なおもお祈りがありました。大土公は資俊。霊気祭は宣賢。御所の四方は、宣賢・晴長・晴秀・晴成。鎌倉の四方堺は、晴尚・親貞・維行・重氏達です。

九月へ

吾妻鏡入門第四十六巻

inserted by FC2 system inserted by FC2 system