正嘉元年(1257)十一月小
正嘉元年(1257)十一月小八日己未。大地震。如去八月廿三日。 |
読下し
おおぢしん
さんぬ はちがつ
にじうさんにち ごと
正嘉元年(1257)十一月小八日己未。大地震。去る
八月 廿三日の如し。
参考@八月廿三日の如しは、築地が崩れ、地割れと液状化現象。中下馬橋編では地面が割れメタンガスの噴出らしい。記事がある。
現代語正嘉元年(1257)十一月小八日己未。大地震です。先達ての8月23日と同じくらいです。
正嘉元年(1257)十一月小廿二日癸酉。リ。丑剋。若宮大路燒失。藤次郎左衛門入道家失火。花山院新中納言。陸奥七郎。下野前司。内藏權頭。式部大夫入道舊宅。壹岐前司。伊豆太郎左衛門尉。前縫殿頭文元等亭悉以災。至田樂辻子火止。 |
読下し
はれ
うしのこく
わかみやおおじ しょうしつ とうのじろうさえもんにゅうどう
いえ しっか
正嘉元年(1257)十一月小廿二日癸酉。リ。丑剋、若宮大路で燒失。藤次郎左衛門入道の家から失火。
かざんいんしんちゅうなごん むつのしちろう
しもつけぜんじ くらのかみ しきぶのたいふにゅうどう
きゅうたく いきのぜんじ いずのたろうさえもんのじょう
花山院新中納言・陸奥七郎・下野前司・内藏權頭・式部大夫入道が
舊宅・壹岐前司・伊豆太郎左衛門尉・
さきのぬいどののとうふみもとら てい
ことごと もっ わざわ でんがくずし いた ひ と
前縫殿頭文元等が
亭 悉く以て災いす。田樂辻子に至り火止まる。
現代語正嘉元年(1257)十一月小二十二日癸酉。午前2時頃、若宮大路で火事です。藤次郎左衛門入道の家から失火です。花山院新中納言師継・陸奥七郎業時・下野前司宇都宮泰綱・元式部大夫入道伊賀光西の家・壱岐前司佐々木泰綱・伊豆太郎左衛門尉実保・前縫殿頭文元達の屋敷がすべて災難に遭いました。田楽辻子で火が止まりました。
正嘉元年(1257)十一月小廿三日甲戌。リ。酉剋。越後守實時朝臣息男〔十歳〕於相州禪室御亭元服。号越後四郎時方。理髪丹後守頼景。加冠相摸太郎〔七歳〕 |
読下し
はれ とりのこく えちごのかみ
さねときあそん そくなん 〔じっさい〕
そうしゅうぜんしつ おんてい をい げんぷく
正嘉元年(1257)十一月小廿三日甲戌。リ。酉剋。越後守
實時朝臣 息男〔十歳〕相州禪室の御亭に於て元服す。
ごう えちごのしろうときかた りはつ たんごのかみよりかげ
かかん さがみのたろう 〔ななさい〕
号は越後四郎時方。理髪は丹後守頼景。加冠は相摸太郎〔七歳〕。
現代語正嘉元年(1257)十一月小二十三日甲戌。晴れです。午後6時頃、越後守金沢流北条実時さんの息子〔10才〕は、相州禅室得宗北条時頼さんの屋敷で元服式です。通称を越後四郎時方です。髪を切る役は丹後守晴景。冠親は相模太郎北条時宗〔7才〕です。
正嘉元年(1257)十一月小廿四日乙亥。明年正月御的射手等被差定之。越後守被下奉書云々。 |
読下し
みょうねん しょうがつ おんまと いてら これ さ さだ らる
えちごのかみ ほうしょ くださる うんぬん
正嘉元年(1257)十一月小廿四日乙亥。明年 正月の御的の射手等之を差し定め被る。越後守
奉書を下被ると云々。
現代語正嘉元年(1257)十一月小二十四日乙亥。来年の正月の弓矢初めの射手などを指名してお決めになりました。越後守北条実時は将軍の命令書を渡されましたとさ。