吾妻鏡入門第四十八巻  

正嘉二年(1258)六月小

正嘉二年(1258)六月小一日己夘。小雨降。將軍家還御之後。和泉前司行方進勝長壽院供養日供奉人散状於武州。々々被奉御所之處。猶可催加人數之由。被仰下之間。被相觸其旨於越後守云々。

読下し                    こさめふ
正嘉二年(1258)六月小一日己夘。小雨降る。

しょうぐんけ かんご ののち いずみのぜんじゆきかた しょうちょうじゅいん くよう   ひ   ぐぶにん  さんじょうをぶしゅう  すす
將軍家還御之後、和泉前司行方、 勝長壽院 供養の日の供奉人の散状於武州に進む。

ぶしゅう ごしょ たてまつ らる  のところ  なお にんずう  もよお くは   べき のよし  おお  くださる  のあいだ  そ  むねをえちごのかみ あい ふる    うんぬん
々々御所に奉つ被る之處、猶、人數を催し加へる可之由、仰せ下被る之間、其の旨於越後守に相觸被ると云々。

現代語正嘉二年(1258)六月小一日己夘。小雨が降ってます。宗尊親王将軍家が帰った後、和泉前司二階堂行方が、勝長寿院開眼供養の日のお供の名簿を武州執権長時に渡しました。長時は、名簿を将軍に見せた処、もっと人数を増やすように云われたので、その事を越後守実時に云いつけましたとさ。

説明御所奉行の二階堂行方が名簿を執権の武州長時に渡した。

正嘉二年(1258)六月小二日庚辰。於用捨者被計下之。至行列者可爲武州計之由被仰下。越州歸參東亭。申此由。而猶可伺申之旨依被命。越州又雖披露此趣。御返事同前。仍相州。武州。越州定行列進入之。但爲御所御計之由。可召仰供奉人等之趣。武州密々被仰云々。

読下し                    ようしゃ  をい  は これ  はか  くださる   ぎょうれつ いた    は ぶしゅう はから たるべきのよしおお  くださる
正嘉二年(1258)六月小二日庚辰。用捨@に於て者之を計り下被る。行列に至りて者武州の計い爲可之由仰せ下被る。

えつしゅう ひがし てい  きさん    かく  よし  もう
 越州 東の亭へ歸參し、此の由を申す。

しか   なお  うかが もう  べき のむねめい  らる    よっ  えつしゅうまた こ おもむき ひろう    いへど    ごへんじ まえ  おな
而るに猶、伺い申す可之旨命じ被るに依て、越州又此の趣を披露すと雖も、御返事前に同じ。

よっ  そうしゅう ぶしゅう えつしゅう ぎょうれつ さだ  これ  すす  い
仍て相州・武州・越州 行列を定め之を進め入る。

ただ  ごしょ   おはから   な   のよし  ぐぶにん ら   めしおお  べきのおもむき ぶしゅう みつみつ  おお  らる   うんぬん
但し御所の御計いと爲す之由、供奉人等に召仰す可之 趣、 武州 密々に仰せ被ると云々。

参考@用捨は、用いるか捨てるか。採否。

現代語正嘉二年(1258)六月小二日庚辰。採否について将軍が決めてよこしました。行列の順番は執権長時が決めるように云われましたと、実時は東の建物へ来て報告しました。しかし、意見があるようなので、もう一度きいてくるように命令したので、実時はこの事を将軍に話しましたが、前と同じ返事でした。
そこで、相州政村・武州長時・越州実時が行列の順を決めて、御覧に入れました。但し、将軍が決めた事だと、御家人には伝えるようにと、長時が内緒で命じましたとさ。

正嘉二年(1258)六月小三日辛巳。上野三郎國氏被差定明日御出随兵之處。依所勞申障云々。

読下し                   こうづけのさぶろうくにうじ  あす  おんいで ずいへい  さしさだ  らる  のところ  しょろう  よっ  さわり もう    うんぬん
正嘉二年(1258)六月小三日辛巳。上野三郎國氏、明日の御出の随兵に差定め被る之處、所勞に依て障を申すと云々。

現代語正嘉二年(1258)六月小三日辛巳。上野三郎畠山国氏は、明日のお出ましの儀仗兵に決められていましたが、病気だから欠席だと云って来ましたとさ。

正嘉二年(1258)六月小四日壬午。天リ風靜。今日。勝長壽院供養也。曼茶羅供。大阿闍梨松殿法印良基。
職衆三十口
 權大僧都定宗         權少僧都寛位
 權少僧都聖尊         權少僧都定憲
 權少僧都慈曉         權少僧都浄禪
 權少僧都印教         權律師尋快
 權律師成遍          權律師頼承
 權律師良明          權律師靜宴
 權律師圓審          權律師禪遍
 權律師定寳          權律師信成
 權律師頼承          權律師良顯
 權律師定撰          權律師慶尊
 法橋宗信           已講能海
 阿闍梨尊審          阿闍梨行秀
 阿闍梨禪信          阿闍梨源尊
 大法師定宣          阿闍梨源重
 大法師圓全          大法師定融
御願文草右京權太夫茂範朝臣。C書左大臣法印嚴惠。法會奉行參河前司教隆〔布衣下括〕。。刑部權少輔政茂〔束帶〕。。各払曉參院内餝會塲。巳尅。將軍家渡御〔御束帶。紫袍。御帶劔〕。供奉人。
行列
先陣隨兵
 武田五郎三郎政綱       小笠原六郎三郎時直
 長井太郎時秀         備前三郎長頼
 新相摸三郎時村        武藏五郎時忠
 陸奥七郎業時         相摸三郎時利
 遠江七郎時基         陸奥六郎義政
御車
 隱岐次郎左衛門尉時C     周防五郎左衛門尉忠景
 肥後四郎左衛門尉行定     山内三郎左衛門尉通廉
 肥後右衛門尉爲成       平賀新三郎惟時
 善左衛門次郎盛村       大曽祢左衛門尉長頼
 狩野左衛門四郎景茂      大泉九郎長氏
   已上着直垂帶釼。候御車左右。
御調度
 武藤左衛門尉頼泰
御後
 越後守實時          中務權大輔家氏
 刑部少輔教時         左近大夫將監公時
 民部大輔時隆         下野前司泰綱
 出羽前司長村         秋田城介泰盛
 石見前司能行         和泉前司行方
 壹岐前司基政         對馬守氏信
 信濃守泰C          周防守忠綱
 石見守宗朝          修理亮久時
 小野寺新左衛門尉行通     筑前四郎左衛門尉行佐
 式部太郎左衛門尉光政     山内藤内左衛門尉通重
 紀伊次郎左衛門尉爲經     鎌田次郎兵衛尉行俊
後陣随兵
 城四郎左衛門尉時盛      阿曽沼小次郎光綱
 相馬五郎左衛門尉胤村     千葉七郎太郎師時
 淡路又四郎左衛門尉宗泰    武石三郎左衛門尉朝胤
 加藤右衛門尉時景       常陸次郎兵衛尉行雄
 肥後左衛門尉政氏       長江八郎四郎景秀
到政所前。式部太郎左衛門尉光政落馬。仍不及供奉歸私。又筑前左衛門尉行佐背行列圖遷左〔圖。左小野寺左衛門尉行通。右行佐也〕。。山内藤内左衛門尉通重不相並于鎌田兵衛尉行俊而引下打馬。次於勝長壽院大門税御車。下御。土御門中納言褰御簾。花山院宰相中將候御傍。中務權大輔家氏役御榻〔手長鎌田次郎兵衛尉行俊〕。左近大夫將監公時進御沓〔手長小野寺新左衛門尉行通〕。黄門取御裾。越後守實時役御劔。去年大慈寺供養之時。雲客等參會御下車所雖先行。今度被止其儀之間。兩卿之外不參此所。先陣随兵對御所居東幔下。入御之後。々陣随兵候同幔北。殿上人等候樂屋前。諸大夫候本堂前。御堂上之間。相州。武州下居佛前階下給。又黄門參進御劔御笏。其後供奉五位六位候庭上〔自弥勒堂前至塔前。各用床子〕。着直垂六位等群居御所前階下。大夫判官行有。大夫判官廣綱。隱岐判官行氏等守護寺門。午尅。大阿闍梨參入。執葢小山太郎左衛門尉ゝゝ。執綱越中前司頼業。長門前司時朝也。職衆等皆列立導師前。次入道塲。御經供養之後。被引御布施。導師。被物卅一重〔錦一重。色々十重。綾廿重〕。裹物一〔以織物袋之。裹之。納紺村濃十五〕。砂金百兩。御馬十疋〔皆置銀鞍。懸厚総鞦〕。供米廿石。御加布施。銀釼一腰。職衆卅口。々別錢貨一万五千疋。
御布施取
 土御門中納言〔顯方卿〕      六條二位〔顯氏卿〕
 花山院宰相中將〔長雅卿〕     二條三位〔教定卿〕
 刑部卿〔宗教卿〕         一條中將能基朝臣
 前右衛門佐重氏朝臣        一條前少將能C朝臣
 坊門中將基輔朝臣         藤少將實遠朝臣
 中御門中將公寛朝臣        中御門少將實齊朝臣
 冷泉少將隆茂朝臣         中御門前侍從宗世朝臣
 前兵衛佐忠時朝臣         中御門新少將光隆朝臣
 刑部權少輔政茂          二條侍從雅有
 近衛少將實永           一條少將定氏
 〔堂童子〕            〔堂童子〕
 伊賀前司光C           近江前司季實
 〔押立〕             〔赤塚〕
 左近大夫資能           左近藏人資茂
次被牽御馬〔十疋〕
 一御馬
  肥後次郎左衛門尉爲時      同三郎左衛門尉爲成
 二
  善五郎左衛門尉康家       同次郎左衛門尉康有
 三
  薩摩七郎左衛門尉祐能      同八郎左衛門尉
 四
  周防三郎左衛門尉忠行      同四郎左衛門尉忠泰
 五
  梶原上野太郎左衛門尉景綱    同三郎左衛門尉景氏
 六
  大須賀新左衛門尉朝氏      同左衛門四郎
 七
  筑前次郎左衛門尉行頼      同五郎行重
 八
  上総太郎左衛門尉長經      同三郎左近義泰
 九
  伊勢次郎左衛門尉行經      信濃次郎左衛門尉行宗
 十
  後藤壹岐左衛門尉基頼      同次郎基廣

読下し                   そらはれかぜしずか きょう しょうちょうじゅいん くよう なり   まんだらぐ    だいあじゃりまつどのほういんりょうき
正嘉二年(1258)六月小四日壬午。天リ風靜。今日、勝長壽院の供養也。曼茶羅供。大阿闍梨松殿法印良基。

しきしょう  さんじっく
職衆は三十口

  ごんのだいそうづじょうしゅう                ごんのしょうそうづかんい
 權大僧都定宗         權少僧都寛位

  ごんのしょうそうづしょうそん                ごんのしょうそうづじょうけん
 權少僧都聖尊         權少僧都定憲

  ごんのしょうそうづじぎょう                 ごんのしょうそうづじょうぜん
 權少僧都慈曉         權少僧都浄禪

  ごんのしょうそうづいんきょう                ごんのりっしじんかい
 權少僧都印教         權律師尋快

  ごんのりっしじょうへん                   ごんのりっしらいしょう
 權律師成遍          權律師頼承※

  ごんのりっしりょうみょう                   ごんのりっしじょうえん
 權律師良明          權律師靜宴

  ごんのりっしえんしん                    ごんのりっしぜんへん
 權律師圓審          權律師禪遍

  ごんのりっしじょうほう                    ごんのりっししんしょう
 權律師定寳          權律師信成

  ごんのりっしらいしょう                    ごんのりっしりょうけん
 權律師頼承※         權律師良顯

  ごんのりっしじょうせん                    ごんのりっしけいそん
 權律師定撰          權律師慶尊

  ほっきょうしゅうしん                      いこうのうかい
 法橋宗信           已講@能海 

   あじゃり そんしん                     あじゃり ぎょうしゅう
 阿闍梨尊審          阿闍梨行秀

   あじゃり ぜんしん                     あじゃり げんそん
 阿闍梨禪信          阿闍梨源尊

  だいほっしじょうせん                     あじゃり げんじゅう
 大法師定宣          阿闍梨源重

  だいほっしえんぜん                     だいほっしじょうゆう
 大法師圓全          大法師定融

ごがんもん  そう  うきょうごんのたいふしげのりあそん  せいしょ  さだいじんほういんげんえい
御願文の草Aは右京權太夫茂範朝臣。C書は左大臣法印嚴惠。

ほうえぶぎょう  みかわのぜんじんりたか 〔 ほい  げぐくり〕   ぎょうぶごんのしょうゆうまさしげ〔そくたい〕 おのおの ふつぎょう いんない  まい  かいじょう かざ
法會奉行は參河前司教隆〔布衣下括〕・ 刑部權少輔政茂 〔束帶〕 各 払曉Bに院内に參り會塲を餝る。

みのこく しょうぐんけ とぎょう 〔おんそくたい  しほう   おんたいけん〕    ぐぶにん
巳尅、將軍家渡御〔御束帶。紫C袍。御帶劔〕。供奉人は、

ぎょうれつ
行列

せんじん ずいへい
先陣の隨兵

  たけだのごろさぶろうまさつな              おがさわらのろくろうさぶろうときなお
 武田五郎三郎政綱       小笠原六郎三郎時直

  ながいのたろうときひで                  びぜんのさぶろうながより
 長井太郎時秀         備前三郎長頼

  しんさがみのさぶろうときむら               むさしのごろうときただ
 新相摸三郎時村        武藏五郎時忠

  むつのしちろうなりとき                   さがみのさぶろうときとし
 陸奥七郎業時         相摸三郎時利

  とおとうみのしちろうときもと                 むつのろくろうよしまさ
 遠江七郎時基         陸奥六郎義政

おくるま
御車

  おきのじろうさえもんのじょうとききよ           すおうのごろうさえもんのじょうただかげ
 隱岐次郎左衛門尉時C     周防五郎左衛門尉忠景

  ひごのしろうさえもんのじょうゆきさだ           やまのうちのさぶろうさえもんのじょうみちかど
 肥後四郎左衛門尉行定     山内三郎左衛門尉通廉

  ひごのうえもんのじょうためなり              ひらがのしんざぶろうこれとき
 肥後右衛門尉爲成       平賀新三郎惟時

  ぜんのさえもんじろうもりむら               おおそねさえもんのじょうながより
 善左衛門次郎盛村       大曽祢左衛門尉長頼

  かのうのさえもんしろうかげもち              おおいずみのくろうながうじ
 狩野左衛門四郎景茂      大泉九郎長氏

       いじょうひたたれ き   たいけん   おくるま  さゆう  そうら
   已上直垂を着て帶釼し、御車の左右に候う。

ごちょうど
御調度

  むさとさえもんのじょうよりやす
 武藤左衛門尉頼泰

おんうしろ
御後

  えちごのかみさねとき                   なかつかさごんのだいゆういえうじ
 越後守實時          中務權大輔家氏

  ぎょうぶしょうゆうのりとき                  さこんたいふしょうげんきんとき
 刑部少輔教時         左近大夫將監公時

  みんぶだいゆうときたか                  しもつけぜんじやすつな
 民部大輔時隆         下野前司泰綱

  でわぜんじながむら                    あいだのじょうすけやすもり
 出羽前司長村         秋田城介泰盛

  いわみのぜんじよしゆき                  いわみのぜんじゆきかた
 石見前司能行         和泉前司行方

  いきのぜんじもとまさ                    つしまのかみうじのぶ
 壹岐前司基政         對馬守氏信

  しなののかみやすきよ                   すおうのかみただつな
 信濃守泰C          周防守忠綱

  いわみのかみむねとも                   しゅりのりょうひさとき
 石見守宗朝          修理亮久時

  おのでらしんさえもんのじょうゆきみち          ちくぜんのしろうさえもんのじょうゆきすけ
 小野寺新左衛門尉行通     筑前四郎左衛門尉行佐

  しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ         やまのうちのとうないさえもんのじょうみちしげ
 式部太郎左衛門尉光政     山内藤内左衛門尉通重

  きいのじろうさえもんのじょうためつね          かまたのじろうひょうえのじょうゆきとし
 紀伊次郎左衛門尉爲經     鎌田次郎兵衛尉行俊

こうじん  ずいへい
後陣の随兵

  じょうのしろうさえもんのじょうときもり            あそぬまのこじろうみつつな
 城四郎左衛門尉時盛      阿曽沼小次郎光綱

  そうまのごろうさえもんのじょうたねむら           ちばのしちろうたろうもろとき
 相馬五郎左衛門尉胤村     千葉七郎太郎師時

  あわじのまたしろうさえもんのじょうむねやす       たけいしのさぶろうさえもんのじょうともたね
 淡路又四郎左衛門尉宗泰    武石三郎左衛門尉朝胤

  かとううえもんのじょうときかげ                ひたちのじろうひょうえのじょうゆきかつ
 加藤右衛門尉時景       常陸次郎兵衛尉行雄

  ひごのさえもんのじょうまさうじ                ながえのはちろうしろうかげひで
 肥後左衛門尉政氏       長江八郎四郎景秀

まんどころ まえ  いた    しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ らくば    よっ   ぐぶ   およばず し  かえ
 政所の前に到り、 式部太郎左衛門尉光政 落馬す。仍て供奉に不及私に歸るD

また  ちくぜんさえもんのじょうゆきすけ ぎょうれつ ず   そむ ひだり  うつ   〔 ず ひだり   おのでらさえもんのじょうゆきみち   みぎ  ゆきすけなり〕
又、 筑前左衛門尉行佐、 行列の圖に背き左に遷る〔圖の左は小野寺左衛門尉行通。右が行佐也〕

やまのうちのとうないさえもんのじょうみちしげ かまたのひょうえのじょうゆきとし に あいならばず  て ひきさが    うま  う
 山内藤内左衛門尉通重 、 鎌田兵衛尉行俊 于 相並不し而引下りて馬を打つ。

つぎ しょうちょうじゅいん だいもん をい  おくるま  と   お   たま    つちみかどちゅうなごん おんみす  かか    かざんいんさいしょうちゅうじょう おんかたわら そうら
次に 勝長壽院 大門に於て御車を税き下り御うE。 土御門中納言 御簾を褰ぐ。  花山院宰相中將  御傍に 候う。

なかつかさごんのだいゆういえうじ おんしじ  えき   〔てなが  かまたのじろうひょうえのじょうゆきとし〕    さこんたいふしょうげんきんとき おんくつ  すす  〔てなが    おのでらのしんさえもんのじょうゆきみち 〕
  中務權大輔家氏  御榻を役す〔手長は鎌田次郎兵衛尉行俊〕。左近大夫將監公時 御沓を進む〔手長は小野寺新左衛門尉行通〕

こうもん おんすそ  と    えちごのかみさねとき ぎょけん  えき
黄門 御裾を取る。越後守實時 御劔を役す。

きょねん  だいじじ くよう のとき  うんきゃくら おんげしゃ ところ  さんかい  せんこう   いへど   このたび  そ   ぎ   と   らる  のあいだ
去年の大慈寺供養之時、雲客等御下車の所に參會し先行すと雖も、今度は其の儀を止め被る之間、

りょうきょうのほか こ  ところ  まいらず

兩卿 之外此の所に不參。

んじん ずいへい ごしょ  たい   ひがし  まくした  い     にゅうぎょののち  こうじん ずいへいおな   まくきた そうら
先陣の随兵御所に對して東の幔下に居る。入御之後、々陣の随兵同じく幔北に候う。

てんじょうびとら がくや まえ そうら   しょだいぶほんどうまえ そうら   おんどうじょうのあいだ そうしゅう ぶしゅう ぶつぜん かいか  さが  い たま
殿上人等樂屋H前に候う。諸大夫本堂前に候う。御堂上之間、相州・武州 佛前の階下に下り居給ふ。

また  こうもん ぎょけん おんしゃく さんしん    そ   ご  ぐぶ    ごい   ろくい ていじょう そうら  〔 みろくどう まえ よ    とうまえ  いた  おのおの しょうじ  もち  〕
又、黄門I御劔・御笏を參進す。其の後供奉の五位・六位庭上に候う〔弥勒堂前自り塔前に至り、各床子Jを用う〕

ひたたれ  き   ろくい ら ごしょ  まえ  かいか  むれい    たいふほうがんゆきあり たいふほうがんひろつな おきのほうがんだいゆきうじら じもん  しゅご
直垂を着る六位等御所の前の階下に群居る。大夫判官行有・大夫判官廣綱・ 隱岐判官行氏 等寺門を守護す。

うまのこく だいあじゃり さんにゅう   しつがい おやまのたろうさえもんのじょうなにがし しつこう  えちゅうぜんじよりなり  ながとのぜんじときともなり
午尅、大阿闍梨參入す。執葢Kは小山太郎左衛門尉ゝゝ。執綱Lは越中前司頼業・長門前司時朝也。

しきしょうらみなどうし  まえ  なら  た     つぎ  どうじょう い     
職衆等皆導師の前に列び立つ。次に道塲に入る。

きょう くよう ののち  おんふせ   ひ かる
御經供養之後、御布施を引被る。

どうし    かずけものさんじゅういちえ  〔にしきひとえ  いろいろ とえ  あやふたじゅうえ〕  つつみもの 〔おりもの   もっ   これ  ふくろ     これ   つつ     こんのむらごじゅうご  おさ  〕
導師は、被物 卅一重 〔錦一重。色々十重。綾廿重〕。裹物一〔織物を以て之を袋にし、之を裹む。紺村濃十五に納む〕

さきんひゃくりょう  おんうまじゅっぴき〔みなぎん  くら  お     あつふさ  しりがい  か   〕  くまいにじゅっこく  おんかぶせ     ぎんけんひとこし
砂金百兩。御馬十疋〔皆銀の鞍を置き、厚総の鞦Fを懸く〕。供米廿石。御加布施は、銀釼一腰。

しきしょうさんじゅっく  くべつ  せんかいちまんごせんびき
職衆卅口は、々別に錢貨一万五千疋G

おん ふせとり
御布施取

  つちみかどちゅうなごん 〔あきかたきょう〕          ろくじょう にい 〔あきうじきょう〕
 土御門中納言〔顯方卿〕      六條二位〔顯氏卿〕

  かざんいんさいしょうちゅうじょう 〔ながまさきょう〕      にじょうさんみ 〔のりさだきょう〕
 花山院宰相中將〔長雅卿〕     二條三位〔教定卿〕

  ぎょうぶきょう 〔むねのりきょう〕                いちじょうちゅうじょうよしもとあそん
 刑部卿〔宗教卿〕         一條中將能基朝臣

  さきのうえもんのすけしげうじあそん           いちじょうさきのしょうしょうよしきよあそん
 前右衛門佐重氏朝臣      一條前少將能C朝臣

  ぼうもんちゅうじょうもとすけあそん             とうのしょうしょうさねとおあそん
 坊門中將基輔朝臣       藤少將實遠朝臣

  なかみかどちゅうじょうきんひろあそん          なかみかどしょうしょうさねなりあそん
 中御門中將公寛朝臣      中御門少將實齊朝臣

  れいぜいしょうしょうたかもちあそん            なかみかどさきのじじゅうむねよあそん
 冷泉少將隆茂朝臣       中御門前侍從宗世朝臣

  さきのひょうえのすけただときあそん            なかみかどしんしょうしょうみつたかあそん
 前兵衛佐忠時朝臣       中御門新少將光隆朝臣

  ぎょうぶごんのしょうゆうまさしげ               にじょうじじゅうまさあり
 刑部權少輔政茂        二條侍從雅有

  このえのしょうしょうさねなが                 いちじょうしょうしょうさだうじ
 近衛少將實永         一條少將定氏

  いがのぜんじみつきよ  〔どうどうじ〕            おうみのぜんじすえざね  〔どうどうじ〕
 伊賀前司光C〔堂童子〕      近江前司季實〔堂童子〕

  さこんたいふすけよし  〔おしだて〕            さこんくらんどすけもち  〔あかつか〕
 左近大夫資能〔押立M〕       左近藏人資茂〔赤塚〕

つぎ おんうま  ひ かる  〔じゅっぴき〕
次に御馬を牽被る〔十疋〕

  いちのおんうま
 一御馬

    ひごのじろうさえもんのじょうためとき             おな   さぶろうさえもんのじょうためなり
  肥後次郎左衛門尉爲時      同じき三郎左衛門尉爲成

  に
 二

    ぜんのごろうさえもんのじょうやすいえ            おな   じろうさえもんのじょうやすあり
  善五郎左衛門尉康家       同じき次郎左衛門尉康有

  さん
 三

    さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし           おな   はちろうさえもんのじょう
  薩摩七郎左衛門尉祐能      同じき八郎左衛門尉

  よん
 四

    すおうのさぶろうさえもんのじょうただゆき          おな   しろうさえもんのじょうただやす
  周防三郎左衛門尉忠行      同じき四郎左衛門尉忠泰

  ご
 五

    かじわらこうずけのたろうさえもんのじょうかげつな     おな   さぶろうさえもんのじょうかげうじ
  梶原上野太郎左衛門尉景綱    同じき三郎左衛門尉景氏

  ろく
 六

    おおすがのしんさえもんのじょうともうじ           おな   さえもんしろう
  大須賀新左衛門尉朝氏      同じき左衛門四郎

  しち
 七

    ちくぜんじろうさえもんのじょうゆきより            おな   ごろうゆきしげ
  筑前次郎左衛門尉行頼      同じき五郎行重

  はち
 八

    かずさのたろうさえもんのじょうながつね          おな   さぶろうさこんよしやす
  上総太郎左衛門尉長經      同じき三郎左近義泰

  く
 九

    いせのじろうさえもんのじょうゆきつね            しなののじろうさえもんのじょうゆきむね
  伊勢次郎左衛門尉行經      信濃次郎左衛門尉行宗

  とお
 十

    ごとういきさえもんのじょうもとより                おな   じろうもとひろ
  後藤壹岐左衛門尉基頼      同じき次郎基廣

参考@已講は、本来南都三会の講師を勤めあげた僧。僧職・僧位の一つ。
参考Aは、草書で下書きの事。
参考B払暁は、早朝。
参考Cは、禁色。
参考D私に帰るは、勝手に帰った。
参考E御車を税き下り御うは、牛車は後ろから乗り、前から降りるので牛を外す時に「榻しじ」で「くびき」を止め、これを踏み台にして降りる。
参考F厚総の鞦は、のれんのようにひらひらしたしりがい。
参考G銭貨1万5千疋は、1疋が100文なので、1,500,000文=約300万円
参考H楽屋は、音楽家の座。
参考I
黄門は、中納言の唐名。
参考J床子は、腰掛。
参考K
執葢は、大型の唐傘。
参考L
執綱は、傘の天辺から引く綱。倒れないように引っ張る。
参考M
押立は、幡をもつ人。

現代語正嘉二年(1258)六月小四日壬午。空は快晴で、風も静かです。今日は、勝長寿院改修後開眼供養です。曼荼羅経で筆頭は松殿法印良基です。
お供の坊さんは、三十人です。
 権大僧都定宗 権少
僧都寛位 権少僧都聖尊 権少僧都定憲 権少僧都慈暁
 
権少僧都浄禅 権少僧都印教 権律師尋快  権律師成遍  権律師頼承
 権律師良明  権律師静宴  権律師円審  権律師禅遍  権律師定宝
 権律師信成  権律師頼承  権律師良顕  権律師定撰  権律師慶尊
 法橋宗信   
已講能海   阿闍梨尊審  阿闍梨行秀  阿闍梨禅信
 阿闍梨源尊  大法師定宣  阿闍梨源重  大法師円全  大法師定融
仏への願いの文章の下書きは右京権大夫茂範さんで、清書は左大臣法印厳恵です。法会式典の担当は、三河前司教隆〔正装の狩衣で裾は足首縛り〕と刑部権少輔政茂〔束帯〕で、それぞれ早朝に勝長寿院内にきて会場の飾りつけを指示しました。
午前10時頃に、宗尊親王将軍家がお越しです〔束帯に紫の袍で太刀を吊るしています〕。お供の人は
行列は、
前を行く武装儀仗兵
 武田五郎三郎政綱 小笠原六郎三郎時直
 長井太郎時秀   備前三郎長頼
 新相模三郎時村  武蔵五郎時忠
 陸奥七郎業時   相模三郎時利(時輔)
 遠江七郎時基   陸奥六郎義政(塩田)
将軍の牛車
 隠岐次郎左衛門尉時清 周防五郎左衛門尉忠景
 肥後四郎左衛門尉行定 山内三郎左衛門尉通廉
 肥後右衛門尉為成   平賀新三郎惟時
 善左衛門次郎三善盛村 大曽祢左衛門尉長頼
 狩野左衛門四郎景茂  大泉九郎長氏
   以上は鎧直垂を着て太刀を帯びて、牛車の左右に控えている
弓矢は、武藤左衛門尉頼泰
将軍の後ろに
 越後守金沢実時  中務権大夫足利家氏
 刑部少輔名越教時 左近大夫将監名越公時
 民部大夫時隆   下野前司宇都宮泰綱
 出羽前司小山長村 秋田城介安達泰盛
 石見前司大江能行 和泉前司二階堂行方
 壱岐前司後藤基政 対馬守佐々木氏信
 信濃守佐々木泰清 周防守島津忠綱
 石見守宗朝    修理亮島津久時

 小野寺新左衛門尉行通   筑前四郎左衛門尉二階堂行佐
 式部太郎左衛門尉伊賀光政 山内藤内左衛門尉通重
 紀伊次郎左衛門尉為経   鎌田二郎兵衛尉行俊

後ろを行く武装儀仗兵
 城四郎左衛門尉安達時盛   阿曾沼小次郎光綱
 相馬五郎左衛門尉胤村    千葉七郎太郎師時
 淡路又四郎左衛門尉長沼宗泰 武石三郎左衛門尉朝胤
 加藤右衛門尉時景      常陸次郎左衛門尉二階堂行雄
 肥後左衛門尉政氏      長江八郎四郎景秀

政所の前に来た所で、式部太郎左衛門尉伊賀光政は落馬しました。そこで控えて勝手に帰ってしまいました。
また、筑前左衛門尉二階堂行佐は、行列の図面を無視して左へ移ってしまいました〔図では左に小野寺左衛門尉行通で、右が行佐です〕。
山内藤内左衛門尉通重は、鎌田兵衛尉行俊にちゃんと並ばないで下がって騎馬しています。

次に勝長寿院大門で、牛車から牛を解き放し下車しました。土御門中納言顕方が牛車の御簾を上げました。花山院宰相中将師継が付き添いました。中務権大輔足利家氏が踏み台の榻を差し出す役を勤めました〔持って来たのは鎌田次郎兵衛尉行俊です〕。左近大夫将監名越公時が沓を差し出しました〔持って来たのは小野寺新左衛門尉行通です〕。
中将師継が裾持ちをして、越後守金沢実時が刀持ちです。
去年の大慈寺の開眼供養では、お公卿さん達は将軍の下車の場所に出会うように先に行ってましたが、今回はそれを止めたので、二人以外の公卿は此処へは来ません。
先の武装儀仗兵は、将軍の東側の幕の下に居ます。将軍が入られると儀仗兵は同様に幕の北側に移りました。
殿上人は音楽家の座の前に居て、五位の大夫は本堂前におります。将軍がお堂に上がっている間は、相州政村・武州長時は仏殿の階下に降りております。
また、中納言が将軍の太刀と笏を持って渡しました。その後、五位・六位は庭に居ます〔弥勒堂の前から三重塔前までそれぞれ腰掛を使ってます〕。
鎧直垂を着た六位の連中は、将軍居所の前の廊下の下に居ます。
大夫判官二階堂行有、大夫判官結城広綱、隠岐判官二階堂行氏の検非違使は、寺を門を固めています。
正午に大阿闍梨が入ってきました。大笠持ちは小山太郎左衛門尉某、笠を支える紐持ちは
越中前司(宇都宮)横田頼業と長門前司笠間時朝です。お供の坊さん達は全員指導僧の前に並んで立ちってます。次に道場に入りました。
お経供養が終わってから、お布施を用意しました。
指導僧には、かぶりもの三十一枚〔錦が一枚と色色染が十枚、綾織が二十枚〕、風呂敷包み一つ〔織物で袋にして紺のグラデーション染め十五枚を包んでいます〕、砂金百両(8百万円位)、馬十頭〔全てに銀造りの鞍を置いて、暖簾状のしりがいをかけている〕、お米二十石、おまけの布施は銀作の太刀一振り。
お供の坊さん三十人には、それぞれに銭を一万五千疋(3百万円位)。
布施を運ぶ人は、
 土御門中納言顕方卿  六条二位顕氏卿
 花山院宰相中将長雅卿 二条三位教定卿
 刑部卿宗教卿     一条中将能基さん
 前右衛門佐重氏さん  一条前少将能清さん
 坊門中将基輔さん   藤原少将実遠さん
 中御門中将公寛さん  中御門少将実斉さん
 冷泉少将隆茂さん   中御門前侍従宗世さん
 前兵衛佐忠時さん   中御門新少将光隆さん
 刑部権少輔政茂    二条侍従雅有
 近衛少将実永     一条少将定氏
 伊賀前司光清〔堂童子〕近江前司季実〔堂童子〕
 左近大夫資能〔幡を持つ〕 左近蔵人資茂〔赤塚〕
次に馬を引いて来ました〔十頭〕
 一の馬 肥後次郎左衛門尉藤原為時  同じ肥後三郎左衛門尉藤原為成
 二の馬 善五郎左衛門尉三善康家   同じ次郎左衛門尉三善康有
 三の馬 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  同じ八郎左衛門尉伊東
 四の馬 周防三郎左衛門尉島津忠行  同じ四郎左衛門尉島津忠泰
 五の馬 梶原上野太郎左衛門尉景綱  同じ三郎左衛門尉梶原景氏
 六の馬 大須賀新左衛門尉朝氏    同じ左衛門四郎大須賀
 七の馬 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 同じ五郎二階堂行重
 八の馬 上総太郎左衛門尉大曽祢長経 同じ三郎左近大曽祢義泰
 九の馬 伊勢次郎左衛門尉二階堂行経 信濃次郎左衛門尉二階堂行宗
 十の馬 後藤壱岐左衛門尉基頼    同じ次郎後藤基広

正嘉二年(1258)六月小五日癸未。霽。筑前四郎左衛門尉行佐。山内藤内左衛門尉通重等被止出仕。是昨御出路次供奉之間。背被定下之旨。依有濫吹事也。

読下し                   はれ  ちくぜんのしろうさえもんのじょうゆきすけ やまのうちのとうないさえもんのじょうみちしげ ら しゅっし  と   らる
正嘉二年(1258)六月小五日癸未。霽。 筑前四郎左衛門尉行佐 ・ 山内藤内左衛門尉通重 等出仕を止め被る。

これ  さく  おんいで   ろじ  ぐぶ のあいだ さだ  くださる  のむね  そむ   らんすい  こと あ    よっ  なり
是、昨の御出の路次供奉之間、定め下被る之旨に背き、濫吹の事有るに依て也。

現代語正嘉二年(1258)六月小五日癸未。晴れました。筑前四郎左衛門尉二階堂行佐と山内藤内左衛門尉通重は、幕府への出勤停止処分です。これは、前回のお出かけの道中にお供をしていた時、規則違反をして勝手なふるまいをしたからです。

正嘉二年(1258)六月小九日丁亥。來十一日依可有入御最明寺殿。今日所被催供奉人也。尾張左近大夫將監〔自去四日所勞〕。小野寺新左衛門尉〔灸治〕。兩人許申障云々。其外進奉訖之後。駿河右近大夫者廂石(右)也。如此供奉散状可進覽之由。和泉前司行方内々觸申越後守之處。以前既披露。被下御點。治定之上者。稱不能左右之由。不被加之云々。

読下し                    きた  じゅういちにち さいみょうじどの にゅうぎょあ  べ   よっ    きょう ぐぶにん  もよおさる ところなり
正嘉二年(1258)六月小九日丁亥。來る 十一日 最明寺殿へ入御有る可に依て、今日供奉人を催被る所也。

おわりさこんのたいふしょうげん 〔さんぬ よっかよ   しょろう〕    おのでらしんさえもんのじょう 〔きゅううじ〕   りょうにんばか さわり もう    うんぬん
尾張左近大夫將監〔去る四日自り所勞〕、小野寺新左衛門尉〔灸治〕、兩人許り障を申すと云々。

そ   ほかすす たてまつ をは    ののち  するがうこんたいふは ひさし みぎなり
其の外進み 奉り訖んぬ之後、駿河右近大夫者廂の右也。

かく  ごと   ぐぶ   さんじょうしんらん べき のよし いずみのぜんじゆきかた ないない えちごのかみ ふれもう  のところ
此の如き供奉の散状進覽す可之由、 和泉前司行方 内々に越後守に觸申す之處、

いぜんすで  ひろう     ごてん  くだされ  ちじょう のうえは    とこう  あた  ざる のよし  しょう   これ  くは  られざる  うんぬん
以前既に披露し、御點を下被、治定之上者、左右に能は不之由を稱し、之を加へ被不と云々。

参考所労(病気)やお灸は、穢れのうち。

現代語正嘉二年(1258)六月小九日丁亥。来る11日に最明寺時頼亭へお出かけになるので、今日お供の人に催促したところです。尾張左近大夫将監名越公時〔先日の四日から病気〕と小野寺新左衛門尉行通〔お灸をした〕の両人は都合が悪いと云ってるそうな。その他、話を決めた後なので、駿河右近大夫は、庇の右側です。この様に変えて書き込まれた名簿を将軍に見せた方が良いと、和泉前司二階堂行方は越後守実時に申し出ましたが、前にお見せして、チェックを受けているので、同行する必要はないと、書き足しませんでした。

正嘉二年(1258)六月小十一日己丑。リ。未尅。將軍家入御山内最明寺御亭。
供奉人
 土御門中納言         花山院宰相中將
 相摸太郎           越後守時弘
 刑部少輔教時         相摸三郎時利
 陸奥六郎義政         同七郎業時
 新相摸三郎時村        遠江七郎時基
 武藏五郎時忠         參河前司頼氏
 和泉前司行方         秋田城介泰盛
 後藤壹岐前司基政       内藏權頭親家
 武藤少卿景頼
   以上騎馬
 城四郎左衛門尉時盛      同六郎顯盛
 信濃次郎左衛門尉時C     大曽祢左衛門太郎
 上総三郎左衛門尉義泰     周防五郎左衛門尉忠景
 薩摩七郎左衛門尉祐能     肥後三郎左衛門尉爲成
 武藤右近將監兼頼       鎌田三郎左衛門尉義長
 常陸次郎兵衛尉行雄      鎌田次郎兵衛尉行俊
 大泉九郎長氏
   以上歩行

読下し                     はれ ひつじのこく しょうぐんけ やまのうち さいみょうじおんてい にゅうぎょ
正嘉二年(1258)六月小十一日己丑。リ。未尅、 將軍家 山内の最明寺御亭へ入御す。

ぐぶにん
供奉人

  つちみかどちゅうなごん                 かざんいんさいしょうちゅうじょう
 土御門中納言         花山院宰相中將

  さがみのたろう                       えちごのかみときひろ
 相摸太郎           越後守時弘

  ぎょうぶしょうゆうのりとき                 さがみのさぶろうときとし
 刑部少輔教時         相摸三郎時利

  むつのろくろうよしまさ                   おな    しちろうなりとき
 陸奥六郎義政         同じき七郎業時

  しんさがみのさぶろうときむら               とおとうみのしちろうときもと
 新相摸三郎時村        遠江七郎時基

  むさしのごろうときただ                   みかわのぜんじよりうじ
 武藏五郎時忠         參河前司頼氏

  いずみのぜんじゆきかた                 あいだのじょうすけやすもり
 和泉前司行方         秋田城介泰盛

  ごとういきぜんじもとまさ                  くらごんのかみちかいえ
 後藤壹岐前司基政       内藏權頭親家

  むとうしょうけいかげより
 武藤少卿景頼

       いじょう きば
   以上騎馬

  じょうのしろうさえもんのじょうときもり            おな    ろくろうあきもり
 城四郎左衛門尉時盛      同じき六郎顯盛

  しなののじろうさえもんのじょうとききよ           おおそねさえもんたろう
 信濃次郎左衛門尉時C     大曽祢左衛門太郎

  かずさのさぶろうさえもんのじょうよしやす        すおうのごろうさえもんのじょうただかげ
 上総三郎左衛門尉義泰     周防五郎左衛門尉忠景

  さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし         ひごのさぶろうさえもんのじょうためなり
 薩摩七郎左衛門尉祐能     肥後三郎左衛門尉爲成

  むとううこんしょうげんかねより               かまたのさぶろうさえもんのじょうよしなが
 武藤右近將監兼頼       鎌田三郎左衛門尉義長

  ひたちのじろうひょうえのじょうゆきかつ          かまたのじろうひょうえのじょうゆきとし
 常陸次郎兵衛尉行雄      鎌田次郎兵衛尉行俊

  おおいずみのくろうながうじ
 大泉九郎長氏

       いじょう かち
   以上歩行

現代語正嘉二年(1258)六月小十一日己丑。晴れです。午後2時頃宗尊親王将軍家は山内の最明寺時頼亭へ入りました。お供の人は、
 土御門中納言顕方       花山院宰相中將師継
 相模太郎時宗         越後守北条時弘
 刑部少輔北条教時       相模三郎時利(時輔)
 陸奥六郎塩田義政       同七郎業時
 新相模三郎時村        遠江七郎時基
 武藏五郎時忠         三河前司足利頼氏
 和泉前司二階堂行方      秋田城介安達泰盛
 後藤壱岐前司基政       内藏権頭中原親家
 武藤少卿景頼
  以上は乗馬です。
 城四郎左衛門尉安達時盛    同六郎安達顕盛
 信濃次郎左衛門尉時C     大曽祢左衛門太郎長継
 上総三郎左衛門尉大曽祢義泰  周防五郎左衛門尉島津忠景
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   肥後三郎左衛門尉伊東爲成
 武藤右近將監兼頼       鎌田三郎左衛門尉義長
 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄   鎌田次郎兵衛尉行俊
 大泉九郎長氏
   以上は歩きです。

正嘉二年(1258)六月小十二日庚寅。陰。夕雨降。於山内有遠笠懸。刑部少輔教時。相摸三郎時利。新相摸三郎時村。武藏五郎時忠已下十騎射之。

読下し                      くも    ゆう  あめふ     やまのうち をい  とおがさがけあ
正嘉二年(1258)六月小十二日庚寅。陰り。夕に雨降る。山内に於て遠笠懸有り。

ぎょうぶしょうゆうのりとき さがみのさぶろうときとし しんさがみのさぶろうときむら むさしのごろうときただ いげ   じゅっきこれ  い
刑部少輔教時・相摸三郎時利@・ 新相摸三郎時村・ 武藏五郎時忠已下の十騎之を射る。

参考@相摸三郎時利は、後の時輔。

現代語正嘉二年(1258)六月小十二日辛寅。曇りで夕方に雨が降りました。山内で遠笠懸けがありました。刑部少輔北条教時、相模三郎北条時利、新相模三郎時村、武蔵五郎時忠を始めとする10騎がこれを射ました。

正嘉二年(1258)六月小十三日辛夘。雨降。巳尅属リ。今日。於最明寺有競馬。

読下し                      あめふ    みのこくはれ  ぞく    きょう   さいみょうじ  をい くらべうま あ
正嘉二年(1258)六月小十三日辛夘。雨降る。巳尅リに属す。今日、最明寺に於て競馬@有り。

参考@競馬は、二頭づつで先の馬を後の馬が追う。追いついて引きずり落とせば後ろの勝ち、逃げ切れば前の勝ち。

現代語正嘉二年(1258)六月小十三日辛卯。雨降りですが、午前10時頃に晴れました。今日は、最明寺でくらべ馬がありました。

正嘉二年(1258)六月小十四日壬辰。リ。申尅。將軍家自山内還御。

読下し                      はれ さるのこく しょうぐんけ やまのうち よ   かんご
正嘉二年(1258)六月小十四日壬辰。リ。申尅、將軍家 山内 自り還御す。

現代語正嘉二年(1258)六月小十四日壬辰。晴れです。午後4時頃宗尊親王将軍家は山内から帰りました。

正嘉二年(1258)六月小十七日乙未。來八月鶴岳放生會御參宮供奉人事。爲申下御點。昨日自小侍所。如例注惣人數。被付武藤少卿景頼之處。稱所勞返遣之間。今日被付進武州。早可申沙汰之旨。領状云々。其記書樣。
 相摸太郎           同三郎
 武藏前司           同左近大夫將監
 同五郎            尾張前司
 同左近大夫將監        遠江前司
 同右馬助           越後守
 陸奥六郎           同七郎
 新相摸三郎          中務權大輔
 刑部少輔           遠江七郎
 足利上総三郎         越前々司
 備前三郎           越後右馬助
 駿河四郎           同五郎
 越後又太郎          民部權大輔
 〔三浦〕
 遠江新左衛門尉        三浦介六郎左衛門尉
 那波刑部少輔         長井判官代
 式部太郎左衛門尉       同兵衛次郎
 前太宰少貳          小山出羽前司
 畠山上野前司         同三郎
 出羽前司           同三郎左衛門尉
 同七郎            丹後守
 秋田城介           同三郎
 同四郎左衛門尉        同六郎
 和泉前司           同三郎左衛門尉
 上総介            同太郎左衛門尉
 同三郎左衛門尉        下野前司
 同四郎            尾張權守
 式部六郎左衛門尉       伊東六郎左衛門次郎
 武藤少卿           同二郎左衛門尉
 越中前司           同四郎左衛門尉
 伊賀前司           石見守
 後藤壹岐前司         同新左衛門尉
 大隅前司           同修理亮
 日向守            周防守
 同三郎左衛門尉        同五郎左衛門尉
 對馬守            内藏權頭
 新田參河前司         梶原上野前司
 同太郎左衛門尉        同三郎左衛門尉
 江石見前司          長門前司
 同三郎左衛門尉        信濃守
 筑前二郎左衛門尉       同四郎左衛門尉
                〔攝津〕
 千葉介            大隅前司
 縫殿頭            武石三郎左衛門尉
 風早太郎           太宰次郎左衛門尉
 阿曽沼小太郎         千葉七郎太郎
 上野五郎左衛門尉       小田左衛門尉
 河越次郎           大曽祢左衛門太郎
 相馬次郎兵衛尉        同五郎左衛門尉
 後藤次郎左衛門尉       土肥左衛門四郎
 武藤右近將監         鎌田次郎兵衛尉
 淡路又四郎          出羽弥藤次左衛門尉
 伊東八郎左衛門尉       小野寺新左衛門尉
 鎌田三郎左衛門尉       足立太郎左衛門尉
 同三郎            天野肥後新左衛門尉
 田中右衛門尉         茂木左衛門尉
 常陸太郎左衛門尉       同八郎左衛門尉
 同修理亮           佐々木孫四郎左衛門尉
 薩摩七郎左衛門尉       同九郎
 伊勢次郎左衛門尉       内藤肥後六郎左衛門尉
 大須賀新左衛門尉       同四郎
 塩屋周防兵衛尉        善右衛門尉
 同五郎左衛門尉        狩野五郎左衛門尉
 武田五郎三郎         小笠原六郎三郎

読下し                     きた  はちがつ つるがおか ほうじょうえ  ごさんぐう   ぐぶにん   こと   ごてん  もう  くだ    ため  きのう こさむらいどころ よ
正嘉二年(1258)六月小十七日乙未。來る八月の 鶴岳 放生會の御參宮の供奉人の事、御點を申し下さん爲、昨日 小侍所 自り、

い  ごと  そうにんずう  ちゅう   むとうしょうけいかげより  つけらる  のところ  しょろう  しょう  かえ  つか   のあいだ  きょう ぶしゅう  つけしん  らる
例の如く惣人數を注し、武藤少卿景頼に付被る之處、所勞と稱し返し遣はす之間、今日武州に付進じ被る。

はや   さた もう  べきのむね りょうじょう   うんぬん  そ   き  かきよう
早く沙汰申す可之旨、領状すと云々。其の記の書樣、

  さがみのたろう                       おな    さぶろう
 相摸太郎           同じき三郎

  むさしのぜんじ                       おな    さこんたいふしょうげん
 武藏前司           同じき左近大夫將監

  おな    ごろう                      おわりのぜんじ
 同じき五郎          尾張前司

  おな    さこんたいふしょうげん            とおとうみのぜんじ
 同じき左近大夫將監      遠江前司

  おな    うまのすけ                   えちごのかみ
 同じき右馬助         越後守

  むつのろくろう                        おな    しちろう
 陸奥六郎           同じき七郎

  しんさがみのさぶろう                    なかつかさごんのだいゆう
 新相摸三郎          中務權大輔

  ぎょうぶしょうゆう                      とおとうみのしちろう
 刑部少輔           遠江七郎

  あしかがかずさのさぶろう                 えちぜんぜんじ
 足利上総三郎         越前々司

  びぜんのさぶろう                      えちごうまのすけ
 備前三郎           越後右馬助

  するがのしろう                        おな    ごろう
 駿河四郎           同じき五郎

  えちごのまたたろう                     みんぶごんのだいゆう
 越後又太郎          民部權大輔

  とおとうみしんさえもんのじょう 〔みうら〕          みうらのすけろくろうさえもんのじょう
 遠江新左衛門尉〔三浦〕     三浦介六郎左衛門尉

  なはぎょうぶしょうゆう                    ながいほうがんだい
 那波刑部少輔         長井判官代

  しきぶのたろうさえもんのじょう               おな    ひょうえじろう
 式部太郎左衛門尉       同じき兵衛次郎

  さきのだざいしょうに                     おやまでわぜんじ
 前太宰少貳          小山出羽前司

  はたけやまのこうづけぜんじ               おな    さぶろう
 畠山上野前司         同じき三郎

  でわぜんじ                         おな    さぶろうさえもんのじょう
 出羽前司           同じき三郎左衛門尉

  おな    しちろう                     たんごのかみ
 同じき七郎          丹後守

  あいだのじょうすけ                     おな    さぶろう
 秋田城介           同じき三郎

  おな    しろうさえもんのじょう             おな    ろくろう
 同じき四郎左衛門尉      同じき六郎

  いずみのぜんじ                       おな    さぶろうさえもんのじょう
 和泉前司           同じき三郎左衛門尉

  かずさのすけ                        おな    たろうさえもんのじょう
 上総介            同じき太郎左衛門尉

  おな    さぶろうさえもんのじょう            しもつけぜんじ
 同じき三郎左衛門尉      下野前司

  おな    しろう                      おわりごんのかみ
 同じき四郎          尾張權守

  しきぶのろくろうさえもんのじょう               いとうのろくろうさえもんじろう
 式部六郎左衛門尉       伊東六郎左衛門次郎

  むとうしょうけい                        おな    じろうさえもんのじょう
 武藤少卿           同じき二郎左衛門尉

  えっちゅうぜんじ                       おな    しろうさえもんのじょう
 越中前司           同じき四郎左衛門尉

  いがぜんじ                         いわみのかみ
 伊賀前司           石見守

  ごとういきぜんじ                       おな    しんさえもんのじょう
 後藤壹岐前司         同じき新左衛門尉

  おおすみぜんじ                      おな    しゅりのすけ
 大隅前司           同じき修理亮

  ひゅうがのかみ                       すおうのかみ
 日向守            周防守

  おな    さぶろうさえもんのじょう           おな    ごろうさえもんのじょう
 同じき三郎左衛門尉      同じき五郎左衛門尉

  つしまのかみ                       くらごんのかみ
 對馬守            内藏權頭

  にったみかわのぜんじ                  かじわらこうづけぜんじ
 新田參河前司         梶原上野前司

  おな    たろうさえもんのじょう            おな    さぶろうさえもんのじょう
 同じき太郎左衛門尉      同じき三郎左衛門尉

  えのいわみのぜんじ                   ながとのぜんじ
 江石見前司          長門前司

  おな    さぶろうさえもんのじょう           しなののかみ
 同じき三郎左衛門尉      信濃守

  ちくぜんのじろうさえもんのじょう             おな    しろうさえもんのじょう
 筑前二郎左衛門尉       同じき四郎左衛門尉               

  ちばのすけ                         おおすみぜんじ 〔しまづ〕
 千葉介            大隅前司〔攝津〕

  ぬいどののとう                       たけいしのさぶろうさえもんのじょう
 縫殿頭            武石三郎左衛門尉

  かざはやのたろう                      だざいのじろうさえもんのじょう
 風早太郎           太宰次郎左衛門尉

  あそぬまのこたろう                     ちばのしちろうたろう
 阿曽沼小太郎         千葉七郎太郎

  こうずけのごろうさえもんのじょう              おだのさえもんのじょう
 上野五郎左衛門尉       小田左衛門尉

  かわごえのじろう                      おおそねさえもんたろう
 河越次郎           大曽祢左衛門太郎

  そうまのじろうひょうえのじょう               おな    ごろうさえもんのじょう
 相馬次郎兵衛尉        同じき五郎左衛門尉

  ごとうのじろうさえもんのじょう               といのさえもんしろう
 後藤次郎左衛門尉       土肥左衛門四郎

  むとううこんしょうげん                    かまたのじろうひょうえのじょう
 武藤右近將監         鎌田次郎兵衛尉

  あわじのまたしろう                     でわのいやとうじさえもんのじょう
 淡路又四郎          出羽弥藤次左衛門尉

  いとうのはちろうさえもんのじょう             おのでらしんさえもんのじょう
 伊東八郎左衛門尉       小野寺新左衛門尉

  かまたのさぶろうさえもんのじょう             あだちのたろうさえもんのじょう
 鎌田三郎左衛門尉       足立太郎左衛門尉

  おな    さぶろう                     あまのひごしんさえもんのじょう
 同じき三郎          天野肥後新左衛門尉

  たなかうえもんのじょう                   もてぎさえもんのじょう
 田中右衛門尉         茂木左衛門尉

  ひたちのたろうさえもんのじょう              おな    はちろうさえもんのじょう
 常陸太郎左衛門尉       同じき八郎左衛門尉

  おな    しゅりのすけ                  ささきまごしろうさえもんのじょう
 同じき修理亮         佐々木孫四郎左衛門尉

  さつまのしちろうさえもんのじょう              おな    くろう
 薩摩七郎左衛門尉       同じき九郎

  いせのじろうさえもんのじょう                ないとうひごのろくろうさえもんのじょう
 伊勢次郎左衛門尉       内藤肥後六郎左衛門尉

  おおすがのしんさえもんのじょう             おな    しろう
 大須賀新左衛門尉       同じき四郎

  しおやすおうひょうえのじょう               ぜんのうえもんのじょう
 塩屋周防兵衛尉        善右衛門尉

  おな    ごろうさえもんのじょう             かのうのごろうさえもんのじょう
 同じき五郎左衛門尉      狩野五郎左衛門尉

  たけだのごろさぶろう                   おがさわらのろくろうさぶろう
 武田五郎三郎         小笠原六郎三郎

現代語正嘉二年(1258)六月小十七日乙未。来る8月の鶴岡八幡宮での放生会のお供について、将軍のチェックを受ける為、昨日小侍所から何時ものように総名簿を書き出して、武藤少卿景頼に預けた処、病気だと云って返してよこしたので、今日武州執権長時に差し出したところ、早く将軍に見せる事を承知してくれましたとさ。その内容は、
 相摸太郎北条時宗       同三郎時利
 武藏前司朝直         同左近大夫将監時定
 同五郎時忠          尾張前司時章
 同左近大夫將監公時      遠江前司時直
 同右馬助清時         越後守実時
 陸奥六郎塩田義政       同七郎業時
 新相摸三郎時村        中務權大輔足利家氏
 刑部少輔教時         遠江七郎時基
 足利上総三郎満氏       越前々司時広
 備前三郎長頼         越後右馬助時親
 駿河四郎兼時         同五郎通時
 越後又太郎          民部權大輔時隆
 遠江新左衛門尉三浦      三浦介六郎左衛門尉
 那波刑部少輔政茂       長井判官代泰茂
 式部太郎左衛門尉伊賀光政   同兵衛次郎伊賀光泰
 前太宰少貳狩野為佐      小山出羽前司長村
 畠山上野前司泰国       同三郎国氏
 出羽前司二階堂行義      同三郎左衛門尉二階堂行資
 同七郎二階堂行頼       丹後守武藤頼景
 秋田城介泰盛         同三郎
 同四郎左衛門尉時盛      同六郎顕盛
 和泉前司二階堂行方      同三郎左衛門尉二階堂行章
 上総介            同太郎左衛門尉
 同三郎左衛門尉        下野前司宇都宮泰綱
 同四郎            尾張権守
 式部六郎左衛門尉       伊東六郎左衛門次郎
 武藤少卿           同二郎左衛門尉
 
越中前司(宇都宮)横田頼業   同四郎左衛門尉
 伊賀前司           石見守
 後藤壹岐前司         同新左衛門尉
 大隅前司島津忠時       同修理亮島津久時
 日向守伊東祐泰        周防守島津忠綱
 同三郎左衛門尉島津忠行    同五郎左衛門尉島津忠景
 對馬守            内藏權頭
 新田參河前司頼氏       梶原上野前司景俊
 同太郎左衛門尉梶原景綱    同三郎左衛門尉梶原景氏
 江石見前司          長門前司笠間時朝
 同三郎左衛門尉笠間朝景    信濃守佐々木泰清
 筑前二郎左衛門尉二階堂行頼  同四郎左衛門尉二階堂行佐
 千葉介頼胤          大隅前司摂津
 縫殿頭            武石三郎左衛門尉
 風早太郎常康         太宰次郎左衛門尉
 阿曽沼小太郎         千葉七郎太郎
 上野五郎左衛門尉重光     小田左衛門尉時知
 河越次郎経重         大曽祢左衛門太郎
 相馬次郎兵衛尉胤継      同五郎左衛門尉
 後藤次郎左衛門尉       土肥左衛門四郎
 武藤右近將監         鎌田次郎兵衛尉
 淡路又四郎長沼宗泰      出羽弥藤次左衛門尉
 伊東八郎左衛門尉       小野寺新左衛門尉行通
 鎌田三郎左衛門尉       足立太郎左衛門尉
 同三郎            天野肥後新左衛門尉
 田中右衛門尉         茂木左衛門尉知定
 常陸太郎左衛門尉       同八郎左衛門尉
 同修理亮           佐々木孫四郎左衛門尉泰信
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   同九郎
 伊勢次郎左衛門尉行経     内藤肥後六郎左衛門尉時景
 大須賀新左衛門尉朝氏     同四郎
 塩屋周防兵衛尉泰朝      善右衛門尉三善康長
 同五郎左衛門尉三善康家    狩野五郎左衛門尉伊東為広
 武田五郎三郎政綱       小笠原六郎三郎時直

正嘉二年(1258)六月小十八日丙申。武州申下供奉人御點。被遣越後守之許。牧野太郎兵衛尉爲中使云々。右御點布衣。左長點随兵。短點帶釼云々。

読下し                     ぶしゅう    ぐぶにん   ごてん  もう  くだ    えちのかみのもと  つか  さる    まきののたろうひょうえのじょう ちゅうしたり  うんぬん
正嘉二年(1258)六月小十八日丙申。武州、供奉人の御點を申し下し、越後守之許へ遣は被る。 牧野太郎兵衛尉 中使爲と云々。

みぎ   ごてん   ほい  ひだり ちょうてん ずいへい  たんてん  たいけん うんぬん
右の御點は布衣。左の長點は随兵。短點は帶釼と云々。

現代語正嘉二年(1258)六月小十八日丙申。武州執権長時は、お供の人への将軍のチェックを命じて書かせ、越後守実時の所へ持って行かせました。牧野太郎兵衛尉が屋敷から御所へ運ぶ役だそうな。名簿の右側に点があるのは布衣(正装の狩衣)、左側にある長い印は武装儀仗兵、短い点は太刀を佩くのだそうな。

正嘉二年(1258)六月小十九日丁酉。放生會供奉人事。始被催云々。

読下し                      ほうじょうえ ぐぶにん  こと  はじ    もよ  さる    うんぬん
正嘉二年(1258)六月小十九日丁酉。放生會供奉人の事、始めて催お被ると云々。

現代語正嘉二年(1258)六月小十九丁酉。八月の放生会のお供について、初めて該当者に連絡しましたとさ。

正嘉二年(1258)六月小廿四日壬寅。霽。近日有寒氣。如冬天。

読下し                     はれ  きんじつ かんき あ    ふゆ  そら  ごと
正嘉二年(1258)六月小廿四日壬寅。霽。近日寒氣有り。冬の天の如し。

現代語正嘉二年(1258)六月小二十四日壬寅。晴れました。近頃気温が下がっています。まるで冬の空のようです。

七月へ

吾妻鏡入門第四十八巻  

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