吾妻鏡入門第四十九巻  

正元二年(1260)四月大

正元二年(1260)四月大一日戊戌。將軍家御吉事已後。依可有入御于入道陸奥守亭。供奉人事有其沙汰。如例召惣人數記。被下御點云々。雖被載其記。今度漏御點人々。
 遠江右馬助            越後右馬助
 駿河四郎             同五郎
 武藏五郎             同八郎
 那波刑部少輔           上総介
 周防守              梶原上野前司
 伊賀前司             甲斐守
 長井判官代            城弥九郎
 後藤壹岐新左衛門尉        大隅修理亮
 筑前三郎             同四郎
 和泉六郎左衛門尉         同七郎左衛門尉
 伊勢三郎左衛門尉         信濃判官二郎左衛門尉
 式部二郎左衛門尉         武藤左近將監
 伊賀式部八郎左衛門尉       小野寺新左衛門尉
 伊東二郎左衛門尉         土肥四郎
 和泉肥後新左衛門尉        薩摩九郎左衛門尉
 同十郎左衛門尉          大泉九郎
 後藤二郎左衛門尉         相馬五郎左衛門尉
 隱岐三郎左衛門尉         平賀三郎左衛門尉
 狩野五郎左衛門尉         同四郎左衛門尉
 筑前三郎左衛門尉〔元自有故障事〕 式部太郎左衛門尉〔服暇日數相殘之由申。仍有沙汰。可憚之由被仰出〕
 鎌田三郎左衛門尉〔雖無沙汰。爲式部太郎左衛門尉替。可供奉之由。追被仰下〕
追加
 信濃前司             駿河左近大夫
 駿河次郎

読下し                    しょうぐんけおんきちじ いご  にゅうどうむつのかみていに にゅうご あ  べ    よっ     ぐぶにん  こと そ   さた あ
正元二年(1260)四月大一日戊戌。將軍家御吉事@已後、入道陸奥守亭 于入御有る可きに依て、供奉人の事其の沙汰有り。

れい  ごと  そうにんずう   き   め      ごてん  くださる    うんぬん  そ   き   の  らる    いへど   このたび ごてん  も   ひとびと
例の如くA惣人數の記を召し、御點Bを下被ると云々。其の記に載せ被ると雖も、今度御點に漏る人々。

  とおとうみさまのすけ                         えちごうまのすけ
 遠江右馬助            越後右馬助

  するがのしろう                            おな   ごろう
 駿河四郎             同じき五郎

  むさしのごろう                            おな   はちろう
 武藏五郎             同じき八郎

  なわぎょうぶしょうゆう                        かずさのすけ
 那波刑部少輔           上総介

  すおうのかみ                             かじわらこうづけぜんじ
 周防守              梶原上野前司

  いがぜんじ                              かいのかみ
 伊賀前司             甲斐守

  ながいのほうがんだい                       じょうのいやくろう
 長井判官代            城弥九郎

  ごとういきしんさえもんのじょう                   おおすみしゅりのすけ
 後藤壹岐新左衛門尉        大隅修理亮

  ちくぜんのさぶろう                          おな   しろう
 筑前三郎             同じき四郎

  いずみのろくろうさえもんのじょう                  おな   しちろうさえもんのじょう
 和泉六郎左衛門尉         同じき七郎左衛門尉

  いせのさぶろうさえもんのじょう                   しなののほうがんじろうさえもんのじょう
 伊勢三郎左衛門尉         信濃判官二郎左衛門尉

  しきぶのじろうさえもんのじょう                    むとうさこんしょうげん
 式部二郎左衛門尉         武藤左近將監

  いがしきぶのはちろうさえもんのじょう                おのでらしんさえもんのじょう
 伊賀式部八郎左衛門尉       小野寺新左衛門尉

  いとうのじろうさえもんのじょう                     といのしろう
 伊東二郎左衛門尉         土肥四郎

  いずみひごのしんさえもんのじょう                 さつまのくろうさえもんのじょう
 和泉肥後新左衛門尉        薩摩九郎左衛門尉

  おな   じゅうろうさえもんのじょう                 おおいずみのくろう
 同じき十郎左衛門尉        大泉九郎

  ごとうのじろうさえもんのじょう                     そうまのごろうさえもんのじょう
 後藤二郎左衛門尉         相馬五郎左衛門尉

  おきのさぶろうさえもんのじょう                   ひらがのさぶろうさえもんのじょう
 隱岐三郎左衛門尉         平賀三郎左衛門尉

  かのうのごろうさえもんのじょう                    おな   しろうさえもんのじょう
 狩野五郎左衛門尉         同じき四郎左衛門尉

  ちくぜんのさぶろうさえもんのじょう 〔もとよ  こしょう  こと あ  〕    しきぶのたろうさえもんのじょう 〔 ふっか にっすうあいのこ    のよし   もう     よっ    さた  あ     はばか  べ    のよしおお  いださる  〕
 筑前三郎左衛門尉〔元自り故障の事有り〕 式部太郎左衛門尉〔服暇C日數相殘る之由を申す。仍て沙汰有り。憚る可き之由仰せ出被る〕

  かまたのさぶろうさえもんのじょう 〔 さた な    いへど     しきぶのたろうさえもんのじょう    かえ   な       ぐぶ すべ   のよし   おっ  おお   くださる  〕
 鎌田三郎左衛門尉〔沙汰無きと雖も、式部太郎左衛門尉の替と爲し、供奉可き之由、追て仰せ下被る〕

ついか
追加

  しなののぜんじ                            するがさこんのたいふ
 信濃前司             駿河左近大夫

  するがのじろう
 駿河次郎

参考@吉事は、結婚式。
参考A
例の如くは、何時もの通り。
参考B御點は、チェックして点を付ける。合点とも。
参考C
服暇は、喪に服している期間。

現代語正元二年(1260)四月大一日戊戌。宗がチェックをしてくれたんだとさ。その記述に乗 せられているけれども、今回のチェックから外れた人たち。
 遠江右馬助清時       越後右馬助時親         駿河四郎兼時        同じ駿河五郎通時
 武蔵五郎時忠        同じ武蔵八郎頼直        那波刑部少輔政茂      上総介大曽祢長泰
 周防守島津忠綱       梶原上野前司景俊        伊賀前司時家        甲斐守為成
 長井判官代泰茂       城弥九郎安達長景        後藤壱岐新左衛門尉基頼   大隅修理亮島津久時
 筑前三郎左衛門尉二階堂行実 筑前四郎左衛門尉二階堂行佐   和泉六郎左衛門尉天野景村  同七郎左衛門尉天野景経
 伊勢三郎左衛門尉頼綱    信濃判官次郎左衛門尉二階堂行宗 式部次郎左衛門尉伊賀光長 武藤左近将監兼頼
 伊賀式部八郎左衛門尉仲光  小野寺新左衛門尉行通      伊東次郎左衛門尉盛時    土肥四郎実綱
 和泉肥後新左衛門尉     薩摩九郎左衛門尉        同薩摩十郎左衛門尉祐広   大泉九郎長氏
 後藤二郎左衛門尉      相馬五郎左衛門尉胤村      隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 平賀三郎左衛門尉惟時
 狩野五郎左衛門尉為広    同じ狩野四郎左衛門尉景茂
 筑前三郎左衛門尉二階堂行実〔初めから支障な事がありました〕
 
式部太郎左衛門尉伊賀光政〔喪に服す期間が残っていると云ってます。そこで判断されて遠慮すべきだと仰せになりました〕
 鎌田三郎左衛門尉義長〔命令は出ていなかったけど、伊賀光政のかわりにお供をするように仰せになりました〕
追加は、 信濃前司泰清 駿河左近大夫 駿河次郎

正元二年(1260)四月大二日己亥。御出事明日也。而式部太郎左衛門尉外舅於若狹國他界事。違期之後達遠聞之間。勘日數。禁忌之殘日不幾之處。有此御出事。仍始者雖被仰可有憚之旨。今且有沙汰。被問鶴岡別當。申不可憚之由之間。可被召具者。次以鎌田三郎左衛門尉。可爲光政替之由雖被仰。本人出仕之上。不及子細云々。

読下し                    おんいで こと あす なり  しか   しきぶのたろうさえもんのじょう がいしゅう わかさのくに  をい  たかい  こと
正元二年(1260)四月大二日己亥。御出の事明日也。而るに式部太郎左衛門尉が外舅、若狹國に於て他界の事、

 いき ののちえんぶん  たっ   のあいだ  にっすう  かんが  きんき の ざんじつ いくならざる のところ  こ  おんいで  ことあ
違期之後遠聞に達する之間、日數を勘え、禁忌之殘日 不幾 之處、此の御出の事有り。

よっ はじめは はばか あ  べ   のむねおお  らる   いへど   けんたん さた あ      つるがおかべっとう とはる    はばか べからずのよしもう  のあいだ  めしぐさる  べ  てへ
仍て始者 憚り有る可き之旨仰せ被ると雖も、今且沙汰有りて、鶴岡別當に問被る。憚る不可之由申す之間、召具被る可し者り。

つい  もっ  かまたぼさぶろうさえもんのじょう  みつまさ  かえたるべ  のよしおお  らる   いへど   ほんにんしゅっしのうえ    しさい  およばず うんぬん
次で以て 鎌田三郎左衛門尉、 光政の替爲可き之由仰せ被ると雖も、本人出仕之上は、子細に不及と云々。

参考外舅は、奥さんの父。
参考違期は、期限をたがえる意。律令制において庸調や雑米を期限内に中央に納付されないこと、又は納入することを指す。
参考今旦は、今朝。

現代語正元二年(1260)四月大二日己亥。お出かけ行事は明日です。それなのに式部太郎左衛門尉伊賀光政の妻の父が、若狭国で亡くなった事が、期間が過ぎてから情報が伝わって来たので、日数を考えると、服喪期間が残っているのに、このお出掛けの事があります。それで始めは、遠慮するように仰せになられていましたが、今朝考えがあって鶴岡八幡宮筆頭坊主に問い合わせました。遠慮はいらないと云ってきたので、お供をするように言い出しました。そのついでに鎌田義長は伊賀光政の代わように云ったけれども、本人が出て来るので、参加はいらないとのことです。

正元二年(1260)四月大三日庚子。リ。入御于入道陸奥守亭。御息所御同車。供奉人布衣。
 土御門中納言〔顯方卿〕      花山院中納言〔長雅卿〕
 二條二位〔教定卿〕        中御門少將宗世朝臣
 前兵衛佐忠時朝臣         二條少將雅有朝臣
 武藏前司朝直〔役御釼〕      遠江前司時直
 越後守實時            刑部少輔教時
 越前々司時廣           彈正少弼業時
 左近大夫將監公時         左近大夫將監時連
 新相摸三郎時村          相摸三郎時利
 越後四郎顯時           遠江七郎時遠
 和泉前司行方           秋田城介泰盛
 宮内權大輔時秀          中務權少輔守教
 出羽前司長村           壹岐前司基政
 木工權頭親家           參河前司頼氏
 大宰少貳景頼           縫殿頭師連
 對馬前司氏信           日向前司祐泰
 城四郎左衛門尉時盛        同六郎顯盛
 武藤左衛門尉頼泰         下野四郎左衛門尉景綱
 式部太郎左衛門尉光政       常陸次郎左衛門尉行C
 出羽七郎左衛門尉行頼       信濃次郎左衛門尉時C
 周防五郎左衛門尉忠景       上野(総)三郎左衛門尉義長(泰)
 遠江十郎左衛門尉頼連       伊勢次郎左衛門尉行經
 大曾祢太郎左衛門尉長頼      小野寺四郎左衛門尉通時
 薩摩七郎左衛門尉祐能       加藤左衛門尉景經
 鎌田三郎左衛門尉義長       鎌田次郎左衛門尉行俊
相州 武州 前尾州 〔雖載供奉散状。稱有所役。不候路次〕
相摸太郎殿。同四郎等。豫被參候御所。兼被置御衣架等於出居。紅御衣一具。御衣。指貫。御小袖十具。七御衣一具〔生御單〕。御小褂。紅御袴。御小袖十具懸之。御盃酒之後。奉御引出物。御釼尾張前司時章。砂金越後守實時。南庭秋田城介泰盛。
 一御馬 新相摸三郎時村      式部太郎左衛門尉
 二御馬 武藏五郎時忠       淺羽左衛門二郎
                  〔波多野〕
 三御馬 相摸太郎殿        出雲次郎左衛門尉
御息所御方進風流〔造蓬莱〕。女房中絹百疋。公卿釼。殿上人馬。五六位沓行騰也。

読下し                    はれ にゅうどうむつのかみてい に にゅうぎょ みやすんどころ ごどうしゃ  ぐぶにん  ほい
正元二年(1260)四月大三日庚子。リ。入道陸奥守亭 于 入御。御息所@御同車A。供奉人布衣。

  つちみかどちゅうなごん 〔あきかたきょう〕            かざんいんちゅうなごん 〔ながまさきょう〕
 土御門中納言〔顯方卿〕      花山院中納言〔長雅卿〕

   にじょうにい   〔のりさだきょう〕                なかみかどしょうしょうむねよあそん
 二條二位〔教定卿〕        中御門少將宗世朝臣

  さきのひょうえのすけただときあそん              にじょうしょうしょうまさありあそん
 前兵衛佐忠時朝臣        二條少將雅有朝臣

  むさしのぜんじともなお 〔ひょけん  えき  〕          とおとうみぜんじときなお
 武藏前司朝直〔御釼を役す〕    遠江前司時直

  えちごのかみさねとき                      ぎょうぶしょうゆうのりとき
 越後守實時           刑部少輔教時

  えちぜんぜんじときひろ                     だんじょうしょうひつなりとき
 越前々司時廣          彈正少弼業時

  さこんのたいふしょうげんきんとき               さこんのたいふしょうげんときつら
 左近大夫將監公時        左近大夫將監時連

  しんさがみのさぶろうときむら                  さがみのさぶろうときとし
 新相摸三郎時村         相摸三郎時利B

  えちごのしろうあきとき                      とおとうみのしちろうときと
 越後四郎顯時          遠江七郎時遠

  いずみのぜんじゆきかた                    あいだのじょうすけやすもり
 和泉前司行方          秋田城介泰盛

  くないごんのだいゆうときひで                 なかつかさごんのしょうゆうもりのり
 宮内權大輔時秀         中務權少輔守教

  でわのぜんじときむら                      いきぜんじもとなり
 出羽前司長村          壹岐前司基政

  もくごんのかみちかいえ                     みかわのぜんじよりうじ
 木工權頭親家C         參河前司頼氏

  だざいのしょうにかげより                     ぬいどののとうもろみち
 大宰少貳景頼          縫殿頭師連

  つしまぜんじうじのぶ                      ひゅうがぜんじすけやす
 對馬前司氏信          日向前司祐泰

  じょうのしろうさえもんのじょうときもり              おな   ろくろうあきもり
 城四郎左衛門尉時盛       同じき六郎顯盛

  むとうさえもんのじょうもりやす                 しもつけのしろうさえもんのじょうかげつな
 武藤左衛門尉頼泰        下野四郎左衛門尉景綱

  しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ           ひたちのじろうさえもんのじょうゆききよ
 式部太郎左衛門尉光政      常陸次郎左衛門尉行C

  でわのしちろうさえもんのじょうゆきより            しなののじろうさえもんのじょうとききよ
 出羽七郎左衛門尉行頼      信濃次郎左衛門尉時C

  すおうのごろうさえもんのじょうただかげ           かずさのさぶろうさえもんのじょうよしやす
 周防五郎左衛門尉忠景      上総三郎左衛門尉義

  とおとうみのじゅうろうさえもんのじょうよりつら        いせのじろうさえもんのじょうゆきつね
 遠江十郎左衛門尉頼連      伊勢次郎左衛門尉行經

  おおそねのたろうさえもんのじょうながより          おのでらのしろうさえもんのじょうみちとき
 大曾祢太郎左衛門尉長頼     小野寺四郎左衛門尉通時

  さつまみのしちうろうさえもんのじょうすけよし        かとうさえもんのじょうかげつね
 薩摩七郎左衛門尉祐能      加藤左衛門尉景經

  かまたのさぶうろうさえもんのじょうよしなが         かまたのじろうさえもんのじょうゆきとし
 鎌田三郎左衛門尉義長      鎌田次郎左衛門尉行俊

そうしゅう ぶしゅう さきのびしゅう 〔 ぐぶ   さんじょう   の    いへど   しょやくあ   しょう    ろじ   そうらわず 〕
相州 武州 前尾州〔供奉の散状Dに載すと雖も、所役有りと稱し、路次に候不〕

さふぁみのたろうどの おな    しろうら  あらかじ ごしょ  まいろうらわれ かね   ごいか ら を でい   おかれ
相摸太郎殿・同じき四郎等、豫め御所へ參候被、兼て御衣架等於出居Eに置被る。

くれない おんころもいちぐ  ぎょい  さしぬき  おんこそでじゅうぐ  ななおんえいちぐ 〔すずし おんひとえ〕 おんこうちかけ くれない おんはかま おんこそでじゅうぐ これ か
 紅の御衣一具。御衣。指貫。御小袖十具。七御衣一具〔生の御單〕。御小褂。 紅の 御袴。 御小袖十具 之を懸く。

おんはいしゅののち おんひきでもの たてまつ  ぎょけん おわりのぜんじときあき  さきん  えちごのかみさねとき なんてい あいだのじょうすけやすもり
御盃酒之後、御引出物を奉る。御釼は尾張前司時章。砂金は越後守實時。南庭Fは秋田城介泰盛。

 いちのおんうま しんさがみのさぶろうときむら          しきぶのたろうさえもんのじょう
 一御馬 新相摸三郎時村      式部太郎左衛門尉

  にのおんうま むさいのごろうときただ               あさばのさえもんじろう
 二御馬 武藏五郎時忠       淺羽左衛門二郎

 さんのおんうま さがみのたろうどの                 いずものじろうさえもんのじょう 〔 はたの 〕
 三御馬 相摸太郎殿        出雲次郎左衛門尉〔波多野〕

みやすんどころ おんかた  ふりゅう 〔ほうらい  つく  〕   すす   にょぼうちゅう きぬひゃっぴき  くげ  つるぎ  てんじょうびと うま  ご ろくい  くつむかばきなり
 御息所の御方には風流G〔蓬莱を造る〕を進む。女房中に 絹百疋。 公卿は釼。殿上人Hは馬。五六位は沓行騰也。

参考@御息所は、将軍の奥さん。
参考A
御同車は、牛車に相乗り。
参考B
相摸三郎時利は、北条時輔。
参考C
木工権頭親家は、宗尊親王と一緒に京都から来た。
参考D
散状は、回覧する名簿。
参考E
出居は、縁側的な一部屋。牛車は出居に付け、輿は出居に上がる。
参考F
南庭は、南廷で銀のインゴット。煉瓦大で厚さは半分。
参考G風流は、反物で鉢植えの様な風景を拵える。
参考H
殿上人は、昇殿を許された人。

現代語正元二年(1260)四月大三日庚子・晴です。入道陸奥守重時の屋敷へお出かけです。奥様御息所も一緒に牛車に乗りました。お供は布衣(狩衣)の礼装です。
 土御門中納言顕方さん 花山院中納言長雅さん 二条二位教定さん 中御門少将宗世さん 前兵衛佐忠時さん
 二条少将賀有さん   武蔵前司朝直〔太刀持〕遠江前司時直   越後守実時     刑部少輔兼時
 越前前司時広     弾正少弼業時     左近大夫将監公時 左近大夫将監時連  新相模三郎時村
 相模三郎時利(時輔)  越後四郎顕時     遠江七郎時遠   和泉前司二階堂行方 秋田城介安達泰盛
 宮内権大輔時秀    中務権少輔守教    出羽前司小山長村 壱岐前司後藤基政  木工権頭親家
 三河前司新田頼氏   太宰少弐武藤景頼   縫殿頭師連    対馬前司佐々木氏信 日向前司伊東祐泰
 城四郎左衛門尉安達時盛  同六郎安達顕盛        武藤左衛門尉頼泰      下野四郎左衛門尉宇都宮景綱
 式部太郎左衛門尉伊賀光政 常陸次郎左衛門尉二階堂行清  出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 信濃次郎左衛門尉時清
 周防五郎左衛門尉島津忠景 上総三郎左衛門尉大曽祢義泰  遠江十郎左衛門尉佐原頼連  伊勢次郎左衛門尉二階堂行経
 大曽祢太郎左衛門尉長頼  小野寺四郎左衛門尉通時    薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  加藤左衛門尉景経
 鎌田三郎左衛門尉義長   鎌田次郎左衛門尉行俊
相州政村、武州長時、前尾州時章〔お供の名簿に載ってたけれど、用事があると云って路地では混ざりませんでした〕、相模太郎時宗さん、同四郎
宗政たちは、前もって御所(重時邸)へ来ていて、ついでに衣懸け(衣桁)を縁側に置いておきました。紅色の着物一着、衣、指貫袴、小袖十着、七重の衣一着〔すずしの単〕、小袿、紅色の袴、小袖十着を懸けて置きました。
乾杯の後で、引き出物のお土産をご披露しました。刀は尾張前司名越流北条時章、砂金は越後守金沢流北条実時、銀の板は秋田城介安達泰盛。
 一の馬は、新相模三郎時村と式部太郎左衛門尉伊賀光政
 二の馬は、武蔵五郎大仏流北条時忠と浅羽左衛門次郎
 三の馬は、相模太郎北条時宗と出雲次郎左衛門尉波多野時光
奥様御息所には反物で作った風景〔蓬莱山をかたどる〕を披露しました。女官達には皆で絹百疋。公家には刀。殿上人には馬、五位六位の者には乗馬沓と乗馬袴です。

正元二年(1260)四月大六日壬寅。リ。自去季冬之比。時行流布之間。可被祈請之由。被仰于諸寺云々。

読下し                    はれ さんぬ  きとう のころよ     じぎょう るふ のあいだ  きしょうさる  べ   のよし  しょじに おお  らる    うんぬん
正元二年(1260)四月大六日壬寅。リ。去る季冬之比自り、時行@流布之間、祈請被る可き之由、諸寺于仰せ被ると云々。

参考@時行は、流行病(はやりやまい)。

現代語正元二年(1260)四月大六日壬寅。晴れです。去年の十月以降から流行り病が流行しているので、お祈りをするように、あちこちの寺へ命令をしましたとさ。

文應元年(1260)四月大十七日甲寅。リ。六波羅飛脚參着。申云。去十二日丑剋。院御所燒失云々。又山徒以血奉塗神輿之由。同所注進也。

読下し                      はれ  ろくはら   ひきゃくさんちゃく   もう    い      さんぬ じゅうににちうしのこく いん  ごしょしょうしつ   うんぬん
文應元年(1260)四月大十七日甲寅。リ。六波羅の飛脚參着し、申して云はく。去る十二日丑剋、院の御所燒失すと云々。

また  さんと ち  もっ  しんよ  ぬ たてまつ  のよし  おな   ちゅうしん   ところなり
又、山徒血を以て神輿を塗り奉る之由、同じく注進する所也。

参考@山徒は、比叡山の武者僧(後の僧兵)。

現代語文応元年(1260)四月大十七日甲寅。晴です。六波羅探題の伝令が到着して報告しました。先日の十二日の午前2時頃に院の御所が燃えてしましましたとさ。
また、比叡山の武者僧たちが、日吉神社のお神輿を血で塗りたくったと、報告したのでした。

文應元年(1260)四月大十八日乙夘。リ。小臺所暫恪勤侍五人。可令着到之由云々。工藤三郎左衛門尉光泰。平岡左衛門尉實俊等奉行之。和泉前司行方。武藤少卿景頼依傳仰也。
恪勤
 村岡藤五太郎           同藤四郎
 村岡弥五郎            亀谷源次郎
 入野平太
今日。改元詔書到來。去十三日。改正元二年爲文應元年。文章博士在章撰進云々。依御即位也。

読下し                      はれ  こだいどころ しばら かくごん さむらい ごにん ちゃくとうせし  べ   のよし  うんぬん
文應元年(1260)四月大十八日乙夘。リ。小臺所@に暫く恪勤Aの 侍B五人、着到C令む可き之由と云々。

くどうのさぶろうさえもんのじょうみつやす ひらおかさえもんのじょうさねとしら これ  ぶぎょう    いずみのぜんじゆきかた むとうしょうきょうかげより おお   つた    よっ  なり
 工藤三郎左衛門尉光泰・ 平岡左衛門尉實俊等D 之を奉行す。和泉前司行方・ 武藤少卿景頼 仰せを傳うに依て也。

かくごん
恪勤

  むらおかとうごたろう                        おな    とうしろう
 村岡藤五太郎           同じき藤四郎

  むらおかいやごろう                         かめがいげんじろう
 村岡弥五郎            亀谷源次郎

  いりやへいた
 入野平太

きょう   かいげん しょうしょとうらい   さんぬ じゅうさんにち しょうげんにねん あらた ぶんおうげんねん な    もんじょうはくじありあきえら  すす    うんぬん   ごそくい    よっ  なり
今日、改元の詔書到來す。去る十三日、 正元二年を改め文應元年と爲す。文章博士在章撰び進むと云々。御即位Eに依て也。

現代語文応元年(1260)四月大十八日乙卯。晴です。小台所に少しでもそこに勤務している侍5人は出席簿を出すようにとのことです。工藤三郎左衛門尉光泰と平岡左衛門尉実俊が担当します。和泉前司二階堂行方と武藤少卿景頼が将軍の命令を伝えたからです。
勤務者 村岡藤五太郎、同村岡藤四郎、村岡弥五郎、亀谷源二郎、入谷平太。
今日、改元の天皇の命令書が届きました。先日の十三日に正元二年を変えて文応元年としました。文章博士の藤原在章が選定したそうな。亀山天皇のそくによってです。

参考@小台所は、この時期、台所と上台所(貞応二年五月四日条)と小台所の三種類が出て来る。
参考A
恪勤は、何時もそこに勤務していること。
参考B
は、今日での場合は必ずしも武士とは限らない。
参考C
着到は、着到状で出勤簿。他の者が確認する。
参考D
は、二人の場合。三人以上は「以下」と書く。
参考E即位は、後深草天皇(持明院党)の弟亀山天皇(大覚寺党)が昨年の12月に即位、翌年即位の儀式をする。

文應元年(1260)四月大十九日丙辰。陰。爲武藤少卿景頼奉行。可被始行御祈祷之由。有其沙汰之處。八專有憚之由。陰陽道依勘申。被閣之云々。

読下し                      くも    むとうしょうきょうかげよりぶぎょう  な      ごきとう    しぎょうさる  べ   のよし  そ   さた あ  のところ
文應元年(1260)四月大十九日丙辰。陰り。武藤少卿景頼奉行と爲し、御祈祷を始行被る可き之由、其の沙汰有る之處、

はっせん はばか あ  のよし おんみょうどうかん もう    よっ    これ さしおかれ   うんぬん
八專@憚り有る之由、陰陽道勘じ申すAに依て、之を閣被ると云々。

参考@八専は、壬子から癸亥の間の牛辰午戌の日は何もしてはいけない。又、始めてはいけない。
参考A勘じ申すは、計算や占いをして上申する。

現代語文応元年(1260)四月大十九日丙辰。曇りです。武藤少卿景頼が担当して、将軍用の祈祷を始めるように、決定したのですが、八專は何もしてはいけない日だと、陰陽師が上申したので、延期しましたとさ。

文應元年(1260)四月大廿二日己未。リ。於政所被行改元吉書。亦御祈祷事。陰陽道雖申子細。殊被急思食。重被經評定。今日始行。松殿法印。左大臣法印等奉仕之。」今日。將軍家御惱之間。及戌剋。於御所南庭被修千手法。次始行不断千手陀羅尼。若宮別當僧正〔隆弁〕率八口伴僧奉仕之。

読下し                      はれ まんどころ をい  かいげん きっしょ  おこなはれ
文應元年(1260)四月大廿二日己未。リ。政所に於て改元の吉書@を行被る。

また ごきとう  こと  おんみょうどうしさい  もう    いへど  こと  いそがれおぼ  め    かさ   ひょうじょう  へ らる
亦御祈祷の事、陰陽道子細を申すと雖も、殊に急被思し食し、重ねて評定を經被る。

きょうしぎょう     まつどのほういん さだいじんほういんら lこれ  ほうし
今日始行す。松殿法印・左大臣法印等之を奉仕す。」

きょう  しょうぐんけごのう のあいだ いぬのこく およ    ごしょ  なんてい  をい  せんじゅほう  しゅうさる
今日、將軍家御惱之間、戌剋に及ぶ。御所の南庭に於て千手法を修被る。

つぎ  ふだん  せんじゅ だらに  しぎょう    わかみやべっとうそうじょう〔りゅうべん〕 はっく  ばんそう  ひき  これ  ほうし
次に不断の千手陀羅尼を始行す。若宮別當僧正〔隆弁〕八口の伴僧を率ひ之を奉仕す。

参考@改元の吉書は、一に神仏、二が田植え、三が収穫、四に事象を書く。

現代語文応元年(1260)四月大二十二日己未。晴れです。政務事務所で改元があったので、事務初めの吉書式を行いました。また、将軍用の祈祷について、陰陽師の連中が文句をつけたけれど、特に急ぎたいと思われたので、なおも検討をしました。今日、始める事にしました。松殿法印良基と左大臣法印厳恵が勤めました。」
今日、宗尊親王将軍家の具合の悪さが午後8時頃まで続きました。御所の南の庭で千手観音の護摩炊きを勤めさせました。次に休みなしで続ける千手陀羅尼経を始めました。鶴岡八幡宮筆頭僧正の隆弁が八人のお供の坊さんを従えて、これを勤めました。

文應元年(1260)四月大廿四日辛酉。御惱事令復本御。聞食御膳云々。

読下し                       ごのう  ことふくほんせし  たま    ごぜん  き     め    うんぬん
文應元年(1260)四月大廿四日辛酉。御惱の事復本令め御ふ。御膳を聞こし食すと云々。

現代語文応元年(1260)四月大二十四日辛酉。宗尊親王将軍家の具合の悪さが治りました。食事を召しあがったそうな。

文應元年(1260)四月大廿六日癸亥。將軍家御惱事。去夜女房尼左衛門督局有夢想。一人僧告申云。依嚴重御祈病不可入幕中云々。仍今朝彼局語申夢事之間。被尋右京權大夫茂範朝臣之處。將軍家御居所者稱幕府。法驗炳焉之由申之。

読下し                      しょうぐんけ ごのう  こと  さんぬ よ にょぼう あまのさえもんのかみのつぼね むそうあ      ひとり  そう つ  もう    い
文應元年(1260)四月大廿六日癸亥。將軍家御惱の事、去る夜 女房 尼左衛門督局の 夢想有り。一人の僧告げ申して云はく。

げんじゅう おんき  よっ やまい ばくちゅう  いるべからず うんぬん
嚴重の御祈に依て病 幕中に入不可と云々。

よっ   けさ か つぼねゆめ  こと  かた  もう のあいだ  うきょうごんのたいふしげのりあそん  たず  らる  のところ  しょうぐんけ  おんきょしょは ばくふ  しょう
仍て今朝彼の局夢の事を語り申す之間、右京權大夫茂範朝臣に尋ね被る之處、將軍家の御居所者幕府と稱す。

ほうけん へいえんのよしこれ もう
法驗 炳焉@之由之を申す。

参考@炳焉は、掲焉とおなじで、あきらかなさま。

現代語文応元年(1260)四月大二十六日辛酉。宗尊親王将軍家の具合の悪さについて、昨夜、女官の尼左衛門督局が夢を見ました。一人の坊さんが告げるのには、「厳しい祈祷をしたので、病は幕府へは入りません。」だとさ。それで今朝、その局が夢の話をしていたので、右京権大夫茂範さんが意味を訪ねた処、将軍の居る場所を幕府と云うのです。祈祷の効果が明らかだなと云いました。

解説1192年幕府誕生説は塙保己一が書いた本に、この文章を頼りに将軍が居るのが幕府なので、頼朝が将軍になった時を幕府成立とした。

文應元年(1260)四月大廿九日丙寅。丑尅。鎌倉中大燒亡。自長樂寺前。至亀谷人屋云々。

読下し                      うしのこく かまくらじゅう だいしょうぼう ちょうらくじまえよ    かめがやつ じんおく  いた   うんぬん
文應元年(1260)四月大廿九日丙寅。丑尅。鎌倉中 大燒亡。長樂寺@前自り、亀谷の人屋に至ると云々。

参考@長楽寺は、笹目の文学館の場所かもしれない。北条政子が建てたとの伝説のみが残る。

現代語文応元年(1260)四月大二十九日丙寅。午前2時頃、鎌倉中が大火事です。長楽寺の前から亀谷の人家までだそうな。

文應元年(1260)四月大卅日丁夘。天リ。今日評議。負物事。輙不及沙汰之趣。雖被定置。尩弱之輩歎申之旨。依被聞食及。如先々可有其沙汰云々。次訴訟事。不敍用三ケ度者。可注進所帶之旨。可成下御教書云々。

読下し                    そらはれ  きょう  ひょうぎ  ふもつ  こと  あなが  さた  およばすのおもむき さだ  おかれ   いへど
文應元年(1260)四月大卅日丁夘。天リ。今日の評議。負物@の事、輙ち沙汰に不及之 趣、定め置被ると雖も、

わうじゃくのやから なげ  もう  のむね  き    めされ およ    よっ    さきざき  ごと  そ   さた あ   べ    うんぬん
 尩弱A之輩歎け申す之旨、聞こし食被及ぶに依て、先々の如く其の沙汰有る可しと云々。

つぎ そしょう  こと  さんかど じょようせざ  ば   しょたい ちゅうしんすべ のむね  みぎょうしょ  な   くだ  べ    うんぬん
次に訴訟の事、三ケ度敍用不れ者B、所帶を注進可き之旨、御教書を成し下す可きと云々。

参考@負物は、質草や賭け事の物。領地を質草にする尩弱之輩
参考A尩弱は、貧乏人。大番役が回ってくると領地を質草にして金を借りに行く。
参考B三ケ度敍用不れ者は、裁判の呼び出しに三度従わなければ。

現代語文応元年(1260)四月大三十日丁卯。空は晴です。今日の政務会議では、質草についてはむやみに干渉しないことに決めているけれども、貧乏御家人が嘆いて云っているのを、お聞きになられたのて、前々の様に処理するようにとのことだそうな。
次に裁判については、呼び出しに三度従わなければ、管理財産を書き出すようにとの、命令書を発出するようにとの事だそうな。

五月へ

吾妻鏡入門第四十九巻  

inserted by FC2 system