吾妻鏡入門第四十九巻  

文應元年(1260)五月小

文應元年(1260)五月小四日辛未。故武州禪門御成敗事。不及改沙汰之旨。被載式目畢。而同時重可有沙汰之由。有所見之輩者。不拘此文。可有其沙汰之。仁治三年以後。給御教書遂問荅之疑者。非沙汰之限。今日被定之。

読下し                    こぶしゅうぜんもん  ごぜいばい  こと  あらた  さた  およばざるのむね しきもく  の  られをはんぬ
文應元年(1260)五月小四日辛未。故武州禪門が御成敗の事、改め沙汰に不及之旨、式目に載せ被畢。

しか    どうじ   かさ     さた あ   べ   のよし  しょけんのやから あ  ば   こ   ふみ かかわらず そ   さた これあ   べ
而るに同時に重ねて沙汰有る可き之由、所見之輩有ら者、此の文に不拘、其の沙汰之有る可し。

にんじさんねん いご   みぎょうしょ  たま    もんどうのうたが    と   もの  さた のかぎり あらず  きょうこれ  さだ  らる
仁治三年以後、御教書を給はり問荅之疑いを遂ぐ者、沙汰之限に非。今日之を定め被る。

参考式目に載せ被畢は、御成敗式目に書かれている。頼朝政治を変えない=不易の法。
参考
仁治三年以後は、泰時の死亡以後。経時の時代に変えたものは例外とする。

現代語文応元年(1260)五月小四日辛未。故武州禅門泰時の裁決については、再審はしないように、御成敗式目に書き載せられました。
しかし、
同時に二重に訴訟を受けた担当者があれば、この文章に関係なくその訴訟を行いなさい。仁治三年以後に、判決書を受け取ったが疑義が生じた場合は、この限りではないと、今日決めました。

文應元年(1260)五月小十日丁丑。リ。秋田城介入道覺智第三年追福。松下禪尼爲施主被修之。願文草右京權大夫茂範朝臣。C書〔本〕曼陀羅供。大阿闍梨日光別當法印尊家。

読下し                   はれ  あいだのじょうすけにゅうどうかくち だいさんねん ついぶく まつしたぜんに せしゅ  な  これ  しゅうさる
文應元年(1260)五月小十日丁丑。リ。 秋田城介入道覺智が 第三年の追福。松下禪尼施主と爲し之を修被る。

がんもん  そう  うきょうごんのたうふしげのりあそん  せいしょ 〔ほん〕    まんだらぐ    だいあじゃりにっこうべっとうほういんそんけ
願文の草は右京權大夫茂範朝臣。C書〔本〕は曼陀羅供。大阿闍梨日光別當法印尊家。

参考秋田城介入道覺智は、安達景盛。松下禅尼は景盛の娘で、時氏の妻、経時・時頼の母。

現代語文応元年(1260)五月小十日丁丑。晴れです。秋田城介入道覚知安達景盛の三年忌の法事を松下禅尼が施主として実施しました。仏への願いの文書の草案は右京権大夫茂範さんで、清書は曼荼羅供養です。大阿闍梨日光別当法印尊家です。

文應元年(1260)五月小十三日庚辰。リ。子尅。將軍家御惱。

読下し                      はれ  ねのこく  しょうぐんけ ごのう
文應元年(1260)五月小十三日庚辰。リ。子尅。將軍家御惱。

現代語文応元年(1260)五月小十三日庚辰。晴れです。夜中の零時頃に宗尊親王将軍家は病気です。

文應元年(1260)五月小十六日癸未。雨降。御惱御祈祷。被行鬼氣并御夢祭等。

読下し                      あめふ     ごのう   ごきとう    きき なら     ごむさいら    おこなはれ
文應元年(1260)五月小十六日癸未。雨降る。御惱の御祈祷。鬼氣并びに御夢祭等を行被る。

現代語文応元年(1260)五月小十六日癸未。雨降りです。病気の加持祈祷は、鬼気祭と御夢祭を行いました。

文應元年(1260)五月小十八日乙酉。雨降。將軍家御惱令復本御。

読下し                      あめふ    しょうぐんけ  ごのう ふくほんせし  たま
文應元年(1260)五月小十八日乙酉。雨降る。將軍家の御惱復本令め御う。

現代語文応元年(1260)五月小十八日乙酉、雨降りです。宗尊親王将軍家の病気は治りました。

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