文應元年(1260)六月大
文應元年(1260)六月大一日丁酉。疾風暴風洪水。河邊人屋大底流失。山崩。人多爲磐石被墜死。 |
読下し しっぷう ぼうふう こうずい かわあた じんおく たいてい
りゅうしつ やまくず ひとおお ばんじゃく ため
ついしさる
文應元年(1260)六月大一日丁酉。疾風・暴風・洪水。河邊りの人屋
大底 流失す。山崩れ。人多く 磐石の爲 墜死被る。
参考大底は、大抵。
現代語文応元年(1260)六月一日丁酉。大風・暴風・洪水で、川べりの人家の多くが流されました。山崩れもあり、人が沢山生き埋めとなり死にました。
推量当時の鎌倉の山は殆ど丸禿げだったので、豪雨ですぐに山崩れを起こしたようだ。葛原岡神社の裏尾根では、火葬穴がいくつも発掘されていると云う事は木が生えてない証拠だ。
文應元年(1260)六月大四日庚子。就檢断事。今日有被定條々。且被仰遣六波羅也。所謂。 |
読下し
けんだん こと つ きょう さだ らる じょうじょう あ かつう ろくはら おお
つか さる なり いはゆる
文應元年(1260)六月大四日庚子。檢断@の事に就き、今日定め被る條々
有り。且は六波羅へ仰せ遣は被る也。所謂、
ひとつ くにぐに しゅごにん
めししん はんかにん こと
一 國々の守護人召進ず犯科人Aの事
みぎ かんとう めししん
いわ な さだ おかれる
のむね まか さた さる べ のよし
しゅごにん あいふ せし べ
右は、關東へ召進ずは謂れ無しB。定め置被之旨に任せ、沙汰被る可き之由、守護人へ相觸れ令む可し。
ただ こと
を とこう よ しゅごにん ひりょ さた いた のよし うった もう のときは
たず せいばい せし べ
但し事於左右に寄せC、守護人非據の沙汰を致す之由、訴へ申す之時者、尋ね成敗
令む可し〔矣〕。
ひとつ かんとう
めすべ はんかにん こと
一
關東へ召可き犯科人の事
みぎ
こと ちょうか ちょうほん をい は せんれい まか これ めししん べ
けいざい いた は ろくはら をい たず さた あ べ
右は、殊に重科の張本に於て者、先例に任せ之を召進ず可し。輕罪に至りて者、六波羅に於て尋ね沙汰有る可し〔矣〕。
ひとつ ほうめん こと
一 放免Dの事
みぎ
せつがいにん をい は ひごろ じゅっかねん
いご しょはん けいちょう したが これ めん
らる いへど このたび をい は
右は、殺害人に於て者、日來
十ケ年以後
所犯の輕重に随い之を免じ被ると雖も、今度に於て者、
しょこく
ききん い じんみん びょうし い
ほう す のあいだ べち
おんはか もっ ねんき いわず
諸國の飢饉と云ひ、人民の病死と云ひ、法に過ぐる之間、別の御計りを以て、年記を不謂、
こと しさい な
のやからは とうねん しょはん いた は ほうめんされをはんぬ
殊なる子細無き之輩者、當年の所犯に至りて者、放免被畢焉。
参考@検断は、裁判では所務と雑務。軍事警察。所務は、役所関係で地頭が横領や越境。雑務はその他。
参考A召進ず犯科人は、犯罪者を鎌倉へ送検する。
参考B謂れ無しは、意味がない。
参考C事於左右に寄せは、あれこれと云って。
参考D放免は、あまり重くない罪人を釈放する。
現代語文応元年(1260)六月大四日庚子。刑法について、今日決定した箇条書きがります。そして六波羅探題へも通知するのでした。それは、
一 各国の守護人が鎌倉幕府へ送検する犯罪人について
右の事は、鎌倉幕府へ送検する事は意味がありません。定められている規則に従って処分するように、守護人に命令しなさい。但し、あれこれと云って守護人が間違った処分をしていると、訴えて来た時は、調査して裁断をするようにしなさい。
一 鎌倉幕府へ送検すべき犯罪人について
右の事は、特に重罪の犯罪人については、従前の例の通りに送検しなさい。軽犯罪については、六波羅探題で調査して処分しなさい。
一 釈放について
右の事は、殺人犯については、通常10年以後に犯罪の軽重によって釈放するのだけれど、今年の犯罪については、飢饉により食事を与えることが出来ず、餓死や病死に至らしめたのは、法を越えた出来事なので、別な方法を検討し、年数を決めず、特別な理由がない者達は、今年に限り釈放されるべきでしょう。
文應元年(1260)六月大五日辛丑。雨降。被行止雨御祈。安祥寺僧正良瑜修一字金輪法。」今日。被勒放生會供奉人散状云々。 |
読下し
あめふ
あめ と おいのり おこなはれ あんじょうじそうじょうりょうゆ いちじこんろんほう しゅう
文應元年(1260)六月大五日辛丑。雨降る。雨を止める御祈を行被る。安祥寺僧正良瑜
一字金輪法を修す。」
きょう
ほうじょうえ ぐぶにん さんじょう ろくさる うんぬん
今日、放生會供奉人の散状を勒被る@と云々。
参考@勒すは、書く。
現代語文応元年(1260)六月大五日辛丑。雨降りです。雨が降り止むようにお祈りを行いました。安祥寺僧正良瑜が一字金綸法を祈禱しました。」
今日、放生会のお供の名簿を書かれたそうな。
文應元年(1260)六月大七日癸夘。雨降。未剋属リ。自去月十六日霖雨不休。今日適迎リ。是偏法驗之所致歟。 |
読下し あめふ ひつじのこく
はれ ぞく さんぬ つきじゅうろくにち よ りんう
やすまず きょうたまた はれ
むか
文應元年(1260)六月大七日癸夘。雨降る。未剋
リに属す。去る月十六日 自り霖雨@不休。今日適まリを迎う。
これひと
ほうけんの いた ところか
是偏へに法驗之致す所歟。
参考@霖雨は、何日も降りつづく雨。
現代語文応元年(1260)六月大七日癸卯。雨降りです。午後2時頃に晴れてきました。先月の十六日から降り続く雨が止まず、今日たまたま晴が来ました。これは、5日のお祈りの効果が出たのでしょうか。
文應元年(1260)六月大十二日戊申。爲人庶疾疫對治。可致祈祷之由。今日。被仰諸國守護人云々。其御教書云。 |
読下し
じんしょ しつえき たいじ ため
きとういた べ のよし きょう しょこくしゅごにん おお らる うんぬん
文應元年(1260)六月大十二日戊申。人庶
疾疫對治の爲、祈祷致す可き之由、今日、諸國守護人に仰せ被ると云々。
そ みぎょうしょ い
其の御教書に云はく。
しょこく
じしゃ だいはんにゃきょう てんどく こと
諸國寺社
大般若經 轉讀@の事
こくど
あんのん しつえき たいじ ため しょこく じしゃ をい だいはんにゃ さいしょう
におうきょうら てんどくさる べ なり
國土安穩
疾疫 對治の爲、諸國の寺社に於てA、大般若・最勝 仁王經等を轉讀被る可き也。
はや
そ くに じしゃ の じゅうそう おお せいせい いた てんどくすべ のよし ぢとうら あいふれせし べ なり
早く其の國寺社之住僧に仰せて、精誠を致し轉讀可き之由、地頭等に相觸令む可き也。
かつう ちぎょうしょ
をい は おな げち せし べ のじょう おお
よっ しったつくだん ごと
且は知行所に於て者、同じく下知令む可き之状、仰せに依て執達件の如し。
ぶんおうがんねんろくがつじゅうににち むさしのかみ
文應元年六月十二日 武藏守
さがみのかみ
相摸守
そ どの
其殿
参考@轉讀は、摺り読みともいう。
参考A諸国の寺社に於ては、幕府から守護へ、守護から地頭へ、地頭から寺社へと命じる。
現代語文応元年(1260)六月大十二日戊申。人々の伝染病を退治するために、祈禱をするように、今日諸国の守護人に命令されましたとさ。その命令書に書いてあるのは、
諸国の神社仏閣は、大般若経を摺り読みすること
国の安泰するように伝染病を退治するため、諸国の神社仏閣で、大般若経・最勝王経・仁王経を摺り読みしなさい。
早々に国の神社仏閣の住職に命じて、精神を込めて摺り読みするように、地頭等に命令しなさい。また、知行所内では、同様に命令するようにとの命令書は、将軍の仰せに従って書き出すのはこの通りです。
文応元年六月十二日 武蔵守長時
相摸守政村
どちら様へも
文應元年(1260)六月大十六日壬子。放生會御參宮供奉人惣記。自小侍被獻武州。是可令計沙汰給之由也。而任例被仰可進覽御所之旨。返遣之云々。 |
読下し
ほうじょうえ ごさんぐう ぐぶにん そうき こさむらいよ ぶしゅう けん らる
文應元年(1260)六月大十六日壬子。放生會御參宮供奉人の惣記、小侍自り武州に獻じ被る@。
これはから さた
せし
たま べ のよしなり しか れい まか ごしょ しんらんすべ のむね
おお られ これ
かえ つかは うんぬん
是計ひ沙汰令め給ふ可き之由也。而るに例に任せ御所へ進覽可き之旨を仰せ被、之を返し遣すと云々。
参考@小侍自り武州に獻じ被るは、小侍所別当の実時から執権武州長時に献上した。
現代語文応元年(1260)六月大十六日壬子。放生会の将軍のお参りのお供の全員書き出した名簿を、故侍所から執権の武州長時に献上した。これを検査して実施するようにです。なのにいつも通りに将軍に見せるようにと云われて、これを返しましたとさ。
文應元年(1260)六月大十八日甲寅。被付供奉人記於和泉前司行方。而有被仰出條々。所謂。 |
読下し
ぐぶにん き を いずみぜんじゆきかた つけらる
しか おお いださる じょうじょうあ いはゆる
文應元年(1260)六月大十八日甲寅。供奉人の記於和泉前司行方@に付被る。而るに仰せ出被るの條々有り。所謂、
みやすんどころ
ごさんぐうあ べ こと
御息所
御參宮有る可き事
さがみのたろう
おな さぶろう 〔もとは ずいへいたるべ うんうん〕
相摸太郎 同じき三郎〔元者随兵爲可きと云々〕
か おんかた おんともたるべ てへ
彼の御方の御共爲可き者り。
むとうぜんじ
武藤前司
ぐぶ にんずうたり したが ごがってんあ
かいろう さんこうすべ てへ
供奉の人數爲。随いて御合點有り。廻廊に參候可き者り。
ささきいきぜんじ
佐々木壹岐前司A
ごてん あ いへど このたびもよお べからずてへ
御點有ると雖も、今度催す不可者り。
おやまのでわじろう
小山出羽二郎B
ごてん な いへど ずいへい もよお くは べ てへ
御點無しと雖も、随兵に催し加はる可き者り。
参考@和泉前司行方は、二楷堂で御所奉行。
参考A佐々木壱岐前司は、泰綱で六角流佐々木。泰時が烏帽子親。息子の頼綱は時頼が烏帽子親。
参考B小山出羽二郎は、時長で時輔の妻の兄。
現代語文応元年(1260)六月大十八日甲寅。お供の名簿を御所奉行の和泉前司二階堂行方に預けました。にもかかわらず、云いだしたことがいくつかあります。それは、
湘軍の奥様御息所もお参りをする事
相模太郎時宗 同三郎時輔〔名簿には武装儀仗兵とある〕
そのお供をするようにと云い出しました。
武藤前司景頼
お供の人数で将軍の合点あり。前もって回廊に控えているようにと云い出しました。
佐々木壱岐前司泰綱
一度は合点したけど、今回は参加しないようにと云い出しました。
小山出羽次郎時長
合点には入ってないけど、武装儀仗兵に加わるように言い出しました。
文應元年(1260)六月大十九日乙夘。リ。於濱鳥居邊。天文博士爲親朝臣奉仕風伯祭。御使安藝右近大夫重親。今度依御氣色被用舊祭文云々。 |
読下し
はれ はま とりいへん をい てんもんはくじためちかあそんふうはくさい ほうし
文應元年(1260)六月大十九日乙夘。リ。濱の鳥居邊に於て、天文博士爲親朝臣風伯祭を奉仕す。
おんし あきうこんのたいふしげちか このたび
みけしき よっ きゅう さいぶん もち らる うんぬん
御使は安藝右近大夫重親。今度御氣色に依て舊の祭文を用い被ると云々。
現代語文応元年(1260)六月大十九日乙卯。晴れです。浜の鳥居のあたりで、天文博士の安陪為親さんが風伯祭を勤めました。代参は安芸右近大夫重親です。今回は、将軍の意向で旧式の祭用の願文を使ったそうな。
文應元年(1260)六月大廿二日戊午。相摸四郎可着布衣。同三郎如元可爲随兵之由云々。 |
読下し
さがみのしろう ほい き べ おな さぶろうもと ごと ずいへいたるべ のよし うんぬん
文應元年(1260)六月大廿二日戊午。相摸四郎布衣を着る可し。同じき三郎元の如く随兵爲可き之由と云々。
現代語文応元年(1260)六月大二十二2日戊午。相模四郎宗政は、放生会には布衣(狩衣の正装)にしなさい。同三郎時輔は元の武装儀仗兵にとのことだとさ。
文應元年(1260)六月大廿五日辛酉。リ。酉剋。京都飛脚參着。自去十五日。一院令煩瘧御之由申之。 |
読下し
はれ とりのこく きょう ひきゃくさんちゃく
文應元年(1260)六月大廿五日辛酉。リ。酉剋、京都の飛脚參着す。
さんぬ じゅうごにちよ いちいんおこり わずら せし たま のよしこれ もう
去る十五日自り、一院@瘧を煩は令め御う之由之を申す。
参考@一院は、後嵯峨上皇らしい。承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日[1]))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。
現代語文応元年(1260)六月大二十五日辛酉。晴れです。午後6時頃京都の伝令が到着しました。先日の十五日から後嵯峨上皇が発熱の病気にかかっていると報告しました。
文應元年(1260)六月大廿六日壬戌。リ。爲和泉前司行方奉行。以來問(間)昨〔酉刻〕院御惱事被行御占。今月廿六日七日御減之由勘申之。其後。薩摩七郎左衛門尉祐能爲御使節上洛。依院御惱也。 |
読下し
はれ いずみのぜんじゆきかたぶぎょう な さく 〔とりのこく〕 きた ま もっ いん ごのう ことおんうら おこなはれ
文應元年(1260)六月大廿六日壬戌。リ。和泉前司行方奉行と爲し、昨〔酉刻〕の來る間を以て院の御惱の事御占を行被る。
こんげつにじゅうろくにちしちにち ごげん のよしこれ
かん もう そ ご さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし おんしせつ な じょうらく いん ごのう よっ なり
今月 廿六日 七日
御減之由之を勘じ申す。其の後、薩摩七郎左衛門尉祐能
御使節と爲し上洛す。院の御惱に依て也。
現代語文応元年(1260)六月大二十六日壬戌。晴です。和泉前司二階堂行方が担当して、昨夕6時頃の時間を指定して後嵯峨院の病気について占いを行わせました。今月の26か27日に具合が良くなるでしょうと上申しました。その後、薩摩七郎左衛門尉伊東祐能が幕府派遣員として京都へ出発です。院の見舞です。
文應元年(1260)六月大卅日丙寅。リ。木工權頭親家爲御使上洛。猶被申御惱事之故也。 |
読下し はれ もくごんおかみちかいえ
おんし な じょうらく なおごのう こと もうさる のゆえなり
文應元年(1260)六月大卅日丙寅。リ。木工權頭親家御使と爲し上洛す。猶御惱の事を申被る之故也。
現代語文応元年(1260)六月大三十日丙寅。晴れです。木工権頭親家は将軍の代理として京都へ出発です。院への病気見舞いを言伝るためです。