吾妻鏡入門第四十九巻  

文應元年(1260)十二月小

文應元年(1260)十二月小一日甲午。雨降。巳剋。御奉幣伊豆山。則御下向御夜宿土肥郷。於當所御所。駄餉等極美盡善。甚雨深泥@之間。爲御休息。御逗留土肥郷。

読下し                     あめふ    みのこく   いずさん   ごほうへい すなは おんよしゅく   といごう   ごげこう
文應元年(1260)十二月小一日甲午。雨降る。巳剋、伊豆山へ御奉幣。則ち御夜宿の土肥郷@へ御下向。

とうしょ ごしょ   をい    だしゅうら び   きは  ぜん  つく    じんう しんでいのあいだ  ごきゅうそく ため   といごう    ごとうりゅう
當所御所に於て、駄餉等美を極め善を盡す。甚雨深泥之間、御休息の爲、土肥郷に御逗留。

参考@土肥郷は、神奈川県足柄下郡湯河原町。接待したのは普段国元に居る御家人であろう。

現代語文応元年(1260)十二月小一日甲午。雨降りです。午前10時頃に伊豆山走湯権現に幣の奉納です。すぐに宿泊予定地の土肥郷(湯河原)へ向いました。その場所でのお弁当は豪華絢爛に配慮されていました。雨がひどくて道が深くぬかっているので、宿泊の為に土肥郷にとどまりました。

文應元年(1260)十二月小二日乙未。陰。御止宿酒匂驛。相摸國御家人群參此所云々。

読下し                      くも   さかわのうまや おんししゅく さがみのくに  ごけにん こ  ところ  ぐんさん   うんぬん
文應元年(1260)十二月小二日乙未。陰り。酒匂驛に御止宿。相摸國の御家人此の所へ群參すと云々。

現代語文応元年(1260)十二月小二日乙未。曇りです。酒匂の宿にお泊りです。相模国の御家人がこの場所へ大勢集まりましたとさ。

文應元年(1260)十二月小三日丙申。リ。將軍家還御于鎌倉御所。御奉幣無爲云々。

読下し                      はれ しょうぐんけ かまくら ごしょ に かんご  ごほうへい ぶい   うんぬん
文應元年(1260)十二月小三日丙申。リ。將軍家鎌倉御所于還御。御奉幣無爲と云々。

現代語文応元年(1260)十二月小三日丙申。晴れです。宗尊親王将軍家は御所にお帰りです。お参りは無事に終わりましたとさ。

文應元年(1260)十二月小十六日己酉。明年正月御弓始射手等事。被差定之處。稱所勞申障之輩相交之間。今日。於小侍所相摸太郎殿。越後守等經談合。自由對捍不可然。内調之時企參上。可申子細之旨。被下御教書云々。」又武州〔長時〕頓病辛苦云々。

読下し                      みょうねんしょうがつ おんゆみはじめ  いてら   こと  さ   さだ  らる  のところ
文應元年(1260)十二月小十六日己酉。明年 正月の御弓始 の射手等の事、差し定め被る之處、

しょろう  しょう さは    もう  のやからあいまじ のあいだ  きょう こさむらいどころ をい  さがみたろうどの えちごのかみら だんごう  へ
所勞と稱し障りを申す之輩相交る之間、今日、小侍所に於て相摸太郎殿・越後守等談合を經る。

 じゆう  たいかんしか べからず  ないちょうのとき さんじょう くはだ   しさい  もう  べ   のむね  みぎょうしょ  くださる    うんぬん
自由@の對捍A然る不可。内調之時 參上を企て、子細を申す可し之旨、御教書を下被ると云々。」

またぶしゅう 〔ながとき〕  とんびょう しんく  うんぬん
又武州〔長時〕の頓病辛苦と云々。

参考@自由は、身勝手に。
参考A
對捍は、さぼり。怠ける。

現代語文応元年(1260)十二月小十六日己酉。来年の弓始め式の射手について、氏名を決めた処、病気だから都合が悪いと云ってる連中が混ざっているので、今日、小侍所で、相模太郎北条時宗と越後守実時たちが会議をしました。身勝手に怠けてはいけない。内定の時に小侍所へ来て、事情を話すように、命令書を発行しましたとさ。」
また、武州執権の長時さんの病気が重いのだそうな。

文應元年(1260)十二月小十七日庚戌。梶原上野六郎被加侍小番帳。武藤少卿景頼傳仰於小侍所云々。

読下し                       かじわらこうずけろくろう さむらいこばんちょう くは  らる
文應元年(1260)十二月小十七日庚戌。梶原上野六郎、侍 小番帳に加へ被る。

むとうしょうきょうかげより こさむどころ をい  つた  おお   うんぬん
武藤少卿景頼 小侍所に於て傳へ仰すと云々。

現代語文応元年(1260)十二月小十七日庚戌。梶原上野六郎を小侍所のメンバーに加えました。武藤少卿景頼が、小侍所で命じ伝えましたとさ。

文應元年(1260)十二月小十八日辛亥。リ。依將軍家御願。被供養八万四千基塔。導師尊家法印。

読下し                       はれ しょうぐんげ  ごがん  よっ    はちまんよんせんき   とう   くよう さる    どうし  そんけほういん
文應元年(1260)十二月小十八日辛亥。リ。將軍家の御願に依て、八万四千基の塔を供養被る。導師は尊家法印。

現代語文応元年(1260)十二月小十八日辛亥。晴れです。宗尊親王将軍家の祈願で、84000基の泥塔の開眼供養をしました。指導僧は尊家法印です。

文應元年(1260)十二月小廿日癸丑。陰。酉剋。御所東侍陀羅尼衆休所鳶飛入。御愼之由。陰陽道等勘申之。

読下し                     くも    とりのこく  ごしょ  ひがし さむらい だらにしゅう やすみどころ とび  と  い
文應元年(1260)十二月小廿日癸丑。陰り。酉剋、御所の東の侍@の陀羅尼衆Aの休所に鳶が飛び入る。

おんつつし のよし おんみょうどうら これ  かん  もう
御愼み之由、陰陽道等 之を勘じ申すB

参考@東の侍は、侍所なので、西の侍所もあると思われる(頼朝時代は西で出て来る)。
参考A陀羅尼衆は、陀羅尼は亡失しないの意味があるので、記録係かもしれない。
参考B勘じ申すは、占い結果を書き出す。

現代語文応元年(1260)十二月小二十日。癸丑。曇りです。午後六時頃、御所の東の侍所の記録係の控室に鳶が飛び込みました。御控えになるように、陰陽師の連中が上申書を出しました。

文應元年(1260)十二月小廿一日甲寅。リ。入道右大弁光俊朝臣〔法名眞觀。光親卿息〕自京都下着。當世哥仙也。

読下し                       はれ にゅうどううだいべんみつとしあそん 〔ほうみょうしんかん みつちかきょうそく〕 きょうとよ   げちゃく    とうせい  かせんなり
文應元年(1260)十二月小廿一日甲寅。リ。入道右大弁光俊朝臣〔法名眞觀。光親卿息〕京都自り下着す。當世の哥仙也。

現代語文応元年(1260)十二月小二十一日甲寅。晴れです。入道右大弁光俊さん〔出家名は真観。光親さんの息子です〕が京都から下って来ました。現在の和歌の名人です。

文應元年(1260)十二月小廿三日丙辰。小雨降。右大弁禪門始出仕。和歌興行盛也。

読下し                       こさめ ふ    うだいべんぜんもんはじ   しゅっし     わか  こうぎょうさか  なり
文應元年(1260)十二月小廿三日丙辰。小雨降る。右大弁禪門始めて出仕す。和歌の興行盛ん也。

参考興行は、盛んにすること。

現代語文応元年(1260)十二月小二十三日丙辰。小雨が降ってます。右大弁禅門光俊が初めて幕府へ出仕しました。和歌を盛んにするためです。

文應元年(1260)十二月小廿四日丁巳。寅剋。武州病患属減氣。汗太降云々。

読下し                       とらのこく ぶしゅう びょうかん げんき  ぞく    あせ はなは ふ    うんぬん
文應元年(1260)十二月小廿四日丁巳。寅剋。武州の病患減氣に属す。汗 太だ降ると云々。

現代語文応元年(1260)十二月小二十四日丁巳。午前4時頃、武州執権長時さんの病気の具合が好転しました。とても汗をかいたんだそうな。

文應元年(1260)十二月小廿五日戊午。京上所役事。有其沙汰。今日被定法云々。
一京上役事〔付大番役〕
 諸國御家人。恣云錢貨云夫駄。宛巨多用途於貧民等。致呵法譴責於諸庄之間。百姓等及佗際。不安堵由。遍有 其聞。然則於大番役者。自今以後。段別錢參百文。此上五町別官駄一疋。人夫二人。可宛催之。於此外者。一向可令停止也。令定下員數以後。於日來沙汰所々者。就此員數。不可加増也。
一地頭補任所々内御家人大番役事
 先々御家人役勤仕之輩者。可爲守護催促也。
又將軍家明日依可有御方違。供奉人事。如例以御點被催之。武藏前司。尾張前司。越後守等者。兼可候催儲御所之旨。被觸仰訖。武州者日來勞。越州者心神聊有違乱之事旨。言上云々。

読下し                      けいじょうしょやく  こと  そ   さた あ      きょう ほう  さだ  らる    うんぬん
文應元年(1260)十二月小廿五日戊午。京上所役の事、其の沙汰有り。今日法を定め被ると云々。

ひとつ けいじょうやく こと 〔おおばんやく   つ  〕
 一 京上役の事〔大番役@に付き〕

  しょこく ごけにん ほしいまま せんか  い    ふだ  い      こた    ようとうを ひんみんら  あ     あほう  けんせきを しょあつ  いた  のあいだ
 諸國御家人、恣に 錢貨と云ひ夫駄と云ひ、巨多の用途於貧民等に宛て、呵法の譴責A於諸庄に致す之間、

  ひゃくせいらださい  およ   あんどせざ  よし  ひとへ そ  きこ   あ   
 百姓等佗際Bに及び、安堵不る由、遍に其の聞へ有り。

  しか   すなは おおばんやく をい  は  いま よ   いご  たんべつぜにさんびゃくもん   こ   うえ ごちょうべつ  かんだ いっぴき  にんぷふたり  これ  あてもよお べ
 然るに則ち大番役に於て者、今自り以後、段別錢參百文C。此の上五町別に官駄一疋D、人夫二人、之を宛催す可し。

  こ   ほか  をい  は   いっこう  ちょうじせし  べ   なり
 此の外に於て者、一向に停止令む可き也。

  さだ  くだせし いんずう いご   ひごろ さた     しょしょ   をい  は   こ  いんずう  つ      かぞう    べからずなり
 定め下令む員數以後、日來沙汰する所々に於て者、此の員數に就き、加増する不可也E

ひとつ じとうぶにん  しょしょ    うちごけにん  おおばんやく こと
一 地頭補任の所々の内御家人の大番役の事

  さきざき ごけにんやく  ごんじ のやからは  しゅご   さいそくたるべ  なり
 先々御家人役を勤仕之輩者、守護の催促爲可き也。

また  しょうぐんけ あす おんかたたが あ  べ     よっ     ぐぶにん   こと  れい  ごと  ごてん  もっ  これ  もよおさる
又、將軍家明日御方違へ有る可きに依て、供奉人の事、例の如く御點を以て之を催被る。

むさしのぜんじ  おわりのぜんじ  えちごのかみら は  かね  もよお もう  ごしょ   こう  べ   のむね  ふ  おお  られをはんぬ
武藏前司・尾張前司・越後守等者、兼て催し儲く御所に候ず可き之旨、觸れ仰せ被訖。

ぶしゅうは ひごろいたは  えつしゅうは しんしん いささ いらん のこと あ    むね  ごんじょう   うんぬん
武州者日來勞り。越州者 心神 聊か違乱之事有るの旨、言上すと云々。

参考@大番役は、清盛が始めた京都御所警備で3年とした。これを頼朝は半年に減らした。
参考A
呵法の譴責は、厳しい決め事によって無理やり攻め取る。
参考B佗際は、貧乏になる。
参考C
段別錢參百文は、一反に付き300文。

参考D
五町別に官駄一疋は、5haにつき、運送用に馬一頭を出す。
参考E日來沙汰する所々云々は、普段これより少なくやっているからと云って、増やす事は無く、今まで通りにしなさい。

現代語文応元年(1260)十二月小二十五日戊戌。京都へ上洛して就く仕事について、その検討がありました。今日、法としてお決めになられましたとさ。
一 京都へ上洛して就く仕事について〔大番役について〕
  
諸国の御家人が、身勝手に銭でも人夫役でも、多額の費用を農民たちに負わせて、
厳しい決め事によって無理やり攻め取るので、百姓は貧乏になってしまい安心して暮らせる状態ではなくなってしまっているとの、噂があります。そういう訳で、すぐに大番役については、今から以降は、一反につき銭300文、それに加えて、5町ごとに運搬用の馬一頭、人夫2人を負わせてよい。それ以外は一切を禁止するものです。人数を決定した以後は、普段支配しているあちこちの領地ではこれより少なくやっているからと云って、人数を増やす事無く今までどおりにしなさい。
一 地頭を任命されているあちこちの場所の内、御家人の大番役について
 今後御家人役を勤める地頭連中は、守護の命令によります。

また、宗尊親王将軍家は明日方角替えをするので、お供のについては、いつも通り将軍のチェックによって決められます。武蔵前司朝直、尾張前司名越流北条時章、越後守金沢流北条実時は、前もって準備された御所にいるように、命令を出しました。武州長時はこの頃病気です。越後守金沢流北条実時は精神状態がよろしくないと、申しあげましたとさ。

文應元年(1260)十二月小廿六日己未。リ。依去廿日鳶恠。被行百恠祭。」今夜。將軍家御方違于相摸太郎殿御亭。中御所御同車〔八葉〕。
供奉人
 刑部少輔教時         遠江右馬助C時
 彈正少弼業時         相摸三郎時輔
 同七郎宗頼          新相摸三郎時村
 越後四郎時方         武藏五郎時忠
 宮内權大輔時秀        秋田城介泰盛
 壹岐前司基政         木工權頭親家
 和泉前司信(行)
A      上総前司長泰
 武藤少卿景頼         出羽大夫判官行有
 隱岐大夫判官行宗       式部太郎左衛門尉光政
 城六郎顯盛          信濃次郎左衛門尉時C
 薩摩七郎左衛門尉祐能     加藤左衛門尉景經
 周防五郎左衛門尉忠景
  以上立烏帽子直垂

読下し                       はれ さんぬ はつか  とび  あやし よっ    ひゃっけさい おこなはれ
文應元年(1260)十二月小廿六日己未。リ。去る廿日の鳶の恠に依て、百恠祭を行被る。」

こんや  しょうぐんけ さがみたろうどの  おんていに おんかたたが   なかごしょ  ごどうしゃ  〔はちよう〕
今夜、將軍家相摸太郎殿が御亭于御方違へ。中御所が御同車〔八葉〕

 ぐぶにん
供奉人

  ぎょうぶしょうゆうのりとき                 とおとうみうまのすけきよとき
 刑部少輔教時         遠江右馬助C時

  だんじょうしょうひつなりとき               さがみのさぶろうときすけ
 彈正少弼業時         相摸三郎時輔@

  おな    しちろうむねより               しんさがみのさぶろうときむら
 同じき七郎宗頼        新相摸三郎時村

  えちごのしとうときかた                  むさしのごろうときただ
 越後四郎時方         武藏五郎時忠

  くないごんのだいゆうときひで              あいだのじょうすけやすもり
 宮内權大輔時秀        秋田城介泰盛

  いきぜんじもとまさ                    もくごんのかみちかいえ
 壹岐前司基政         木工權頭親家

  いずみのぜんじんゆきかた               かずさのぜんじながやす
 和泉前司行方         上総前司長泰

  むとうしょうきょうかげより                 でわのたいふほうがんゆきあり
 武藤少卿景頼         出羽大夫判官行有

  おきのたいふほうがんゆきむね             しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ
 隱岐大夫判官行宗       式部太郎左衛門尉光政

  じょうのろくろうあきもり                  しなののじろうさえもんのじょうとききよ
 城六郎顯盛          信濃次郎左衛門尉時C

  さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし       かとうさえもんのじょうかげつね
 薩摩七郎左衛門尉祐能     加藤左衛門尉景經

  すおうのごろうさえもんのじょうただかげ
 周防五郎左衛門尉忠景

    いじょう たてえぼし ひたたれ
  以上立烏帽子直垂

参考@相摸三郎が、時輔で出演している。
参考A和泉前司信方は、行方の間違い。

現代語文応元年(1260)十二月小二十六日己未。晴れです。先日20日の鳶の怪しい行動があったので、お払いに百怪祭を行いました。」

今夜、宗尊親王将軍家は相模太郎北条時宗の屋敷へ方角替えです。中御所妻が同乗しました〔八葉の牛車〕。
お供の人
 刑部少輔教時       遠江右馬之助清時     弾正少弼業時       相模三郎時輔
 相模七郎宗頼       新相模三郎時村      越後四郎時方       武蔵五郎大仏流北条時忠
 宮内権大輔時秀      秋田城介安達泰盛     壱岐前司後藤基政     木工権頭中原親家
 和泉前司二階堂行方    上総前司大曽祢長泰    武藤少卿景頼       出羽大夫判官二階堂行有
 隠岐大夫判官二階堂行宗  式部太郎左衛門尉伊賀光政 城六郎安達顕盛      信濃次郎左衛門尉時清
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 加藤左衛門尉景経     周防五郎左衛門尉島津忠景
  以上は、立烏帽子に直垂

文應元年(1260)十二月小廿七日庚申。リ。松殿法印良基去八月將軍家御惱之時御祈賞。今月十六日任權僧正聞書。今日到來〔尻付御驗者賞云々〕。則參賀御所。土御門中納言爲申次。

読下し                       はれ まつどんぼほういんりょうき  さんぬ はちがつ しょうぐんけ ごのう のとき  おいのり しょう
文應元年(1260)十二月小廿七日庚申。リ。松殿法印良基、 去る八月 將軍家 御惱之時の御祈の賞。

こんげつじゅうろくにち ごんのそうじょう  にん  ききがき きょう とうらい   〔しりつけ   ごげんじゃ  しょう  うんぬん〕    すなは ごしょ  さんが
今月 十六日 權僧正@に任ず。聞書A今日到來す〔尻付に御驗者の賞と云々〕。則ち御所へ參賀す。

つちみかどちゅうなごん もうしつぎ たり
土御門中納言 申次 爲。

参考@權僧正は、定員外の僧正。
参考A聞書は、辞令決定を文書係(右筆)が書く。その写しをよこす。右筆が聞いた事を書く。

現代語文応元年(1260)十二月小二十七日庚申。晴れです。松殿法印良基は、去る8月宗尊親王将軍家が病気の時のお祈りの賞として、今月16日権僧正に任命されました。辞令が今日届きました〔文章の端に祈祷の賞とだそうな〕。すぐに御所へお礼参りに上がりました。土御門中納言が取次です。

文應元年(1260)十二月小廿九日壬戌。明春正月朔可有御行始。供奉人事可相催之由。武藤少卿傳仰小侍所。而爲垸飯出仕人々。於御所庭上。兼取座籍。所差並札也。仍光泰。實俊行向其所。就札所見注交名進上。申下御點。相觸其旨云々。

読下し                      みょうしゅん しょうがつ ついたち みゆきはじ  あ   べ
文應元年(1260)十二月小廿九日壬戌。明春  正月 朔@御行始め有る可き。

ぐぶにん   こと  あいもよお べ  のよし  むとうしょうきょう こさむらいどころ つた  おお
供奉人の事、相催す可き之由、武藤少卿 小侍所へ 傳へ仰す。

しか    おうばん ためしゅっし ひとびと  ごしょ  ていじょう  をい    かね   ざせき  と    へいさつ  さ  ところなり
而るに垸飯の爲出仕の人々、御所の庭上に於て、兼て座籍を取り、並札を差す所也。

よっ  みつやす さねとし そ  ところ  ゆ   むか   ふだ  しょけん  つ  きょうみょう ちゅう しんじょう    ごてん  もう  くだ    そ   むね  あいふる   うんぬん
仍て光泰・實俊其の所へ行き向ひ、札の所見に就き交名を注し進上す。御點を申し下し、其の旨を相觸ると云々。

参考@は、元日。

現代語文応元年(1260)十二月小二十九日壬戌。来春正月元旦のお出かけ始めをやります。お供について、催促するように武藤少卿景頼が小侍所へ伝えました。しかしながら、将軍への御馳走の振る舞いの為に出仕してきている人々は、御所の庭に予め座席を用意して、出席札を出すわけです。それなので、光泰と実俊がその場所へ行って、札を見て名前を書き出してお見せしましょう。それに将軍がチェックして、その趣旨を知らせる事にしましょうだとさ。

吾妻鏡入門第四十九巻  

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