吾妻鏡入門第五十巻  

弘長元年(1261)三月小

弘長元年(1261)三月小五日丁夘。引付沙汰不事行之由。訴人等愁訴之趣。達上聞之間。今日有評議。向後無懈緩之儀。早速可申沙汰也。於徒拘持奉行人等者。頭人就注申。可被處重科之旨。被觸仰引付云々。

読下し                    ひきつけ   さたごと いかざるのよし  そにんら しゅうそのおもむき じょうもん たっ    のあいだ  きょうひょうぎあ
弘長元年(1261)三月小五日丁夘。引付の沙汰事行不之由、訴人等愁訴之趣、上聞に達する@之間、今日評議有り。

きょうこう けかん のぎ な    さっそく  さた もう  べ   なり
向後は懈緩之儀無く、早速に沙汰申す可き也。

いたずら こうちぶぎょうにんら  をい  は  とうにんちゅう もう    つ   ちょうか  しょさる  べ   のむね  ひきつけ ふ  おお  らる    うんぬん
徒に拘持A奉行人等に於て者、頭人注し申しに就き、重科に處被る可き之旨、引付に觸れ仰せ被ると云々。

参考@上聞に達するは、将軍の耳に入った。
参考A拘持は、抱え持つ。

現代語弘長元年(1261)三月小五日丁卯。裁判担当官の引付衆が怠慢して事を勧めていないと、訴訟人が嘆いている噂が、将軍の耳に入りましたので、今日検討会がありました。今後は怠慢の無いように早速命令することにしました。むやみに事案を抱え持っている担当官については、班長は名前を書き出して、重罪に処分するように、裁判担当官に云い広めましたとさ。

弘長元年(1261)三月小十三日乙亥。霽。未尅。政所之郭内失火。廳屋。公文所。問注屋炎上。御倉等者免災。

読下し                      はれ ひつじのこく まんどころのかくないしっか  ちょうのうや くもんじょ  もんちゅうやえんじょう   みくららはわざわい まぬ
弘長元年(1261)三月小十三日乙亥。霽。未尅、政所之郭内失火す。廳屋@・公文所・問注屋炎上す。御倉A等者災を免かる。

参考@廳屋は、庁舎で政所そのもの。
参考A御倉は、公文所の倉庫。

現代語弘長元年(1261)三月小十三日乙亥。晴れました。午後2時頃、政務事務所の敷地内で失火がしました。政務庁舎・事務棟・裁判棟が燃えました。事務所の倉庫は火事をのがれました。

弘長元年(1261)三月小廿日壬午。雨降。今日。評定衆召連署起請。常陸介入道行日依不加判可離其衆。次引付衆等。進別紙起請。亦新制事。今日始施行之。引付結番被改之。
一番〔三日 廿二日〕
 武藏前司朝直          出羽前司入道々空
 縫殿頭師連           伊勢前司入道行願
 C左衛門尉滿定         式部太郎左衛門尉光政
 皆吉大炊助文幸         嶋田五郎親茂
二番〔七日 廿七日〕
 尾張前司時章          筑前々司入道行善
 直講教隆            宮内權大輔時秀
 進士次郎藏人光政        明石左近大夫兼綱
 對馬左衛門二郎
三番〔三日 十三日〕
 越後守實時           刑部少輔教時
 上総前司長泰          大田民部大夫康宗
 江民部大夫以基         長田左衛門尉廣雅
 佐藤民部次郎業連
四番〔七日 廿二日〕
 和泉前司行方          前大宰權少貳入道蓮佐
 對馬前司倫長          刑部權少輔政茂
 壹岐前司基政          山城前司俊平
 山名中務大夫俊行        雜賀太郎尚持
五番〔十二日 廿七日〕
 秋田城介泰盛          大宰權少貳景頼
 伊賀前司時家          信濃判官入道行一
 隱岐大夫判官行氏        中山城前司盛時
 佐藤民部大夫行幹        山名進次郎行直
 齋藤次朝俊

読下し                     あめふ    きょう ひょうじょうしゅうれんしょ きしょう  め
弘長元年(1261)三月小廿日壬午。雨降る。今日、評定衆連署の起請を召す@

ひたちのすけにゅうどうぎょうじつ はん  くは  ざる  よっ  そ  しゅう   はな  べ     つぎ ひきつけしゅうら  べっし  きしょう  すす
 常陸介入道行日A判を加へ不に依て其の衆より離る可し。次に引付衆等、別紙の起請を進む。

またしんせい こと  きょう はじ    これ  せこう   ひきつけ  けちばんこれ  あらた らる
亦新制Bの事、今日始めて之を施行す。引付の結番之を改め被る。

参考@起請を召すは、起請文を出させる。
参考A
常陸介入道行日は、二階堂行久。
参考B新制の事は、弘長新制六十か条。

いちばん 〔みっか にじゅうににち〕
一番〔三日 廿二日〕

  むさしのぜんじともなお                     でわぜんじにゅうどうどうくう
 武藏前司朝直          出羽前司入道々空

  ぬいどののとうもろつら                     いせぜんじにゅうどうぎょうがん
 縫殿頭師連           伊勢前司入道行願

  せいのさえもんのじょうみつさだ                しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ
 C左衛門尉滿定         式部太郎左衛門尉光政

  かいきのおおいのすけふみゆき               しまだのごろうちかしげ
 皆吉大炊助文幸         嶋田五郎親茂

 にばん 〔なぬか にじゅうしちにち〕
二番〔七日 廿七日〕

  おわりのぜんじときあき                     ちくぜんぜんじにゅうどうぎょうぜん
 尾張前司時章          筑前々司入道行善

  じきこうのりたか                         くなおごんのだいゆうときひで
 直講教隆            宮内權大輔時秀

  しんじのじろうくろうどみつまさ                 あかしさこんのたいふかねつな
 進士次郎藏人光政        明石左近大夫兼綱

  つしまのさえもんじろう
 對馬左衛門二郎

さんばん 〔みっか じゅうさんにち〕
三番〔三日 十三日〕

  えちごのかみさねとき                      ぎょうぶしょうゆうのりとき
 越後守實時           刑部少輔教時

  かずさのぜんじながやす                    おおたみんぶのたいふやすむね
 上総前司長泰          大田民部大夫康宗

  えみんぶのたいふもちもと                   おさださえもんのじょうひろまさ
 江民部大夫以基         長田左衛門尉廣雅

  さとうみんぶのじろうなりつら
 佐藤民部次郎業連

よんばん 〔なぬか にじゅうににち〕
四番〔七日 廿二日〕

  いずみのぜんじゆきかた                    さきのだざいごんのしょうににゅうどうれんさ
 和泉前司行方          前大宰權少貳入道蓮佐

  つしまのぜんじともなが                     ぎょうぶごんのしょうゆうまさしげ
 對馬前司倫長          刑部權少輔政茂

  いきぜんじもとまさ                        やましろぜんじとしひら
 壹岐前司基政          山城前司俊平

  なまななかつかさのたいふとしゆき              さいがのたろうなおもち
 山名中務大夫俊行        雜賀太郎尚持

 ごばん 〔じゅうににち にじゅうしちにち〕
五番〔十二日 廿七日〕

  あいだのじょうすけやすもり                   だざいごんのしょうにかげより
 秋田城介泰盛          大宰權少貳景頼

  いがぜんじときいえ                       しなののほうがんにゅうどうぎょういつ
 伊賀前司時家          信濃判官入道行一

  おきのたいふほうがんゆきうじ                 なかのやましろぜんじもりとき
 隱岐大夫判官行氏        中山城前司盛時

  さとうみんぶのたいふゆきもと                 やまなしんじろうゆきなお
 佐藤民部大夫行幹        山名進次郎行直

  さいとうじともとし
 齋藤次朝俊

参考三日が一番三番。七日が二番四番。十二日が五番。十三日が三番。廿二日が一番四番。廿七日が二番五番

現代語弘長元年(1261)三月小二十日壬午。雨降りです。今日、政務会議メンバーの連名の起請文を出させました。常陸介入道行日二階堂行久は花押を書きませんでしたので、メンバーから外しました。そして裁判担当官は、別な用紙で起請文を提出しました。また、弘長新制60か条を今日初めて施行しました。裁判担当官の班編成を変えました。
一班〔三日と二十三日〕
 武蔵前司大仏流北条朝直 出羽前司入道道空二階堂行義 縫殿頭中原師連 伊勢前司入道行願二階堂行綱
 清原左衛門尉満定    式部太郎左衛門尉伊賀光政  皆吉大炊助文幸 島田五郎親茂
二班〔七日と二十七日〕
 尾張前司名越流北条時章 筑前前司入道行善二階堂行泰 直講教隆    宮内権大輔長井時秀
 進士次郎蔵人伊賀光政  明石左近大夫兼綱      対馬左衛門二郎
三班〔三日と十三日〕
 越後守金沢流北条実時  刑部少輔教時        上総前司大曽祢長泰 大田民部大夫康宗
 大江民部大夫以基    長田左衛門尉広雅      佐藤民部次郎業連
四班〔七日と二十二日〕
 和泉前司二階堂行方   前太宰権少弐入道蓮佐狩野為佐 対馬前司矢野倫長 刑部権少輔那波政茂
 壱岐前司後藤基政    山城前司深沢俊平      山名中務大夫俊行  雑賀太郎尚持
五班〔十二日と二十七日〕
 秋田城介安達泰盛    太宰権少弐武藤景頼     伊賀前司小田時家  信濃判官入道行一二階堂行忠
 隠岐大夫判官二階堂行氏 中山城前司盛時       佐藤民部大夫行幹  山名進次郎行直       齋藤次朝俊

弘長元年(1261)三月小廿五日丁亥。霽。近習人々之中。以歌仙被結番。各當番之日。可奉五首和歌之由被定下。冷泉侍從隆茂。持明院少將基盛。越前々司時廣。遠江次郎時通。壹岐前司基政。掃部助範元。鎌田次郎左衛門尉行俊等爲其衆。

読下し                      はれ  きんじゅう ひとびとのうち  かせん  もっ  けちばんさる
弘長元年(1261)三月小廿五日丁亥。霽。近習の人々之中、歌仙を以て結番被る。

おのおの とうばん のひ     ごしゅ   わか たてまつ べ  のよしさだ   くださる
 各 當番之日は、五首の和歌を奉る可し之由定め下被る。

れいじじじゅうたかしげ  じみょういんしょうしょうもともり えちぜんぜんじときひろ とおとうみのじろうときみち  いきぜんじもとまさ  かもんのすけのりもと  かまたのじろうさえもんのじょうゆきとしら
冷泉侍從隆茂・持明院少將基盛・越前々司時廣・遠江次郎時通・壹岐前司基政・掃部助範元・鎌田次郎左衛門尉行俊等

 そ しゅうたり
其の衆爲。

現代語弘長元年(1261)三月小二十五日丁亥。晴れました。将軍の身の回りの世話する近習のうちで、和歌の心得のあるものを班に組みました。それぞれ当番に当る日は、五首の和歌を用意してくるように決めて命じました。冷泉侍従隆茂、持明院少将藤原基盛、越前前司北条時広、遠江次郎時通、壱岐前司後藤基政、掃部助押垂範元、鎌田次郎左衛門尉行俊などが、そのメンバーです。

四月へ

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