吾妻鏡入門第五十巻  

弘長元年(1261)四月大

弘長元年(1261)四月大廿一日壬子。依可有入御于奥州禪門極樂寺亭。被相催供奉人。可爲直垂立烏帽子之由云々。

読下し                      おうしゅうぜんもん ごくらくじていに にゅうぎょあ   べ    よっ     ぐぶにん  あいもよ  さる
弘長元年(1261)四月大廿一日壬子。奥州禪門の極樂寺亭于入御有る可きに依て、供奉人を相催お被る。

いたたれたてえぼしたるべ   のよし  うんぬん
直垂立烏帽子爲可き之由と云々。

現代語弘長元年(1261)四月大二十一日壬子。奥州禅門極楽寺流北条重時の屋敷へのお出かけがあるので、お供の人を決めました。直垂に立烏帽子にするようにとの事だそうな。

弘長元年(1261)四月大廿三日甲寅。雨降。相摸太郎殿〔十一歳〕御嫁娶〔堀内殿〕。女房自甘繩亭御出之時。掃部助範元候御身固。爲此御祈。自去廿二日。天曹地府。咒詛。靈氣等祭勤行之云々。

読下し                      あめふ   さがみたろうどの 〔じゅういっさい〕 おんよめとり 〔ほりうちどの〕
弘長元年(1261)四月大廿三日甲寅。雨降る。相摸太郎殿〔十一歳〕御嫁娶〔堀内殿〕

にょぼうあまなわていよ  ぎょしゅつのとき  かもんのすけのりもとおんみがため そうら
女房甘繩亭自り御出之時、掃部助範元御身固に候う。

こ   おいの    ため  さんぬ にじゅうににち よ    てんそうちふ  じゅそ   れいきら  まつりこれ  ごんぎょう   うんぬん
此の御祈りの爲、去る 廿二日 自り、天曹地府・咒詛・靈氣等の祭之を勤行すと云々。

現代語弘長元年(1261)四月大二十三日甲寅。雨降りです。相模太郎北条時宗〔数えの十一歳〕の嫁取りです〔安達泰盛の妹の堀内殿〕。女性は甘縄の屋敷からお出ましの時、掃部助押垂範元が身の回りのお払いをしました。このお祈りをするために、前日の二十二日から天曹地府祭・呪詛祭・霊気祭を勤めましたとさ。

弘長元年(1261)四月大廿四日乙夘。リ。將軍家〔御騎馬〕入御于奥州禪門極樂寺新造山庄。御息所同渡御。相州禪門豫令候給。
供奉人
御所御方〔騎馬〕
 土御門中納言          相摸太郎
 足利大夫判官          備前々司
 尾張左近大夫          相摸三郎
 武藏五郎            秋田城介
 和泉前司            中務權少輔
 佐々木壹岐前司         木工權頭
 式部太郎左衛門尉
  歩行
〔御釼〕
 遠江右馬助           常陸二郎左衛門尉
 城六郎             同九郎
 信濃二郎左衛門尉        大隅修理亮
 薩摩七郎左衛門尉        武藤左衛門尉
 美作兵衛藏人          甲斐三郎左衛門尉
 周防五郎左衛門尉        大曽祢太郎左衛門尉
 土肥四郎左衛門尉        隱岐四郎兵衛尉
 武石新左衛門尉         三村新左衛門尉
 鎌田三郎左衛門尉
中御所御方〔騎馬〕
〔御輿寄〕            〔同〕
 刑部少輔            彈正少弼
 越後右馬助           新相摸三郎
 遠江七郎            越後四郎
 宮内權大輔           三河前司
 武藤少卿            後藤壹岐前司
 加賀守
  歩行
 城五郎左衛門尉         出羽七郎左衛門尉
 上総太郎左衛門尉        信濃判官二郎左衛門尉
 隱岐三郎左衛門尉        小野澤二郎
明日依可有御笠懸射手事。太郎殿祗候人。并可然諸家々人等。可被催具之由。行方。景頼奉仰。觸申小侍所云々。

読下し                      はれ しょうぐんけ 〔 おんきば 〕 おうしゅうぜんもん ごくらくじ  しんぞう  さんしょうに にゅうぎょ
弘長元年(1261)四月大廿四日乙夘。リ。將軍家〔御騎馬〕奥州禪門が極樂寺@の新造の山庄于入御す。

みやすどころ おな    わた  たま   そうしゅうぜんもん あらかじ こう  せし  たま
 御息所 同じく渡り御う。相州禪門 豫め候じ令め給ふ。

参考@極楽寺は、1259開創ともいわれているが、1267に忍性が開山忍性菩薩行状略頌にあるので、この時点では極楽寺の名は無い。

 ぐぶにん
供奉人

ごしょ  おんかた 〔 きば 〕
御所の御方〔騎馬〕

  つちみかどちゅうなごん                   さがみのたろう
 土御門中納言          相摸太郎

  あしかがたいふのほうがん                  びぜんのぜんじ
 足利大夫判官          備前々司

  おわりさこんのたいふ                     さがみのさぶろう
 尾張左近大夫          相摸三郎

  むさしのごろう                         あいだのじょうすけ
 武藏五郎            秋田城介

  いずみのぜんじ                        なかつかさごんのしょうゆう
 和泉前司            中務權少輔

  ささきのいきぜんじ                       もくごんのかみ
 佐々木壹岐前司         木工權頭

  しきぶのたろうさえもんのじょう
 式部太郎左衛門尉

      かち
  歩行

  とおとうみのうまのすけ  〔ぎょけん〕              ひたちのじろうさえもんのじょう
 遠江右馬助〔御釼〕        常陸二郎左衛門尉

  じょうのろくろう                          おな   くろう
 城六郎             同じき九郎

  しなののじろうさえもんのじょう                 おおすみしゅりのすけ
 信濃二郎左衛門尉        大隅修理亮

  さつまのしちろうさえもんのじょう                むとうさえもんのじょう
 薩摩七郎左衛門尉        武藤左衛門尉

  みまさかひょうえくらんど                    かいのさぶろうさえもんのじょう
 美作兵衛藏人          甲斐三郎左衛門尉

  すおうのごろうさえもんのじょう                 おおそねいやたろうさえもんのじょう
 周防五郎左衛門尉        大曽祢太郎左衛門尉

  といのしろうさえもんのじょう                  おきのしろうさえもんのじょう
 土肥四郎左衛門尉        隱岐四郎兵衛尉

  たけいしのしんさえもんのじょう                みむらのしんさえもんのじょう
 武石新左衛門尉         三村新左衛門尉

  かまたのさぶろうさえもんのじょう
 鎌田三郎左衛門尉

なかごしょ おんかた 〔 きば 〕
中御所御方〔騎馬〕

  ぎょうぶしょうゆう 〔おんこしよせ〕             だんじょうしょうひつ 〔どう〕
 刑部少輔〔御輿寄〕        彈正少弼〔同〕

  えちごのうまのすけ                    しんさがみのさぶろう
 越後右馬助           新相摸三郎

  とおとうみのしちろう                    えちごのしろう
 遠江七郎            越後四郎

  くないごんのだいゆう                   みかわのぜんじ
 宮内權大輔           三河前司

  むとうしょうきょう                       ごとうのいきぜんじ
 武藤少卿            後藤壹岐前司

  かがのかみ
 加賀守

     かち
  歩行

  じょうのごろうさえもんのじょう                  でわのしちろうさえもんのじょう
 城五郎左衛門尉         出羽七郎左衛門尉

  かずさのたろうさえもんのじょう                 しなののほうがんじろうさえもんのじょう
 上総太郎左衛門尉        信濃判官二郎左衛門尉

  おきのさぶろうさえもんのじょう                 おのざわのじろう
 隱岐三郎左衛門尉        小野澤二郎

 あす  おんかさがけ あ  べ     よっ   いて   こと  たろうどの  しこうにんなら    しか  べ   しょけけにんら  もよお ぐさる  べ  のよし
明日、御笠懸有る可きに依て射手の事、太郎殿・祗候人并びに然る可き諸家々人等、催し具被る可き之由、

ゆきかた かげよりおお  うけたまわ こさむらいどころ ふ  もう   うんぬん
行方・景頼仰せを奉り、小侍所に觸れ申すと云々。

現代語弘長元年(1261)四月大二十四日乙卯。晴れです。宗尊親王将軍家〔乗馬〕は、奥州禅門重時の極楽寺の新築の別荘へお出でです。将軍の奥様御息所も同様にお出でになりました。相州禅門時頼は、前もって重時亭に来て待ってました。
お供の人は、将軍のお供で
 乗馬は、 土御門中納言顕方  相模太郎北条時宗    足利大夫判官家氏 備前前司名越時長  尾張左近大夫名越公時
      相模三郎時輔    武蔵五郎大仏流北条時忠 秋田城介安達泰盛 和泉前司二階堂行方 中務権少輔守教
      佐々木壱岐前司泰綱 木工権頭中原親家    式部太郎左衛門尉伊賀光政

 歩行は、 遠江右馬助清時〔太刀持ち〕 常陸次郎左衛門尉二階堂行雄 城六郎安達顕盛  同九郎安達長景  信濃二郎左衛門尉二階堂行宗
      大隅修理亮島津久時     薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  武藤左衛門尉頼泰 美作兵衛蔵人長教 甲斐三郎左衛門尉狩野為成
      周防五郎左衛門尉島津忠景  大曽祢太郎左衛門尉長頼   土肥四郎左衛門尉実綱 隠岐四郎兵衛尉二階堂行廉
      武石新左衛門尉長胤     三村新左衛門尉時親     鎌田三郎左衛門尉義長

奥さんのお供で
 乗馬は、 刑部少輔北条教時〔輿の脇〕 弾正少弼北条業時〔同じ〕  越後右馬助北条時親 新相模三郎北条時村 遠江七郎北条時基
      越後四郎北条時方      宮内権大輔長井時秀     三河前司新田頼氏  武藤少卿景頼    後藤壱岐前司基政
      加賀守佐々木親清
 歩行は、 城五郎左衛門尉安達重景   出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 上総太郎左衛門尉大曽祢長経 信濃判官次郎左衛門尉二階堂時清
      隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 小野沢二郎時仲

明日は、笠懸をするので射手について、北条時宗・お供の人それにそれ相応の御家人達を集めるように、二階堂行方と武藤景頼が、小侍所へ通知しましたとさ。

弘長元年(1261)四月大廿五日丙辰。於極樂寺御第。有御笠懸。
射手
 相摸三郎            同七郎
 遠江七郎            城五郎左衛門尉
 信濃二郎左衛門尉        大隅修理亮
 甲斐三郎左衛門尉        城弥九郎
 上総太郎左衛門尉        信濃判官二郎左衛門尉
 小野澤次郎           武石新左衛門尉
 三浦六郎左衛門尉        信濃二郎左衛門尉
次有小笠懸。而近代強不翫此藝之間。凡無堪能之人。最明寺禪室(時頼)覽之。有御自讃。於小笠懸藝者。太郎(時宗)尤得其躰。召之欲令射云々。上下太入興。于時太郎殿御坐鎌倉御亭。仍以專使被奉請之。爲城介泰盛奉行。用意御物具等。御馬長崎左衛門尉就之。御的武田五郎三郎造進。工藤二郎右衛門尉立之。既列馬塲。被出御馬〔号鬼鴾毛〕之處。此御馬兼慣于遠笠懸之間。欲馳過的前。仍被制弓引目。被留御駕。爰禪室一度通之後。可射之由被仰之時。一度馳通之令射給。其御矢中于的串一寸許之上。的如塵而擧于御烏帽子上。則自馬塲末。直馳歸鎌倉給。諸人感聲動搖暫不止。將軍家御感及再三。禪室至吾家夫相當于可受繼器之由被仰云々。
「廿五日丙辰」リ。酉尅。將軍家自極樂寺還御云々。

読下し                      ごくらくじ  おんだい  をい   おんかさがけ あ
弘長元年(1261)四月大廿五日丙辰。極樂寺の御第に於て、御笠懸有り。

 いて
射手

  さがみのさぶろう                       おな   しちろう
 相摸三郎            同じき七郎

  とおとうみのしちろう                      じょうのごろうさえもんのじょう
 遠江七郎            城五郎左衛門尉

  しなののじろうさえもんのじょう                おおすみしゅりのすけ
 信濃二郎左衛門尉        大隅修理亮

  かいのさぶろうさえもんのじょう                じょうのいやくろう
 甲斐三郎左衛門尉        城弥九郎

  かずさのたろうさえもんのじょう                しなののじろうさえもんのじょう
 上総太郎左衛門尉        信濃二郎左衛門尉

  おのざわのじろう                        たけいしのしんさえもんのじょう
 小野澤次郎           武石新左衛門尉

  みうらのろくろうさえもんのじょう                しなののじろうさえもんのじょう
 三浦六郎左衛門尉        信濃二郎左衛門尉

つい  こがさがけ あ    しか    きんだいあなが   かく  げい もてあそ ざるのあいだ  およ  たんのう のひとな
次で小笠懸有り。而るに近代強ちに此の藝を翫ば不之間、凡そ堪能之人無し。

さいみょうじぜんしつこれ み    ごじさん あ
最明寺禪室之を覽て、御自讃有り。

こがさがけ  げい  をい  は   たろうもっと そ  てい  え     これ  め   い せし      ほっ    うんぬん  じょうげはなは きょう い
小笠懸の藝に於て者、太郎尤も其の躰を得る。之を召し射令めんと欲すと云々。上下太だ興に入る。

ときに たろうどのかまくら  おんてい   おは     よっ  せんし  もっ  これ  しょう たてまつらる
時于太郎殿鎌倉の御亭に御坐す。仍て專使を以て之を請じ 奉被る。

じょうすけやすもりぶぎょう な   おんもののぐら  ようい    おんうま  ながさきさえもんのじょうこれ  つ     おんまと  たけだのごろさぶろうつく  すす
城介泰盛奉行と爲し、御物具等を用意す。御馬は長崎左衛門尉之に就き、御的は武田五郎三郎造り進む。

くどうのじろううえもんのじょうこれ  た   すで   ばば   なら
工藤二郎右衛門尉之を立て、既に馬塲に列べる。

おんうま 〔おにつきで  ごう  〕   いでらる  のところ  こ   おんうまかね  とおがさがけに なる  のあいだ  まとまえ  は   す     ほっ
御馬〔鬼鴾毛と号す〕で出被る之處、此の御馬兼て遠笠懸于慣る之間、的前を馳せ過ぎんと欲す@

よっ  ゆみひきめ  さいされ  おんが  とど  らる
仍て弓引目を制被、御駕を留め被る。

ここ  ぜんしついちど とお  ののち  い   べ   のよしおお  らる  のとき  いちどこれ  は   とお  い せし  たま
爰に禪室一度通る之後、射る可き之由仰せ被る之時、一度之を馳せ通り射令め給ふ。

 そ おんや まとぐしいっすんばか  のうえに あた    まと  ちり  ごと    て おんえぼし  うえに あが
其の御矢的串一寸許り之上于中る。的は塵の如くし而御烏帽子の上于擧る。

すなは  ばばすえよ    じき  かまくら  は   かえ  たま    しょにん  かんせいどうようしばら やまず   しょうぐんけ  ぎょかんさいさん  およ
則ち馬塲末自り、直に鎌倉へ馳せ歸り給ふ。諸人の感聲動搖暫く不止。將軍家の御感再三に及ぶ。

ぜんしつわがや  いた  それ う  つ  べ  うつわに そうとう    のよしおお  らる     うんぬん
禪室吾家に至り夫受け繼ぐ可き器于相當する之由仰せ被ると云々。

 「にじゅうごにちひのえたつ」 はれ とりのこく しょうぐんけ ごくらくじ よ   かんご    うんぬん
 「廿五日丙辰」 リ。酉尅。將軍家極樂寺自り還御すと云々。

現代語弘長元年(1261)四月大二十五日丙辰。将軍の来ている極楽寺の屋敷で、笠懸がありました。
射手 相模三郎時輔        対 同七郎宗頼
   遠江七郎北条時基      対 城五郎左衛門尉安達重景
   信濃二郎左衛門尉二階堂行宗 対 大隅修理亮島津久時
   甲斐三郎左衛門尉狩野為成  対 城弥九郎安達長景
   上総太郎左衛門尉
大曽祢長経 対 信濃二郎左衛門尉二階堂行宗
   小野沢二郎時仲       対 武石新左衛門尉長胤
   三浦六郎左衛門尉佐原頼盛  対 
信濃二郎左衛門尉二階堂行宗

次に小笠懸がありました。しかし、最近では無理してこの芸は流行らないので、特に上手な人が居ません。最明寺禅室時頼はこれを見て自慢をしました。
「小笠懸の芸については、太郎時宗が一番それを心得ている。彼を呼んで射させてみましょう。」と言ったので、人々は興味津々です。
この時、太郎時宗は鎌倉の街中にいました。それで使いを行かせてこれを呼びつけました。城介安達泰盛が指揮担当して、道具類を用意しました。馬は長崎左衛門尉平盛時が準備して、的は武田五郎三郎政綱が作って提出しました。工藤二郎右衛門尉光泰が立てて馬場に並べ終えました。
馬〔鬼月毛と云います〕で出て来た所、この馬は以前から遠笠懸に慣れているので、的の前を通り過ぎようとします。それで弓と匹目矢で押さえ馬を止らせました。すると禅室時頼は「一度通り抜けて逆走して射るよう」に云いましたので、一度これを通り過ぎて逆走しなが射ました。
その矢は的を支えている串の上3cm程に当りました。的は塵の様に砕けて烏帽子の上まで上がりました。すぎに馬場の端から直接鎌倉市街へ走って帰ってしまいました。
見物人の感動の声がしばらく止みませんでした。宗尊親王将軍家のお褒めが何度もありました。
禅室時頼は、我が家に帰ってから家を受け継ぐ器にぴったりだと仰せになりましたとさ。
午後6時頃に将軍は極楽寺から帰りましたとさ。

参考@遠笠懸于慣る之間、的前を馳せ過ぎんと欲すは、これを類推すると遠笠懸は、的前を過ぎてから後ろへ振り返りながら射るのだろう。
参考A一度通る之後、射る可きは、一旦通り過ぎて逆走しながら射る。

弘長元年(1261)四月大廿六日丁巳。亥尅。前隼人正從五位上藤原朝臣光重法師〔法名光心〕卒。

読下し                      いのこく さきのはやとのしょうじゅごういじょうふじわらあそんみつしげほっし 〔ほうみょうこうしん〕 そっ
弘長元年(1261)四月大廿六日丁巳。亥尅。前隼人正從五位上藤原朝臣光重法師〔法名光心〕卒す。

現代語弘長元年(1261)四月大二十六日丁巳。午後11時頃、前隼人正従五位上藤原朝臣伊賀光重法師〔出家名は光心〕が亡くなりました。

弘長元年(1261)四月大廿八日己未。リ。入夜雨降。今日午尅暈見。其色黄赤白也。

読下し                      はれ  よ   い   あめふ    きょううまのこくかさみ    そ   いろあおきあかしろなり
弘長元年(1261)四月大廿八日己未。リ。夜に入り雨降る。今日午尅暈見ゆ。其の色黄赤白也。

参考は、太陽や月などの周囲に見える、輪状の光。かさ。

現代語弘長元年(1261)四月大二十八日己未。晴れです。夜になって雨が降りました。今日の昼頃に太陽に傘(輪)がかかりました。その色は青や黄色や赤や白でした。

五月へ

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