吾妻鏡入門第五十巻  

弘長元年(1261)六月大

弘長元年(1261)六月大一日辛夘。奥州禪門俄病惱。彼邊諸人群集。今日於厠被見恠異之後。心神惘然云々。

読下し                    おうしゅうぜんもんにわか びょうのう か  へんしょにんぐんしゅう
弘長元年(1261)六月大一日辛夘。奥州禪門俄に病惱。彼の邊諸人群集す。

きょう   かわや をい  かいい  みらる  ののち  しんしんぼうぜん    うんぬん
今日、厠に於て恠異を見被る之後、心神惘然すと云々。

現代語弘長元年(1261)六月大一日辛卯。奥州禅門重時が急に病気になりました。かれの屋敷周りに野次馬が集まりました。今日、便所で怪しい事を見て、心身が呆然となったそうな。

弘長元年(1261)六月大三日癸巳。雨降。申斜。御所北對西端与臺所東間。海黒鳥〔海鴨云々。名非一。其又奥允云々〕飛落。和泉前司行方郎從等獲之。即被放海邊。

読下し                    あめふ   さるのこく ごしょ  きた  たいせいたんと だいどころひがし あいだ
弘長元年(1261)六月大三日癸巳。雨降る。申斜、御所の北の對西端与臺所東の間に、

うみこくちょう 〔うみがも  うんぬん  な いつ あらず  それまたおくじゅう  うんぬん〕  と  お
海黒鳥〔海鴨@と云々。名一に非。其又奥允と云々〕飛び落ちる。

いずみのぜんじゆきかた ろうじゅうらこれ  え    すなは うみへん  はなたれ
和泉前司行が方郎從等之を獲て、即ち海邊に放被る。

参考@海鴨は、主として海上で暮らし、潜水して魚や貝などをとるカモ類をいう。 ハジロガモ類・クロガモ類・ケワタガモ類など。 『三省堂 大辞林』

現代語弘長元年(1261)六月大三日癸巳。雨降りです。午後四時頃に来たの対の屋の西端と台所の東の間に、海黒鳥〔海鴨ともいう。名は一つに限らない。それをまた奥充とも云う〕が飛んで落ちてきました。和泉前司二階堂行方の部下がこれを捕まえて、すぐに海へ放しました。

弘長元年(1261)六月大六日丙申。霽。爲和泉前司奉行。昨鳥恠事。於御所被行御占。リ茂朝臣已下病事火事之由勘申。此鳥。貞應元年四月。死寄前濱腰越等。同年八月彗星出現云々。

読下し                    はれ いずみのぜんじぶぎょう  な    さくちょうあや    こと  ごしょ  をい  みうら  おこなはれ
弘長元年(1261)六月大六日丙申。霽。和泉前司奉行と爲し、昨鳥恠しの事、御所に於て御占を行被る。

はるしげあそん いげ やまい こと ひ  こと のよし  かん  もう    
リ茂朝臣已下病の事火の事之由を勘じ申す。

こ   とり  じょうおうがんねんしがつ  まえはま こしごえら  し   よ    どうねんはちがつ すいせいしゅつげん  うんぬん
此の鳥、貞應元年四月、前濱・腰越等に死に寄す。同年八月に彗星出現すと云々。

参考貞應元年は、承久の乱(1221)の翌年。

現代語弘長元年(1261)六月大六日丙申。晴れました。和泉前司二階堂行方が指揮担当して、昨日の鳥の奇怪な行動について、将軍御所で占いを行いました。安陪晴茂さん以下のの陰陽師が、病気の事や火事の事を注意するよう上申しました。
この鳥は、貞応元年(1222)四月に由比ガ浜や腰越の浜に死んだのが波に寄せられてきました。同じ年の八月には彗星が現れたんだとさ。

弘長元年(1261)六月大七日丁酉。リ。於御所被行百恠祭三座。爲親。職宗。茂氏等奉仕之。政所沙汰也。

読下し                    はれ  ごしょ  をい  ひゃっかいさいさんざ  おこなはれ
弘長元年(1261)六月大七日丁酉。リ。御所に於て百恠祭三座を行被る。

ためちか もとむね しげうじら これ  ほうし   まんどころ  なた なり
爲親・職宗・茂氏等之を奉仕す。政所の沙汰也。

現代語弘長元年(1261)六月大七日丁酉。晴れです。御所で百怪祭を三人の陰陽師で行いました。安陪為親・職宗・茂氏たちが勤めました。政所の提供です。

弘長元年(1261)六月大十日庚子。リ。將軍家依變異等事。有御物忌。但非堅固之儀。外宿人參入也。有評議如此云々。

読下し                    はれ しょうぐんけ へんいら  こと  よっ    おんものいみあ
弘長元年(1261)六月大十日庚子。リ。將軍家變異等の事に依て、御物忌有り。

ただ  けんご のぎ  あらず   としゅくいんさにゅうなり ひょうぎあ   かく  ごと    うんぬん
但し堅固之儀に非。外宿人參入也。評議有りて此の如しと云々。

現代語弘長元年(1261)六月大十日庚子。晴れです。宗尊親王将軍家は、色々な変異の出現によって潔斎し尾籠がありました。但し、大げさなものではなく、宿直人が入ってくるのは有りです。会議検討してこのようにしたそうな。

弘長元年(1261)六月大十二日壬寅。來八月放生會御參宮供奉人事。自小侍所。任例注交名。爲申下御點。被付武藤少卿景頼云々。

読下し                      きた  はちがつ  ほうじょうえ  ごさんぐう   ぐぶにん   こと こさむらいどころよ   れい  まか きょうみょう ちゅう
弘長元年(1261)六月大十二日壬寅。來る八月の放生會に御參宮の供奉人の事、小侍所自り、例に任せ交名を注す。

 ごてん  もう  くだ   ため  むとうしょうきょうかげより  つけらる   うんぬん
御點を申し下さん爲、武藤少卿景頼に付被ると云々。

現代語弘長元年(1261)六月大十二日壬寅。来る8月15日の魚鳥を放して贖罪する放生会のお参りのお供について、将軍の身の回りの世話をする小御所から礼によって名簿を書き出しました。将軍にチェックを付けてもらう為、武藤景頼に預けましたとさ。

弘長元年(1261)六月大十六日丙午。天リ。奥州禪門違例事。去朔日以後。毎日晩景發動。如瘧病。仍自同十一日。屈請若宮僧正。令加持之處。來廿二日可及減氣之由。今夜僧正被申之。數輩賢息并縁者祗候人等聞之。面々成奇異之思云々。

読下し                      そらはれ おうしゅうぜんもん いれい  こと さんぬ ついたち いご  まいにちばんけい  はつどう   おこりやまい ごと
弘長元年(1261)六月大十六日丙午。天リ。奥州禪門違例の事、去る朔日以後、毎日晩景に發動す。瘧病の如し。

よっ  おな  じゅういちにちよ   わかみやそぷじょうくっしょう   かじ せし  のところ  きた にじゅうさんにち げんき  およ  べ  のよし  こんやそうじょうこれ もうさる
仍て同じき十一日自り、若宮僧正屈請し、加持令む之處、來る廿二日減氣に及ぶ可き之由、今夜僧正之を申被る。

すうやから けんそくなら   えんじょ  しこうにんら これ  き    めんめん   きい のおも   な   うんぬん
數輩の賢息并びに縁者・祗候人等之を聞き、面々に奇異之思いを成すと云々。

現代語弘長元年(1261)六月大十六日丙午。空は晴です。奥州禅門重時の病気については、先達ての一日以後毎日夕方になると発病します。まるで発熱悪寒のマラリヤのようです。それなので十一日から若宮僧正隆弁が俯くほど熱心に加持祈祷を行ってきたので、今度の22日には快方に向かうだろうと、今夜僧正が云いました。数人の息子達それに縁故の者、重時一家に勤めている者たいはこれを聞いて、それぞれ(未来予知を)不可思議に思いましたとさ。

弘長元年(1261)六月大十七日丁未。供奉人事被下御點。
又此外
随兵
 相摸三郎
直垂
 城十郎             佐々木壹岐四郎左衛門尉
 筑前次郎左衛門尉
以前四人事。自御前直如此被注下云々。

読下し                      ぐぶにん  こと ごてん  くださる
弘長元年(1261)六月大十七日丁未。供奉人の事御點を下被る。

また  こ  ほか
又、此の外

ずいへい
随兵

  さがみのさぶろう
 相摸三郎

ひたたれ
直垂

  じょうのじゅうろう                       ささきいきのしろうさえもんのじょう
 城十郎             佐々木壹岐四郎左衛門尉

  ちくぜんのじろうさえもんのじょう
 筑前次郎左衛門尉

 いぜん よにん こと  おんまえよ  じか  かく  ごと  ちゅう くださる   うんぬん
以前四人の事、御前自り直に此の如く注し下被ると云々。

現代語弘長元年(1261)六月大十七日丁未。八月十五日のお供の名簿にチェックを頂きました。また、この他に
武装儀仗兵には、相模三郎時輔を 鎧直垂のガードマンに城十郎時景・佐々木壱岐四郎左衛門尉長綱・筑前次郎左衛門尉行頼
以上の四人については、将軍が空きスペースにみずから書き加えましたとさ。

弘長元年(1261)六月大十八日戊申。霽。依廣御所修理。於北小庭。被行土公祭。爲親朝臣奉仕之。大宰權少貳景頼奉行之。波多野出雲二郎左衛門尉時光爲御使。

読下し                      はれ ひろのごしょ  しゅうり  よっ    きた  こにわ  をい    どくうさい  おこなはれ
弘長元年(1261)六月大十八日戊申。霽。廣御所の修理に依て、北の小庭に於て、土公祭を行被る。

ためちかあそんこれ ほうし   だいざいごんのしょうにかげよりこれ  ぶぎょう   はたのいずものじろうさえもんのじょうときみつ おんしたり
爲親朝臣之を奉仕す。大宰權少貳景頼之を奉行す。波多野出雲二郎左衛門尉時光御使爲。

現代語弘長元年(1261)六月大十八日戊申。晴れました。広間の御所を修理するので、北側の坪庭で土地神様へのお願いの土公祭を行いました。安陪為親さんが勤めました。太宰権少弐武藤景頼が指揮担当です。波多野出雲二郎左衛門尉時光が将軍の代参です。

弘長元年(1261)六月大廿一日辛亥。足立太郎左衛門尉可爲放生會隨兵之由。被仰之處。當時所勞難治。得減者可參之由。進請文云々。

読下し                     あだちのたろうさえもんのじょうほうじょうえ  ずいへいたるべ   のよし  おお  らる  のところ
弘長元年(1261)六月大廿一日辛亥。足立太郎左衛門尉放生會の隨兵爲可き之由、仰せ被る之處、

 とうじしょろうなお  がた   げん  え   ば さん  べ   のよし  うけぶみ  すす    うんぬん
當時所勞治り難し。減を得ら者參ず可き之由、請文を進むと云々。

現代語弘長元年(1261)六月大二十一日辛亥。足立太郎左衛門尉直元は、放生会の武装儀仗兵をするように将軍が仰せになりましたが、現在病気療養中で治り難そうだ。快方に向ったらお供をするようにとの言葉に、了承の返事を出したそうな。

弘長元年(1261)六月大廿二日壬子。霽。未尅。諏方兵衛入道蓮佛。平左衛門尉盛時等。於亀谷石切谷邊。生虜故駿河前司義村之子息大夫律師良賢。是依有謀叛之企也。駿河八郎入道〔式部大夫家村子〕并根本尼〔若狹前司泰村娘〕已下。其張本數輩云々。依之鎌倉中騒動。入夜近國御家人等馳參云々。」奥州禪門病惱今夕平愈。心神復本云々。

読下し                      はれ ひつじのこく すわひょうえにゅうどうれんぶつ たいらのさえもんのじょうもりときら  かめがやつ いしきりだにへん をい
弘長元年(1261)六月大廿二日壬子。霽。未尅。諏方兵衛入道蓮佛・平左衛門尉盛時等、亀谷の石切谷邊に於て、

 こするがのぜんじよしむら のしそく たいふりっしりょうけん  いけど   これ むほん くはだ あ   よっ  なり
故駿河前司義村之子息大夫律師良賢を生虜る。是謀叛之企て有るに依て也。

するがのはちろうにゅうどう 〔しきぶのたいふいえむら  こ 〕 なら    ねもとあま 〔わかさのぜんじやすむら むすめ〕  いげ   そ  ちょうほん すうやから うんぬん
駿河八郎入道〔式部大夫家村が子〕并びに根本尼〔若狹前司泰村が娘〕已下、其の張本の數輩と云々。

これ  よっ かまくらじゅうそうどう    よ   い   きんごくごけにんら は  さん    うんぬん
之に依て鎌倉中騒動す。夜に入り近國御家人等馳せ參ずと云々。」

おうしゅうぜんもん びょうのうこんゆう へいゆ   しんしんふくほん   うんぬん
 奥州禪門 病惱今夕平愈し、心神復本すと云々。

現代語弘長元年(1261)六月大二十二日壬子。晴れました。午後2時頃、諏訪兵衛入道蓮仏(盛重)、平左衛門尉盛時たちは、亀ケ谷の石切谷のあたりで、故駿河前司三浦義村の息子で大夫律師三浦良賢を生け捕りにしました。この人は謀反を考えているからです。駿河八郎入道〔式部大夫三浦家村の息子〕それに根本尼〔若狭前司三浦泰村の娘〕以下、その主だった連中数人だとさ。この事件で鎌倉中が大騒ぎでした。夜に入って鎌倉近国の御家人が「いざ!鎌倉」っとばかりに走って来ました。
奥州禅門重時病気は、この夕方に快方に向かい、心身共に治りましたとさ。

弘長元年(1261)六月大廿三日癸丑。霽。相摸禪師嚴齋入滅畢。

読下し                      はれ さがみぜんじげんさいにゅうめつ をはんぬ
弘長元年(1261)六月大廿三日癸丑。霽。相摸禪師嚴齋入滅し畢。

現代語弘長元年(1261)六月大二十三日癸丑。晴れました。相模禅師厳斎(政村息)がお亡くなりになりました。

弘長元年(1261)六月大廿五日乙夘。良賢事。被仰遣六波羅。爲鎭都鄙騒動也。其御教書云。
 大夫律師良賢〔若狹前司泰村舎弟〕依有謀判之企。被召取其身訖。指無与力之輩候也。依此事。在京并西國 御家人等令參向者。如先々可被止置也。隨無殊事之由。面々可被相觸者。依仰執達如件。
    弘長元年六月廿五日                    武藏守
                                 相摸守
    陸奥左近大夫將監殿
今日。奥州禪門被遣馬并南庭〔五〕釼等於若宮僧正坊。又室家生衣二。南庭三。絹三十疋。武州釼。南庭二等。同被遣之。依所勞之平減也。

読下し                       りょうけん こと   ろくはら   おお  つか  さる     とひ   そうどう  しず   ためなり
弘長元年(1261)六月大廿五日乙夘。良賢の事、六波羅へ仰せ遣は被る。都鄙の騒動を鎭めん爲也。

 そ みぎょうしょ  い
其の御教書に云はく。

  たいふのりっしりょうけん 〔わかさのぜんじやすむら しゃてい〕 むほんのくはだ あ    よっ   そ  み  めしとられをはんぬ
 大夫律師良賢〔若狹前司泰村が舎弟〕謀判之企て有るに依て、其の身を召取被訖。

 さ     よりくのやからな そうろうなり  こ  こと  よっ  ざいきょうなら    さいごく  ごけにんら さんこうせし  ば  さきざき ごと  と  お   らる  べ
指したる与力之輩無く候也。此の事に依て、在京并びに西國の御家人等參向令め者、先々の如く止め置き被る可し也。

したが こと   こと な   のよし  めんめん あいふれらる  べ   てへ    おお    よっ  しったつくだん ごと
隨い殊なる事無き之由、面々に相觸被る可し者り。仰せに依て執達件の如し。

         こうちょうがんねんろくがつにじゅうごにち                                      むさしのかみ
    弘長元年六月廿五日                    武藏守

                                                                       さがみのかみ
                                 相摸守

          むつさこんのたいふしょうげんどの
    陸奥左近大夫將監殿

きょう  おうしゅうぜんもん うあまなら   なんてい〔 ご 〕 つるぎらを わかみやそうじょうぼう つか  さる   また しつけ すずし に  なんていさん  きぬさんじっぴき
今日、奥州禪門 馬并びに南庭〔五〕釼等於若宮僧正坊に遣は被る。又室家生衣二。南庭三。絹三十疋。

ぶしゅう つるぎ なんていになど  おな  これ  つか  さる   しょろう のへいめつ  よっ  なり
武州 釼。南庭二等。同じく之を遣は被る。所勞之平減に依て也。

現代語弘長元年(1261)六月大二十五日癸丑。大夫律師三浦良賢の事件について、六波羅探題へ伝えました。都や田舎の騒ぎを鎮めるためです。その公文書には、
 大夫律師三浦良賢〔若狭前司三浦泰村の
弟〕は、謀反の疑いがるあるので、その身柄を逮捕した。大した見方もいません。この事件を理由に在京都御家人や在関西以西の御家人が鎌倉へ向っても、先例通りに留まらして置きなさい。そして「特別な事は無い」とそれぞれに知らせなさい。将軍の命にて書いたのはこのとおりです。
 弘長元年六月二十五日     武蔵守長時
              相模守政村
 陸奥左近大夫将監塩田義政殿

今日、奥州禅門重時は、馬それと銀塊〔5〕刀などを若宮僧正の宿舎へ送り届けさせました。また、奥さんは涼し絹2、銀塊3、絹30疋を、長時は刀、銀塊2などを同様に送り届けさせました。病気が治ったお礼です。

弘長元年(1261)六月大廿七日丁巳。新相摸三郎時村辞放生會随兵。是去廿三日兄闍梨入滅輕服故也。依之。小侍前司平岡左衛門尉實俊相觸和泉前司行方間。有沙汰。兄弟輕服日數爲五十日。八月十五日者。猶日數内也。可有憚否。可尋問宮寺者。行方相尋先規於鶴岳別當僧正隆弁之處。於随兵者候廟庭外之間。先例不憚之由報申。仍無殊寄。

読下し                      しんさがみさぶろうときむら ほうじょう  ずいへい  じ    これ さんぬ にじゅうさんにちあにあじゃりにゅうめつ きょうぶく よえなり
弘長元年(1261)六月大廿七日丁巳。新相摸三郎時村放生會の随兵を辞す。是、去る廿三日兄闍梨入滅の輕服の故也。

これ よっ   こさむらいぜんじひらおかさえもんのじょうさねとし  いずみのぜんじゆきかた  あいふる   あいだ  さた あ
之に依て、小侍前司平岡左衛門尉實俊、和泉前司行方に相觸るの間、沙汰有り。

きょうだい きょうぐにっすう ごじゅうにちたり はちがつじゅうごにちは  なおにっすう うちなり  はばか あ   べ   いな    ぐうじ  じんもんすべ  てへ
兄弟の輕服日數は五十日爲。八月十五日者、猶日數の内也。憚り有る可きや否や、宮寺に尋問可し者り。

ゆきかた せんきを つるがおかべっとうそうじょうりゅうべん あいたず  のところ  ずいへい をい   は びょう ていがい そうら のあいだ せんれいはばか ざるのよしほう  もう
行方先規於 鶴岳別當僧正隆弁 に相尋ねる之處、随兵に於て者廟の庭外に候う之間、先例憚ら不之由報じ申す。

よっ  こと    よせ な
仍て殊なる寄無し。

現代語弘長元年(1261)六月大二十七日丁巳。新相模三郎時村(政村息)は、放生会の武装儀仗兵を辞退しました。これは、去る二十三日の兄阿闍梨厳斎の軽い喪に服すからです。これを受けて、小侍前司平岡左衛門尉実俊、和泉前司二階堂行方に知らせてたら、検討がありました。兄弟の喪に服す期間は50日です。八月十五日はやはり日数の内です。遠慮すべきかどうか鶴岡八幡宮に聞いてみるように云いました。和泉前司二階堂行方が先例を鶴岡八幡宮筆頭隆弁僧正に聞きに行ったところ、儀仗兵は回廊の外側に並ぶので、先例を気にする事はないと答えました。それで特に変更はしませんでした。

弘長元年(1261)六月大廿九日己未。阿曽沼小次郎依落馬辞申放生會隨兵云々。

読下し                      あそぬまのこじろう   らくば  よっ  ほうじょうえ  ずいへい  じ   もう    うんぬん
弘長元年(1261)六月大廿九日己未。阿曽沼小次郎、落馬に依て放生會の隨兵を辞し申すと云々。

現代語弘長元年(1261)六月大二十九日己未。阿曽沼小次郎光綱は、落馬したので放生会の儀仗兵を辞退すると申し出ましたとさ。

弘長元年(1261)六月大卅日庚申。霽。午尅鳶飛入自御所臺所東蔀間。亘中障子。出北遣戸。依之。爲景頼奉行。被行御占之處。リ茂。職宗等御病事之由申之。

読下し                    はれ うまのこく  とびごしょ だいどころよ  ひがししとみ ま  とびい    なか  しょうじ  わた    きた  やりど  い
弘長元年(1261)六月大卅日庚申。霽。午尅、鳶御所の臺所自り東蔀の間に飛入る。中の障子を亘り、北の遣戸に出ずる。

これ  よっ   かげよりぶぎょう  な    みうら  おこなはれ のところ  へれしげ もとむねらおんやまい ことのよし  これ  もう
之に依て、景頼奉行と爲し、御占を行被る之處、リ茂・職宗等御病の事之由、之を申す。

現代語弘長元年(1261)六月大三十日庚申。晴れました。昼頃に、鳶が御所の台所から東の蔀戸の部屋へ飛び込みました。部屋の中の間仕切りの障子の桟の上を渡って北の引き戸に出ました。この出来事によって、武藤景頼を指揮担当に占いをさせた処、阿部晴茂・職宗達は病気に気を付けるように、報告しました。

七月へ

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