吾妻鏡入門第五十巻  

弘長元年(1261)七月大

弘長元年(1261)七月大二日壬戌。放生會所役辞退輩事。行頼。景頼等就執申之。有其沙汰。
隨兵
 駿河五郎            三浦介六郎左衛門尉
  各勤流鏑馬之間。兩役難治之由申之
 城九郎
  依爲城介分。流鏑馬射手之由申
 阿曽沼小次郎
  落馬之由申
於以前兩人者。自身非射手者。不可有恩許。早如元散状可爲隨兵。兩役事。傍例更無御免者。次至長景者。爲射手之上者。可被免者。次光綱者。依落馬着甲冑事爲難治者。着布衣可令供奉者。各被仰此旨。實俊奉行之。

読下し                    ほうじょうえ  しょやく じたい   やから  こと  ゆきより かげよりら これ  しっ  もう     つ    そ   さた あ
弘長元年(1261)七月大二日壬戌。放生會の所役 辞退する輩の事、行頼・景頼等之を執し申すに就き、其の沙汰有り。

ずいへい
隨兵

  するがのごろう                           みうらのすけろくろうさえもんのじょう
 駿河五郎            三浦介六郎左衛門尉

   おのおの やぶさめ  つと    のあいだ りょうやくおさ  がか  のよしこれ  もう
  各 流鏑馬を勤むる之間、兩役治め難き之由之を申す

  じょうのくろう
 城九郎

   じょうのすけ ぶんたる  よっ    やぶさめ   いて のよしもう
  城介の分爲に依て、流鏑馬の射手之由申す

  あそぬまのこじろう
 阿曽沼小次郎

    らくば のよしもう
  落馬之由申す

 いぜん りょうにん をい  は   じしん いて  あらず  ば   おんきょ あ  べからず  はや  もと  さんじょう ごと  ずいへいたる
以前の兩人に於て者、自身射手に非ん者、恩許有る不可。早く元の散状の如く隨兵爲可し。

りょうえき こと  ぼうれいさら   ごめん な  てへ    つぎ  ながかげ  いた    は   いて たる のうえは  めん  らる  べ   てへ
兩役の事、 傍例更に御免無し者り。次に長景に至りて者、射手爲之上者、免じ被る可し者り。

つぎ みつつなは  らくば  よっ  かっちゅう き   ことなんじ たれば   ほい   き   ぐぶ せし  べ   てへ     おのおの かく むね  おお  らる
次に光綱者、落馬に依て甲冑を着る事難治爲者、布衣を着て供奉令む可し者れば、 各 此の旨を仰せ被る。

さねとしこれ  ぶぎょう
實俊之を奉行す。

現代語弘長元年(1261)七月大二日壬戌。放生会の役を辞退する連中について、、二階堂行頼、武藤景頼が担当しているので、命令がありました。
武装儀仗兵 駿河五郎通時、三浦介六郎左衛門尉頼盛の二人は流鏑馬の役についているので、二つの役はこなせませんと云ってます。
      城九郎長景は、城介泰盛の代理として流鏑馬の射手をするのだと云ってます。
      阿曽沼小次郎光綱は、落馬したからと云ってます。
始めの二人については、自分自身が射手でなければ許可はしないので、さっさと元の回覧の通り儀仗兵をすること。二役については、特に片方を許される事はないと云ってます。次に城九郎長景については、射手をするのなら許してあげようと云いました。つぎに阿曾沼光綱は、落馬したのでは甲冑を着るのが難しいので、狩衣を着てお供をするようにと仰せになり、それぞれにこの旨を伝えさせました。平岡実俊が担当です。

弘長元年(1261)七月大三日癸亥。天リ。於御所被修五尊合行法。若宮別當僧正奉仕之。伴僧八口云々。是聊依有御惱也。

読下し                    そらはれ  ごしょ  をい  ごそんごうぎょうほう しゅうさる   わかみやべっとうそうじょう これ  ほうし
弘長元年(1261)七月大三日癸亥。天リ。御所に於て五尊合行法を修被る。若宮別當僧正 之を奉仕す。

ばんそう  はっく  うんぬん  これいささ ごのう あ    よっ  なり
伴僧は八口と云々。是聊か御惱有るに依て也。

参考五尊合行法は、五大尊合行法と云い、五大明王の修法,一人之法を勤む也。中央に不動明王、東に降三世明王、南に軍茶利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を祀り魔を降伏させる。

現代語弘長元年(1261)七月大三日癸亥。空は晴です。御所の中で、五大明王を祀る祈りを行いました。鶴岡八幡宮筆頭の隆弁僧正が勤めました。お供の坊さんは8人です。これは、宗尊親王将軍家が多少病気がちだからです。

弘長元年(1261)七月大九日己巳。放生會隨兵被差定之中。江戸七郎太郎者。老与病計會。難着鎧之由依申之。有恩許。」和泉六郎左衛門尉姙婦。昨日〔八日〕嬰兒死之由申之。勿論云々。景頼爲奉行云々。

読下し                    ほうじょうえ  ずいへい さ  さだ  らる  のうち  えどのしちろうたろうは  おいとやまい けいかい
弘長元年(1261)七月大九日己巳。放生會の隨兵差し定め被る之中、江戸七郎太郎者、老与病 計會し、

よろい つ  がた  のよしこれ  もう    よっ  おんきょあ
鎧を着け難し之由之を申すに依て、恩許有り。」

いずみのろくろうさえもんのじょう にんぷ  さくじつ 〔ようか〕 えいじ し  のよしこれ  もう    もちろん うんぬん  かげよりぶぎょうたり うんぬん
和泉六郎左衛門尉が姙婦、昨日〔八日〕嬰兒死ぬ之由之を申す。勿論と云々。景頼奉行爲と云々。

現代語弘長元年(1261)七月大九日己巳。放生会の武装儀仗兵を指定して決めた中で、江戸七郎太郎は年寄で病気を考えると鎧を着るのは難しいと云うので、辞退を許されました。」
和泉六郎左衛門尉天野景村の妊娠中の奥さんが、昨日の8日に死産したと届けたので、勿論穢れの為儀仗兵辞退を許されました。武藤景頼が担当だとさ。

弘長元年(1261)七月大十日庚午。天リ。五尊御修法結願云々。」又自今夕。依可被修別御祈。爲左大臣法印壇所。於御所近邊。被點人々宿所。行方承仰。相觸平岡左衛門尉。工藤三郎右衛門尉等之間。兩人點進其所云々。

読下し                    そらはれ ごそんごじゅほうけちがん   うんぬん
弘長元年(1261)七月大十日庚午。天リ。五尊御修法結願すと云々。」

またこんゆうよ   べつ   おいのり  しゅうさる  べ    よっ    さだいじんほういん  だんしょ  し   ごしょ  きんぺん  をい ひとびと すくしょ  てん  らる
又今夕自り、別なる御祈を修被る可きに依て、左大臣法印の壇所と爲て御所の近邊に於て人々の宿所を點じ被る。

ゆきかたおお  うけたまわ  ひらおかさえもんのじょう くどうのさぶろううえもんのじょうら   あいふる  のあいだ りょうにん そ  ところ てん  すす    うんぬん
行方仰せを承り、平岡左衛門尉・工藤三郎右衛門尉等に相觸る之間、兩人其の所を點じ進むと云々。

現代語弘長元年(1261)七月大十日庚午。空は晴です。五大明王の祈りが終了しましたとさ。」
また、今日の夕方から別なお祈りを勤めるために。左大臣法印の祈り用の壇として、御所の近所の御家人の宿舎を指定します。和泉前司二階堂行方が将軍の仰せを受けて、平岡左衛門尉実俊と工藤三郎右衛門尉光泰に命じた処、二人はその宿舎を交渉して歩いたそうな。

弘長元年(1261)七月大十一日辛未。明日依可有入御山内殿。可催供奉人之由。被仰出云々。

読下し                       あす  やまのうちどの にゅうぎょあ  べ    よっ    ぐぶにん  もおよ べ  のよし  おお  いださる   うんぬん
弘長元年(1261)七月大十一日辛未。明日、山内殿に入御有る可きに依て、供奉人を催す可き之由、仰せ出被ると云々。

現代語弘長元年(1261)七月大十一日辛未。明日、宗尊親王将軍家は時頼の山の内の屋敷へ行くので、お供を催促するように、云いだしましたとさ。

弘長元年(1261)七月大十二日壬申。雨降。將軍家〔御騎馬〕入御最明寺第。覽弓鞠競馬相撲等勝負。亦管弦詠歌以下有御遊宴等云々。
供奉人
 足利大夫判官          越前々司
 彈正少弼            尾張左近大夫
 相摸三郎            遠江七郎
 武藏五郎            秋田城介
 宮内權大輔           後藤壹岐前司
 武藤少卿            式部太郎左衛門尉
 城六郎             信濃左衛門尉
 薩摩七郎左衛門尉
歩行
 美作兵衛藏人          城九郎
 和泉三郎左衛門尉        出羽七郎左衛門尉
 武藤左衛門尉          周防五郎左衛門尉
 遠江十郎左衛門尉        上総太郎左衛門尉
 隱岐三郎左衛門尉        同四郎兵衛尉
 佐々木壹岐三郎左衛門尉     信濃判官二郎左衛門尉
 土肥四郎左衛門尉        甲斐三郎左衛門尉
 肥後四郎左衛門尉        鎌田次郎左衛門尉
 武石新左衛門尉         大泉九郎
中御所御方〔騎馬〕
 刑部少輔            陸奥左近大夫將監
 武藏左近大夫將監        遠江右馬助
 民部權大輔           相摸七郎
 和泉前司            木工權頭
 佐々木壹岐前司         新田參河前司
 城四郎左衛門尉         常陸二郎左衛門尉
歩行
〔同十三日還御之時騎馬〕
 大隅修理亮           城五郎左衛門尉
 同十郎             周防四郎左衛門尉
 上野太郎左衛門尉        伊勢二郎左衛門尉
 大曽祢太郎左衛門尉       鎌田圖書左衛門尉
 小野澤二郎

読下し                      あめふ   しょうぐんけ 〔おんきば〕 さいみょうじ  だい にゅうぎょ   ゆみ  まり くらべうま  すまいら  しょうぶ  み
弘長元年(1261)七月大十二日壬申。雨降る。將軍家〔御騎馬〕最明寺の第に入御す。弓・鞠・競馬・相撲等の勝負を覽る。

またかんげんえいか いげ  ごゆうえんら あ     うんぬん
亦管弦詠歌以下の御遊宴等有りと云々。

ぐぶにん
供奉人

  あしかがたいふほうがん                   えちぜんぜんじ
 足利大夫判官          越前々司

  だんじょうしょうひつ                      おわりさこんのたいふ
 彈正少弼            尾張左近大夫

  さがみのさぶろう                        とおとうみのしちろう
 相摸三郎            遠江七郎

  むさしのごろう                          あいだのじょうすけ
 武藏五郎            秋田城介

  くないごんのだいゆう                      ごとういきぜんじ
 宮内權大輔           後藤壹岐前司

  むとうしょうきょう                         しきぶのたろうさえもんのじょう
 武藤少卿            式部太郎左衛門尉

  じょうのろくろう                          しなのさえもんのじょう
 城六郎             信濃左衛門尉

  さつまのしちろうさえもんのじょう
 薩摩七郎左衛門尉

 かち
歩行

  みまさかひょうえくらんど                     じょうのくろう
 美作兵衛藏人          城九郎

  いずみのさぶろうさえもんのじょう                でわのしちろうさえもんのじょう
 和泉三郎左衛門尉        出羽七郎左衛門尉

  むとうさえもんのじょう                       すおうのごろうさえもんのじょう
 武藤左衛門尉          周防五郎左衛門尉

  とおとうみのじゅうろうさえもんのじょう              かずさのたろうさえもんのじょう
 遠江十郎左衛門尉        上総太郎左衛門尉

  おきのさぶろうさえもんのじょう                 おな   しろうひょうえのじょう
 隱岐三郎左衛門尉        同じき四郎兵衛尉

  ささきいきのさぶろうさえもんのじょう              しなののほうがんじろうさえもんのじょう
 佐々木壹岐三郎左衛門尉     信濃判官二郎左衛門尉

  といのしろうさえもんのじょう                   かいのさぶろうさえもんのじょう
 土肥四郎左衛門尉        甲斐三郎左衛門尉

  ひごのしろうさえもんのじょう                  かまたのじろうさえもんのじょう
 肥後四郎左衛門尉        鎌田次郎左衛門尉

  たけいしのしんさえもんのじょう                おおいずみのくろう
 武石新左衛門尉         大泉九郎

なかごしょのおんかた 〔 きば 〕
中御所@御方〔騎馬〕

  ぎょうぶしょうゆう                         むつさこんのたいふしょうげん
 刑部少輔            陸奥左近大夫將監

  むさしさこんのたいふしょうげん                とおとうみうまのすけ
 武藏左近大夫將監        遠江右馬助

  みんぶごんのだいゆう                     さがみのしちろう
 民部權大輔           相摸七郎

  いずみのぜんじ                         もくごんのかみ
 和泉前司            木工權頭A

  ささきいきぜんじ                         にったみかわぜんじ
 佐々木壹岐前司         新田參河前司

  じょうのしろうさえもんのじょう                  ひたちのじろうさえもんのじょう
 城四郎左衛門尉         常陸二郎左衛門尉

 かち
歩行

 〔おな    じゅうさんにり かんごのとき  きば 〕 
〔同じき十三日の還御之時は騎馬〕

  おおすみしゅりのすけ                     じょうのごろうさえもんのじょう
 大隅修理亮           城五郎左衛門尉

  おな   じゅうろう                       すおうのしろうさえもんのじょう
 同じき十郎           周防四郎左衛門尉

  こうづけのたろうさえもんのじょう               いせのじろうさえもんのじょう
 上野太郎左衛門尉        伊勢二郎左衛門尉

  おおそねたろうさえもんのじょう                かまたずしょさえもんのじょう
 大曽祢太郎左衛門尉       鎌田圖書左衛門尉

  おのざわのじろう
 小野澤二郎

参考@中御所御方は、将軍の妻。参考A木工權頭は、中原親家で親王将軍に京都から着いて来た。

現代語弘長元年(1261)七月大十二日壬申。雨降りです。宗尊親王将軍家〔乗馬〕最明寺時頼の屋敷へ入りました。的弓、蹴鞠、競馬、相撲などの競技を見ました。また、管弦や御詠歌などのお遊びもありましたとさ。お供は、
 足利大夫判官家氏    越前前司時広
 弾正少弼業時      尾張左近大夫名越流北条公時
 相模三郎時輔      遠江七郎名越流北条時基
 武蔵五郎大仏流北条時忠 秋田城介安達泰盛
 宮内権大輔長井時秀   後藤壱岐前司基政
 武藤少卿景頼      式部太郎左衛門尉伊賀光政
 城六郎安達顕盛     信濃左衛門尉時清
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
歩き
 美作兵衛蔵人長教      城九郎長景
 和泉三郎左衛門尉二階堂行章 出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
 武藤左衛門尉景頼      周防五郎左衛門尉島津忠景
 遠江十郎左衛門尉三浦頼連  上総太郎左衛門尉大曽祢長経
 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 同隠岐四郎兵衛尉二階堂行廉
 佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱 信濃判官二郎左衛門尉
 土肥四郎左衛門尉実綱    甲斐三郎左衛門尉為成
 肥後四郎左衛門尉二階堂行定 鎌田次郎左衛門尉行俊
 武石新左衛門尉長胤     大泉九郎長氏
奥さんのお供〔乗馬〕
 刑部少輔教時        陸奥左近大夫将監塩田義政
 武蔵左近大夫将監時仲    遠江右馬助清時
 民部権大輔時隆       相模七郎宗頼
 和泉前司二階堂行方     木工権頭中原親家
 佐々木壱岐前司泰綱     新田三河前司頼氏
 城四郎左衛門尉安達時盛   常陸二郎左衛門尉二階堂行雄
歩き〔同じメンバーで13日の帰りは乗馬〕
 大隅修理亮島津久時     城五郎左衛門尉安達重景
 同十郎安達時景       周防四郎左衛門尉塩谷泰朝
 上野太郎左衛門尉梶原景綱  伊勢三郎左衛門尉頼綱
 大曽祢太郎左衛門尉長泰   鎌田図書左衛門尉信俊
 小野沢二郎時仲

弘長元年(1261)七月大十三日癸酉。天リ。晩頭將軍家自山内還御。今日。工藤三郎右衛門尉光泰依有故障。放生會供奉人散状等記。一向被付平岡左衛門尉實俊云々。」又中御所御方自今夕。依可被始護身。爲御驗者休所。於御所近邊。被點人々宿所。向後可爲巡役之旨。被仰下之。行方爲奉行云々。
可被點宿所人々
 花山院中納言〔御免〕      尾張前司
 上総前司            秋田城介
 出羽入道            常陸入道〔御免〕
 後藤壹岐前司          和泉前司
 筑前入道            新田三河前司〔重役間御免〕
 木工權頭            圖書頭〔御免〕
 薩摩七郎左衛門尉〔同〕     周防五郎左衛門尉〔同〕

読下し                      そらはれ  ばんとう  しょうぐんけ やまのうちよ かんご
弘長元年(1261)七月大十三日癸酉。天リ。晩頭@將軍家 山内自り還御す。

きょう  くどうのさぶろううえもんのじょうみつやす こしょう あ      よっ    ほうじょうえ   ぐぶにん  さんじょうら  き  いっこう ひらおかさえもんのじょうさあねとし  ふ さる
今日、工藤三郎右衛門尉光泰故障有るに依て、放生會の供奉人の散状A等の記、一向に平岡左衛門尉實俊に付被ると云々。」

また なかごしょのおんかた こんゆうよ  ごしん  はじ  らる  べ    よっ  ごげんざ  やすみどころ ため  ごしょきんぺん  をい ひとびと  すくしょ  てん  らる
又、中御所御方 今夕自り護身を始め被る可きに依て、御驗者が休所の爲、御所近邊に於て人々の宿所を點じ被る。

きょうこう じゅんえきたるべ  のむね  これ  おお  くださる   ゆきかたぶぎょうたり うんぬん
向後 巡役B爲可き之旨、之を仰せ下被る。行方奉行爲と云々。

すくしょ  てん  らる  べ  ひとびと
宿所を點じ被る可き人々

  かざんいんちゅうなごん 〔ごめん〕             おわりのぜんじ
 花山院中納言〔御免〕       尾張前司

  かずさのぜんじ                        あいだのじょうすけ
 上総前司            秋田城介

  でわにゅうどう                         ひたちにゅうどう 〔ごめん〕
 出羽入道            常陸入道〔御免C

  ごとういきぜんじ                        いずみぜんじ
 後藤壹岐前司          和泉前司

  ちくぜんにゅうどう                       にったみかわのぜんじ 〔かさ    えき あいだ ごめん〕
 筑前入道            新田三河前司〔重なる役の間御免〕

  もくごんのかみ                         ずしょのかみ 〔ごめん〕
 木工權頭            圖書頭〔御免〕

  さつまのしちろうさえもんのじょう 〔おなじ〕          すおうのごろうさえもんのじょう 〔おなじ〕
 薩摩七郎左衛門尉〔同〕     周防五郎左衛門尉〔同〕

参考@晩頭は、夕方あたり。晩の頭。地の頭は地頭。
参考A
散状は、回覧板。
参考B
巡役は、順番に。替り番こに。
参考C
御免は、免除された。

現代語弘長元年(1261)七月大十三日癸酉。空は晴です。夕方になって宗尊親王将軍家は山内から帰りました。
今日、工藤三郎右衛門尉光泰は、具合が悪いので、放生会のお供の書いた回覧板を、全て平岡左衛門尉実俊にまかせましたとさ。」

また、将軍の奥様は、今日の夕方から身の回りを守る身固めをするので、加持祈祷をする山伏の休憩所として、御所の近所の人々の宿舎を指定しました。今後、替り番こにするように仰せになられました。和泉前司二階堂行方が担当だそうな。宿舎を指定された人々は、
 花山院中納言顕方〔免除〕 尾張前司名越流北条時章
 上総前司大曽祢長泰    秋田城介安達泰盛
 出羽入道道空二階堂行義  常陸入道行日二階堂行久〔免除〕
 後藤壱岐前司基政     和泉前司二階堂行方
 筑前入道二階堂行義    新田三河前司頼氏〔役が重なるので免除〕
 木工権頭中原親家     図書頭忠茂〔免除〕
 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能〔同〕 周防五郎左衛門尉島津忠景〔同〕

弘長元年(1261)七月大十四日甲戌。天陰。月蝕不現。

現代語読下し                      そらくも    げっしょくあらわれず
弘長元年(1261)七月大十四日甲戌。天陰り。月蝕不現。

現代語弘長元年(1261)七月大十四日甲戌。空は曇りなので、月食は現れません。

弘長元年(1261)七月大十七日丁丑。霽。京都使者參着。申云。去七日亀山仙洞御車宿燒亡。失火。諸人群參打銷之間。不及他所云々。

読下し                      はれ  きょうと  ししゃさんちゃく   もう    い       さんぬ なぬかかめやませんとう おくるまやど しょうぼう
弘長元年(1261)七月大十七日丁丑。霽。京都の使者參着し、申して云はく。去る七日亀山仙洞の御車宿り燒亡す。

しっか  しょにんぐんさん  うちけ  のあいだ  たしょ  およばず うんぬん
失火。諸人群參し打銷す之間、他所に不及と云々。

現代語弘長元年(1261)七月大十七日丁丑。晴れました。京都からの使いが到着して、報告するのには「先日の七日に亀山上皇の宿舎の牛車の車庫が燃えました。失火だそうで、大勢の人が駆け寄ってたたき消したので、他へは類焼しませんでしたとさ。

弘長元年(1261)七月大十八日戊寅。霽。三位權僧正頼兼入滅〔年七十七〕。大納言師頼卿孫。證遍僧都眞弟子。公胤僧正入室受法。對覺朝僧正潅頂。顯密兼學公家證義。 上皇熊野御幸御導師〔自關東被召上〕。嘉禎元年十二月十八日轉權大僧都〔元少僧都〕。四年五月廿三日叙法印〔公請勞〕。建長六年十二月卅日任權僧正。八年月日補園城寺別當〔于時号法性房〕。

読下し                     はれ  さんみごんのそうじょうらいけんにゅうめつ 〔とししちじゅうしち〕  だいなごんもろよりきょう まご しょうへんそうづ  まなでし
弘長元年(1261)七月大十八日戊寅。霽。三位權僧正頼兼入滅す〔年七十七〕。大納言師頼@卿が孫。證遍僧都が眞弟子。

こういんそうじょう にゅうしつじゅほう かくちょうそうじょう たい  かんちょうけんみつけんがく こうけ  しょうぎ  じょうこうくまのぎょうこう  ごどうし  〔かんとうよ   めしあげらる  〕
公胤僧正Aに入室受法。覺朝僧正に對し潅頂す。顯密兼學公家の證義B。上皇熊野御幸の御導師〔關東自り召上被る〕

かていがんねんじゅうにがつじゅうはちにち ごんぼだいそうづ  てん  〔もとしょうそうづ〕   よねんごがつにじゅうさんにち ほういん  じょ  〔くじょう  ろう〕
 嘉禎元年十二月十八日 權大僧都に轉ず〔元少僧都〕。四年五月廿三日 法印を叙す〔公請Cの勞〕

けんちょうろくねんじゅうにがつさんじゅうにち ごんのそうじょう にん   はちねんがっぴおんじょうじべっとう  ぶ   〔ときにほっしょうぼう  ごう  〕
 建長六年十二月卅日  權僧正に任ず。八年月日園城寺別當に補す〔時于法性房と号す〕。

参考@大納言師頼は、源師頼。
参考A
公胤僧正は、源平合戦の頃三井寺に居た。
参考B
公家の證義は、天皇家の講師。
参考C公請は、朝廷の仏教儀式。鎌倉幕府の仏教儀式は、屈請。

現代語弘長元年(1261)七月大十八日戊寅。晴れました。三位権僧正頼兼が亡くなりました〔年は七十七です〕。大納言源師頼の孫です。證遍僧都の愛弟子です。公胤僧正の坊に入って出家しました。覚朝僧正対して灌頂しました。顕教密教を兼学した天皇家の講師です。上皇が熊野詣の際の指導僧をしました〔鎌倉から呼び寄せられました〕。
嘉禎元年十二月十八日に権大僧都に任命されました〔元は少僧都〕。同四年五月二十三日法印に任命されました〔朝廷の仏教儀式の褒美です〕。
建長三年十二月三十日に権僧正に任命されました。同8年〇月〇日に園城寺の長官に任命されました〔その時は法性坊と名乗ってました〕。

弘長元年(1261)七月大廿二日壬午。リ。政所門并廳屋等新造事。有其沙汰。」今日。關東近古詠可撰進之由。被仰壹岐前司基政。

読下し                     はれ まんどころ もんなら   ちょうのうやら   しんぞう  こと  そ   さた あ
弘長元年(1261)七月大廿二日壬午。リ。政所の門并びに廳屋等の新造@の事、其の沙汰有り。」

きょう  かんとう きんこ  うたせんしんすべ  のよし   いきぜんじもとまさ  おお  らる
今日、關東近古の詠撰進可き之由、壹岐前司基政に仰せ被る。

参考@新造は、3月13日に燃えているから。
参考宗尊親王はこの頃和歌の名人であった。

現代語弘長元年(1261)七月大二十二日壬午。晴れです。政務事務所の門と一緒に庁舎を新築することについて、検討がありました。
今日、関東近在の古い和歌を選ぶように、壱岐前司後藤基政に宗尊親王将軍家が命じました。

弘長元年(1261)七月大廿九日己丑。武藏前司。筑前入道行義。常陸入道行日等。放生會之時可參候于廻廊之由。可相觸之旨。被仰下云々。随兵之中。在國輩四人辞退請文。昨日自小侍所。付武藤少卿景頼之間。今日披露。此外條々有其沙汰云々。
 足立太郎左衛門尉   〔當時所勞。得減者可參之由申。六月廿一日請文〕
 淡路又四郎左衛門尉  〔指得持病者不可參之由申。七月六日請文〕
 相馬孫五郎左衛門尉  〔現所勞之由申。七月十日請文〕
 佐竹常陸次郎     〔有所勞之間。雖灸未復本之由申。七月十二日請文〕
以上被聞食訖之由云々。
在鎌倉人々中申障
 尾張前司            越前々司
 治部大輔            周防守
 上総前司            佐渡五郎左衛門尉
 周防三郎左衛門尉        宇都宮五郎左衛門尉
 出羽三郎左衛門尉
   以上勞之由申
 畠山上野前司     〔當時所勞。得減者可參之由申〕
官人事
 足利大夫判官家氏        隱岐大夫判官行氏
 出羽大夫判官行有        上野大夫判官廣綱
以上四人。被催促之處。行有。行氏者已辞職訖。蒙在國恩許之由捧請文。廣綱者申領状。家氏者當時在國之間。可被催否。去廿七日。於相州禪室御所有沙汰。可申評定之由治定。仍今日實俊。光泰等披露之處。早可相催者。則被成下御教書云々。

読下し                      むさしのぜんじ ちくぜんにゅうどうぎょうぎ ひたちにゅうどうぎょうじつら  ほうじょうえ のときかいろうに さんこうすべ  のよし
弘長元年(1261)七月大廿九日己丑。武藏前司・筑前入道行義・常陸入道行日等、放生會@之時廻廊于參候可き之由、

こ   むね  あいふる  べ    おお  くださる   うんぬん
之の旨を相觸る可く、仰せ下被ると云々。

ずいへい のうち ざいこく やからよにん じたい うけぶみ  きのう こごしょう よ   むとうしょうきょうかげより ふ  のあいだ  きょう ひろう
随兵之中、在國Aの輩四人辞退の請文、昨日小侍所自り、武藤少卿景頼Bに付す之間、今日披露す。

こ  ほか じょうじょう そ   さた あ    うんぬん
此の外 條々 其の沙汰有りと云々。

  あだちのたろうさえもんのじょう         〔とうじ しょろう  げん  え  ば まい  べ  のよし  もう  ろくがつにじゅういちにち うけぶみ〕
 足立太郎左衛門尉   〔當時C所勞。減を得ら者參る可き之由を申す。六月廿一日の請文〕

  あわじのまたしろうさえもんのじょう       〔じびょう  さしえ  ば まい  ぶからず のよし  もう  しちがつむいか うけぶみ〕
 淡路又四郎左衛門尉D  〔持病を指得れ者參る不可之由を申す。七月六日の請文〕

  そうまのまごごろうさえもんのじょう        〔しょろう  げん   のよし  もう  しちがつとおか うけぶみ〕
 相馬孫五郎左衛門尉E  〔所勞を現ずる之由を申す。七月十日の請文〕

  さたけひたちのじろう               〔しょろう あ  のあいだ  きゅう     いへど いま  ふくほん  のよし  もう  しちがつじゅうにちに うけぶみ〕
 佐竹常陸次郎     〔所勞有る之間、灸すると雖も未だ復本せず之由を申す。七月十二日の請文〕

いじょう き    めされをは    のよし  うんうん
以上聞こし食被訖んぬ之由と云々。

ざいかまくら ひとびと うちさわり もう
在鎌倉の人々の中障を申す

  おわりのぜんじ                         えちぜんぜんじ
 尾張前司            越前々司

  じぶだいゆう                           すおうのかみ
 治部大輔F            周防守

  かずさのぜんじ                         さどのごろうさえもんのじょう
 上総前司            佐渡五郎左衛門尉

  すおうのさぶるうさえもんのじょう               うつのみやのごろうさえもんのじょう
 周防三郎左衛門尉        宇都宮五郎左衛門尉

  でわのさぶろうさえもんのじょう
 出羽三郎左衛門尉

      いじょういたずきのよし もう
   以上勞之由を申す

  はたけやまこうずけぜんじ            〔とうじ しょろう  げん  え   ば さん  べ  のよし  もう  〕
 畠山上野前司G     〔當時所勞。減を得ら者參ず可き之由を申す〕

かんじん  こと
官人Hの事

  あしかがたいふのほうがんいえうじ               おきたいふのほうがんゆきうじ
 足利大夫判官家氏        隱岐大夫判官行氏

  でわたいふのほうがんゆきあり                 こうづけたいふのほうがんひろつな
 出羽大夫判官行有        上野大夫判官廣綱

いじょう よにん  さいそくさる のところ  ゆきあり ゆきうじは すで  じしょく をはんぬ  ざいこう  おんきょ  こうむ  のよしうけぶみ  ささ    ひろつなはりょうじょうもう
以上四人、催促被る之處、行有・行氏者已に辞職し訖。在國の恩許を蒙る之由請文を捧ぐ。廣綱者領状申す。

いえうじは とうじざいこくのあいだ  もよおさる  べ    いな   さんぬ にじゅうしちにち そうしゅうぜんしつ ごしょ  をい   さた あ     ひょうじょう もう  べ   のよしちじょう
家氏者當時在國之間、催被る可きや否や、去る廿七日、相州禪室、御所に於て沙汰有り。評定に申す可き之由治定す。

よっ  きょうさぬとし  みつやすら ひろうのところ  はや  あいもよお べ   てへ    すなは みぎょうしょ  なしくださる   うんぬん
仍て今日實俊・光泰等披露之處、早く相催す可き者り。則ち御教書を成下被ると云々。

参考@放生會は、8月15日。供養のため、捕らえられた生き物を放してやる儀式。
参考A
在國は、自分の国許に居る。在国御家人。他に在京御家人と在鎌倉御家人が居る。
参考B武藤少卿景頼は、御所奉行らしい。
参考C
當時は、今現在。
参考D
淡路又四郎左衛門尉は、長沼なので上野國にいる。
参考E
相馬孫五郎左衛門尉は、相馬御厨なので、下総國。今の野田市あたり。
参考F治部大輔は、足利氏。
参考G
畠山上野前司は、源性畠山で足利氏。
参考H官人は、元々太政官に仕える人だが、ここでは鎌倉御家人で検非違使の判官を云っているようだ。

現代語弘長元年(1261)七月大二十九日己丑。武蔵前司淺直、筑前入道二階堂行義、常陸入道行日二階堂行久は、放生会の時は、鶴岡八幡宮の回廊に来ているように、これを知らせておきなさいと仰せになられました。
武装儀仗兵の内、国元に帰っている四人が辞退するとの了承文を、昨日小御所から武藤景頼に預けたので、今日公にしました。
このほか、箇条書きの指令がありましたとさ。
 足立太郎左衛門尉直元    現在病気です。良くなれば参加すると云ってます。六月一日の受書です。
 淡路又四郎左衛門尉長沼宗泰 持病が発病したら参加しませんと云ってます。七月六日の受書です。
 相馬孫五郎左衛門尉胤村   病気になってしまいましたと云ってます。七月十日の受書です。
 佐竹常陸次郎長義      病気なのでお灸をしましたがまだ回復しませんと云ってます。七月十二日の受書です。
以上をご承知されたそうです。
鎌倉に居るけど具合が悪いと云っている人
 尾張前司名越時章   越前前司北条時広
 治部権大輔足利頼氏  周防守島津忠綱
 上総前司大曽祢長経  佐渡五郎左衛門尉後藤基隆
 周防三郎左衛門尉忠行 宇都宮五郎左衛門尉
 出羽三郎左衛門尉二階堂行資
  以上は病気だと云ってます。
 畠山上野前司泰国      現在病気です。回復したならば参加しますと云ってます。
太政官の検非違使
 足利大夫判官家氏   隠岐大夫判官行氏
 出羽大夫判官行有   上野大夫判官広綱
以上の四人に催促した所、二階堂行有と二階堂行氏はすでに職を辞しております。国元に居てよいと許可を得ていますと受書を出しました。結城広綱は了承しております。
足利家氏は現在国元に居ますので、催促するかどうか、一昨日の二十七日に相州禅室時頼が御所で検討がりました。将軍との政務会議に議題にするように決まりました。そこで今日、平岡実俊と工藤光泰が将軍に紹介した所、すぐに催促するように云われたので、命令書を出す事にしましたとさ。

弘長元年(1261)七月大卅日庚寅。鎌田二郎左衛門尉。善六郎左衛門尉等。屬木工權頭親家。望申放生會供奉。親家内々取御氣色。觸申小侍所之間。依可令披露。付景頼云々。

読下し                    かまたのじろうさえもんのじょう ぜんのろくろうさえもんのじょうら  もくごんおかみちかいえ ぞく   ほうじょうえ  ぐぶ  のぞ  もう
弘長元年(1261)七月大卅日庚寅。鎌田二郎左衛門尉・善六郎左衛門尉等、木工權頭親家に屬し、放生會の供奉を望み申す。

ちかいえないあに みけしき  と    こさむどころ ふ   もう  のあいだ  ひろう せし  べ    よっ    かげより  ふ   うんぬん
親家内々に御氣色を取らんと小侍所に觸れ申す之間、披露令む可きに依て、景頼に付すと云々。

現代語弘長元年(1261)七月大三十日庚寅。鎌田次郎左衛門尉行俊と三善六郎左衛門尉達が、木工権頭中原親家を通じで、放生会のお供を申し出ました。親家は内々に将軍の許しを得ようと小侍所に伝えた処、将軍に披露する事にして武藤景頼に預けましたとさ。

八月へ

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