吾妻鏡入門第五十巻  

弘長元年(1261)八月小

弘長元年(1261)八月小一日辛夘。鎌田二郎左衛門尉。善六郎左衛門次郎。可催直垂著之由云々。景頼奉。

読下し                    かまたのじろうさえもんのじょう  ぜんのろくろうさえもんじろう  ひたたれぎ  もよお べ  のよし うんぬん  かげよりほう
弘長元年(1261)八月小一日辛夘。鎌田二郎左衛門尉・善六郎左衛門次郎、直垂著に催す可き之由と云々。景頼奉ず。

現代語弘長元年(1261)八月小一日辛卯。鎌田次郎左衛門尉行俊と三善六郎左衛門次郎は、鎧直垂を着て参加するようにとのことなので、武藤景頼が承りました。

弘長元年(1261)八月小二日壬辰。伊勢入道行願觸申小侍所云。愚息頼綱〔三郎左衛門尉〕當時在國之處。被加放生會供奉人訖。先立有鹿食事可有免許歟云々。

読下し                    いせのにゅうどうぎょうがん こさむどころ ふ  もう    い
弘長元年(1261)八月小二日壬辰。伊勢入道行願 小侍所に觸れ申して云はく。

ぐそくよりつな 〔さぶろうさえもんのじょう〕 とうじ ざいこくのところ  ほうじょうえ  ぐぶにん  くは  られをはんぬ せんだっ  しかく  こと あ    めんきょ あ   べ   か  うんぬん
愚息頼綱〔三郎左衛門尉〕當時在國之處、放生會の供奉人に加へ被訖。先立て鹿@食う事有りて免許有る可き歟と云々。

参考@鹿は、彼の獅子。猪は居の獅子。鹿を食うのを薬喰いとも云う。滋養強壮用に食べるが穢れが付く。

現代語弘長元年(1261)八月小二日壬辰。伊勢入道行願二階堂行綱が、小侍所に伝えて云うのには、あほな息子の頼綱〔三郎左衛門尉〕は現在国元におりまして、放生会のお供に加えられました。しかし先達て鹿を食べ穢れているので、免除去れるでしょうかとの事です。

弘長元年(1261)八月小三日癸巳。武藏五郎可爲隨兵。越後四郎着布衣可供奉之由。被仰下云々。

読下し                    むさしのごろうずいへいたるべ   えちごのしろう ほい   き   ぐぶ すべ  のよし  おお  くださる   うんぬん
弘長元年(1261)八月小三日癸巳。武藏五郎隨兵爲可き。越後四郎布衣を着て供奉可き之由、仰せ下被ると云々。

現代語弘長元年(1261)八月小三日癸巳。武蔵五郎大仏流北条時忠は武装儀仗兵をしなさい。越後四郎時方は狩衣の正装を着てお供をしなさいと、仰せになられましたとさ。

弘長元年(1261)八月小五日乙未。小泉四郎左衛門尉可加直垂衆之由云々。出羽藤次郎左衛門尉被仰可着布衣之旨之處。日數已迫之間。狩衣難用意之由。辞申云々。
今日申障之輩
 城五郎左衛門尉 〔始雖進奉 今勞由申〕
 伊東八郎左衛門尉
 伯耆四郎左衛門尉
   已上二人勞之由申

読下し                    こいずみのしろうさえもんのじょう ひたたれしゅう  くは    べ   のよし  うんぬん
弘長元年(1261)八月小五日乙未。小泉四郎左衛門尉、直垂衆に加へる可き之由と云々。

でわのとうじろうさえもんのじょう   ほい   き   べ   のむねおお  らる  のところ  ひかず すで  せま  のあいだ  かりぎぬ  ようい  がた  のよし  じ   もう   うんぬん
出羽藤次郎左衛門尉、布衣@を着る可し之旨仰せ被る之處、日數已に迫る之間、狩衣は用意し難し之由、辞し申すと云々。

きょう さわ   もう  のやから
今日障りを申す之輩

  じょうのごろうさえもんのじょう   〔はじ たてまつ  しん   いへど  いま いたづき よし もう  〕
 城五郎左衛門尉 〔始め奉りを進ずと雖も 今 勞の由を申す〕

  いとうのはちろうさえもんのじょう
 伊東八郎左衛門尉

  ほうきのしろうさえもんのじょう
 伯耆四郎左衛門尉

      いじょうふたりいたづきのよし  もう
   已上二人勞之由を申す

参考@布衣は、布製の狩衣の別称。狩衣は武家社会では、束帯に次ぐ礼装。かつて民間で用いられた狩装束が、簡便さと軽快さから公卿に取り入れられ日常着となった。現在は神職の正装である。

現代語弘長元年(1261)八月小五日乙未。小泉四郎左衛門尉頼行は、鎧直垂の護衛兵に加えるようにだとさ。出羽藤次郎左衛門尉頼平は狩衣の正装を着るようにと仰せになられましたが、日程が迫っているので、狩衣を用意できないからと、辞退を申し出ましたとさ。
今日、都合が悪いと云い出した連中
 城五郎左衛門尉安達重景 〔初めて承知を出しましたが、現在病気中だと云ってます〕
 伊東八郎左衛門尉祐光
 伯耆四郎左衛門尉光清
  以上の二人は病気だと云ってます

弘長元年(1261)八月小七日丁酉。駿河五郎辞退随兵事。始則勤仕流鏑馬役之間。計會之由申。後亦稱所勞之由。仍度々被仰之處。如去六日請文者。病痾難治之間。加灸之趣也。而當出仕之上者。固辞不可然。重可催之由云々。又直垂着中。伊勢四郎。爲父伊勢入道分流鏑馬射手之由申之間。無左右有恩許云々。

読下し                    するがのごろう ずいへい  じたい  こと  はじ  すなは  やぶあめ やく  ごんじ   のあいだ  けいかい のよし  もう
弘長元年(1261)八月小七日丁酉。駿河五郎@随兵を辞退の事、始め則ち流鏑馬役を勤仕する之間、計會之由を申す。

のち また  しょろう のよし  しょう    よっ たびたびおお  らる  のところ  さんぬ むいか  うけぶみ  ごと    ば   びょうりなんちのあいだ  きゅう くは   のおもむきなり
後に亦、所勞之由を稱す。仍て度々仰せ被る之處、去る六日の請文の如くん者、病痾難治之間、灸を加うる之趣也。

しか   しゅっし  あた  のうえは   こじ しか  べからず  かさ   もよお べ   のよし  うんぬん
而るに出仕に當る之上者、固辞然る不可。重ねて催す可し之由と云々。

また ひたたれぎ  うち  いせのしろう  ちち いせにゅうどう  ぶん  やぶさめ  いて たる のよし  もう  のあいだ  とこう な  おんきょ あ   うんぬん
又、直垂着の中、伊勢四郎、父伊勢入道が分の流鏑馬の射手爲之由を申す之間、左右無く恩許有りと云々。

参考@駿河五郎は、伊具流北条通時。義時の末っ子で陸奥國伊具郡を貰う。
参考@計會は、本来計り会わせるで、A考えあわせるとかとりはからう、B物事が重なり合う、Cさしつかえるの意味があるがここではB.

現代語弘長元年(1261)八月小七日丁酉。駿河五郎伊具流北条通時は武装儀仗兵を辞退する事は、最初は流鏑馬の役を勤めるので、役が重なっているからと云ってました。その後、病気だと言い出しました。それなので何度も仰せになったのは、先日の六日の受書の内容なら病気が治りにくいだろうからお灸をするとよいのだ。しかし勤務しているのなら、辞退してはならない。なおも催促するようにとのことだとさ。
また、鎧直垂の護衛兵の内、伊勢四郎は、父伊勢入道行願二階堂行綱の役の流鏑馬の射手を勤めると云っているので、四の五のなしに免除がありましたとさ。

弘長元年(1261)八月小八日戊戌。布衣供奉人依有其闕。可加越中五郎左衛門尉。同六郎左衛門尉等之由。被仰出云々。

読下し                     ほい   ぐぶにん そ   けつ あ    よっ
弘長元年(1261)八月小八日戊戌。布衣の供奉人其の闕有るに依て、

えっちゅうのごるさえもんのじょう おな   ろくろうさえもんのじょうら  くは    べ   のよし  おお  いださる    うんぬん
越中五郎左衛門尉・同じき六郎左衛門尉等を加へる可き之由、仰せ出被ると云々。

現代語弘長元年(1261)八月小八日戊戌。正装の狩衣のお供に欠員があるので、越中五郎左衛門尉(宇都宮)横田長員と越中六郎左衛門尉(宇都宮)横田時業を加えるように、将軍が云いだしましたとさ。

弘長元年(1261)八月小十日庚子。リ。駿河五郎事。去八日重催促之處。猶以難治之由載請文。仍有其沙汰。故障之趣雖無其理。如當時者。隨兵有數輩歟。可有免許之由。被仰出云々。又尾張守行有。隱岐守行氏等者。着布衣可供奉云々。御身固陰陽師。此間九人也。今日被縮六番。リ茂。リ宗等重服之間。職宗。茂氏等爲父名代勤仕之。而募彼勞効。相並父共被召加。以其例。爲親朝臣子息仲光又被召加之處。範元申云。父子可相並者。仲光者範元下臈也。不可被超越云々。爲和泉前司奉行有評議。閣宿老之奉。弱冠之類。父子相並之條。不可然之由仰出。職宗。茂氏。仲光等被除其衆。仍本番衆リ茂。宣賢。爲親。リ秀。資俊。泰房等六人也。

読下し                    はれ するがのごろう  こと  さんぬ ようかかさ    さいそくのところ  なおもっ  なんち のよしうけぶみ  の
弘長元年(1261)八月小十日庚子。リ。駿河五郎の事、去る八日重ねて催促之處、猶以て難治之由請文に載せる。

よっ  そ   さた あ    こしょうのおもむき そ  り な   いへど   とうじ  ごと  は   ずいへいすうやからあ  か
仍て其の沙汰有り。故障之趣其の理無きと雖も、當時の如き者、隨兵數輩有る歟。

めんきょ あ  べ  のよし  おお  いださる    うんぬん
免許有る可き之由、仰せ出被ると云々。

またおわりのかみゆきあり おきのかみゆきうじら は    ほい   き   ぐぶ すべ   うんぬん
又尾張守行有・隱岐守行氏等者、布衣を着て供奉可しと云々。

おんみがため おんみょうじ  こ  あいだくにんなり  きょう ろくばん  ちぢ  らる
御身固の陰陽師、此の間九人也。今日六番に縮め被る。

はるしげ はるむねらちょうぶくのあいだ  ともむね しげうじら ちち みょうだい  な  これ  ごんじ
リ茂・リ宗等重服之間、職宗・茂氏等父の名代と爲し之を勤仕す。

しか    か   ろうこう  つの    ちち  とも  あいなら  め   くは  らる
而るに彼の勞効に募り、父と共に相並べ召し加へ被る。

 そ  れい  もっ    ためちかそん  しそくなかみつまた め  くは  らる  のところ  のりもともう    い
其の例を以て、爲親朝臣が子息仲光又召し加へ被る之處、範元申して云はく。

おやこ あいなら  べ  は   なかみつは のりもと  げろうなり ちょうえつさる  べからず  うんぬん
父子相並ぶ可き者、仲光者範元@の下臈也。超越A被る不可と云々。

いずみのぜんじぶぎょう  な  ひょうぎあ

和泉前司奉行と爲し評議有り。

すくろうのたてまつ さしお   じゃっかんのたぐい  おやこあなら  のじょう  しか  べからず のよしおお  いだ
宿老之奉りを閣き、弱冠之類、父子相並ぶ之條、然る不可之由仰せ出す。

ともむね しげうじ  なかみつら そ  しゅう  のぞかる
職宗・茂氏・仲光等其の衆を除被る。

よっ  ほんばん しゅう  はるしげ むねかた ためちか はるひで すけとし やすふさら  ろくにんなり
仍て本番の衆はリ茂・宣賢・爲親・リ秀・資俊・泰房等の六人也。

参考@範元は、押垂掃部助
参考A
超越は、身分の低い者が越えてはならない。

現代語弘長元年(1261)八月小十日庚子。晴れです。駿河五郎伊具流北条通時については、先日の八日重ねて参加を催促したところ、病気が治りにくいと受書を出してきました。そこでしょうがないとお決めになりました。故障だという内容に無理があるけれども、現在ならば武装儀仗兵のなり手はいくらかあるだろうから、許可しようと言い出しましたとさ。
また、尾張守二階堂行有と隠岐守二階堂行氏は、正装の狩衣を着てお供をするようにだとさ。
身の回りを悪霊から守るまじないをする身固め役の陰陽師は、先日九人にしていましたが、今日六人に縮めました。
その理由は、安倍晴茂と晴宗は服喪中なので、職宗と茂氏達が父の代理でこれを勤めます。しかし、服喪の彼らの働きの手柄に答えて父と共に一緒に並んで参加を決めました。その例に見習って為親さんの息子の仲光もまた、一緒に参加を決めましたが、押垂掃部助範元が文句をたれました。「親子ならんで参加すると仲光は範元より目下なのです。順を越えて並ぶべきではありません」と云ってます。
そこで、和泉前司二階堂行方が指揮担当して検討がありました。長老たちを差し置いて、若い連中が親子共に並ぶことは、そうあるべきではないと仰せになりました。それで職宗・茂氏・仲光は外すことになりました。ですから本番の担当は、晴茂・宗賢・為親・晴秀・資俊・泰房の六人です。
(文句をつけた範元は、自分が出られないのに親の七光りで出そうになった若者に面白くなかったのでしょうね?)

弘長元年(1261)八月小十二日壬寅。放生會兵内。常陸左衛門尉行C一人可候于先陣最前。出羽七郎左衛門尉行頼者必可爲後陣之由。被定下云々。

読下し                      ほうじょうえ  へい  うち  ひたちのさえもんのじょうゆききよ ひとり せんじん  さいぜんにそうら べ
弘長元年(1261)八月小十二日壬寅。放生會の兵の内、常陸左衛門尉行C一人先陣の最前于候う可し。

ではのしちろうさえもんのじょうゆきありは かなら こうじんたるべ  のよし  さだ  くださる   うんぬん
出羽七郎左衛門尉行頼者必ず後陣爲可き之由、定め下被ると云々。

現代語弘長元年(1261)八月小十二日壬寅。放生会の兵隊の内で、常陸左衛門尉二階堂行清は一人で前を行く武装儀仗兵の先頭を勤める事。出羽七郎左衛門尉二階堂行頼は、必ず後から行く武装儀仗兵に入れるように、決めて仰せになられましたとさ。

弘長元年(1261)八月小十三日癸夘。爲將軍家御願。被奉御釼於諸社。筑前二郎左衛門尉行頼奉行之。」次放生會御出之間事。條々有其沙汰。先被定供奉人着座之所。十五日者。随兵者如例可候西廻廊東方。着狩衣之輩者可爲東廻廊前。十六日者。随兵者埒門南左右〔在西面〕可着。次座席事。東者自腋門前迄于東而布衣人少々。其次先陣随兵可着。西者自廻廊迄西而布衣又少々。其次可爲後陣随兵。
次宮内權大輔           長門前司
 宇都宮石見前司         大隅大炊助
 壹岐三郎左衛門尉        伊勢三郎左衛門尉
等各依有鹿食事。辞申供奉間事。爲行方。景頼等奉行。内々有其沙汰。太自由也。放生會以後。殊可有其沙汰之由云々。此間事。平岡左衛門尉實俊一人申沙汰之。工藤三郎左衛門尉光泰輕服之故也。而實俊奉行難仰之由。越州依被申之。自相摸太郎殿。被差副平三郎左衛門尉之間。座席事可存知之旨被仰含。

読下し                      しょうぐんけ ごがん  な  おんつるぎをしょしゃ たてまつらる  ちくぜんのじろうさえもんのじょうゆきよりこれ  ぶぎょう
弘長元年(1261)八月小十三日癸夘。將軍家御願と爲し、御釼於諸社へ奉被る。筑前二郎左衛門尉行頼之を奉行す。」

つぎ  ほうじょうえ ぎょしゅつのあいだ こと じょうじょうそ  さた あ   ま  ぐぶにん  ちゃくざのところ  さだ  らる
次に放生會御出之間の事、條々其の沙汰有り。先ず供奉人の着座之所を定め被る。

じゅうごにちは  ずいへいは れい ごと  にしかいろうひがしかた そうら べ   かりぎぬ  き  のやからは ひがしかいろう  まえたるべ
十五日者、随兵者例の如く西廻廊東方に候う可し。狩衣を着る之輩者東廻廊の前爲可し。

じゅうろくにちは ずいへいは らちもん みなみさゆう 〔さいめん  あ   〕 つ   べ
十六日者、随兵者埒門@の南左右〔西面に在り〕着く可し。

つぎ  ざせき  こと ひがしはわきもんまえよ  ひがしまでに  て ほい  ひとしょうしょう   そ  つぎ  せんじん  ずいへい つ  べ
次に座席の事、東者腋門前自り東迄于し而布衣の人少々。其の次に先陣の随兵着く可し。

にしは かいろうよ  にしまで  て ほい またしょうしょう  そ  つぎ  こうじん  ずいへいたるべ
西者廻廊自り西迄にし而布衣又少々。其の次に後陣の随兵爲可し。

つぎ  くないごんのだいゆう                      ながとのぜんじ
次に宮内權大輔           長門前司

     うつのみやいわみぜんじ                   おおすみおおいのすけ
  宇都宮石見前司         大隅大炊助

     いきのさぶろうさえもんのじょう                いせのさぶろうさえもんのじょう
  壹岐三郎左衛門尉        伊勢三郎左衛門尉

ら おのおの しかぐい ことあ   よっ    ぐぶ   じ   もう  あいだ こと  ゆきかた かげよりら ぶぎょう  な   ないない  そ   さた あ
等 各 鹿食の事有るに依て、供奉を辞し申す間の事、行方・景頼等奉行と爲し、内々に其の沙汰有り。

はなは じゆうなり  ほうじょうえ いご   こと  そ   さた あ   べ   のよし  うんぬん  
太だ自由A也。放生會以後、殊に其の沙汰有る可し之由と云々。

かく あいだ こと  ひらおかさえもんのじょうさねとしひとりこれ  もう   さた     くどうのさぶろうさえもんのじょうみつやす きょうぶくのゆえなり
此の間の事、平岡左衛門尉實俊一人之を申し沙汰す。工藤三郎左衛門尉光泰 輕服之故也。

しか   さねとし ぶぎょうおお  がた  のよし  えつしゅうこれ もうさる    よっ    さがみのたろうどのよ    へいざぶろうさえもんのじょう さ  そ  らる  のあいだ
而るに實俊奉行仰せ難き之由、越州之を申被るに依て、相摸太郎殿自り、平三郎左衛門尉Bを差し副へ被る之間、

ざせき  ことぞんし すべ  のむねおお  ふく  らる
座席の事存知可し之旨仰せ含め被る。

参考@埒門は、垣根のついた門。
参考A
自由は、わがまま勝手。
参考B
平三郎左衛門尉は、平盛時の子で頼経。

現代語弘長元年(1261)八月小十三日癸卯。宗尊親王将軍家の願いとして、刀をあちこちの神社へ奉納しました。筑前次郎左衛門尉二階堂行頼が担当します。」
次に放生会にお出ましについて、箇条書きにその決定がありました。
まず、お供の座席場所を決められました。十五日は、武装儀仗兵は何時ものように西の回廊の東側に並ぶこと。狩衣の正装の連中は東の回廊の前にする。十六日は、武装儀仗兵は、垣根の門の南の左右〔西側にある?〕に座る事。
次に座席については、東側は脇の門から東側へ狩衣の人を数人。その次に前を行く武装儀仗兵が座る事。西側は、回廊から西端までに狩衣を数人。その次に後ろを行く武装儀仗兵にする。
次に宮内権大輔長井時秀、長門前司笠間時朝、宇都宮石見前司宗朝、大隅大炊助、壱岐三郎左衛門尉佐々木頼綱、伊勢三郎左衛門尉頼綱達は、それぞれ鹿食いがあったので、穢れでお供を辞退することについて、和泉前司二階堂行方と武藤景頼を担当として内々に決め事がありました。非常にわがまま勝手である。放生会が終わった後で、特に処分をするのだそうな。
以上の事について、平岡左衛門尉実俊一人がこれを告げる役をしました。工藤三郎左衛門尉光泰は服喪中だからです。しかし、平岡実俊は一人では仕切り切れないと越州実時が云っているので、相模太郎時宗から平三郎左衛門尉頼経を指定して差し出したので、座席の事をしっかり覚えるように云い聞かせましたとあ。

弘長元年(1261)八月小十四日甲辰。放生會條々。重有其沙汰。所謂。立随兵并布衣供奉人等次第。可進覽之旨。被仰越後守之處。任位次於立次第者。不可及子細。不然者無左右難計申之由。以景頼被報申之。重仰云。不可依位次。且任家之C花。且分嫡庶可立次第也者。於御持佛堂前公卿座。越州并武藤少卿等雖相談之。非位次々第者。凡難道行之間。猶言上其由。此上被止其儀云々。次中御所依可有御參。被定供奉人。是平三郎左衛門尉依可奉行。下賜其散状。如將軍家御共。着直垂者可候之。可令帶釼否有沙汰。不可然云々。次伊勢二郎左衛門尉頼綱。佐々木壹岐四郎左衛門尉長綱鹿食咎事。父壹岐前司泰綱。伊勢入道行願等就愁申之。評定次及其沙汰。有御免云々。次小野澤次郎。山田彦次郎。可催加直垂着之由被仰云々。次供奉人等。於宮中可着座次第被定之。兩方御棧敷之前。除御妻戸之外。布衣衆可候其下。除兩國司着座之前。東者可爲先陣随兵座。西者可爲後陣随兵座云々。

読下し                      ほうじょうえ じょうじょう かさ    そ   さた あ
弘長元年(1261)八月小十四日甲辰。放生會の條々、重ねて其の沙汰有り。

いはゆる ずいへいなら    ほい   ぐぶにんら  しだい  た    しんらんすべ  のむね  えちごのかみ おお  らる  のところ
所謂、随兵并びに布衣の供奉人等の次第を立て@、進覽可き之旨、越後守に仰せ被る之處、

いつぎ  まか  しだい  たて    をい  は   しさい  およ  べからず  しか  ずんば とこうな  はか  もう  がた  のよし  かげより  もっ  これ  ほう  もうさる
位次に任せ次第を立るに於て者、子細に及ぶ不可。然ら不者左右無く計り申し難き之由、景頼を以て之を報じ申被る。

かさ    おお    い      いつぎ  よるべからず  かつう いえ の せいか  まか    かつう ちょくしょ わ   しだい  た   べ  なりてへ
重ねて仰せて云はく。位次に依不可。且は家之C花Aに任せ、且は嫡庶を分け次第を立つ可き也者れば、

 ごじぶつどう  まえ  くぎょう  ざ を  えつしゅうなら   むとうしょうきょうら これ  あいだん    いへど   いつぎ  しだい  あらざ  ば
御持佛堂の前の公卿の座於、越州并びに武藤少卿等之を相談ずると雖も、位次の々第に非れ者B

およ  みちゆき がた  のあいだ  なお そ  よし  ごんじょう   かく  うえ  そ   ぎ  や  らる    うんぬん
凡そ道行し難し之間、猶其の由を言上す。此の上は其の儀を止め被るCと云々。

つぎ  なかごしょ ぎょさん あ  べ    よっ     ぐぶにん  さだ  らる    これ へいざぶろうさえもんのじょうぶぎょうすべ   よっ   そ  さんじょう くだ  たま
次に中御所御參有る可きに依て、供奉人を定め被る。是平三郎左衛門尉D奉行可きに依て、其の散状を下し賜はる。

しょうぐんけ  おんとも  ごと    ひたたれ  き   ものこれ そうら べ    たいけんせし  べ    いな   さた  あ    しか べからず  うんぬん
將軍家の御共の如く、直垂を着る者之に候う可し。帶釼E令む可きや否や沙汰有りて、然る不可と云々。

つぎ  いせのじろうさえもんのじょうよりつな  ささきいしのしろうさえもんのじょうながつな しかぐい  とが  こと  ちち いきのぜんじやすつな  いせにゅうどうぎょうがんら
次に伊勢二郎左衛門尉頼綱・佐々木壹岐四郎左衛門尉長綱鹿食の咎の事、父壹岐前司泰綱・伊勢入道行願等

これ  うれ  もう    つ   ひょうじょう ついで   そ  さた   およ    ごめん あ    うんぬん
之を愁ひ申すに就き、評定の次に其の沙汰に及び、御免有りと云々。

つぎ  おのざわのじろう   やまだのひこじろう  ひたたれぎ  もよお くは    べ   のよしおお  らる    うんぬん
次に小野澤次郎・山田彦次郎、直垂着に催し加へる可き之由仰せ被ると云々。

つぎ   ぐぶにんら   みやなか  をい  ちゃくざすべ  しだい これ  さだ  らる
次に供奉人等、宮中に於て着座可き次第之を定め被る。

りょうほう  おんさじき のまえ  おんつまど  のぞ  のほか   ほい   しゅう そ  した  そうら  べ
兩方の御棧敷之前、御妻戸を除く之外、布衣の衆其の下に候う可し。

りょうこくし  ちゃくざ のまえ  のぞ    ひがしはせんじん  ずいへい  ざ たるべ    にしは こうじん  ずいへい  ざ たるべ    うんぬん
兩國司の着座之前を除き、東者先陣の随兵の座爲可し。西者後陣の随兵の座爲可しと云々。

参考@次第を立ては、順番通りに名簿を書いて。
参考AC花は、権門清華。分の思想で、分に限りがあって分限。分に従えば随分。分を際まえれば分際。応えれば応分。分から家に格が出来て家職が決められ、家業を継ぐようになり、天皇家・摂関家・清華家(大臣と大将を兼任できる)・大臣家(大臣はできても大将になれない)。この下に同格で局務家・官務家・陰陽家・武家・医家があり、途中から将軍家が出来て、北条家が執権家になった。これが分思想。
参考B
位次の々第に非れ者は、位の順に応じてやるのなら問題はありませんが、そうでなければ出来ません。と景頼を通して報告した。
参考C
其の儀を止め被る
は、将軍が決めた座席順を評定で変えてしまった。
参考D平三郎左衛門尉は、頼経で得宗被官が奉行をしている。
参考E帶釼
は、太刀を佩く。

現代語弘長元年(1261)八月小十四日甲辰。放生会の条件をなおも云っております。それは、「武装儀仗兵それと正装の狩衣でのお供の人の順番を書き出して見せるように」と越後守実時に命じたところ、「位順に並べて書き出す事については文句はありません。そうでなければ順を決める方法がありません」と武藤景頼を通して報告しました。
なおも云われるのには「位順ではないよ。一つは家の各の順に、一つは、惣領と庶子とに分けて順を並べなさい」と言ったので、持仏堂の前の公家の座順を、越州実時と武藤景頼とが相談をしましたが、位順でなければ行列を書き出せないと、なおもその旨を申し上げました。それならばその(家の格や惣領庶子のじ順)方法は止めることになったんだとさ。
つぎに中御所お妾さんも行くので、そのお供を決めました。これは平三郎左衛門尉頼経が指導担当するので、その主席催促回覧を与えました。宗尊親王将軍家のお供と同じように、鎧直垂を着た者が勤めるように。太刀を佩くかどうか検討しましたが、いらないとのことだそうな。
次に伊勢次郎左衛門尉二階堂行経と佐々木四郎左衛門尉長綱(13日条では三郎頼綱)の鹿喰の罪としてお供を降ろされたことについて、父の伊勢入道行願二階堂行綱と壱岐前司佐々木泰綱が嘆いて訴えたので、政務会議のついでに検討されて、許可がありましたとさ。
つぎに、小野沢次郎時仲と山田彦次郎は、鎧直垂を着るものに催促して加えるように言い出しましたとさ。
つぎに、お供の人の鶴岡八幡宮内での座席の順を決めました。両方(将軍と中御所)の桟敷の前の建物隅の扉を除く以外の、正装の狩衣の人々はその下に控えるように。両国司(武蔵守長時と相摸守政村)の前を除いて、東は前を行く武装儀仗兵、西は後から行く武装儀仗兵の座席とするとのことだそうな。

弘長元年(1261)八月小十五日乙巳。リ。鶴岳放生會。御息所爲覽舞樂渡御〔御輿〕。其後將軍家御出。供奉人。
先陣随兵
 武田三郎政綱          小笠原六郎三郎時直
                〔一人可候最前之由雖有兼日定臨期如此〕
 城六郎顯盛           常陸左衛門尉行C
 三浦六郎左衛門尉頼盛      信濃二郎左衛門尉時C
 足利上総三郎滿氏        千葉介頼胤
 新相摸三郎時村         遠江七郎時基
 武藏五郎時忠
御所御方
布衣
 相摸太郎            刑部少輔
 彈正少弼            尾張左近大夫將監
 越後右馬助時親         民部權大輔
 相摸三郎            越後四郎
 木工權頭            和泉前司
 佐々木壹岐前司         越中前司頼業
 後藤壹岐前司          同新左衛門尉
 縫殿頭             日向前司
 尾張守行有           隱岐守行氏
 大隅修理亮           武藤左衛門尉
 甲斐三郎左衛門尉        上総太郎左衛門尉長經
 善五郎左衛門尉康家       梶原太郎左衛門尉景綱
 伊勢次郎左衛門尉        紀伊二郎左衛門尉爲經
〔御笠手長〕
 進三郎左衛門尉         肥後四郎左衛門尉
 河内三郎左衛門尉祐氏      三村新左衛門尉時親
 足立三郎左衛門尉        長次右衛門尉義連
 加地七郎左衛門尉氏綱
帶釼
 式部二郎左衛門尉光長      城十郎時景
 武石新左衛門尉         周防六郎左衛門尉忠頼
 筑前五郎左衛門尉行重      佐々木對馬四郎宗綱
 出雲二郎左衛門尉時光      足立藤内左衛門三郎政遠
 後藤壹岐二郎左衛門尉基廣    宇佐美三郎兵衛尉祐明
 薩摩新左衛門尉祐重       甲斐五郎左衛門尉爲定
 遠山孫太郎景長         小泉四郎左衛門尉頼行
 善六左衛門二郎盛村
後陣随兵
 駿河五郎通時          武藏八郎頼直
 遠江十郎左衛門尉頼連      武石三郎左衛門尉朝胤
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐三郎左衛門尉行景
 大曽祢太郎左衛門尉       小田左衛門尉時知
 土肥左衛門尉          完戸二郎左衛門尉家氏
 河越次郎經重          出羽七郎左衛門尉行頼
中御所御方
布衣
 陸奥左近大夫將監        相摸四郎
 越前々司            武藏左近大夫將監
 遠江右馬助           刑部權少輔
 對馬前司            武藤少卿
 伊賀前司            周防前司
 加賀守             薩摩七郎左衛門尉
 土肥四郎左衛門尉        出羽弥藤二左衛門尉
 鎌田圖書左衛門尉        甲斐二郎左衛門尉
 足立三郎右(左)衛門尉      梶原太郎左衛門尉
 伊勢二郎左衛門尉        肥後四郎左衛門尉
 越中五郎左衛門尉
直垂
 出羽八郎左衛門尉        信濃判官二郎左衛門尉
 伊賀二郎右衛門尉        伊東二郎左衛門尉
 梶原三郎左衛門尉        近江三郎左衛門尉
 上総四郎            善五郎左衛門尉
 小野澤二郎
官人
 足利大夫判官          上野大夫判官
廻廊參人々
 相摸守政村朝臣         武藏守長時
 武藏前司朝直

読下し                     はれ つるがおかほうじょうえ みやすんどころ ぶがく  み   ためとぎょ   〔おんこし〕   そ  ご しょうぐんけぎょしゅつ  ぐぶにん
弘長元年(1261)八月小十五日乙巳。リ。鶴岳放生會。御息所@舞樂を覽る爲渡御す〔御輿〕。其の後將軍家御出。供奉人。

参考@御息所は、親王将軍の正妻。

せんじん ずいへい
先陣の随兵

  たけだのさぶろうまさつな                 おがさわらのろくろうさぶろうときなお
 武田三郎政綱          小笠原六郎三郎A時直   参考A六郎三郎は、六男の三男。

  じょうのろくろうあきもり                   ひたちのさえもんのじょうゆきあり 〔ひとりさいぜん  そうら べ   のよしけんじつさだ  あ   いへど  ご   のぞ  かく  ごと  〕
 城六郎顯盛           常陸左衛門尉行C〔一人最前に候う可き之由兼日定め有るBと雖も期に臨み此の如し〕

参考B兼日定め有るは、12日に先陣の最前と決めていたけれど。

  みうらのろくろうさえもんのじょうよりもり          しなののじろうさえもんのじょうとききよ
 三浦六郎左衛門尉頼盛      信濃二郎左衛門尉時C

  あしかがかずさのsぶろうみつうじ             しばのすけよりたね
 足利上総三郎滿氏        千葉介頼胤

  しんさがみのさぶろうときむら               とおとうみのしちろうときもと
 新相摸三郎時村         遠江七郎時基

  むさしのごろうときただ
 武藏五郎時忠

ごしょ  おんかた
御所の御方

 ほい
布衣

  さがみおたろう                       ぎょうぶしょうゆう
 相摸太郎            刑部少輔

  だんじょうしょうひつ                    おわりさこんのたいふしょうげん
 彈正少弼            尾張左近大夫將監

  えちごのうまのすけときちか                みんぶごんのしょうゆう
 越後右馬助時親         民部權大輔

  さがみのさぶろう                      えちごのしろう
 相摸三郎            越後四郎   参考相摸三郎は、北条時輔。

  もくごんのかみ                       いずみのぜんじ
 木工權頭            和泉前司   参考木工權頭は、親家で親王将軍に京都から着いて来た。

  ささきいきぜんじ                      えっちゅうぜんじよりなり
 佐々木壹岐前司         越中前司頼業

  ごとういきぜんじ                       おな   しんさえもんのじょう
 後藤壹岐前司          同じき新左衛門尉

  ぬいどののとう                        ひゅうがぜんじ
 縫殿頭             日向前司

  おわりのかみゆきあり                     おきのかみゆきうじ
 尾張守行有           隱岐守行氏

  おおすみしゅりのすけ                    むとうさえもんのじょう
 大隅修理亮           武藤左衛門尉

  かいのさぶろうさえもんのじょう                かずさのたろうさえもんのじょうながつね
 甲斐三郎左衛門尉        上総太郎左衛門尉長經

  ぜんのごろうさえもんのじょうやすいえ            かじわらのたろうさえもんのじょうかげつな
 善五郎左衛門尉康家       梶原太郎左衛門尉景綱

  いせのじろうさえもんのじょう                  きいのじろうさえもんのじょうためつね
 伊勢次郎左衛門尉        紀伊二郎左衛門尉爲經

  じんざぶろうさえもんのじょう 〔おんかさ  てなが〕      ひごのしろうさえもんのじょう
 進三郎左衛門尉〔御笠の手長C   肥後四郎左衛門尉   参考C御笠の手長は、後ろから差し掛ける笠の紐を調節するのが手長。

  かわちのさぶろうさえもんのじょうすけうじ          みむらしんさえもんのじょうときちか
 河内三郎左衛門尉祐氏      三村新左衛門尉時親

  あだちのさぶろうさえもんのじょう               ちょうじうえもんのじょうよしつら
 足立三郎左衛門尉        長次右衛門尉義連   参考長次は、長谷部の次男。

  かぢのしちろうさえもんのじょううじつな
 加地七郎左衛門尉氏綱

たいけん
帶釼D     参考D帶釼は、太刀を佩いている。ボデイガード。SP

  しきぶのじろうさえもんのじょうみつなが           じょうのじゅうろうときかげ
 式部二郎左衛門尉光長      城十郎時景

  たけいしのしんさえもんのじょう                すおうのろくろうさえもんのじょうただより
 武石新左衛門尉         周防六郎左衛門尉忠頼

  ちくぜんのごろうさえもんのじょうゆきしげ           ささきつしまのしろうむねつな
 筑前五郎左衛門尉行重      佐々木對馬四郎宗綱

  いずものじろうさえもんのじょうときみつ            あだちのとうないさえもんさぶろうまさとお
 出雲二郎左衛門尉時光      足立藤内左衛門三郎政遠

  ごとういきのじろうさえもんのじょうもときよ           うさみのさぶろうひょうえのじょうすけあき
 後藤壹岐二郎左衛門尉基廣    宇佐美三郎兵衛尉祐明

  さつまのしんさえもんのじょうすけしげ             かいのごろうさえもんのじょうためさだ
 薩摩新左衛門尉祐重       甲斐五郎左衛門尉爲定

  とおやままごたろうかげなが                   こいずみのしろうさえもんのじょうよりゆき
 遠山孫太郎景長         小泉四郎左衛門尉頼行

  ぜんろくさえもんじろうもりむら
 善六左衛門二郎盛村   参考善六は、三善の六男。よって六男の次男。

こうじん  ずいへい
後陣の随兵

  するがのごろうみちとき                      むとうのはちろうよりなお
 駿河五郎通時          武藏八郎頼直

  とおとうみのじゅうろうさえもんのじょうよりつら         たけいしのさぶろうさえもんのじょうともたね
 遠江十郎左衛門尉頼連      武石三郎左衛門尉朝胤

  おのでらしんさえもんのじょうゆきみち             おきのさぶろうさえもんのじょうゆきかげ
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐三郎左衛門尉行景

  おおそねたろうさえもんのじょう                 おだのさえもんのじょうときとも
 大曽祢太郎左衛門尉       小田左衛門尉時知

  といのさえもんのじょう                      ししどのじろうさえもんのじょういえうじ
 土肥左衛門尉          完戸二郎左衛門尉家氏

  かわごえのじろうつねしげ                   でわのしちろうさえもんのじょうゆきより
 河越次郎經重          出羽七郎左衛門尉行頼

なかごしょのおんかた
中御所御方E   参考E中御所御方は、将軍の第二婦人。

 ほい
布衣

  むつさこんのたいふしょうげん                 さがみのしろう
 陸奥左近大夫將監        相摸四郎

  えちぜんぜんじ                         むさしさこんのたいふしょうげん
 越前々司            武藏左近大夫將監

  とおとうみうまのすけ                       ぎょうぶごんのしょうゆう
 遠江右馬助           刑部權少輔

  つしまのぜんじ                          むとうしょうきょう
 對馬前司            武藤少卿

  いがぜんじ                            すおうぜんじ
 伊賀前司            周防前司

  かがのかみ                            さつまのしちろうさえもんのじょう
 加賀守             薩摩七郎左衛門尉

  といのしろうさえもんのじょう                   でわのいやとうじさえもんのじょう
 土肥四郎左衛門尉        出羽弥藤二左衛門尉

  かまたずしょさえもんのじょう                   かいのじろうさえもんのじょう
 鎌田圖書左衛門尉        甲斐二郎左衛門尉

  あだちのさぶろうさえもんのじょう                かじわらのたろうさえもんのじょう
 足立三郎左衛門尉        梶原太郎左衛門尉

  いせのじろうさえもんのじょう                   ひごのしろうさえもんのじょう
 伊勢二郎左衛門尉        肥後四郎左衛門尉

  えっちゅうのごろうさえもんのじょう
 越中五郎左衛門尉

ひたたれ
直垂F   参考F直垂は、鎧直垂ですぐに鎧を着て武装が出来る。

  でわのはちろうさえもんのじょう                 しなのほうがんじろうさえもんのじょう
 出羽八郎左衛門尉        信濃判官二郎左衛門尉

  いがのじろううえもんのじょう                   いとうのじろうさえもんのじょう
 伊賀二郎右衛門尉        伊東二郎左衛門尉

  かじわらのさぶろうさえもんのじょう               おうみのさぶろうさえもんのじょう
 梶原三郎左衛門尉        近江三郎左衛門尉

  かずさのしろう                          ぜんのごろうさえもんのじょう
 上総四郎            善五郎左衛門尉

  おのざわのじろう
 小野澤二郎

かんじん
官人G   参考G官人は、検非違使。

  あしかがたいふほうがん                     こうづけたいふほうがん
 足利大夫判官          上野大夫判官

かいろう まい ひとびと
廻廊に參る人々

  さがみのかみまさむらあそん                  むさしのかみながとき
 相摸守政村朝臣         武藏守長時

  むさしぜんじともなお
 武藏前司朝直

現代語弘長元年(1261)八月小15日乙巳。晴れです。鶴岡八幡宮の放生会です。将軍の奥方御息所が舞楽を見るためにお出かけです〔輿〕。その後に宗尊親王将軍家のお出ましです。お供は、
前を行く武装儀仗兵
 武田三郎政綱       小笠原六郎三郎時直
 城六郎安達顕盛      常陸左衛門尉二階堂行清〔一人で一番前を行く予定でしたが、この時になってこのとおりです〕
 三浦六郎左衛門尉頼盛   信濃二郎左衛門尉二階堂時清
 足利上総三郎満氏     千葉介頼胤
 新相模三郎時村      遠江七郎時基
 武蔵五郎大仏流北条時忠
将軍
 狩衣
 相模太郎北条時宗     刑部少輔北条教時
 弾正少弼北条業時     尾張左近大夫将監名越公時
 越後右馬助時親      民部権大輔時隆
 相模三郎時輔       越後四郎時方
 木工権頭中原親家     和泉前司二階堂行方
 佐々木壱岐前司泰綱    
越中前司(宇都宮)横田頼業
 後藤壱岐前司基政     同新左衛門尉後藤基頼
 縫殿頭中原師連      日向前司伊東祐泰
 尾張守二階堂行有     隠岐守二階堂行氏
 大隅修理亮島津久時    武藤左衛門尉景頼
 甲斐三郎左衛門尉為成   上総太郎左衛門尉長経
 善五郎左衛門尉三善康家  梶原太郎左衛門尉景綱
 伊勢次郎左衛門尉二階堂行経 紀伊二郎左衛門尉為経
 進三郎左衛門尉宗長    肥後四郎左衛門尉二階堂行定
 河内三郎左衛門尉伊東祐氏 三村新左衛門尉時親
 足立三郎左衛門尉元氏   長次右衛門尉長谷部義連
 加地七郎左衛門尉佐々木氏綱
太刀を佩いているボディガード
 式部次郎左衛門尉伊賀光長 城十郎安達時景
 武石新左衛門尉長胤    周防六郎左衛門尉島津忠頼
 筑前五郎左衛門尉二階堂行重 佐々木対馬四郎宗綱
 出雲二郎左衛門尉時光   足立藤内左衛門三郎政遠
 後藤壱岐次郎左衛門尉基広 宇佐美三郎兵衛尉祐明
 薩摩新左衛門尉伊東祐重  甲斐五郎左衛門尉為定
 遠山孫太郎景長      小泉四郎左衛門尉頼行
 善六左衛門二郎三善盛村
後ろを行く武装儀仗兵
 駿河五郎通時          武藏八郎頼直
 遠江十郎左衛門尉頼連      武石三郎左衛門尉朝胤
 小野寺新左衛門尉行通      隱岐三郎左衛門尉行景(隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏から改名らしい)
 大曽祢太郎左衛門尉       小田左衛門尉時知
 土肥左衛門尉          完戸二郎左衛門尉家氏
 河越次郎経重          出羽七郎左衛門尉行頼
中御所のお供は
正装の狩衣
 陸奥左近大夫将監塩田義政    相模四郎北条宗政
 越前前司時広          武蔵左近大夫将監時仲
 遠江右馬助清時         刑部権少輔那波政茂
 対馬前司矢野倫長        武藤少卿景頼
 伊賀前司小田時家        周防前司島津忠綱
 加賀守佐々木親C        薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
 土肥四郎左衛門尉実綱      出羽弥藤二左衛門尉頼平
 鎌田図書左衛門尉信俊      甲斐二郎左衛門尉
 足立三郎左衛門尉元氏      梶原太郎左衛門尉景綱
 伊勢二郎左衛門尉二階堂行経   肥後四郎左衛門尉二階堂行定
 越中五郎左衛門尉
(宇都宮)横田長員
鎧直垂は
 出羽八郎左衛門尉二階堂行世   信濃判官二郎左衛門尉
 伊賀二郎左衛門尉光房      伊東二郎左衛門尉
 梶原三郎左衛門尉景氏      近江三郎左衛門尉頼重
 上総四郎            善五郎左衛門尉三善康家
 小野沢二郎時仲
祓の検非違使は
 足利大夫判官家氏        上野大夫判官結城広綱
回廊に来ていた人々
 相模守北条政村さん       武蔵守極楽寺流北条長時
 武蔵前司大仏流北条朝直

弘長元年(1261)八月小十六日丙午。リ。御參宮同昨。流鏑馬以下如例。

読下し                     はれ  ごさんぐうさく  おな    やぶさめ いげ れい  ごと
弘長元年(1261)八月小十六日丙午。リ。御參宮昨に同じ。流鏑馬以下例の如し。

現代語弘長元年(1261)八月小十六日丙午。晴れです。鶴岡八幡宮へのお参りの昨日と同じです。流鏑馬などの奉納は何時もの通りです。

九月へ

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