吾妻鏡入門第五十一巻

弘長三年(1263)四月大

弘長三年(1263)四月大一日庚戌。二所御參詣供奉人事。以先度進奉散状被催之云云。

読下し              にしょごさんけい  ぐぶにん  こと  せんどすす たてまつ さんじょう もっ  これ  もよ  さる   うんぬん
弘長三年(1263)四月大一日庚戌。二所御參詣の供奉人の事、先度進み 奉る 散状
を以て@之を催お被ると云云。

参考@先度進み奉る散状を以ては、前に一度供を申し出た名簿を使って。

現代語弘長三年(1263)四月大一日庚戌。将軍の二所詣でのお供について、前に一度申し出た名簿を使って催促させたそうな。

弘長三年(1263)四月大三日壬子。後藤壹岐前司二所供奉申障云云。

読下し               ごとういきぜんじ  にしょ  ぐぶ   さわ    もう   うんぬん
弘長三年(1263)四月大三日壬子。後藤壹岐前司二所の供奉、障りを申すと云云。

現代語弘長三年(1263)四月大三日壬子。後藤壱岐前司基政は二所詣でのお供は支障があると云ってるんだとさ。

弘長三年(1263)四月大七日丙辰。天リ。入夜。窟堂邊騒動。但則靜謐。是群盜十余人隱居地藏堂之間。夜行輩等行向其庭生虜故也。

読下し             そらはれ  よ   い   いわやどうへんそうどう   ただ すなは せいひつ
弘長三年(1263)四月大七日丙辰。天リ。夜に入り、 窟堂邊 騒動す。但し則ち靜謐す。

これ ぐんとうじゅうよにん ぢどうどう  いんきょ  のあいだ やぎょう やからら そ  にわ  ゆきむか いけど  ゆえなり
是、群盜十余人 地藏堂@に隱居する之間、夜行の輩等A其の庭へ行向ひ生虜る故也。

参考@地藏堂は、松源寺(廃寺)日金地蔵。
参考A
夜行の輩は、保司(ほうじ)の中から夜回り組をやらせた。

現代語弘長三年(1263)四月大七日丙辰。空は晴です。夜になって、岩屋不動のあたりが騒がしかったがすぐに静かになった。それは、盗人どもが十数人松源寺日金地蔵に隠れていたから、保司(町内会)の夜回り組がその庭へ行って捕まえたからです。

弘長三年(1263)四月大十四日癸亥。二所御參詣供奉人之中申子細之輩事有其沙汰。所謂。
 相摸左近大夫將監申
  相州服暇之間。非無觸穢之憚歟。此上供奉如何。
 出羽八郎左衛門尉申
  子細同前。
 近江三郎左衛門尉申
  依御點進奉之上。可令供奉之條雖勿論。不諧垂翅之間。打梨定有憚歟者。
以上執小侍注進。武藤少卿景頼披露之處。被聞食訖者。相州。并出羽八郎左衛門尉等有恩許。近江三郎左衛門尉者可令供奉者。又後藤壹岐前司相構可令供奉之由云云。

読下し               にしょごさんけい   ぐぶにん のうち  しさい  もう  のやから  こと   そ    さた あ    いはゆる
弘長三年(1263)四月大十四日癸亥。二所御參詣の供奉人之中、子細を申す之輩の事、其の沙汰有り。所謂。

  さがみさこんのたいふしょうげんもう
  相摸左近大夫將監
@申す

    そうしゅう ふっかのあいだ しょくえのはばか  な  あらざるか かく  うえ ぐぶ   いかん
  相州 が服暇之間、觸穢之憚り無きに非歟。 此の上供奉は如何。

  でわのはちろうさえもんのじょうもう
  出羽八郎左衛門尉 申す

    しさい  まえ  おな
  子細は前に同じ。

  おうみのさぶろうさえもんのじょうもう
  近江三郎左衛門尉 申す

     ごてん  よっ たてまつ  すす   のうえ   ぐぶ せし  べ  のじょうもちろん いへど  すいしととのはざるのあいだ  うちなしさだ   はばか あ     かてへ
  御點に依て奉りを進める之上は、供奉令む可き之條勿論と雖も、垂翅
A 不諧 之間、打梨B定めて憚り有らん歟者り。

いじょう こさむらい ちゅうしん と    むとうしょうきょうかげよりひろう   のところ  きこしめされをは  てへ
以上、小侍の注進を執り、 武藤少卿景頼 披露する之處、聞食被訖んぬ者れば、

そうしゅうなら   でわのはちろうさえもんのじょうら おんきょあ
相州 并びに 出羽八郎左衛門尉等 恩許 有り。

おうみのさぶろうさえもんのじょうは ぐぶ せし  べ  てへ   また   ごとういきぜん   あいかま    ぐぶ せし  べ   のよし うんぬん
 
近江三郎左衛門尉者 供奉令む可し者り。又、後藤壹岐前司相構へCて供奉令む可き之由と云云。

現代語弘長三年(1263)四月大十四日癸亥。二所詣でのお供の人のうち、支障を云いだした連中について、将軍の検討がありました。それは、
  
相模左近大夫将監北条時村が、云っております
   父の北条政村が喪に服しているので、穢れを遠慮しなくても良いのか。それならお供はして良いのか。
  出羽八郎左衛門尉二階堂行世が、云っております
   事情は前の時村と同じ
  近江三郎左衛門尉頼重が、云っております
   将軍のチェックに承知を出した以上は、お供をするのは勿論ですが、
強装束(こわしょうぞく)の鎧直垂がありませんので、柔装束(なえしょうぞく)では、遠慮すべきでしょうか?
以上を、小侍所で書き取ったのを。武藤少卿景頼がお聞かせした所、「聞き届けた」とおっしゃて、政村の件と二階堂行世は免除がありました。
「近江三郎左衛門尉頼重は、お供をしなさい。」と云いました。また、後藤壱岐前司基政はとにかく何とかしてお供をするようにとの事でした。

参考@相摸左近大夫將監は、常盤流北条政村の子で時村。
参考A
垂翅は、綺麗な着物。武士の世界では「強装束(こわしょうぞく)で如木・直垂」等の半武装。公卿は柔装束(なえしょうぞく)で打梨。
参考B
打梨は、「打梨」は、「うちなやし」のことで、「なやし」は、柔らかくすることなので、強いものを打って柔らかくする意で、男子のかぶる烏帽子(えぼし)や強装束(こわしょうぞく)を打って、軟装束(なえしょうぞく)として用いることもありました。きもの用語大全から
参考C
相構へは、とにかく何とかして。

弘長三年(1263)四月大十六日乙丑。天リ。河野四郎通行子息九郎經通入小侍番帳云云。和泉前司傳仰於小侍云云。東御方小町宿所上棟也〔但假棟云云〕。

読下し               そらはれ こうののしろうみちゆき しそくくろうつねみち こさむらい ばんちょう い   うんぬん
弘長三年(1263)四月大十六日乙丑。天リ。河野四郎通行が子息九郎經通、 小侍 番帳に入ると云云。

いずみのぜんじ おお をこさむらい つた   うんぬん ひがしのおんかた こまち しゅくしょじょうとうなり  〔ただ  かりとう  うんぬん〕
和泉前司、仰せ於小侍に傳うと云云。 東御方が 小町の宿所上棟也。〔但し假棟と云云〕

参考小町の宿所は、東方の里亭。

現代語弘長三年(1263)四月大十六日乙丑。空は晴です。河野四郎通行の息子の九郎経通が、小侍所のメンバーに入るのだそうな。和泉前司二階堂行方が将軍のお言葉を小侍所に伝えたんだそうな。将軍の妻の東のお方様用の小町の里亭の棟上げ式です〔但し仮屋だそうな〕。

弘長三年(1263)四月大廿一日庚午。天リ。將軍家二所御精進始御濱出。爲浴潮御也。爲御水干御騎馬也。月卿雲客又着水干。其外供奉人等立烏帽子直垂。還御之時者。皆着淨衣。行列。
御駕〔有歩行御共〕
御後
 土御門大納言            近衛中將公敦朝臣
 越前々司              民部權大輔
 遠江右馬助             武藏式部大夫
 越後四郎              駿河五郎
 畠山上野三郎            佐々木壹岐前司
 中務權少輔             平岡左衛門尉
 女醫博士長宣朝臣          陰陽少允リ弘
 武藏守               相摸四郎
  兩人後騎等。相列如雲霞。

読下し               そらはれ しょうぐんけ にしょ ごしょうじんはじ   おんはまいで うしお よく たま   ためなり  ごすいかん おんきば なり
弘長三年(1263)四月大廿一日庚午。天リ。將軍家 二所 御精進始めの御濱出。潮を浴し御はん爲也。御水干御騎馬爲也。

げっけいうんきょく また すいかん き    そ  ほか  ぐぶにんら    たてえぼし  ひたたれ かんご のときは  みなじょうい  き    ぎょうれつ
 月卿雲客
@ 又水干を着る。其の外の供奉人等は立烏帽子に直垂A。還御之時者、皆淨衣Bを着る。行列。

おんが 〔 かち    おんともあ 〕 
御駕〔歩行の御共有り〕

おんうしろ
御後

  つちみかどだいなごん                      このえのちゅうじょうきんあつあそん
 土御門大納言            近衛中將公敦朝臣

  えちぜんぜんじ                          みんぶごんのだいゆう
 越前々司              民部權大輔

  とおとうみうまのすけ                        むさししきぶのたいふ
 遠江右馬助             武藏式部大夫

  えちごのしろう                            するがのごろう
 越後四郎              駿河五郎

  はたけやまのこうづけさぶろう                    ささきいきぜんじ
 畠山上野三郎            佐々木壹岐前司

  なかつかさごんのしょうゆう                    ひらおかのさえもんのじょう
 中務權少輔             平岡左衛門尉

  じょいはかせながのぶあそん                  おんみょうしょうじょうがるひろ
 女醫博士C長宣朝臣          陰陽少允リ弘

  むさしのかみ                             さがみのしろう
 武藏守               相摸四郎

    りょうにん  ごき ら   あいなら  うんか  ごと
  兩人の後騎等、相列び雲霞の如し。

参考@月卿雲客は、公卿達。
参考A
直垂は、鎧直垂の武士。
参考B
淨衣は、白いお参り着で、沐浴をした。
参考C女醫博士は、平安時代以降典薬寮に属し、婦女の病を診断 することを掌る。

現代語弘長三年(1263)四月大二十一日庚午。空は晴です。宗尊親王将軍家の二所詣での精進潔斎の為浜辺へのお出ましです。潮で体を清めるためです。水干姿に乗馬です。貴族たちも同様に水干を着ています。その他のお供は、立烏帽子に直垂です。帰りには全員清浄な白服を着ました。行列は
宗尊親王将軍家乗馬〔歩きのお供(ガードマン)があります〕
後ろに続くのは、
 土御門大納言顕方     近衛中将公敦さん
 
越前々司北条時広     民部権大輔佐助流北条時隆
 遠江右馬助大仏流北条清時 武蔵式部大夫大仏流北条朝房
 越後四郎金沢流北条顕時  駿河五郎伊具流北条通時
 畠山上野三郎国氏     佐々木壱岐前司泰綱
 中務権少輔重教      平岡左衛門尉実俊
 女医博士長宣さん     陰陽少允安倍晴弘
 武蔵守長時        相模四郎宗政
二人の後ろの騎馬の列は大勢です。

弘長三年(1263)四月大廿三日壬申。天リ。御濱出如一昨。是中御潮也。

読下し               そらはれ おんはまいで おととい ごと     これなか おんうしおなり
弘長三年(1263)四月大廿三日壬申。天リ。 御濱出、一昨の如し。是中の御 潮 也。

現代語弘長三年(1263)四月大二十三日壬申。空は晴です。将軍の浜辺へのお出ましは一昨日と同じです。これは中の潮での沐浴です。

弘長三年(1263)四月大廿四日癸酉。被點筑前入道宿所。是自來四月一日。爲御祈大阿闍梨松殿僧正居所也。

読下し               ちくぜんにゅうどう すくしょ  てん らる    これきた しがつついたちよ    おいのり ためだいあじゃりまつどのそうじょう きょしょなり
弘長三年(1263)四月大廿四日癸酉。 筑前入道 宿所を點じ被る。是來る四月一日自り、御祈の爲 大阿闍梨松殿僧正
@が居所也。

参考@松殿僧正は、摂関家の次男で出家して松殿。長男は近衛家で平家方。三男は九条家で源氏方。松殿はここで子孫断絶。

現代語弘長三年(1263)四月大二十四日癸酉。筑前入道二階堂行義の屋敷を指定しました。これは来る四月一日からお祈りをするため大阿闍梨松殿僧正の宿舎にするためです。

弘長三年(1263)四月大廿六日乙亥。雨降。將軍家二所御進發。
騎馬
 土御門大納言            近衛中將公敦朝臣
 武藏守長時             相摸四郎宗政
 〔御敷皮役〕
 越前々司時廣            遠江右馬助C時
 同四郎政房             民部權大輔時隆
 武藏式部大夫朝房          越後四郎顯時
 駿河五郎通時            中務權少輔重教
 武藤少卿景頼            佐々木壹岐前司泰綱
 木工權頭親家            後藤壹岐前司基政
 畠山上野三郎國氏          美作左衛門藏人宗教
 女醫博士長宣朝臣          陰陽少允リ弘
歩行
 伊賀四郎左衛門尉景家        土肥四郎左衛門尉實綱
 上野三郎左衛門尉重義        隱岐四郎左衛門尉行長
 近江三郎左衛門尉頼重        周防七郎定賢
 足立左衛門五郎遠時         内藤肥後六郎左衛門尉時景
 平賀三郎左衛門尉惟時        小河木工權頭時仲
 小河左近將監

読下し               そらはれ しょうぐんけにしょ  ごしんぱつ
弘長三年(1263)四月大廿六日乙亥。雨降。將軍家二所へ御進發。

 きば
騎馬

  つちみかどだいなごん                      このえのちゅうじょうきんあつあそん
 土御門大納言            近衛中將公敦朝臣

  むさしのかみながとき                       さがみのしろうむねまさ
 武藏守長時             相摸四郎宗政

  えちぜんぜんじときひろ 〔おんしきがわやく〕           とおとうみのうまのすけきよとき
 越前々司時廣〔御敷皮役〕       遠江右馬助C時

  おな   しろうまさふさ                      みんぶごんのだいゆうときたか
 同じき四郎政房           民部權大輔時隆

  むさししきぶのたいふともふさ                  えちごのしろうあきとき
 武藏式部大夫朝房          越後四郎顯時

  するがのごろうみちとき                      なかつかさごんのしょうゆうしげのり
 駿河五郎通時            中務權少輔重教

  むとうしょうきょうがげより                      ささきのいきぜんじやすつな
 武藤少卿景頼            佐々木壹岐前司泰綱

  もくごんのかみちかいえ                      ごとういきぜんじもとまさ
 木工權頭親家            後藤壹岐前司基政

  はたけやまのこうづけさぶろうくにうじ              みまさかのさえもんくろうどむねのり
 畠山上野三郎國氏          美作左衛門藏人宗教

  じょいはかせながのぶあそん                   おんみょうしょうじょうはるひろ
 女醫博士長宣朝臣          陰陽少允リ弘

 かち
歩行

  いがのしろうさえもんのじょうかげいえ              といのしろうさえもんのじょうさねつな
 伊賀四郎左衛門尉景家        土肥四郎左衛門尉實綱

  こうづけのさぶろうさえもんのじょうしげよし           おきのしろうさえもんのじょうゆきなが
 上野三郎左衛門尉重義        隱岐四郎左衛門尉行長

  おうみのさぶろうさえもんのじょうよりしげ            すおうのしちろうさだかた
 近江三郎左衛門尉頼重        周防七郎定賢

  あだちのさえもんごろうとおとき                 ないとうひごのろくろうさえもんのじょうときかげ
 足立左衛門五郎遠時         内藤肥後六郎左衛門尉時景

  ひらがのさぶろうさえもんのじょうこれとき            おがわのもくごんのかみときなか
 平賀三郎左衛門尉惟時        小河木工權頭時仲

  おがわのさこんしょうげん
 小河左近將監

現代語弘長三年(1263)四月大二十六日乙亥。雨降りです。宗尊親王将軍家は二所詣でに出発です。
乗馬
 
土御門大納言顕方      近衛中将公敦さん
 武蔵守長時         相模四郎宗政
 越前々司北条時広〔敷皮持〕 遠江右馬助大仏流北条清時
 同大仏流北条政房      民部権大輔佐助流北条時隆
 武蔵式部大夫大仏流北条朝房 越後四郎金沢流北条顕時
 駿河五郎伊具流北条通時   中務権少輔重教
 武藤少卿景頼        佐々木壱岐前司泰綱
 木工権頭中原親家      後藤壱岐前司基政
 畠山上野三郎国氏      美作左衛門蔵人宗教
 女医博士長宣さん      陰陽少允安倍晴弘
歩き
 伊賀四郎左衛門尉景家    土肥四郎左衛門尉実綱
 上野三郎左衛門尉重義    隠岐四郎左衛門尉二階堂行長
 近江三郎左衛門尉頼重    周防七郎定賢
 足立左衛門五郎遠時     内藤肥後六郎左衛門尉時景
 平賀三郎左衛門尉惟時    小川木工権頭時仲
 小川左近将監

五月へ

吾妻鏡入門第五十一巻

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