吾妻鏡入門第五十二巻

文永二年(1265)正月大

文永二年(1265)正月大一日辛未。日蝕也。然而自去夜雨降。蝕不見。仍不及裹御所。被行垸飯〔左典厩御沙汰〕。但垂御簾。無出御〔土御門大納言依催。雖被搆參。用意計也〕。御劔役越後守實時。御調度越前々司時廣。御行騰沓秋田城介泰盛。
 一御馬 陸奥十郎忠時        工藤次郎左衛門尉
 二御馬 越後四郎顯時        武藤三郎兵衛尉
 三御馬 城六郎兵衛尉顯盛      同九郎長景
 四御馬 筑前四郎左衛門尉行佐    同三郎左衛門尉行重
 五御馬 相摸七郎宗頼        工藤三郎左衛門尉

読下し                   にっしょくなり しかれども さんぬ よ よ   あめふ   しょく みえず  よっ  ごしょ  つつ   およばず
文永二年(1265)正月大一日辛未。日蝕也。然而、去る夜自り雨降る。蝕は不見。仍て御所を裹む@に不及。

おうばん おこなはれ 〔さてんきゅう おんさた 〕  ただ  おんみす た   しゅつご な   〔つちみかどだいなごん  もよお  よっ  かま  まいられ   いへど   よういばかりなり〕
垸飯を行被る〔左典厩Aの御沙汰〕。但し御簾を垂れ、出御無し〔土御門大納言B、催しに依て、搆へ參被ると雖も、用意計り也〕

ぎょけんやく えちごのかみさねとき ごちょうど  えちぜんぜんじときひろ  おんむかばきくつ あいだのじょうすけやすもり
御劔役は越後守實時。御調度は越前々司時廣。御行騰沓は秋田城介泰盛。

 いちのおんうま むつのじゅうろうただとき              くどうのじろうさえもんのじょう
 一御馬 陸奥十郎忠時        工藤次郎左衛門尉

  にのおんうま えちごのしろうあきとき                むとうのさぶろうひょうえのじょう
 二御馬 越後四郎顯時C        武藤三郎兵衛尉

 さんのおんうま じょうのろくろうひょうえのじょうあきもり       おな    くろうながかげ
 三御馬 城六郎兵衛尉顯盛      同じき九郎長景

 よんのおんうま ちくぜんのしろうさえもんのじょうゆきすけ     おな    さぶろうさえもんのじょうゆきしげ
 四御馬 筑前四郎左衛門尉行佐    同じき三郎左衛門尉行重

  ごのおんうま  さがみのしちろうむねより              くどうのさぶろうさえもんのじょう
 五御馬 相摸七郎宗頼        工藤三郎左衛門尉

参考@御所を裹(包)むは、日食の際に日食の光が当るといけないので柱を立て莚で覆い隠す。但し今回は雨が降って日食が見えないのでやらない。
参考A左典厩は、時宗。連署でありながら、しかも執権北條政村の方が年上なのに時宗がやってる。しかも將軍への
垸飯なのに将軍が欠席なのは変だ。
参考B土御門大納言云々は、顕方が呼ばれて用意はしたが、将軍は欠席。将軍家と得宗家が不穏。
参考C越後四郎顯時は、実時の四男。

現代語文永二年(1265)正月大一日辛未。日食です。だけれど夕べから雨が降っていますので、日食は見えません。それで穢れを除ける筵で御所を包むには及びませんでした。
将軍への御馳走のふるまいは行われました〔左典厩北条時宗の提供です〕。但し、御簾を垂れて将軍のお出ましは無しでした〔土御門大納言顕方は、呼ばれてて御簾を上げる準備をしていましたが、用意しただけに終わりました〕。刀の贈り物は、越後守金沢流北条実時。弓矢は越前々司北条時広。乗馬袴と乗馬沓は秋田城介安達泰盛。
 一頭目の馬は、陸奥十郎極楽寺流北条忠時  工藤次郎左衛門尉高光
 二頭目の馬は、越後四郎金沢流北条顕時   武藤三郎兵衛尉
 三頭目の馬は、城六郎兵衛尉安達顕盛    同九郎安達長景
 四頭目の馬は、筑前四郎左衛門尉二階堂行佐 同三郎左衛門尉二階堂行重
 五頭目の馬は、相模七郎宗頼        工藤三郎左衛門尉光泰

文永二年(1265)正月大二日壬申。天リ。垸飯〔相州御沙汰〕。御簾前大納言。御劔中務權大輔教時。御調度左近大夫將監公時。御行騰備中守行有。
 一御馬 越後四郎顯時        鵜沼次郎兵衛尉國景
 二御馬 式部太郎左衛門尉光政    隼人三郎左衛門尉光範
 三御馬 城六郎兵衛尉顯盛      同九郎長景
 四御馬 出羽七郎左衛門尉行頼    備中次郎左衛門尉行藤
 五御馬 越後六郎實政        戸田兵衛尉茂平

読下し                   そらはれ おうばん 〔そうしゅう おんさた 〕   おんみす さきのだいなごん  ぎょけん なかつかさごんのだいゆうのりとき
文永二年(1265)正月大二日壬申。天リ。垸飯〔相州の御沙汰〕。御簾は前大納言。御劔は中務權大輔教時A

ごちょうど  さこんたいふしょうげんきんとき  おんむかばき びちゅうのかみゆきあり
御調度は左近大夫將監公時。御行騰は備中守行有。

 いちのおんうま えちごのしろうあきとき                  うぬまのじろうひょうえのじょうくにかげ
 一御馬 越後四郎顯時        鵜沼次郎兵衛尉國景

  にのおんうま しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ         はやとのさぶろうさえもんのじょうみつのり
 二御馬 式部太郎左衛門尉光政    隼人三郎左衛門尉光範

 さんのおんうま じょうのろくろうひょうのじょうあきもり           おな    くろうながかげ
 三御馬 城六郎兵衛尉顯盛      同じき九郎長景

 よんのおんうま でわのしちろうさえもんのじょうゆきより         びっちゅうのじろうさえもんのじょうゆきふじ
 四御馬 出羽七郎左衛門尉行頼    備中次郎左衛門尉行藤

  ごのおんうま えちごのろくろうさねまさ                  とだのひょうえのじょうもちひら
 五御馬 越後六郎實政        戸田兵衛尉茂平

現代語文永二年(1265)正月大二日壬申。空は晴です。将軍への御馳走のふるまい〔相州北条政村の提供です〕。御簾を上げるのは土御門大納言顕方。刀の贈り物は、中務大輔名越流北条教時。弓矢は尾張左近大夫将監名越流北条公時。乗馬袴と乗馬沓は備中守二階堂行有。
 一頭目の馬は、越後四郎金沢流北条顕時   鵜沼次郎兵衛尉国景
 二頭目の馬は、式部太郎左衛門尉伊賀光政  隼人三郎左衛門尉伊賀光範
 三頭目の馬は、城六郎兵衛尉安達顕盛    同九郎安達長景
 四頭目の馬は、出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 備中次郎左衛門尉二階堂行藤
 五頭目の馬は、越後六郎実政        
戸田兵衛尉茂平

文永二年(1265)正月大三日癸酉。天リ。垸飯〔越後入道勝圓沙汰〕。御簾前黄門。御劔越前々司時廣。御調度右馬助時親。御行騰相摸四郎宗(政)@。御馬五疋。」未尅。將軍家御行始左典厩〔時宗〕御亭。御引出物如例。御劔左近大夫將監義政。砂金左近大夫將監時村。羽左近大夫將監公時。
 一御馬 相摸四郎宗政        武藤左衛門尉頼泰
 二御馬 三浦介頼盛         同七郎

読下し                   そらはれ  おうばん 〔えちごのにゅうどうしょうえん  さた〕   おんみす さきのこうもん  ぎょけん えちぜんぜんじときひろ
文永二年(1265)正月大三日癸酉。天リ。垸飯〔越後入道勝圓Aが沙汰〕。御簾は前黄門B。御劔は越前々司時廣。

ごちょうど  うまのすけときちか  おんむかばき さがみのしろうむねまさ  おんうまごひき
御調度は右馬助時親。御行騰は相摸四郎宗。御馬五疋。」

みのこく  しょうぐんけ  さてんきゅう 〔ときむね〕   おんてい みゆきはじめ  おんひきでものれい  ごと   ぎょけん  さこんおたいふしょうげんよしまさ
未尅、將軍家、左典厩〔時宗〕が御亭Cに御行始。御引出物例の如し。御劔は左近大夫將監義政。

さきん  さこんのたいふしょうげんときむら  はね  さこんのたいふしょうげんきんとき
砂金は左近大夫將監時村。羽は左近大夫將監公時。

 いちのおんうま さがみのしろうむねまさ                 むとうさえもんのじょうよりやす
 一御馬 相摸四郎宗政        武藤左衛門尉頼泰

  にのおんうま みうらのすけよりもり                    おな    しちろう
 二御馬 三浦介頼盛         同じき七郎

参考@相摸四郎宗房は、宗政の間違い。
参考A越後入道勝は、時盛(時房子)。
参考
B前黄門は、吉川弘文館の吾妻鏡現代語では「藤原実尚(父は公宣)」となっている。しかし、49巻正元二年(1260)三月大廿一日条では「土御門黄門」とあり、51巻 弘長三年(1263)正月小一日条では「土御門大納言」で出演、この月十五日も「土御門大納言」で出演しているので、吉川弘文館が正しいのであろうが、私の知識では不明。しかし、前々年も顕方が三日とも御簾役を勤めているので、御簾役を急に変わるものだろうか?もしかしたら顕方を「大納言」と書かず「前黄門」と書いたのかも知れない。
参考C左典厩御亭は、時宗邸は得宗家宝戒寺の場所カ?。

現代語文永二年(1265)正月大三日癸酉。空は晴です。将軍への御馳走のふるまい〔越後入道勝円佐介流北条時盛の提供です〕。て御簾を上げるのは前黄門。刀の贈り物は、越前々司北条時広。弓矢は右馬助北条時親。乗馬袴と相模四郎宗房。馬は五頭。」
午後二時頃、宗尊親王将軍家は、左典厩〔北条時宗〕の屋敷へお出かけ始めです。お土産の引き出物はいつも通りです。刀は、陸奥左近大夫将監塩田義政。砂金は相模左近大夫将監北条時村。鷲の羽は、尾張左近大夫将監名越公時。
 一頭目の馬は、相摸四郎宗政 武藤左衛門尉頼泰
 二頭目の馬は、三浦介頼盛  同三浦七郎

文永二年(1265)正月大五日乙亥。霽。亥尅。六波羅飛脚下着。山門園城寺騒動事也。

読下し                   はれ  いのこく  ろくはら  ひきゃくげちゃく    さんもん おんじょうじ そうどう  ことなり
文永二年(1265)正月大五日乙亥。霽。亥尅、六波羅の飛脚下着す。山門@と園城寺A騒動の事也。

参考@山門は、比叡山。
参考A
園城寺は、三井寺。

現代語文永二年(1265)正月大五日乙亥。晴れました。午後十一時頃、六波羅探題からの伝令が到着しました。比叡山と三井寺との揉め事についてです。

文永二年(1265)正月大六日丙子。天リ陰。依山門園城寺騒動事。去夜六波羅使者持參經任朝臣奉書并注進状。御使伊勢入道行願〔依使節自去年在京〕書状等可有披露。而今年雖評定始以前。爲急事之間。不及日次沙汰。有今日評定。但人々不着布衣。又無盃酌。是非評定始之礼歟。近年無如此例云々。相州令出仕給。尾張入道見西。越後守實時。出羽入道々空。秋田城介泰盛。縫殿頭師連。太宰權少貳入道心蓮。伊賀入道々圓。對馬前司倫長。勘解由判官康有等候其座。佐藤民部次郎業連執筆事書等。議畢。泰盛。心蓮持參之。上覽之後。召使者於評議座。被下御返事。即時使令皈洛畢。

読下し                   そらはれくもり
文永二年(1265)正月大六日丙子。天リ陰。

さんもん おんじょうじ そうどう  こと  よっ    さんぬ よ ろくはら  ししゃ  つねとうあそん  ほうしょなら   ちゅうしんじょう  も  まい
山門@と園城寺Aの騒動の事に依て、去る夜六波羅の使者、經任朝臣が奉書并びに注進状を持ち參る。

おんし いせのにゅうどうぎょうがん  〔 しせつ よっ  きょねんよ  ざいきょう〕 しょじょうた ひろうあ  べ
御使伊勢入道行願B〔使節に依て去年自り在京す〕書状等披露有る可き。

しか    ことし ひょうじょうはじ いぜん いへど  きゅう  ことたるのあいだ  ひなみ  さた   およばず  きょうひょうじょうあ
而して今年の評定始めC以前と雖も、急の事爲之間、日次の沙汰に不及。今日評定有り。

ただ ひとびと ほい  きず  またはいしゃくな し   これひょうじょうはじめのれい あらざ  か  きんねんかく  ごと  れい な   うんぬん
但し人々布衣Dを不着。又盃酌無し。是評定始之礼に非る歟。近年此の如き例無しと云々。

そうしゅうしゅっしせし たま   おわりのにゅうどうけんせい えちごのかみさねとき でわのにゅうどうどうくう あいだのじょうすけやすもり ぬいのかみもろつら
相州出仕令め給ふ。尾張入道見西E・越後守實時・出羽入道々空F・秋田城介泰盛・縫殿頭師連・

だざいごんのしょうににゅうどうしんれん いがのにゅうどうどうえん つしまのぜんじともなが  かげゆほうがんやすあり ら そ  ざ  そうら
太宰權少貳入道心蓮・伊賀入道々圓・對馬前司倫長・勘解由判官康有等其の座に候う。

さとうみんぶのじろうなりつらことがき  しゅひつ    ぎ をはんぬ
佐藤民部次郎業連G事書等を執筆す。議畢。

やすもり  しれんこれ  じさん   じょうらんののち ししゃ  め   ひょうぎ  ざ   をい    ごへんじ  くださる    そくじ  つか つかい きらくせし をはんぬ
泰盛・心蓮之を持參し、上覽之後、使者を召し評議の座に於て、御返事を下被る。即時に使は皈洛令め畢。

参考@山門は、比叡山。
参考A
園城寺は、三井寺。
参考B伊勢入道行願は、二階堂行綱で、行盛子。
参考C
評定始は、年明けに初めて集まって宴会だけをやる。
参考D布衣は、狩衣の別称で武家の正装。
参考E尾張入道は、名越時章。
参考F
出羽入道道空は、二階堂行義。
参考G
佐藤民部次郎業連は、得宗被官になる。

現代語文永二年(1265)正月大六日丙子。空は晴れたり曇ったり。山門延暦寺と三井寺園城寺の揉め事があるので、先日六波羅探題の使いが、藤原経任さんが書いた公文書と事情を書き出した書状とを持ってきました。幕府の使いの伊勢入道行願二階堂行綱〔幕府の使者として去年から京都に駐在してます〕の手紙などを披露がありました。
そういう訳で、今年の政務始め式以前ですけど、急な出来事なので、御日和を気にしないで、今日政務検討会がありました。但し、メンバーの人々は正装の狩衣を着ないし、また盃ごともありませんでした。これは、政務会議始め式の礼に反する事です近年このような事はありませんでしたとさ。
相州常盤流北条政村が出勤しました。尾張入道見西名越流北条時章、越後守金沢流北条実時、出羽入道道空二階堂行義、秋田城介安達泰盛、縫殿頭中原師連、太宰権少弐入道心蓮武藤景頼、伊賀入道道円(時家カ)、対馬前司矢野倫長、勘解由判官三善康有などがその座に祗候しました。佐藤民部次郎業連が書記をしました。会議が終り、安達泰盛と心蓮武藤景頼がこれを以て来て、将軍二見せた後、六波羅の使いを呼んで政務会議の皆の前で、返事を与えました。すぐに使いは京都へ出発し終えました。

文永二年(1265)正月大七日丁丑。天リ。將軍家御參鶴岡八幡宮。還御之後。有垸飯之儀。

読下し                   そらはれ  しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう  ぎょさん  かんごののち  おうばんの ぎ あ
文永二年(1265)正月大七日丁丑。天リ。將軍家、鶴岡八幡宮へ御參。還御之後、垸飯之儀有り。

現代語文永二年(1265)正月大七日丁丑。空は晴です。宗尊親王将軍家は、鶴岡八幡宮へお参りです。御所へ帰って後で、将軍への御馳走のふるまいがありました。

文永二年(1265)正月大十二日壬午。天リ。有御弓始。
 射手
一番 二宮弥次郎時元         横地左衛門次郎師重
二番 波多野八郎朝義         早河六郎祐頼
三番 松岡左衛門次郎時家       栢間左衛門次郎行泰
四番 小沼五郎兵衛尉孝幸       海野弥六泰信
五番 澁谷左衛門尉朝重        平嶋弥五郎助經
今日被行評定始。去六日者臨時儀也。仍就吉日故被始之。師連。泰盛持參事書云々。

読下し                     そらはれ おんゆみはじ あ
文永二年(1265)正月大十二日壬午。天リ。御弓始め有り。

  いて
 射手

いちばん にのみやのいやじろうときもと                  よこちのさえもんじろうもろしげ
一番 二宮弥次郎時元         横地左衛門次郎師重

 にばん はたののはちろうあきよし                    はやかわのろくろうすけより
二番 波多野八郎朝義         早河六郎祐頼

さんばん まつおかのさえもんじろうときいえ                かしわまのさえもんじろうゆきやす
三番 松岡左衛門次郎時家       栢間左衛門次郎行泰

よんばん おぬまのごろうひょうえのじょうたかゆき             うんののいやろくやすのぶ
四番 小沼五郎兵衛尉孝幸       海野弥六泰信

 ごばん しぶやのさえもんのじょうともしげ                 ひらしまのいやごろうすけつね
五番 澁谷左衛門尉朝重        平嶋弥五郎助經

きょう  ひょうじょうはじ  おこなはれ   さんぬ むいかは りんじ  ぎ なり  よっ  きちじつ  つ ことさら これ  はじ  らる
今日、評定始め@を行被る。去る六日者臨時の儀也。仍て吉日に就き故に之を始め被る。

もろつら やすもりことがき  も   まい    うんぬん
師連・泰盛事書を持ち參ると云々。

参考@今日の評定始めは、宴会付き。

現代語文永二年(1265)正月大十二日壬午。空は晴です。弓矢始め(的初め)がありました。
 射手は
一番 二宮弥次郎時元         横地左衛門次郎師重
二番 波多野八郎朝義         早河六郎祐頼
三番 松岡左衛門次郎時家       栢間左衛門次郎行泰
四番 小沼五郎兵衛尉孝幸       海野弥六泰信
五番 渋谷左衛門尉朝重        平嶋弥五郎助経

今日、政務鉤始め式を行いました。先日の六日は臨時の事でした。そこで吉日なのでわざわざこれを始めたのです。縫殿頭中原師連・秋田城介安達泰盛が縁起の良い事を書き出した書類を運んできましたとさ。

文永二年(1265)正月大十四日甲申。霽。可有御所御鞠始之由。依有其催。數輩參上之處。依風烈人々退出畢。

読下し                     くもり  ごしょ  おんまちはじ  あ   べ   のよし  そ  もよお あ    よっ
文永二年(1265)正月大十四日甲申。霽。御所の御鞠始め有る可き之由、其の催し@有るに依て、

すうやから さんじょうのところ かげはげ     よっ ひとびと たいしゅつ をはんぬ
 數輩 參上之處、風烈しきに依て人々退出し畢。

参考@催しは、前もって出席を促す知らせ。蹴鞠を強風により中止。

現代語文永二年(1265)正月大十四日甲申。晴れました。御所の蹴鞠始めが有るので、その出席を促したので、数人が参りましたが、風が激しくて出来ないので、人々は帰ってしまいましたとさ。

文永二年(1265)正月大十五日乙酉。天リ。午刻地震。今日御鞠始。將軍家令立御〔薄香狩衣御衣〕。土御門大納言〔布衣〕。二條三位教定卿〔布衣〕。同少將雅有朝臣〔布衣。上鞠一足〕。中務權大輔教時。越前々司時廣。右馬助C時。木工權頭親家。備中守行有。武藤左衛門尉頼泰。加藤左衛門尉景經。鎌田次郎左衛門尉行俊。内記左衛門尉。同兵衛三郎〔已上布衣〕。凡十六人也。及晩頭。被行垸飯。

読下し                     そらはれ うまのこくじしん  きょうおんまちはじ   しょうぐんえ たたせし  たま   〔うすこう かりぎぬ  ごい  〕
文永二年(1265)正月大十五日乙酉。天リ。午刻地震。今日御鞠始め。將軍家立令め御う@〔薄香Aの狩衣の御衣〕

つちみかどだいなごん  〔 ほい 〕   にじょうさんみのりさだきょう 〔 ほい 〕  おな   しょうしょうまさありあそん  〔 ほい  あげまりいちのあし〕  なかつかさごんのだいゆうのりとき
土御門大納言〔布衣〕・二條三位教定卿〔布衣〕・同じき少將雅有朝臣〔布衣。上鞠B一足C・中務權大輔教時・

えちぜんぜんじときひろ  うまのすけきよとき  もくごんのかみちかいえ  ぶっちゅうのかみゆきあり むとうさえもんのじょうよりやす  かとうさえもんのじょうかげつね
越前々司時廣・右馬助C時・木工權頭親家D・備中守行有・武藤左衛門尉頼泰・加藤左衛門尉景經・

かまたのじろうさえもんのじょうゆきとし  ないきさえもんのじょう  おな    ひょうえさぶろう  〔いじょう ほい 〕  およ  じゅうろくにんなり  ばんとう  およ  おうばん  おこなはれ
鎌田次郎左衛門尉行俊・内記左衛門尉・同じき兵衛三郎〔已上布衣〕。凡そ十六人也。晩頭に及び垸飯を行被る。

参考@將軍家立令め御うは、参加する。
参考A
薄香は、白茶に少し赤みがかった薄い茶色。原料は丁子。
参考B上鞠は、名人。
参考C一足、一番。
参考D
木工權頭親家、宗尊についてきている。

現代語文永二年(1265)正月大十五日乙酉。空は晴です。昼頃に地震です。今日は、蹴鞠始めです。宗尊親王将軍家も参加されました〔薄茶色の狩衣のお召し物〕。土御門大納言顕方〔布衣の狩衣〕、二条三位教定さん〔布衣の狩衣〕、同少将雅有さん〔布衣の狩衣、一番の上手です〕、中務大輔名越流北条教時、越前々司北条時広、遠江右馬助大仏流北条清時、木工権頭藤原親家、備中守二階堂行有、武藤左衛門尉頼泰、加藤左衛門尉景経、鎌田次郎左衛門尉行俊、内記左衛門尉、同兵衛三郎〔以上は布衣の狩衣〕。おおよそ十六人です。夕方になって将軍への御馳走のふるまいが行われました。

解説得宗家(執権連署)は参加していない。

文永二年(1265)正月大廿日庚寅。雷雨。電光耀天。降雹動地也。

読下し                   らいう   らいこうてん  かがや  ひょうふ  ちうご  なり
文永二年(1265)正月大廿日庚寅。雷雨。電光天に耀き、雹降り地動く也。

現代語文永二年(1265)正月大二十日庚寅。雷雨です。雷の光が天に輝いて雹が降り、地が動くようです。(地震?)

文永二年(1265)正月大廿四日甲午。陰。今日垸飯。馬數疋賜近習并醫陰兩道之輩。

読下し                     くもり  きょう  おうばん  うますうひき きんじゅうなら   いいんりょうどう のやから  たま
文永二年(1265)正月大廿四日甲午。陰。今日の垸飯。馬數疋、近習并びに醫陰@兩道之輩に賜はる。

参考@醫陰は、医者と陰陽師。

現代語文永二年(1265)正月大二十四日甲午。曇りです。今日将軍への御馳走のふるまいで、馬数頭を将軍のそば仕えおよび医者や陰陽道の連中に与えられました。

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吾妻鏡入門第五十二巻

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