吾妻鏡入門第五十二巻

文永二年(1265)三月大

文永二年(1265)三月大一日庚午。風雨甚。戌剋雷鳴。

読下し                   ふうう はなは   いぬのこくらいめい
文永二年(1265)三月大一日庚午。風雨甚だし。戌剋雷鳴。

現代語文永二年(1265)三月大一日庚午。風雨が激しいです。午後八時頃雷が鳴りました。

文永二年(1265)三月大四日癸酉。天リ。今日。於御所鞠御壷覽童舞。是所被引移昨鶴岡法會舞樂也。先舞童等相分南北着座〔以西爲上〕。土御門大納言。花山院大納言等。被候簾中云々。
出居
公卿
  從二位〔顯氏卿〕         從三位〔基輔卿〕
殿上人
  一條中將能基           八條中將信通
  八條兵衛佐盛長          六條少將顯名
  唐橋少將具忠           六條侍從顯教
左 〔三臺甘州 太平樂 散手 陵王〕
太平樂 〔乙王 夜叉王 松若 禪王 瑠璃王 幸王〕
散手 〔乙王〕 陵王 〔松若〕
右 〔長保樂 林歌 狛桙 貴徳 納蘇利〕
狛桙 〔万歳 金王 千手 乙鶴 金毘羅 竹王 各着淺黄直垂〕
貴徳 〔万歳〕 納蘇利 〔禪王 幸王 豆王〕
又右近將監中原光氏廻雪奏賀殿之間給祿物〔五衣〕。能基朝臣役之。

読下し                   そらはれ  きょう  ごしょ  まりのおんつぼ をい  わらわまい み
文永二年(1265)三月大四日癸酉。天リ。今日、御所の鞠御壷に於て童舞@を覽る。

これ  さく つるがおかほうえ  ぶがく  ひきうつされ ところなり  ま  ぶどうら なんぼく  あいわか  ちゃくざ  〔にし  もっ  かみ  な   〕
是、昨の鶴岡法會の舞樂を引移被る所の也。先ず舞童等南北に相分れ着座す〔西を以て上と爲す〕

つちみかどだいなごん  かざんいんだいなごんら  れんちゅう そうらはれ   うんぬん
土御門大納言・花山院大納言等、簾中に候被ると云々。

 でい
出居A

 くげ
公卿

     じゅさんみ 〔あきうじきょう〕                      じゅさんみ 〔もとすけきょう〕
  從二位〔顯氏卿〕          從三位〔基輔卿〕

てんじょうびと
殿上人

    いちじょうちゅうじょうよしもと                    はちじょうちゅうじょうのぶみち
  一條中將能基           八條中將信通

    はちじょうひょうえのすけもりなが                 ろくじょうしょうしょうあきな
  八條兵衛佐盛長          六條少將顯名

    からはししょうしょうともただ                     ろくじょうじじゅうあきのり
  唐橋少將具忠           六條侍從顯教

ひだり  〔さんだいかんしゅう たいへいらく  さんじゅ  りょうおう〕
左 〔三臺甘州太平樂散手陵王

たいへいらく  〔おとう  やしゃおう  まつわか  ぜんおう  るりおう  さちおう〕
太平樂 〔乙王 夜叉王 松若 禪王 瑠璃王 幸王〕

さんじゅ   〔おとう〕  りょうおう  〔まつわか〕
散手 〔乙王〕 陵王 〔松若〕

みぎ   〔ちょうぼうらく りんが  こまぼこ   きとく    なそり 〕
右 〔長保樂林歌狛桙貴徳納蘇利

こまぼこ  〔まんざい  こんのう  せんじゅ  おとづる  こんぴら  ちくおう おのおの あさぎ ひたたれ  き  〕
狛桙 〔万歳 金王 千手 乙鶴 金毘羅 竹王 各 淺黄の直垂を着る〕

 きとく   〔まんざい〕    のそり   〔ぜんのう さちおう  ずおう 〕
貴徳 〔万歳〕 納蘇利〔禪王 幸王 豆王〕

また  うこんしょうげんなかはらみつうじかいせつ  かてん かなで のあいだ ろくぶつ  たま   〔 ごい 〕   よしもとあそんこれ  えき
又、右近將監中原光氏廻雪Bの賀殿Cを奏る之間、祿物を給ふ〔五衣D。能基朝臣之を役す。

参考@童舞は、稚児舞。
参考A出居は、廊下的部屋、輿ごと乗せる。

参考㋐甘州は、雅楽の舞曲。唐楽。平調(ひょうじょう)で新楽の準大曲。六人または四人舞。玄宗皇帝作ともいい、中国甘州(張掖(ちょうえき)の旧称)の風俗舞ともいわれる。雅楽的音楽研究書から。
参考㋑太平楽は、雅楽。唐楽。太食(たいしき)調で新楽の中曲。 朝小子(ちょうこし)・武昌楽・合歓塩(がっかえん)からなる合成曲。舞は四人舞。即位の大礼のあとなどに演じる。
雅楽的音楽研究書から。
参考㋒散手は、雅楽,舞楽の曲名。唐楽にふくまれ太食調(たいしきちよう)。一人舞の武ノ舞。正式には《散手破陣楽》,別名《主皇(しゆこう)破陣楽》ともいう。雅楽的音楽研究書から。
参考㋓陵王(らんりょうおう)は雅楽の曲目の一つ。管絃にも舞楽にも奏される。別名蘭陵王 入陣曲、短縮して陵王とも呼ばれる。 管絃演奏時には蘭陵王、舞楽演奏時には陵王と表す。雅楽的音楽研究書から。
参考㋔長保楽は、四人舞。眺望楽とも書く。雅楽的音楽研究書から。
参考㋕林歌は、高麗楽。「体源抄」という文献には、兵庫允の玉手公頼(たまてきみより)による作曲とされていますが、文献「楽家録」には高麗の笛師下春による作曲と記されています。高麗楽の調子の内、高麗平調という調子はこの曲のみ現存しています。四人舞。臨河とも書く。雅楽的音楽研究書から。
参考㋖狛桙は、別名で花釣楽又は棹持舞とも呼ばれる、高麗楽壱越調に属する楽曲です。狛鉾とも表記されます。作曲は不明ですが、舞は高麗より船で来貢する時に、渡って来た姿を模したものと伝えられています。その為、五色の段々塗の棹を操り、船を操る舞振が各所に見られます。雅楽的音楽研究書から。
参考㋗貴徳は、高麗楽にふくまれる一人舞。帰徳とも書く。漢を封じた匈奴の王が凱旋して帰徳侯になったという故事にもとづく。ことばんくから
参考㋘納蘇利は、雅楽の中ではかなりメジャーな曲舞で、納蘇利とも表記します。 また双竜舞(そうりゅうのまい)や落蹲(らくそん)と呼ばれたりもしますが、これらは演奏 団体にによって違いがあります。 舞人は一人の場合と、二人の場合がある。雅楽的音楽研究書から

参考B廻雪は、舞を舞う。
参考C賀殿は、雅楽の舞曲。
参考D
五衣は、御衣(ごい)。

現代語文永二年(1265)三月大四日癸酉。空は晴です。今日は、御所の蹴鞠用の坪庭で、稚児舞を見ました。これは、昨日の鶴岡八幡宮での上巳の節句の奉納舞楽をそっくり引っ越してきたようなものです。
まず、踊り手の稚児達は、南北に分かれて座りました〔西側が上席です〕。土御門大納言顕方と花山院大納言長雅は御簾の中に控えました。
廊下的部屋には
 公卿 従二位〔顕氏さん〕 従三位〔基輔さん〕
 殿上人 一条中将能基 八条中将信通 八丈兵衛佐盛長 六条少将顕名 唐橋少将具忠 六条侍従顕教
左 〔三台甘州・太平楽・散手・陵王〕
  太平楽〔乙王・夜叉王・松若・禅王・瑠璃王・幸王〕
  散手 〔乙王〕  陵王〔松若〕
右 〔長保樂・林歌・狛桙・貴徳・納蘇利〕
  狛桙〔万歳・金王・千手・乙鶴・金毘羅・竹王 それぞれ浅黄色の直垂を着ています〕
  貴徳〔万歳〕 納蘇利〔禅王・幸王・豆王〕
また、右近将監中原光氏は、舞の曲の賀殿を上手に演奏したので、褒美を与えられました〔将軍の着物です〕。一条中将能基さんが渡す役をしました。

文永二年(1265)三月大五日甲戌。鎌倉中被止散在町屋等被免九ケ所。又堀上家前大路造屋同被停止之。且可相觸保々之旨。今日。所被仰付于地奉行人等小野澤左近大夫入道也。
  町御免所之事
一所 大町    一所 小町    一所 魚町    一所 穀町    一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻

読下し                   かまくらちゅう さんざい    まちや ら  と   られ  きゅうかしょ めん られ
文永二年(1265)三月大五日甲戌。鎌倉中@に散在する町屋A等を止め被、九ケ所を免じ被る。

また  いえ  まえ  おおじ  ほり あ       や づく    おな    これ  ちょうじされ
又、家の前の大路を堀上げての屋造り、同じく之を停止被る。

かつう ほうほう  あいふれ  べ   のむね  きょう  ぢぶぎょうにんら おのざわさこんのたいふにゅうどうに おお  つ   られ ところなり
且は保々に相觸る可き之旨、今日、地奉行人等小野澤左近大夫入道C于仰せ付け被る所也。

    まち ごめん ところのこと
  町御免の所之事

いっしょ  おおまち        いっしょ  こまち        いっしょ  いをまち        いっしょ  こめまち        いっしょ  むさしおおじした
一所 大町D   一所 小町E   一所 魚町F   一所 穀町G   一所 武藏大路下H

いっしょ   すじかえばし     いっしょ  おおくらつじ
一所 須地賀江橋I 一所 大倉辻J

参考@鎌倉中は、府内。散在は、あっちこっち。
参考A
町屋は、商店街。方形竪穴式住居(半地下式掘立柱)。掘立・礎石・路盤。保ほうには一般市民の中から保奉行がおり、幕府側には侍所に地奉行人がおり是を通して命令する。
参考B
九ケ所といってるが七つしか書いていない。建長三年十二月三日には七箇所、大町、小町、米町、亀谷辻、和歌江島、大倉辻、気和飛坂山上であった。
参考C
小野澤左近大夫入道は、時仲。
参考D
大町は、恵比寿堂橋南側。
参考E
小町は、恵比寿堂橋北側。
参考F魚町は、大町交差点南に「魚町橋(いおまちばし)」の名が残る。
参考G
穀町は、米町(こめまち)。
参考H
武藏大路下は、岩船地蔵あたりの亀谷辻かも。
参考I
須地賀江橋は、筋替橋付近(大倉幕府跡地の一部かも)。
参考J大倉辻は、六浦道と二階堂大路の交差点のわかれみち・関取場付近かも。

現代語文永二年(1265)三月大五日甲戌。鎌倉中に散在する商店街を止めさせて、九箇所だけを許可しました。
また、家の前の大路を掘って半地下式の家を広げる事を、同様に禁止しました。複数の保奉行(町内会長)に命じるように、地奉行人(連合町内会指導武士)の小野沢左近大夫入道に命令したのです。
 商店街を許可された所
 一ヵ所は大町。一ヵ所は小町。一ヵ所は魚町。一ヵ所は米町。一ヵ所は武蔵大路下。一ヵ所は筋替え橋。一ヵ所は大倉の辻。(後の二箇所は不明)

文永二年(1265)三月大七日丙子。天リ。御所彼岸御懺法結願。御布施取公卿中御門三位〔公寛。直衣〕。殿上人九人〔或束帶。或布衣〕。諸大夫二人〔押垂掃部助。信濃藏人〕也。御息所自今日七ケ日。御參籠鶴岡。入夜御出〔御輿〕。女房東御方。一條局尼。卿局。并下臈三人供奉。先之爲縫殿頭師連奉行。被遣指圖於宮寺。令搆御局等云々。別當僧正催六十余人匠。終不日之功。以熱田三嶋御前横廊四間爲御局。以西二間爲御寢所并御念誦所。以東二間爲御出居。以東廻廊与横廊之中間敷板爲臺所。以東廊北端爲東御方局。以其次一間爲卿局以南端二間爲一條殿局。以其一間爲御湯殿。又局後籠軒敷板爲下口并湯殿。以白幕五帖。曳廻廊北軒。爲面道云々。

読下し                   そらはれ ごしょ ひがん  ごせんぽう けちがん    おんふせとり   くぎょう  なかみかどさんみ 〔きんひろ  のうし〕
文永二年(1265)三月大七日丙子。天リ。御所彼岸の御懺法
@結願す。御布施取の公卿は中御門三位〔公寛。直衣〕

てんじょうびと  くにん 〔ある    そくたい  ある     ほい  〕   しょだいぶ  ふたり 〔おしだれかもんのすけ  しなののくらんど〕 なり
殿上人は九人〔或ひは束帶。或ひは布衣〕。諸大夫は二人〔押垂掃部助・信濃藏人〕也。

みやすんどころ きょうよま  なぬかにち  つるがおか  ごさんろう   よ  い   ぎょしゅつ 〔おんこし〕
 御息所 今日自り七ケ日、鶴岡に御參籠。夜に入り御出〔御輿〕

にょぼうひがしのおんかた いちじょうのつべねあま きょうのつぼねなら    げろうさんにん ぐぶ
 女房東御方 ・ 一條局尼 ・ 卿局并びに下臈三人供奉す。

これ  さき     ぬいのかみもろつら ぶぎょう な   さしずを ぐうじ  つか  され  おつぼねら かま  せし     うんぬん
之に先んじ縫殿頭師連奉行を爲し、指圖於宮寺に遣は被、御局等を搆へ令むと云々。

べっとうそうじょうろくじゅうよにん たくみ もよお   ふじつ のこう  しま    
別當僧正六十余人の匠を催し、不日之功
Aを終う。

あつた みしま  もっ  おんまえよころう よんま  おつぼね  な     にしふたま  もっ  ごしんじょなら    ぼねんじゅしょ  な     ひがしふたま もっ  おんでい   な
熱田三嶋を以て御前横廊四間を御局Bと爲す。西二間を以て御寢所并びに御念誦所と爲し、東二間を以て御出居と爲す。

ひがしかいろうとよころうのちゅうかん しきいた  もっ だいどころ な    ひがしろうほくたん  もっ ひがしのおんかた つぼね な
東廻廊与横廊之中間の敷板を以て臺所と爲す。東廊北端を以て東御方の局と爲す。

 そ  つぎ  ひとま  もっ きょうのつぼね な   なんたんふたま  もっ いちじょうどの つぼね な
其の次の一間を以て卿局と爲し、南端二間を以て一條殿の局と爲す。

 そ  ひとま  もっ   おゆどの  な     また つぼね うしろ かごのき  しきいた  したぐちなら    ゆどの  な
其の一間を以て御湯殿と爲す。又、局の後の籠軒の敷板は下口
C并びに湯殿Dと爲す。

しろまくごちょう  もっ    かいろう  きたのき  ひ    つらみち  な    うんぬん
白幕五帖を以て、廻廊の北軒に曳き、面道
Eと爲すと云々。

参考@懺法は、諸経典の諸説によって罪を懺悔する儀式の法則。
参考A
不日の巧は、間をおかず急いで。は工。
参考
B御局は、局を与えられている女官の個室。
参考C下口は、焚き口。
参考
D湯殿は、お風呂。
参考E面道は、通り道。布で仕切ることによって坊主たちから見えないようにしたのであろう。

現代語文永二年(1265)三月大七日丙子。空は晴です。御所でお彼岸の罪を懺悔する儀式懺法が成就しました。坊主へのお布施を渡す公卿は中御門三位〔公寛。直衣〕、殿上人は九人〔人によって束帯と狩衣〕、諸大夫(五位)は二人〔押垂掃部助範元と信濃蔵人〕です。
将軍の奥さんは、今日から七日間、鶴岡八幡宮に尾籠です。夜になって出発しました〔輿です〕。女官の東御方・一条局・卿局それに小間使い人夫三人がお供をしました。これより先に、縫殿頭中原師連は指揮担当として、指図を鶴岡八幡宮に渡して、女官部屋などを用意させましたとさ。長官や僧正に仕える大工さんを使って日を置かずに工事を終了しました。
熱田宮と三島宮を使ってその前の横長廊下を四間に仕切って女官部屋としました。西側二間を奥さんの寝所とお経を拝む部屋として、東の二間を廊下的控えの部屋としました。
東の回廊と横の回廊との中間の板式場所を台所としました。
東の廊下の北端を東御方の局部屋としました。その次の一間を卿局の部屋として、南端の二間を一条殿の局部屋としました。その内の一間を将軍婦人の風呂場としました。また、局部屋の後ろの籠軒
(不明)の板敷は焚口と局の風呂場としました。白い幕五帖を使って、回廊の北軒に垂らして、通り道にしました。

文永二年(1265)三月大九日戊寅。天リ。亥剋大地震。今夜。於鶴岡若宮寳前。被行管弦講。別當僧正讀式〔八幡講云々〕。其後有御神樂。人長松若丸。本拍子〔万歳〕。末拍子〔禪王〕。和琴〔千手〕。篳篥〔乙鶴〕。大笛〔夜叉王〕云々。

読下し                   そらはれ おのこくおおじしん  こんや つるがおかわかみやほうぜん  をい   かんげんこう  おこなはれ
文永二年(1265)三月大九日戊寅。天リ。亥剋大地震。今夜、鶴岡若宮寳前に於て、管弦講を行被る。

べっとうそうじょうよみしき 〔はちまんこう  うんぬん〕 そ  ご おかぐら あ
別當僧正讀式〔八幡講と云々〕。其の後御神樂有り。

ひとおさ まつわかまる  もとびょうし 〔まんざい〕  すえびょうし 〔ぜんのう〕   わごん 〔せんじゅ〕  ひちりき 〔おとつる〕  おおぶえ 〔やしゃおう〕   うんぬん
人長
@は松若丸。本拍子〔万歳〕。末拍子〔禪王〕。和琴〔千手〕。篳篥A〔乙鶴〕。大笛〔夜叉王〕と云々。

参考@人長は、リーダー。丸は上位者から下位者への呼び名。完全な軽蔑で呼ぶ場合もある。
参考A
本拍子と末拍子は、御神楽(みかぐら)では本方(もとかた)と末方(すえかた)に1人ずついる主唱者を,本(もと)拍子,末拍子という。それは,これらの主唱者が,笏拍子を打ちながら声部全体をリードすることによっている。世界大百科事典から
参考A
篳篥は、長さ6寸(約18センチ)の竹管の縦笛。

現代語文永二年(1265)三月大九日戊寅。空は晴です。午後十一時頃大地震です。今夜鶴岡八幡宮の下宮の前で管弦演奏付の法会を行いました。別当僧正隆弁が法会文を読む役です〔八幡神の法会です〕。その後、お神楽の奉納がありました。首位者(リーダー)は松若丸。本方の主唱者〔万歳〕本方の次に奏する末方の主唱者〔禅王〕和琴(やまとごと・弦六本)〔千手〕竹の縦笛〔乙鶴〕大横笛〔夜叉王〕だそうな。

文永二年(1265)三月大十一日庚辰。天霽。於鶴岡上宮有法花經供養。權少僧都慈曉爲導師。

読下し                     そらはれ つるがおかじょうぐう をい  ほけきょうくよう あ    ごんのしょうそうづじきょうどうしたり
文永二年(1265)三月大十一日庚辰。天霽。鶴岡上宮に於て法花經供養有り。權少僧都慈曉導師爲。

現代語文永二年(1265)三月大十一日庚辰。空は晴れました。鶴岡八幡宮の上の宮で法華経の供養がありました。権少僧都慈暁が指導僧です。

文永二年(1265)三月大十三日壬午。天リ。御息所御參籠之間。御局以下事。致丁寧沙汰之由。召別當僧正有御感。其上賜南廷〔三〕。砂金〔十兩〕。銀劔等。縫殿頭師連傳之云々。

読下し                     そらはれ  みやすどころごさんろうのあいだ おつぼね いげ   こと  ていねい  さた   おた  のよし  べっとうそうじょう め   ぎょかん あ
文永二年(1265)三月大十三日壬午。天リ。御息所御參籠之間、
御局以下の事、丁寧の沙汰を致す之由、別當僧正を召し御感有り。

そ  うえなんてい 〔さん〕   さきん 〔じゅうりょう〕   ぎんけんら  たま    のいのかみもろつなこれ  つた    うんぬん
其の上南廷@〔三〕・砂金〔十兩〕・銀劔等を賜はる。縫殿頭師連之を傳うと云々。

参考@南廷は、銀塊。大きさはレンガ大で暑さは半分。

現代語文永二年(1265)三月大十三日壬馬。空は晴です。将軍の奥さんが鶴岡八幡宮に尾籠りに際し、部屋の繕い以下を丁寧にしつらえたと、筆頭僧正隆弁をお呼びになりお褒めがありました。その上、銀塊〔三〕砂金〔十両〕銀拵えの刀を与えました。縫殿頭中原師連が手渡しましたとさ。

文永二年(1265)三月大廿二日辛夘。天リ。南風烈。今日。太田民部大夫從五位下三善朝臣康家卒〔五十四〕。

読下し                     そらはれ みなみかぜはげ  きょう  おおたみんぶのたいふじゅごいげ みよしのあそんやすいえそっ   〔ごじゅうし〕
文永二年(1265)三月大廿二日辛夘。天リ。南風烈し。今日、太田民部大夫從五位下三善朝臣康家卒す〔五十四〕。

参考没年記事は、今までは、官職と姓名(三善康家)だけだったのに、苗字(太田)も書くようになった。

現代語文永二年(1265)三月大二十二日辛卯。空は晴です。南風が激しい。今日、太田民部大夫従五位下三善康家が亡くなりました〔五十四歳です〕。

参考3月28日に北条時宗が数え年25歳で相模守(外官)従5位上になっている。

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