吾妻鏡入門第五十二巻

文永二年(1265)五月小

文永二年(1265)五月小二日己亥。去月廿二日。關白〔實經。一條殿〕拝賀。去十六日二條殿依被上表也云々。

読下し                    さんぬ つきにじゅうににち かんぱく 〔さねつねいちじょうどの〕はいが  さんぬ じゅうろくにち にじょうどの じょうひょうさる    よっ  なり うんぬん
文永二年(1265)五月小二日己亥。 去る 月 廿二日。關白〔實經一條殿〕拝賀す。去る十六日@二條殿が上表被るに依て也と云々。

参考@去る十六日は、18日の間違い。

現代語文永二年(1265)五月小二日己亥。先々月の二十二日に関白〔一条実経さま〕が天皇に挨拶をしました。その前の十六日(十八日)に二条良実さんが辞職を出されたからです。

文永二年(1265)五月小三日庚子。天陰。日中五大尊合行法被結願。」今日爲故武州禪門忌景。於泉谷新造堂佛事。導師若宮僧正隆辨云々。

読下し                   そらくもり にっちゅう ごだいそんごう ぎょうほうけちがんさる
文永二年(1265)五月小三日庚子。天陰。日中に五大尊合の行法結願被る。」

きょう  こぶしゅうぜんもん きけい  ため いずみがやつしんぞうどう  をい  ぶつじ   どうし わかみやそうじょうりゅうべん うんぬん
今日、故武州禪門忌景の爲@、泉谷新造堂Aに於て佛事。導師は若宮僧正隆辨と云々。

参考@故武州禪門忌景の爲は、長時(重時息)の回向。死後、仏事などを行なう一定の忌日。文永元年(1264)8月死亡。
参考A
泉谷新造堂は、後の浄光明寺。

現代語文永二年(1265)五月小三日庚子。空は曇りです。昼間の内に五大明王の加持祈祷が丸七日の成就しました。」
今日、故人の武州禅門長時さんのために泉谷新造堂(後の浄光明寺)で回向の供養をしました。指導僧は若宮僧正隆弁だそうな。

文永二年(1265)五月小五日壬寅。天リ。於御所被始行大般若讀經。々衆十人。
僧名
 權少僧都 兼伊
 權律師  房譽           房盛
      景辨           實雅
      淨昭           頼辨
      盛辨           兼辨
      賢辨           辨盛
      兼朝           信勝
      房朝           辨譽
      頼意

読下し                   そらはれ  ごしょ  をい  だいはんひゃどっきょう しぎょうさる  きょうしゅう じゅうにん
文永二年(1265)五月小五日壬寅。天リ。御所に於て大般若讀經を始行被る。々衆は十人。

そうみょう
僧名

  ごんのしょうそうづ  けんい
 權少僧都 兼伊

  ごんのりっし     ぼうよ                       ぼうせい
 權律師  房譽           房盛

              けいべん                     じつが
      景辨           實雅

              じょうしょう                     らいべん
      淨昭           頼辨

              せいべん                      けんべん
      盛辨           兼辨

              けんべん                     べんせい
      賢辨           辨盛

              けんちょう                     しんしょう
      兼朝           信勝

              ぼうちょう                      べん
      房朝           辨譽

               らいい
      頼意

現代語文永二年(1265)五月小五日壬寅。空は晴です。御所で端午の節句の大般若経の読経を始めました。お経を唱える坊さんは十人です。
坊さんの名
 権少僧都 兼伊
 権律師  房与 房盛  景弁 実雅  浄昭 頼弁  盛弁 兼弁  賢弁 弁盛  兼朝 信勝  房朝 弁与  頼意

文永二年(1265)五月小十日丁未。天リ。自夕終夜甚雨。御息所御懷孕之間。今日。被始御祈。業昌朝臣奉仕天曹地府祭。押垂掃部助爲御使。

読下し                    そらはれ  ゆうよ   しゅうやはなは あめ  みやすんどころごかいようのあいだ きょう  おんいのり はじ  らる
文永二年(1265)五月小十日丁未。天リ。夕自り終夜甚だ雨。御息所御懷孕之間、今日、御祈を始め被る。

なりまさあそん  てんそうちふさい  ほうし    おしだれかもんおすけおんしたり
業昌朝臣天曹地府祭を奉仕す。押垂掃部助御使爲。

現代語文永二年(1265)五月小十日丁未。空は晴です。夕方から一晩中激しい雨。将軍の奥さんが妊娠したので、今日お祈りを始めました。業昌さんが天曹地府祭を勤めました。押垂掃部助範元が将軍の代参です。

文永二年(1265)五月小廿三日庚申。高柳弥次郎幹盛与縫殿頭文元。就所領有相論事。幹盛確執之余。訴申云。文元乍爲陰陽師。其子息等帶太刀等。偏如武士。早可爲本道威儀之由。可被仰下云々。仍今日有評議。彼子息大藏少輔文親。大炊助文幸等雖爲陰陽師子孫。相兼右筆之上。七條入道大納言家御時。就幕府官仕。或勤宿直。或爲格子上下役。武州前史禪室。最明寺禪室二代。以如此作法可令奉公之由被仰畢。今更難改之。但於官途者。不相兼本道。以右筆設計致奉公之輩。限官位。任雅意被任之條不可然。蒙御免可任之旨。被仰出云々。文親者相兼本道。文幸者右筆計也。

読下し                    たかやなぎいやじろうもともりと ぬいのかみふみもと しょりょう つ   そうろん  ことあ
文永二年(1265)五月小廿三日庚申。高柳弥次郎幹盛@与縫殿頭文元、所領に就き相論の事有り。

もともりかくしつのあま   うった もう    い      ふみもとおんみょうじたりなが    そ  しそくら たち など  おび   ひとへ  ぶし   ごと
幹盛確執之余り、訴へ申して云はく。文元陰陽師爲乍ら、其の子息等太刀等を帶る。偏に武士の如し。

はや  ほんどう   いぎ  な   べ   のよし  おお  くださる  べ    うんぬん  よっ  きょうひょうぎあ
早く本道の威儀を爲す可し之由、仰せ下被る可きと云々。仍て今日評議有り。

 か  しそくおおくらしょうゆうふみちか おおいのすけふみゆきら おんみょうじ しそん  な    いへど   ゆうひつ  あいかね  のうえ
彼の子息大藏少輔文親・大炊助文幸等陰陽師の子孫を爲すと雖も、右筆を相兼る之上、

しちじょうにゅうどうだいなごんけ おんとき  ばくふ  かんじ  つ   ある    とのい  つと    ある  こうし  じょうげやく  な
七條入道大納言家の御時、幕府の官仕に就き、或ひは宿直を勤め、或ひは格子の上下役と爲す。

ぶしゅうぜんりぜんしつ さいみょうじぜんしつ  にだい  かく  さほう  ごと    もっ  ほうこうせし  べ   のよしおお  られをはんぬ いまさらこれ  あたら がた
武州前史禪室・最明寺禪室の二代、此の作法の如きを以て奉公令む可き之由仰せ被畢。今更之を改め難し。

ただ  かんと  をい  は   ほんどう  あいかねず   ゆうひつ  せっけい  もっ  ほうこういた のやから  かんい  かぎ
但し官途に於て者A、本道を相兼不、右筆の設計を以て奉公致す之輩、官位に限り、

 がい   まか  にん  らる  のじょうしか  べからず  ごめん  こうむ にん  べ   のむね  おお  いださる    うんぬん
雅意に任せ任ぜ被る之條然る不可。御免を蒙り任ず可き之旨、仰せ出被ると云々。

ふみちかは ほんどう あいか   ふみゆきは ゆうひつ  はか  なり
文親者本道を相兼ね、文幸者右筆の計り也。

参考@高柳弥次郎幹盛は、埼玉県松戸市高柳町。跨盛(モトモリ)。
参考A
官途に於て者本道を相兼不は、官位を与えられる時は陰陽師の官職はしない。

現代語文永二年(1265)五月小二十三日庚申。高柳弥次郎幹盛と縫殿頭安陪文元との、領地について裁判沙汰がありました。幹盛は、自分の意見を主張するあまり、訴えて云うのには「文元は陰陽師でありながら、その、息子達は太刀を佩いている。まるで武士のようだ。早く本来の職業身分としての体裁をするべきであると、命令して下さるようにお願いします。」とのことです。それで今日、政務会議がありました。その息子達の大蔵少輔文親、大炊助文幸たちは陰陽師の子孫ではあるが、筆記事務を兼ねているので、七条入道大納言藤原頼経の時代に、幕府の事務職に就いて、或る時は宿直を勤め、或る時は蔀戸の上げ下げの当番役をしました。武州前吏禅室経時・最明寺禅室時頼の二代には、その身分のまま勤めをするように仰せを言いつかりました。今更元へは戻せません。但し、官位を与えられる時は陰陽師としては与えない。筆記事務の官職を貰って勤める連中は、官位に限っては、自分の意思で選んではいけないので、遠慮するようにと、仰せになられましたとさ。文親は本来の陰陽師を兼ねて、文幸は筆記事務としました。

参考文永二年(1265)五月 日つけの警固結番交名の木札(40cm×15cm)が、鎌倉の今小路周辺遺跡(推定安達泰盛邸跡地)から発見された。その文書は

        原文                   訳文
┌───────────────────┐ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
│定                  │ ┃定め              ┃
│ 志由くけい古や行者ん        │ ┃ 宿側の小屋門番        ┃
│ きんしの事             │ ┃ 勤仕の事           ┃
│合                  │ ┃合わせて            ┃
│                   │ ┃                ┃

     あき満の二郎さゑもん殿   │ ┃     飽間二郎左衛門殿   ┃
│一番  う志を堂の三郎殿       │ ┃一番  潮田三郎殿       ┃
│     さ々さきのさゑもん三郎殿  │ ┃     佐々木左衛門三郎殿  ┃
│                   │ ┃                ┃
│     か春やの太郎殿       │ ┃     片山太郎殿      ┃
│二番  しんさくの三郎殿       │ ┃二番  新宅三郎殿       ┃
│     支へきやうふさゑもん入道殿 │ ┃     余部刑部左衛門入道殿 ┃
│                   │ ┃                ┃
│     美王□の□□ふ殿      │ ┃     三輪大夫殿      ┃
│三番  か勢〔            │ ┃三番  加瀬□入道殿      ┃
│     ヲの又太郎〔  殿     │ ┃     真野又太郎殿     ┃
│                   │ ┃                ┃
│    右□□むね越満本里て     │ ┃    右□□むねこれを守り候て┃
│    け堂奈く一日一夜御ツとめ   │ ┃    懈怠無く一日一晩御勤め ┃
│    あるへきしやう如件      │ ┃    あるべき仕様件の如し  ┃
│                   │ ┃                ┃
│   文永二年 五月  日      │ ┃   文永二年 五月  日   ┃
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参考18巻元久二年(1205)六月小廿二日条重忠合戦に景盛の従者に野田・加瀬飽間・鶴見(潮田は近所)・玉村・与藤次がいる。
参考潮田三郎は、21巻建暦三年(1213) 5月 2日条に潮田三郎実季があるが?
参考佐々木左衛門三郎は、52巻建長四年(1252)11月18日条に佐々木左衛門四郎あり。

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