吾妻鏡入門第五十二巻

文永二年(1265)七月小

文永二年(1265)七月小四日庚子。未剋。於山内御山庄。侍二人起鬪乱决雌雄。相互死畢。依之鎌倉中騒動。御家人等馳參。

読下し                  ひつじのこく やまのうち おんさんそう  をい さむらいふたりとうらん  おこ  しゆう  けっ    そうご   し をはんぬ
文永二年(1265)七月小四日庚子。未剋、山内の御山庄に於て、侍二人鬪乱を起し雌雄を决す。相互に死に畢。

これ  よっ  かまくたじゅうそうどう   ごけにんら は   さん
之に依て鎌倉中騒動し、御家人等馳せ參ず。

現代語文永二年(1265)七月小四日庚子。午後二時頃に、山内の別荘で、侍二人が喧嘩をして斬り合いをしました。双方ともに死にました。この事件で鎌倉中が大騒ぎになり、御家人が走って集まりました。

文永二年(1265)七月小十日丙午。天リ。御息所入御々産所左近大夫將監宗政朝臣亭。

読下し                   そらはれ みやすんどころ ごさんじょ  さこんのたいふしょうげんむねまさあそん  てい  にゅうぎょ
文永二年(1265)七月小十日丙午。天リ。御息所、々産所の左近大夫將監宗政朝臣が亭に入御す。

現代語文永二年(1265)七月小十日丙馬。空は晴です。将軍の奥さんが、お産場所としての左近大夫将監北条宗政の屋敷に入りました。

文永二年(1265)七月小十六日壬子。天リ。及晩。將軍家入御左京兆小町亭。供奉人。
 源大納言              一條中將
 中務權大輔             彈正少弼
 越後左近大夫將監          信濃大夫判官
 美作左衛門藏人           同兵衛藏人
 式部太郎左衛門尉          和泉左衛門尉
 城六郎兵衛尉            周防五郎左衛門尉
 甲斐三郎左衛門尉          善太郎左衛門尉
 伊東余一              薩摩左衛門四郎
 加藤三郎
左京兆跪庭上。被奉入出居。御安座以前供御々鍾。至于供奉人前。皆置肴物。而三献之未終之程。秋田城介泰盛送砂金百兩鞍馬一疋。御所入御之由依傳承。稱引進之云々。又戌剋。亭主息女有嫁聚之儀。被渡于相摸左近大夫將監宗政亭。於出居有御酒宴。姫公自常居所出立訖。此間父朝臣遂不被起御前之座。大名用意。時之美談也。曉更臨還御之期。被進御引出物云々。

読下し                    そらはれ  ばん  およ   しょうぐんけさけいちょう  こまちてい  にゅうぎょ   ぐぶにん
文永二年(1265)七月小十六日壬子。天リ。晩に及び、將軍家左京兆が小町亭へ入御す。供奉人は、

  げんだいなごん                             いちじょうちゅうじょう
 源大納言              一條中將

  なかつかさごんおだいゆう                       だんじょうしょうひつ
 中務權大輔             彈正少弼

  えちごさこんのたいふしょうげん                    しなのたいほうがん
 越後左近大夫將監          信濃大夫判官

  みまさかさえもんくらんど                        おな   ひょうえくらんど
 美作左衛門藏人           同じき兵衛藏人

  しきぶのたろうさえもんのじょう                     いずみさえもんのじょう
 式部太郎左衛門尉          和泉左衛門尉

  じょうのろくろうひょうえのじょう                     すおうのごろうさえもんのじょう
 城六郎兵衛尉            周防五郎左衛門尉

  かいのさぶろうさえもんのじょう                     ぜんのたろうさえもんのじょう
 甲斐三郎左衛門尉          善太郎左衛門尉

  いとうのよいち                              さつまさえもんしろう
 伊東余一              薩摩左衛門四郎

  かとうさぶろう
 加藤三郎

さけいちょう ていじょう ひざまづ  でい  いりたてまつらる  ごあんざ いぜん  ごしょう   くご    ぐぶにん  まえに いた
左京兆 庭上に跪く。出居へ入奉被る。御安座以前に御鍾を供御す。供奉人の前于至る。

みな さかな  お     しか    さんこんの いま  おわ       のほど  あいだのじょうすけやうsもり  さきんひゃくりょう あんめいっぴき  おく
皆肴物を置く。而して三献之未だ終らざる之程、秋田城介泰盛、砂金百兩・鞍馬一疋を送る。

ごしょにゅうぎょ のよしつた うけたまは よっ    これ  ひ   すす    しょう   うんぬん
御所入御之由傳へ承るに依て、之を引き進むと稱すと云々。

また いぬのこく てい あるじ そくじょよめいり のぎ あ   さがみさこんのさいふしょうげんむねまさ  ていに わたらる    でい   をい  ごしゅえんあ
又、戌剋、亭の主が息女嫁聚之儀有り。相摸左近大夫將監宗政が亭于渡被る。出居に於て御酒宴有り。

ひめぎみつね きょしょ よ  いでた をはんぬ かく あいだ  ちちあそんつい  ごぜん のざ  おきられず  だいみょう ようい  ときのびだんなり
姫公常の居所自り出立ち訖。此の間、父朝臣遂に御前之座を起被不。大名が用意、時之美談也。

ぎょうこ かんご のご   のぞ  おんひきでもの すす  らる   うんぬん
曉更還御之期に臨み、御引出物を進め被ると云々。

参考左京兆が小町亭は、執権屋敷で、八幡宮前若宮大路東側の北はずれ。すぐ南が若宮大路幕府。
参考御安座以前には、座る前に。
参考鍾は、中国、漢代に用いられた酒壺(さかつぼ)。青銅製で、 横断面が丸いもの。別説にさかずき。また、さかつぼ。

現代語文永二年(1265)七月小十六日壬子。空は晴です。夜になって、宗尊親王将軍家は左京兆政村の小町の執権屋敷へ入りました。お供の人は
 源大納言顕方       一条中将公仲
 中務大輔名越流北条教時  弾正少弼極楽寺流北条業時
 越後四郎金沢流北条顕時  信濃大夫判官二階堂某
 美作左衛門蔵人宗教    同美作兵衛蔵人長教
 式部太郎左衛門尉伊賀光政 和泉左衛門尉二階堂行章
 城六郎兵衛尉安達顕盛   周防五郎左衛門尉島津忠景
 甲斐三郎左衛門尉為成   善太郎左衛門尉三善康定
 伊東余一         薩摩左衛門四郎伊東祐教
 加藤左衛門三郎泰経
左京兆政村は、庭にひざまずいて、将軍は上がり框の部屋へお入りになられました。お座りになられる前に、将軍用の
盃を用意しました。お供の人達の前へ出ました。皆、酒の肴を置きました。そして三々九度の終わる前に、秋田城介安達泰盛は、砂金百両・鞍置き馬一頭を送って来ました。御所(将軍が現在いる所)へお入りになると伝え聞いたので、これをあえて献上するんだと云っているんだとさ。
また、午後八時頃に、亭の主政村の娘が嫁入りの儀式がありました。相模左近大夫将監宗政に屋敷へお出でなのです。上がり框の部屋で酒盛りがありました。お嬢さんは、何時もいる部屋から御発ちになりました。この間、父の政村は将軍の座の前を立ちませんでした。大名クラスになると心構えもは美談になります。
夜明時の帰り時間になって、お土産の引き出物を献上しましたとさ。、

文永二年(1265)七月小十八日甲寅。天リ。前三河守正五位下C原眞人教隆卒〔年六十七。于時在京〕。

読下し                    そらはれ さきのみかわのかみしょうごいげきよはらのまひとのりたかそつ  〔とし ろくじゅうしち ときにざいきょう  〕

文永二年(1265)七月小十八日甲寅。天リ。前三河守正五位下C原眞人@教隆卒す〔年は六十七。時于在京す〕。

参考@真人は、大和朝廷の頃からの性(カバネ)名。氏名(ウジナ)は、蘇我・大伴などで、性(カバネ)は伴造(トモミヤッコ)とか國造(クニノミヤッコ)など、又源平の様に天皇家から抜けると(臣籍降下)、性を与えられる。

現代語文永二年(1265)七月小十八日甲寅。空は晴です。前三河守正五位下清原真人教隆が亡くなりました〔年は六十七で、京都に滞在した居ました〕。

文永二年(1265)七月小廿三日己未。陰。將軍家入御山内御亭。

読下し                     くもり しょうぐんけ やまのうち おんてい にゅうぎょ
文永二年(1265)七月小廿三日己未。陰。將軍家、山内の御亭へ入御す。

参考山内亭は、北条時宗の屋敷。かつての最明寺かも知れない。

現代語文永二年(1265)七月小二十三日己未。曇りです。宗尊親王将軍家は、北条時宗の山内の屋敷へお入りです。

文永二年(1265)七月小廿四日庚申。天リ。於山内有相撲并競馬等。凡遊宴被盡數。晩頭還御。左典厩被奉御贈物。又供奉人面々預之。

読下し                   そらはれ やまのうち をい  すまい なら   くらべうまら あ    およ  ゆうえんかず  つくさる
文永二年(1265)七月小廿四日庚申。天リ。山内に於て相撲并びに競馬等有り。凡そ遊宴數を盡被る。

ばんとう  あんご  さてんきゅうおくりもの たてまつらる   また  ぐぶにん めんめん これ  あず
晩頭に還御。左典厩御贈物を奉被る。又、供奉人面々に之を預く。

現代語文永二年(1265)七月小二十四日庚申。空は晴です。山内の北条時宗の屋敷で、相撲や競馬がありました。お遊びや宴会を沢山用意しました。夕暮れ時に帰りました。左典厩北条時宗は贈り物を献上しました。また、お供の人々にもそれぞれに与えました。

文永二年(1265)七月小廿五日辛酉。天リ。法印定親入滅。

読下し                   そらはれ  ほういんじょうしんにゅうめつ
文永二年(1265)七月小廿五日辛酉。天リ。法印定親入滅す。

参考定親は、鶴岡八幡宮の7代目か8代目の別当。

現代語文永二年(1265)七月小二十五日辛酉。空は晴です。法印定親が亡くなりました。

文永二年(1265)七月小廿八日甲子。小雨降。御産御祈被行千度祓。リ茂 宣賢 業昌 リ長 リ秀 リ憲 リ宗 泰房 職宗 親定等候之。陪膳左近大夫將監時村〔萌黄狩衣。紫奴袴〕。右馬助C時〔織物狩衣。蘇芳指貫。自御所給之〕。役送十人〔各布衣〕。恪勤十人〔各白直垂〕爲手長。縫殿頭師連。備中前司行有〔式部太郎左衛門尉光政輕服替俄奉之〕等奉行之。

読下し                     こさめふ    おさん  おいのり  せんど  はら   おこなはれ
文永二年(1265)七月小廿八日甲子。小雨降。御産の御祈り千度の祓へを行被る。

はるしげ  のぶかた  なりまさ  はるなが  はるひで  はるのり  はるむね  やすふさ  もとむね  ちかさだら これ  こう
リ茂・宣賢・業昌・リ長・リ秀・リ憲・リ宗・泰房・職宗・親定等之に候ず。

ばいぜん さこんのたいふしょうげんときむら 〔もえぎ  かりぎぬ むらさき やっこばかま〕 うまのすけきよとき 〔おりもの かちぎぬ すおうの さしぬき ごしょよ  これ  たま   〕
陪膳は左近大夫將監時村〔萌黄の狩衣・紫の奴袴〕・右馬助C時〔織物の狩衣・蘇芳の指貫、御所自り之を給はる〕

えきそうじゅうにん 〔おのおの ほい 〕   かくごんじゅうにん 〔おのおのしろ ひたたれ〕   てながたり
役送十人〔 各 布衣〕。恪勤十人〔 各 白の直垂〕は手長爲。

ぬいどののとうもろつら ぶっちゅうぜんじゆきかた 〔しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ きょうぶく  か  にわか  これ たてまつ 〕  ら これ  ぶぎょう
縫殿頭師連・備中前司行有〔式部太郎左衛門尉光政が輕服に替へ俄に之を奉る〕等之を奉行す。

現代語文永二年(1265)七月小二十八日甲子。小雨が降っています。将軍婦人の長のお祈りとして千回のお払いを行いました。安陪晴茂・宣賢・業昌・晴長・晴秀・晴憲・晴宗・泰房・職宗・親定たちが参加しました。お給仕は相模左近大夫将監北条時村〔萌黄色の狩衣に紫の指貫袴〕、遠江右馬助大仏流北条清時〔色々の糸で織った狩衣・素襖の指貫袴は御所から貰った物です〕。運び人は十人〔それぞれ狩衣〕。身の回りの世話人十人〔それぞれ白の直垂〕は手伝いです。縫殿頭中原師連・備中前司二階堂行有〔式部太郎左衛門尉伊賀光政が軽い喪に服しているので急に変更しました〕達が指揮担当です。

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