文永二年(1265)八月大
文永二年(1265)八月大五日庚午。陰。夕小雨降。將軍家自馬塲殿入御々産所。即還御。 |
読下し くも ゆう こさめふ しょうぐんけ ばばどの よ ごさんじょ にゅうぎょ すなは かえ たま
文永二年(1265)八月大五日庚午。陰り。夕に小雨降る。將軍家、馬塲殿@自り々産所へ入御し、即ち還り御う。
参考@馬塲殿は、八幡宮西の馬場通りの建築物か?流鏑馬馬場の建築物か?分からない。
参考@産所は、七月十日に北条宗政の屋敷に入っている。
現代語文永二年(1265)八月大五日庚午。曇りです。夕方に小雨が降りました。宗尊親王将軍家は、馬場殿から妻のお産場所の左近大夫将監北条宗政の屋敷へ見舞に行って、顔を見たらすぐにお帰りになりました。
文永二年(1265)八月大十三日戊寅。霽。故武州禪門〔長〕周闋佛事被修之。又爲極樂寺奥州禪門没後追福。被書寫供養五部大乘經。是依左典厩御夢想。一日内所被頓寫開題也。 |
読下し はれ こぶしゅうぜんもん 〔なが〕 しゅうけつ ぶつじ これ しゅうさる
文永二年(1265)八月大十三日戊寅。霽。故武州禪門〔長〕@周闋Aの佛事、之を修被る。
また ごくらくじおうしゅうぜんもん ぼつご ついぶく ため ごぶ だいじょうきょう か うつされ くよう
又、極樂寺奥州禪門没後の追福の爲、五部の大乘經Bを書き寫被供養す。
これ さてんきゅう ごむそう よっ いちにち うち かいだい とんしゃさる ところなり
是、左典厩が御夢想に依て、一日の内に開題Cを頓寫D被る所也。
参考@〔長〕は、長時だが、時の字を書かないのは欠字といって北条時宗に遠慮して書かない。又は北条氏の通字だからかもしれない。文永元年(1264)8月死亡。
参考A周闋は、一周忌。
参考B大乘經は、18巻あり、一巻が現在の活字で7〜8cmの厚みがある。
参考C開題は、経典の題目を解釈し、一部のあらましを提示すること。
参考D頓寫は、急いで書き写す。
現代語文永二年(1265)八月大十三日戊寅。晴れました。故武州禅門〔長時〕の一周忌の法要を勤めました。また、極楽寺奥州禅門重時の追善供養のために五部の大乗経を書き写す供養をしました。これは、左典厩北条時宗の夢のお告げによって、一日の内に経典のあらましを急いで書き写したのです。
文永二年(1265)八月大十五日庚辰。天リ。鶴岡放生會。將軍家无御出。又无御奉幣使。一事以上。付宮寺被遂行之。是依御息所御懷孕事也。 |
読下し そらはれ つるがおか ほうじょうえ しょうぐんけおんいでな また ごほうへいし な
文永二年(1265)八月大十五日庚辰。天リ。鶴岡の放生會。將軍家御出无し。又、御奉幣使も无し。
ひとつこといじょう ぐうじ ふ これ ついこうさる これ みやすんどころごかいよう こと よっ なり
一事以上、宮寺に付し@之を遂行被る。是、御息所御懷孕の事に依て也。
参考@一事以上、宮寺に付しは、全て八幡宮に任せて。
現代語文永二年(1265)八月大十五日庚辰。空は晴です。鶴岡八幡宮の放生会です。宗尊親王将軍家のお出ましはありません。又奉幣の代参もありません。全て八幡宮に任せて実施させました。これは、奥さんの妊娠によってのことです。
文永二年(1265)八月大十六日辛巳。天リ。將軍家爲覽馬塲儀。密々入御于相州御棧敷。左近大夫將監顯時役御劔。中務權大輔教時。彈正少弼業時候御輿寄。其外十有余輩供奉。今年。相州御棧敷七ケ間之外。人々棧敷皆以被停之。將軍家无御出儀之上。依儉約也。流鏑馬第三番射手。二三的不中。競馬勝負。宮寺可定申之由。左京兆被計申之。依御憚无御執行神宴之由也。同口取祿等事者。爲諸大夫之役。相撲之祿者神官等取之。講讀師等請僧布施。各被送本坊云々。」戌刻。土御門大納言奉爲御息所御平産。被行御祈。於由比濱。業昌朝臣奉仕靈氣祭云々。 |
読下し そらはれ しょうぐんけ ばば ぎ み ため みつみつ そうしゅう おんさじきに にゅうぎょ
文永二年(1265)八月大十六日辛巳。天リ。將軍家馬塲の儀を覽る爲、密々に@相州が御棧敷于入御す。
さこんのたいふしょうげんあきときぎょけん えき なかつかさごんのだいゆうのりとき だんじょうしょうひつなりときおんこしよせ そうら そ ほかじゅうゆうよやから ぐぶ
左近大夫將監顯時御劔を役す。中務權大輔教時・彈正少弼業時御輿寄に候う。其の外十有余輩供奉す。
ことし そうしゅう おんさじき しちかけん のほか ひとびと さじき みなもっ これ とめらる しょうぐんけぎょしゅつ ぎ な のうえ けんやく よっ なり
今年、相州が御棧敷七ケ間之外、人々の棧敷皆以て之を停被る。將軍家御出の儀无き之上は、儉約に依て也。
やぶさめ だいさんばん いて に さん まとあたらず くらべうま しょうぶ ぐうじ さだ もう べ のよし さけいきょうこれ はか もうさる
流鏑馬の第三番の射手、二三の的中不。競馬の勝負。宮寺定め申す可き之由、左京兆之を計り申被る。
おんはばか よっ おんしつぎょう しんえん な のよしなり おな くちとり ろくら ことは しょだいぶ のえき な
御憚りに依て御執行の神宴无き之由也。同じく口取の祿等の事者、諸大夫之役と爲す。
しまい の ろくは じんかんら これ と こうどくじ ら しょうそう ふせ おのおのほんぼう おくらる
相撲之祿者神官等之を取る。講讀師等請僧の布施は、
各 本坊へ送被ると云々。」
いぬのこく つちみかどだいなごんみやすんどころ ごへいさん おほんため おいのり おこなはれ ゆいのうら をい なりまさあそん れいきさい ほうし うんぬん
戌刻、土御門大納言御息所の御平産の奉爲、御祈を行被る。由比濱に於て、業昌朝臣靈氣祭を奉仕すと云々。
参考@密々には、神様に内緒の意味であろう。
現代語文永二年(1265)八月大十六日辛巳。空は晴です。宗尊親王将軍家は馬場での奉納を見るために、非公式に相州北条時宗の桟敷に来ました。越後四郎金沢流北条顕時が刀持ちです。中務大輔名越流北条教時と弾正少弼極楽寺流北条業時が輿を寄せる出居に立ち会いました。その他十数名がお供をしました。
今年は、相州北条時宗の桟敷以外の人々の桟敷は、止めさせました。将軍の公式出席が無いのだから、倹約するためです。
流鏑馬の三番目の射手は、二と三の的に当たりませんでした。競馬の勝負の褒美は、八幡宮が決めるようにと、左京権大夫政村がこれを云いだしました。将軍が妻の妊娠で遠慮するので、八幡宮の事務長主催の接待がないからです。同様な理由で馬の手綱持ちへの手当は、五位の負担としました。相撲の手当は、神官がこれを渡しました。お経を読む坊さんやお供の坊さんへのお布施は、それぞれの宿舎へ送りましたとさ。
午後八時頃、土御門大納言顕方さんの娘の安産の為のお祈りを行いました。由比の浦で安陪業昌が霊気祭を勤めましたとさ。
文永二年(1265)八月大廿五日庚寅。陰。將軍家令煩御痢病御。但無程御平減云々。 |
読下し くも しょうぐんけ おんりびょう わずら せし たま ただ ほど な ごへいゆ うんぬん
文永二年(1265)八月大廿五日庚寅。陰り。將軍家、御痢病@を煩は令め御う。但し程無く御平減と云々。
参考@痢病は、下痢らしい。
現代語文永二年(1265)八月大二十五日庚寅。曇りです。宗尊親王将軍家は、下痢の病気にかかりました。しかし、まもなく治りましたとさ。