吾妻鏡入門第五十二巻

文永二年(1265)十二月大

文永二年(1265)十二月大五日己巳。天霽。入夜。於左京兆亭。有當座續哥合。右大弁入道以下好士等群集云々。

読下し                    そらはれ  よ   い     さけいちょうてい  をい    とうざ つなぎうたあわせあ
文永二年(1265)十二月大五日己巳。天霽。夜に入り、左京兆亭に於て、當座の續哥合@有り。

うだいべんにゅうどう いげ こうじら ぐんしゅう   うんぬん
右大弁入道以下好士等群集すと云々。

参考@續哥合は、題名を書いた紙を伏せて置いたのを人数分用意し、紙を回し止った題名で和歌を詠む。

現代語文永二年(1265)十二月大五日己巳。空は晴れました。夜になって、左京兆北条政村の屋敷で集まった人で「つなぎ歌合せ」がありました。入道右大弁光俊朝臣法名眞觀以下の歌好きが大勢集まりましたとさ。

文永二年(1265)十二月大十四日戊寅。霽。今曉。彗星見東方。爰掃部助範元最前令參御所。客星出見之由申之。次リ茂朝臣彗星之由參申。其後。國継。リ平。リ成献彗星勘文。

読下し                      はれ  こんぎょう すいせいとうほう  み     ここ  かもんのすけのりもとさいぜん  ごしょ  まい  せし
文永二年(1265)十二月大十四日戊寅。霽。今曉、彗星東方に見ゆ。爰に掃部助範元最前に御所へ參り令む。

きゃくせい しゅつげんのよし これ もう    つい  はるしげあそん すいせい のよし  さん  もう    そ   ご  くにつぐ  はるひら  はるなり  すいせい  かんもん  けん
客星 出見之由 之を申す。次でリ茂朝臣彗星之由を參じ申す。其の後、國継・リ平・リ成、彗星の勘文を献ず。

現代語文永二年(1265)十二月大十四日戊寅。晴れました。今朝の明け方に彗星が東の空に見えました。そしたら掃部助範元が真っ先に御所へやってきました。新星が現れ出でましたと報告しました。次に晴茂さんが彗星でありますと来て報告しました。その後に、国継、晴平、晴成が彗星だと上申書を提出しました。

文永二年(1265)十二月大十六日庚辰。天リ。將軍家出御于庇御所。召司天等數輩。被仰下變異事。土御門大納言。左近大夫將監公時。伊勢入道行願。信濃判官入道行一以下。人々多以候簀子。司天等任位次申之。十三日陰雲之由一同申之。リ隆。十四日曉有近太白之至。數返雖窺見客星彗星不見之由申之。範元申リ耀之由旨。而猶伺見。可申子細之趣被仰下。太宰權少貳入道心蓮奉行之。

読下し                      そらはれ  しょうぐんけひさし ごしょに しゅつご  してんらすうやから め     へんい  こと  おお  くださる
文永二年(1265)十二月大十六日庚辰。天リ。將軍家庇の御所于出御。司天等數輩を召し、變異の事を仰せ下被る。

つちみかどだいなごん さこんしょうげんきんとき  いせのにゅうどうぎょうがん しなののほうがんにゅうどうぎょういつ いげ  ひとびとおお  もっ  すのこ  そうら
土御門大納言・左近大夫將監公時・伊勢入道行願・信濃判官入道行一以下、人々多く以て簀子に候う。

 そてんら  いじ  まか  これ  もう    じゅうさんにちいんうん のよしいちどうこれ  もう
司天等位次@に任せ之を申す。十三日陰雲之由一同之を申す。

はるたか じゅうよっか あかつき たいはく のいた  ちか     あ    すうへんきゃくせい うかが み   いへど   すいせいみえざる のよしこれ  もう
リ隆、十四日の曉、太白A之至り近くに有り。數返客星を窺い見ると雖も、彗星見不之由之を申す。

のりもとせいよう のよし  むね  もう
範元リ耀之由の旨を申す。

しか    なおうかが み   しさい  もう  べ  のおもむきおお  くださる   だいざいごんのしょうににゅうどうしんれんこれ ぶぎょう
而して猶伺い見、子細を申す可き之趣仰せ下被る。太宰權少貳入道心蓮之を奉行す。

参考@位次は、身分の高い順に。
参考A太白星は、金星。

現代語文永二年(1265)十二月大十六日庚辰。空は晴です。宗尊親王将軍家は、ひさしの間にお出になりました。天文方の数人を呼び寄せて、星の異常について命令をしました。土御門大納言顕方、左近大夫将監名越公時、伊勢入道行願二階堂行綱、信濃判官入道行一二階堂行忠以下、人々の多くがすのこ廊下に控えました。天文方は位の順に話をしました。十三日には雲の陰で見えなかった全員が云いました。
晴隆は、十四日の明け方には金星の近くにありました。何度か新星を探してみましたが、彗星は見えませんでしたと報告しました。範元は晴れて輝いていたと云っております。それでは、なおもよく探して見て、報告するように命じられました。太宰権少弐入道心蓮武藤景頼が指揮担当します。

文永二年(1265)十二月大十八日壬午。天リ。夘剋。彗星出見。長二丈余。」今日。於小侍所。明年正月御的始射手以下事等有其沙汰。射手有故障等不可有免許之由。及群儀云々。相摸左近大夫將監。彈正少弼等奉行之。

読下し                      そらはれ  うのこく  すいせいしゅつげん   なが  にじょうあま
文永二年(1265)十二月大十八日壬午。天リ。夘剋、彗星出見@す。長さ二丈余り。」

きょう  こさむらいどころ をい   みょうねんしょうがつ おんまとはじめ いて いげ   ことら   そ   さた あ
今日、小侍所に於て、明年正月の御的始の射手以下の事等、其の沙汰有り。

 いて   こしょうら あ   べからず  めんきょあ  のよし  ぐんぎ   およ    うんぬん  さがみさこんのたいふしょうげん だんじょうしょうひつら これ  ぶぎょう
射手は故障等有る不可に免許有る之由、群儀に及ぶと云々。相摸左近大夫將監・彈正少弼等之を奉行す。

参考@出見は、出現。

現代語文永二年(1265)十二月大十八日壬午。空は晴です。午前六時頃、彗星が現れました。長さは二丈(6m)余りです。」
今日、小侍所で、来年正月の的始め式(弓矢初め式)の射手以下のことについて、指示がありました。射手は、問題のない者に許可をするようにと、検討しましたとさ。相模左近大夫将監北条時村、弾正少弼極楽寺流北条業時がこれを指揮担当します。

文永二年(1265)十二月大廿七日辛夘。霽。今夕。彗星見西方。在室宿。芒氣二尺余。色白。

読下し                      はれ  こんゆう  すいせいせいほう  み     はついぼし あ     ぼうけ にしゃくよ  いろ  しろ
文永二年(1265)十二月大廿七日辛夘。霽。今夕、彗星西方に見ゆ。室宿@に在り。芒氣二尺余。色は白。

参考@室宿は、「しっしょく」とも読み、二十八宿の一つで、北方玄武七宿の第六宿。距星はペガサス坐のα星。

現代語文永二年(1265)十二月大二十七日辛卯。晴れました。今日の夕方に彗星は西の方角に見えます。北方玄武七宿の第六宿にいます。彗星の尾は二尺(60cm)ほどで色は白です。

解説文永五年(1268)の正月元旦に蒙古の使いがやってくる。吾妻鏡が書かれたのは1305〜1320辺りとの学説が有力。

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