吾妻鏡入門第五十二巻

文永三年(1266)二月小

文永三年(1266)二月小一日乙丑。陰。雨降。晩泥交雨降。希代恠異也。粗考舊記。垂仁天皇十五年丙午星如雨降。聖武天皇御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中飯下。同十四年壬午十一月陸奥國丹雪降。光仁天皇御宇寳龜七年丙辰九月廿日石瓦如雨自天降。同八年雨不降井水断云々。此等變異。雖上古事。時災也。而泥雨始降於此時言語道断不可説云々。

読下し                   くもり あめふ     ばん  どろ  まじ  まえふ     きだい  かいい なり
文永三年(1266)二月小一日乙丑。陰。雨降る。晩に泥の交る雨降る。希代の恠異也。

あらあ きゅうき  かんがえ   すいじんてんのうじゅうごねんひのえうまほし ごと  あめふ
粗ら舊記を考るに、垂仁天皇十五年丙午星の如き雨降る。

しょうむてんのう  おんうてんぴょうじゅうさんえんかのとみろくがつとらにちよるらくちゅう めしふ    おな   じゅうよねんみずのえうまじゅういちがつむつのくに たんせつふ
聖武天皇の御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中に飯下る。同じき十四年壬午十一月陸奥國に丹雪@降る。

こうじんてんのう  おんう ほうきしちねんひのえたつくがつはつか いし かわらあめ  ごと  てんよ   ふ     おな    はちねんあめふらず い みず  た    うんぬん
光仁天皇の御宇寳龜七年丙辰九月廿日石や瓦雨の如く天自り降るA。同じき八年雨降不井水を断つと云々。

これら   へんい   じょうこ  こと いへど    とき わざわいなり しか    どろ  あめはじ    ふ     こ   とき  をい  ごんごどうだん  と   べからず  うんぬん
此等の變異、上古の事と雖も、時の災也。而るに泥の雨始めて降るは此の時に於て言語道断と説く不可と云々。

参考@丹雪は、赤い雪。
参考A
石や瓦雨の如く天自り降るは、大雨の翌日に地面が雨で洗われ石や瓦が露出したものであろう。江戸時代に「昨夜の大雨は神様同士の戦争があったので、その証拠に石器の鏃がいっぱい落ちている」との文書がある。これも大雨で縄文時代の遺跡が露出したものであろう。

現代語文永三年(1266)二月小一日乙丑。曇りのち雨。晩になって泥の混じった雨が降りました。めったにない怪しい事です。大よその過去の記録を調べてみると、垂仁天皇十五年(BC15)丙午の年に星のような雨が降りました。聖武天皇の時代の天平十三年(741)辛巳の六月戊寅の日の夜に京都市中に飯が降りました。同じ天平十四年壬午の年に東北地方で赤い雪が降りました。光仁天皇の時代の宝亀七年(776)丙辰九月二十日、石や瓦が雨の様に天から降りました。同じ八年雨が降らず、井戸水が涸れましたとさ。これらの異変は、大昔の事とは云え、その時代にとっての大きな災いです。それなのに、泥の雨が初めて降るなんて、今時そんなことは言語道断だと、云って終りにすべきではないのだとさ。

疑問776年の奈良時代まで上古と云うのか?

文永三年(1266)二月小五日己巳。天リ。二所奉幣御使進發。

読下し                   そらはれ  にしょ  ほうへい  おんし しんぱつ
文永三年(1266)二月小五日己巳。天リ。二所の奉幣の御使@進發す。

参考@奉幣の御使は、代参。

現代語文永三年(1266)二月小五日己巳。空は晴です。二所権現に幣を奉納する代参が出発しました。

文永三年(1266)二月小九日癸酉。天リ。午剋。二所奉幣御使歸參。其後。御息所并若宮自左京兆御亭入御々所。彈正少弼業時。中務權大輔教時候御輿寄。其外數輩供奉。及還御之期。左京兆被奉御引出物若宮御方。御劔彈正少弼持參之。御馬〔置鞍〕左近大夫將監時村。伊賀左衛門次郎光リ。又一疋〔裸〕。相摸六郎政頼。伊賀左衛門三郎朝房等引之。御息所御方。砂金南廷等内々被進之云々。

読下し                   そらはれ うまのこく  にしょ ほうへい  おんし きさん
文永三年(1266)二月小九日癸酉。天リ。午剋、二所奉幣の御使歸參す@

 そ  ご  みやすんどころなら   わかみや  さけいちょう  おんてい よ   ごしょ  にゅうぎょ  だんじょうしょうひつなりとき なかつかさごんのだいゆうのりとき おんこしょせ そうら
其の後、御息所并びに若宮、左京兆が御亭自り々所へ入御。彈正少弼業時 ・ 中務權大輔教時 御輿寄に候う。

 そ  ほかすうやから ぐぶ   かんご のご   およ    さけいちょうおんひきでもの  わかみやのおんかた たてまつらる  ぎょけん だんじょうしょうひつこれ  じさん
其の外數輩供奉す。還御之期に及び、左京兆御引出物を若宮御方に奉被る。御劔は彈正少弼之を持參す。

おんうま 〔くら  お   〕   さこんのたおいふしょうげんときむら いがさえもんじろうみつはる
御馬〔鞍を置く〕は左近大夫將監時村・伊賀左衛門次郎光リ。

またいっぴき 〔はだか〕  さがみのろくろうまさより  いがさえもんさぶろうともふさら これ  ひ
又一疋〔裸〕、相摸六郎政頼・伊賀左衛門三郎朝房等之を引く。

みやすんどころのおんかた さきん  なんていら ないない  これ  すす  らる    うんぬん
 御息所御方 に砂金・南廷A等内々にB之を進め被ると云々。

参考@二所奉幣の御使歸參は、代参の名がないのは将軍の近臣かもしれない。
参考A南廷は、銀塊。レンガ大で厚さは半分。
参考B内々には、何故なのか意味が分からない。

現代語文永三年(1266)二月小九日癸酉。空は晴です。二所権現に幣を奉納する代参が帰って来ました。その後、将軍の妻とその子供が、左京兆政村の執権屋敷から御所へ入りました。弾正少弼極楽寺流北条業時、中務大輔名越流北条教時が輿を載せる庇間に控えています。その他に数人がお供をします。
お帰りの時間になって、左京兆政村はお土産の引き出物を若君に差し出しました。刀は弾正少弼極楽寺流北条業時がこれを持ってきました。馬〔鞍置き〕は相模左近大夫将監北条時村と伊賀左衛門次郎光晴。もう一頭〔裸馬〕は、相模六郎政頼と伊賀左衛門三郎朝房が引いてきました。将軍の奥様には、砂金や銀塊を内々にお渡しになりましたとさ。

文永三年(1266)二月小十日甲戌。雨降。日中属リ。將軍家於鞠御坪御馬御覽。薩摩七郎左衛門尉祐能。伊東刑部左衛門尉祐頼。波多野兵衛次郎定康等騎之。土御門大納言。八條三位候公卿座。一條中將能C。中御門少將公仲等朝臣。左近大夫將監義政。彈正少弼業時以下候北廣廂。

読下し                   あめふ     にっちゅう はれ  ぞく    しょうぐんけ  まりのおんつぼ をい  おんうま  ごらん
文永三年(1266)二月小十日甲戌。雨降る。日中はリに属す。將軍家、鞠御坪@に於て御馬を御覽。

さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし  いとうのぎょうぶさえもんのじょうすけより  はたののひょうえじろうさだやすら これ  の
薩摩七郎左衛門尉祐能・伊東刑部左衛門尉祐頼・波多野兵衛次郎定康等之に騎る。

つちみかどだいなごん  はちじょうさんみ    くげ  ざ   そうら
土御門大納言・八條三位A、公卿の座に候う。

いちじょうちゅうじょうよしきよ なかみかどしょうしょうきんなから  あそん  さこんのたいふしょうげんよしまさ  だんじょうしょうひつなりとき いげ  きた ひろびさし そうら
一條中將能C・中御門少將公仲等の朝臣・左近大夫將監義政B・彈正少弼業時以下、北の廣廂Cに候う。

参考@鞠御坪は、蹴鞠用坪庭で、少なくも三方に建物がある。北の廣廂の語により寝殿造りの北側だと分かる。
参考A八條三位は、不明。
参考B左近大夫將監義政は、塩田流北条氏で、長野県別所温泉あたりが領地。北条九代記や保暦間記によると後に蒙古遠征説を唱える。
参考C
は、寝殿造りで、母屋と庇の外側にある吹き放ちの部分。孫庇に相当する。庇より長押(なげし)一本分だけ床が低くなっている。広縁。広軒。Goo電子辞書から

現代語文永三年(1266)二月小十日甲戌。雨降りですが、日中は晴れていました。宗尊親王将軍家は、蹴鞠用の内庭で昨日若君へのお土産の馬をご覧になりました。薩摩七郎左衛門尉伊東祐能や伊東刑部左衛門尉祐頼・波多野兵衛次郎定康がこれに乗って見せました。土御門大納言顕方さんと八条三位が公卿の座に控え、一条中将能清や中御門少将公仲の貴族・陸奥左近大夫将監塩田義政・弾正少弼極楽寺流北条業時以下は、寝殿北側の吹き放ちに控えていました。

文永三年(1266)二月小廿日甲申。霽。寅剋。於御所被行變異等御祈。主殿助業昌。大學助リ長。修理亮リ秀。リ憲。大藏權大輔泰房。リ平。大膳權亮仲光等列座南庭。勤七座泰山府君祭。將軍家御出。縫殿頭師連奉行之。去十月十二日有御夢想。源亞相同時見夢。殊御怖畏云々。

読下し                   はれ とらのこく  ごしょ  をい  へんいら  おいのり  おこなはれ
文永三年(1266)二月小廿日甲申。霽。寅剋、御所に於て變異等の御祈を行被る。

とのものすけなりまさ だいがくのすけはるなが しゅりのすけはるひで はるのり おおくらごんのだいゆうやすふさ はるひら だいぜんのりょうなかみつら なんてい  れつざ
主殿助業昌・大學助リ長・修理亮リ秀・リ憲・大藏權大輔泰房・リ平・大膳權亮仲光等南庭に列座す。

しちざ   たいざんふくんさい  つと   しょうぐんけぎょしゅつ  ぬいどののとうもろつらこれ ぶぎょう
七座の泰山府君祭を勤む。將軍家御出。縫殿頭師連之を奉行す。

さんぬ じゅうがつじゅうにち ごむそう あ    げんあそう どうじ   ゆめ  み   こと  ごふい   うんぬん
去る十月十二日御夢想有り。源亞相同時に夢を見る。殊に御怖畏と云々。

現代語文永三年(1266)二月小二十日甲申。晴れました。午前四時頃に、御所で天変地異のお祈りを行われました。主殿助業昌、大学助清長、修理亮晴秀、晴憲、大蔵権大輔泰房、晴平、大膳権亮仲光たちが、南の庭に並んで座りました。七人一緒に祈る七座の泰山府君祭を勤めました。宗尊親王将軍家もお出ましになりました。縫殿頭中原師連が指揮担当です。先達ての十月十二日に将軍は夢のお告げを受けました。源大納言土御門顕方も同時に夢を見たそうです。特に脅威を感じそうです。

三月へ

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